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学士会アーカイブス

日本人の品格 藤原 正彦 No.800(平成5年7月)

日本人の品格
藤原正彦(お茶の水女子大学教授) No.800(平成5年7月)号

 中世フランスを中心に発達した騎士道は、吟遊詩人などによりヨーロッパ中に広まったと言われる。騎士の理想は、勇気、誠実、慈愛、礼儀などであり、女性に対する格別の配慮や、一朝ことあらば真先に戦場に駆けつけるという、ノブレスオブリージュ(高貴な者に伴う義務)も強調された。「アーサー王の死」には、ランスロットの王妃ギネヴィアへの献身をはじめ、こうした騎士道の理想像が様々の形で示されている。
 ルネッサンス期になると、馬に乗り槍や楯をもって戦いに馳せ参ずる、ということが少なくなった。そのため、戦いの掟としての騎士道を補い踏襲する形で、紳士道なるものがイギリスで発達する。

 紳士は、中世よりイギリスにあった考えで、出自より個人の行動などを重視するものだった。カンタベリー物語で有名なチョーサーは、「紳士とは誠実、慈愛、自由、勇気をもって行動する人間のことである」、と述べている。騎士道を手本にしただけに、それに極めてよく似ている。
 紳士の概念は少しずつ進化し、十六世紀末のサー・トーマス・スミスというナイトは、紳士を次のように定義した。
(1)職業教育でなく、古典教養と数学という、あらゆる知的活動の基盤原理を会得していること。
(2)土地所有による地代という、不労所得により自主独立を確保していること。とりわけ利潤追求の仕事についていないこと。
(3)紳士としての特性、すなわち公正、自制、勇気、忍耐、礼節、寛大などを備えていること。

 17世紀初めのジェームズ一世は、自分を育ててくれた乳母が、息子を準男爵にして欲しいと願った時、こう答えたという。「他ならぬお前の望みだから、準男爵にしてあげるが、紳士にすることだけは無理だ」
 騎士道から発達した紳士道には、まずルネッサンスの華イタリアの影響が加わり、ついで17世紀になるとフランス貴族の優雅な作法や洗練された物腰などが取り入れられた。

 ところが18世紀になってイギリスの国力がフランスのそれと並び凌ぐようになると、紳士養成機関となっていたパブリックスクールを中心に、イギリス独自のものを作ろうという気運が盛り上がった。そこでは、ギリシア、ラテンの古典語や数学で代表される、伝統的教養を教えるばかりでなく、ラグビー、サッカー、クリケットなどのスポーツを振興することで、フェアー精神や克己、忍耐を鼓吹した。
 そして19世紀中葉までの英文学が、主に紳士を描写したことなどもあり、次第にこのような紳士の教養、慣習、好み、生活様式、作法に至るまでが、イギリス人の見習うべき手本となっていった。産業革命後の工業化に伴い、資本家などのブルジョア階級が興隆したが、彼等の実学思想や成功物語は、成上がり者の思想としてほとんど顧慮されなかった。

 理想像としての紳士は、現代にまで受けつがれ生きのびている。今日における紳士の品質証明は、自制のきいた控え目な態度、ユーモア、内輪な表現、自慢話はしないが底にある自信などである。これに美しい英語が加わると、パブリックスクール出身の証明にもなる。誇るべきもののめっきり少なくなったイギリスで、紳士は貴重な財産と思われる。


 ヨーロッパ、特にイギリスの騎士道、紳士道に対し、我が国には武士道があった。これらの精細な比較はもとより私の能力を越えるが、我が国封建時代の数百年にわたり、道徳原理の要として機能してきた武士道は、イギリスの両道に充分比肩し得るものと思う。

 武士道は、武士が王朝貴族の生き方に対し、自分達の生き方を自覚した時、「弓矢とる身の習い」として生まれた。それは主君への献身、名を惜しみ死をいさぎよくすることを中心とした。
 仏教、特に禅から死生観を、神道から主君への忠誠、祖先に対する尊敬、親への孝行などを吸収したと言われる。これに時代と共に為政者としての徳性が加えられ、孔孟の教訓が盛んに導入された。

 こう書くと、外来のものに重きを置いた如く見える。禅はなるほど中国から伝わったが、中国では生活の中にまで浸透せず、日本においてはじめて鎌倉武士の間に根付いた。鈴木大拙氏によると、これは禅が、もともと我が国にあった日本的霊性と調和したからだという。孔孟も然りと言えよう。
 武士道の柱は「義」「勇」「仁」と言われる。義とは人の道である。林子平は、「死すべき場合に死し、討つべき場合に討つこと」と言った。勇とは、孔子が「義を見てなさざるは勇なきなり」と説いた如く、義を実行することである。このために武士の子供は、忍耐とか不撓不屈、沈着冷静、泰然自若などを、幼い頃から叩きこまれた。仁とは慈悲、愛情、同情、惻隠の情など、人の心である。

 義勇仁の他にも、礼節、誠実、名誉、忠義、孝行、自制、克己などは大切な徳目であった。中でも名誉は重要で、恥の概念と表裏をなし、家族的自覚とも密接に結ばれていた。名誉は生命より上位にくるもので、名誉のために生命が投げ出されることも度々あった。今日でも、日本人が欧米人に比べ侮辱とか軽蔑に極端に敏感なのは、この影響かと思う。

 武士道は、もともと武士階級に限定された倫理体系であった。しかし平和の長く続いた江戸時代には、戦いの掟としての面が薄れ、小説、芝居、講談などの民衆娯楽が、しきりに武士から題材を取ったこともあり、次第に大衆の間に浸透した。


 こう見てくると、騎士道や紳士道と、武士道との間に、生成発展の過程のみならず、内容においてまで多くの共通点が見出されることに驚く。いざという時に生命を軽く見る所まで似ている。第一次大戦におけるイギリスで、最も勇敢に闘い優れた指導力を発揮したのは、パブリックスクール出身者だったと言われる。オックスフォード、ケンブリッジ両大学の学生や卒業生も、進んで危険な前線へ行ったから、多大な死傷者を出した。
 軽重の違いはいろいろあっても、彼にあり我にないものは、女性に対する配慮とユーモア精神くらいで、我にあり彼にないものは、孝行と祖先への尊敬くらいのものだろう。他に興味ある差異と言えるのは、紳士道が、詩歌を軟弱とみなす騎士道精神を未だに残しているのに反し、武士道が詩歌をたしなんだこと。また紳士道が数学を基本的思考態度と尊重したのに、武士道が、金銭につながることと遠ざけたことなどである。


 16世紀末にポルトガル、スペイン、イタリアを訪れた天正少年使節の一行は、10代半ばの年齢でありながら、その武士としての礼節や品格は、至る所で人々の賞讃をよんだ。二百数十年の鎖国の後、江戸末期から明治初期に欧米を訪問した日本人達、維新の先覚者から大工の棟梁までが、風格や作法などで人々を印象づけた。
 その頃に我が国を訪れた外国人の中に、日本人の高い道徳観に目を見張った者もかなりいる。ドイツ人医師のベルツやロシアの革命家メーチニコフもそうだし、教育開拓団として福井を訪れ、城下で武士道の実践されている様をつぶさに見たアメリカ人グリフィスは、それを「光の樹と花」と形容した。日本が他のアジア諸国の如き植民地化を免れたのも、このような日本人の品格の高さに無関係ではあるまい。

 武士道精神に支えられた道徳観や行動原理は、明治となり封建制度が崩壊した後も、すぐには消えなかった。明治中期に来日し、長く日本に暮らしついには骨を埋めた二人の作家、ラフカディオ・ハーンとヴェンセンスラウ・デ・モラエスが、それを魅力と感じていたことは、作品中にうかがえる。
 同じ頃に、キリスト教を深めようとアメリカを訪れた内村鑑三は、キリスト教国アメリカの野卑と狂躁に驚愕した。そして母国の静寂と秩序、高い道徳を思い、強い郷愁の念に駆られたのだった。
 現代、毎年ぼう大な数の日本人が海外へ渡り、外国人が訪日するが、どれほどの日本人が、羨望の眼でなく、尊敬の眼で見られているだろうか。


 日本人の忘却した武士道精神に、学ぶべきものが多々あると日頃から考えていた私は、一般教育のゼミで、新渡戸稲造氏の「武士道」を大学の一年生に読ませてみた。提出されたレポートを読むと、多くの者は、予想しないではなかったが、時代遅れのたわ言としかとらなかった。
 欧米型個人主義の洗礼を受けた彼等にとって、忠義、孝行、家族的自覚などは噴飯ものに過ぎず、最近の実利優先の風潮の中では、名誉や恥は第二義的なものでしかなかった。名誉が生命の上位にくるなどということは、ナンセンスと憤慨する者さえいた。こんなものを昔の人が尊重したということは、彼等の無知と封建制の不幸を物語る他の何物でもない、というのが大方の論調だった。

 私の父は明治45年生まれで、江戸生まれの曽祖父により、幼少の頃に四書五経の素読を毎朝させられたし、武士としての価値観を教えられた。私は父から武士道の香りを、子供の時分に吹きこまれている。「武士の子は血を流したくらいでは泣かないものだ」、「夜道を恐がるようでは武士の子ではない」、「小さな者を守るためには大きな者にも立ち向かえ」、熊谷直実、乃木大将等々。
 私の学生達の親の大半は戦後生まれで、戦後民主主義については語れても、武士道については何も伝えられなかったのだろう。そのうえ学生達は、長い受験勉強およびメディア漬け文化の中で、書物に親しむ習慣まで失っているから、武士道に触れる機会もなかったし、それを正当に評価する批評精神も持ち合わせていない。武士は彼等の眼に、チャンバラ映画で見る、切腹、果たし合い、復しゅうに明け暮れる高級ヤクザ、くらいにしか映っていないのだろう。


 現代の若者に抱く懸念は、武士道の理解不能にあるのではなく、行動原理の脆弱化による品格の低下にある。古びた写真に、明治時代の学生達が立派に見えるのは、私の思いいればかりではないと思う。教会へ通う者は少なくなったとはいえ、根底にキリスト教のある欧米ならまだしも、ほとんど無宗教と言える日本で、いかにして道徳や倫理の基準、そして行動原理を確立することができるのだろうか。

 武士道の名残りの見られた時代はまだ良かったが、近頃の基準はまことに心もとない。ある者は欧米ばかりに目を向け、ある者は利害損得のみの商人道に徹し、またある者は得体のしれない新興宗教に走る。大方は自らの感覚だけを頼りに、「今日は此の岸、明日は彼の岸」と、根無し草となり果てている。
 各人は理性や合理精神に依り、判断し行動していると思っている。しかし座標軸を喪失した理性や合理精神が、いかほどのものであろう。往々にしてそれらは、局所的つじつまを合わせるための、あるいは自己正当化のための手段でしかない。憂慮すべき状況と思う。
 行動原理の確立に、重大な関心を払うべき時がきていると思う。イギリス紳士道の如く、高く評価できるものを外国からそのまま拝借する手もあるが、それは日本の大地に根ざしていないだけに、定着が難しいだろう。そもそも国民道徳を外国からの借り物ですますというのでは、物笑いの種にしかならない。世界には、多様な花があるのがよい。

 土着の日本的霊性を中核に据え、仏教、禅、神道、孔孟などをふんだんに摂取した武士道は、品格といい深さといい、絶好のものと考える。古いままでは現代に即しないから、多少の変更は加えるべきであろう。まして武士道は、騎士道から紳士道、そしてそれが洗練されて行く過程と類似の途をたどりながら、政体の変化により途半ばにして立枯れしてしまった。新武士道へと、洗練進化されねばならない。例えば、切腹や復しゅうは無論否定さるべきだし、余りにも封建的なうえ、軍国主義に結びつきかねない忠義、も削除すべきと思う。欧米にない孝行とか祖先への尊敬、家族的自覚などは、我が国の誇るべき美徳であり、ぜひ存続させたいものである。紳士道から何かを取り入れてもよい。女性に対する献身は御免こうむりたいが、ユーモア精神などは学んでもよい。新武士道は現代人に受容されうると思う。抵抗があるなら名称を変えてもよい。成文化する必要もない。


 武士道は、政治や文化面で爛熟期を過ぎ、頽廃的となった平安末期に生まれ、鎌倉時代に広まった。ちょうどその頃、中国との交流再開や元寇といった外部刺激により、奥深い所に眠っていた日本人の魂が覚醒させられたのか、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などの大宗教家が輩出した。末世思想の影響もあろうが、差し迫った外国からの脅威が、日本人に深刻な内省を促したのだろう。特に禅は、鎌倉武士の間に速やかに定着し、武士道精神の礎となった。

 現代はその頃と似ていないでもない。平安末期と世紀末とに種々の共通点は見出せるし、広汎かつ急激な国際化という外部刺激もある。軍事的武装でなく、日本の魂を具現した精神的武装が急がれる。これは日本人としてのアイデンティティーの確立であり、逆説的に聞こえるが、これなくして我が国の真の国際化はあり得ない。
 これにより日本人が、かつて世界の人々を印象づけた、高い品格を備えるようになれば、それは悩める他国の学ぶところとなる。それは小手先の国際貢献と異なる、普遍的価値の創造による我が国の、人類に対する本格的な貢献となるだろう。
 尊敬される国家とは、普遍的価値を創出した国家のことである。イギリスは近代的民主主義を作った。フランスは人権思想を、ドイツは哲学や古典音楽を作った。この三国は自然科学での貢献も大きい。経済的にも軍事的にも大したことのない英独仏が、いまだに国際舞台でリーダーシップを発揮しているのは、まさに彼等の創出した普遍的価値に、世界が敬意を払っているからである。尊敬されることは、防衛力ともなる。
 日本の経済もそう遠くない将来に斜陽化するだろう。我が国がその時に至ってなお国際的な名誉を保つには、今のうちの備えが必要である。宗教なき国家の道徳倫理として、伝統に現代を織りこんだ新しい原理の確立が、切望される。

(お茶の水女子大学教授・東大・理・理博・昭41)