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聖徳太子の遣隋使 上原 和 No.798(平成5年1月)

     
聖徳太子の遣隋使
上原 和 No.798(平成5年1月)号

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 秋、はじめて黄海を渡った。海路、聖徳太子の遣隋使の道を往くことは、私の長年の夢であったが、その見果てぬ夢が、思いがけずかなえられることになったのである。いつの日にか、遣隋使の道を、と心に願うようになったのは、一九七六年の秋に、はじめて隋・唐時代の都のあった西安を訪ねてからのことである。もっともささやかながらも孜孜として続けてきた法隆寺の美術の研究をとおして、いつしか聖徳太子そのひとに深く敬慕の念を寄せてきた私にとっては、西安に偲ばれる在りし日の都は、唐の長安城である以前の、隋の大興城であった。

 十六年前の西安での第一夜は、中秋節から一月遅れではあったが、満月に当っていた。旅舎の西安大廈の窓にさしこむ月の光に誘われ、ひとり槐樹の並木の大路にさまよい出た私は、皎々と照りわたる満月を仰ぎながら、往来いっぱいに溢れてそぞろに歩いている人びとのなかにまじっていた。人びとはたがいに相い語り合うわけでもなく、ただただ月の光に濡れながら歩いていた。月にあくがれて、夜もすがら低徊するとはこういうことなのか。当時、西安の街並みは旧く、人びとの姿は質素であった。しかしなんと古都のたたずまいに似て、人びとの心のみやびやかであったことか。

 私には、隋の煬帝の大業三年(六〇七)の秋、遣隋使としてこの地大興城を訪れた小野妹子ら一行のことが偲ばれてならなかった。彼らはこの異国の月を、どんな想いで、皇城内にある鴻臚寺の客館の窓から仰ぎ見たのであろうか。ちなみに、隋の大興城は、すでに高祖の文帝の開皇三年(五八三)には完成しており、『隋書』の「地理志」に詳述されている大興城の規模は、その後の唐代の長安城とほとんど変るところがない。洛陽からの道を、前日驪山のほとりの温泉華清池で旅塵を洗い流し、いよいよ灞橋を渡って大興城の東側の中央にある春明門から城内に一歩足を踏み入れたときの妹子らが、眼前に豁然と開けた、甍の波の打続く壮大にして華麗な隋都の景観に接したときの感嘆のおもいと、ようやく着いたという安堵の気持とから、思わず歓声を上げはしなかったであろうか。それはおよそ比較には値しないとはいえ、十六年はじめて古都西安の土を踏むことができた私自身の歓びの声でもあった。

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 なお、聖徳太子の遣隋使といえば、そのときの私の最初の中国の旅で忘れられないことがある。

 それは、北京の天安門広場の東側にある歴史博物館でのことであるが、博物館の一隅に設けられた中日文化交流展示室に、遣唐使の往来を紹介するパネルに阿倍仲麻呂や空海の肖像などが掲げられながら、遣隋使のことはまったく触れられていないことを不審に思い、その理由を案内して下さった史樹青先生に伺ったところ、遣隋使を派遣した聖徳太子は皇室の出身であり、また隋の煬帝は、悪逆無道な暴君であるから、とのことであった。

 史先生は、中国でも著名な歴史家であり、一九七二年に高松塚古墳から壁画が発見された際に日本政府の招きで来日したこともあり、そんなわけで私ともいわば旧知の間柄であった。そのとき、ふだんは温雅な老学者の顔から、しばらく微笑が消え去っていたことに、私は気がついていた。文化大革命という呼称とはおよそ裏腹な十年にも及んだ文化破壊の動乱が、ようやく終結した直後のことである。当時、史先生御自身が本気でそう考えておられたかどうかは知る由もない。もとより私は、聖徳太子についても、煬帝についても、つよく反論した。しかし、太子の出身云々については、当時の国家体制からくる公式的な史観からばかりでなく、明治以降の日中両国間の関係からくるわだかまりの根の深さが思われて、心の痛みをおぼえずにはいられなかった。

 そうした意味からも、このたび中国を訪問なされた天皇陛下が、十月二十三日の北京での晩餐会でのお言葉のなかで、中国に被害を与えてきた近代の不幸な過去に対して、率直に遺憾の意を表されたあと、さらに古代の日中間の文化交流についても、「七世紀から九世紀にかけて行われた遣隋使、遣唐使の派遣を通じ」、と仰言って下さったことは、西安においてさえ、遣隋使のことがほとんど知られていないだけに、大きな意義があるように思われる。もしも陛下が、もっと自由に御自身のお言葉で語られることが許される立場におありならば、陛下の御先祖の聖徳太子によって、はじめて日中の両国の間に文化交流の道が開けたことを、和やかにお述べ下さってもよかったのではなかったか。

  3

 ところで、聖徳太子の遺隋使はいかなる目的で派遣されたのであろうか。それをいちばん良く伝えているのは、ほかならぬ『隋書』「東夷」伝の倭国の、つぎの記載においてであるように思われる。

 大業三年、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す、使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。

 ここで大業三年(六〇七)は、『日本書紀』の推古十五年、すなわち、聖徳太子が小野妹子らの遣隋使を派遣した年に当っている。倭国の王多利思比孤は、太子をさしているものとみて差支えないと思われるが、倭国の使者の言う、海西の菩薩天子は、北周の廃仏毀釈から仏教を再興させた篤信の高祖文帝にふさわしいが、ここで
重ねて
、、、

と言っているのは、現皇帝もまたさらに、という意味に解するならば、やはり、煬帝をさしているものとみてよいであろう。

 たしかに、悪名高い煬帝ではあるが、反面きわめて熱心な仏教・道教の篤信者でもあった。とくに仏教に対しては晋王広と呼ばれていた頃から、後に天台宗の開祖となった智顗をはじめ多くの高僧を遇し、また揚州総管であった時代には、慧日・法雲の二仏寺に多くの人材を集め、とりわけ慧日道場には江南の仏教界の長老である嘉祥寺の吉蔵らを迎えている。さらに皇帝となるや、訳経の事業にも、すこぶる熱意を示し、これまで文帝が大興城の大興善寺を中心に訳経をすすめてきたのに対して、煬帝は洛陽の上林園にも翻経館を置き、西域から来た達摩笈多をして訳経にあたらせているのである。

 このように見てくると、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」という隋の煬帝についての情報は、決して誤ってはいなかったのである。それにしても、「沙門数十人、来って仏法を学ぶ」というのは、いかにも多すぎる。誇張であろうし、また留学僧や留学生が派遣されたのは『日本書紀』の記すように、翌年の推古十六年(六〇八)のこととみてよいであろう。じつはこの年に当る大業四年に、煬帝は鴻臚寺に四方館を置き、外国から集った留学僧の教育にあたらせている。推古紀の十六年の条には、第二回目の小野妹子の遣隋使に同行した留学僧として、新漢人日文(旻)、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済、また留学生として倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理ら八人の名を挙げているが、いずれも大興城の鴻臚寺では、まずは新設の四方館で学ぶことになるのであろう。

 ところで、『隋書』には、さらに続いて、倭国王からの国書の、あまりにも有名なつぎの一条が記されている。

 その国書に曰く、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、

[
つつが
]

なきや、云々」と。帝、これを

[

]

て悦ばず、鴻臚卿に曰く、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞する勿れ」と。

 この国書の文句は、さきに陛下のお言葉にもあった、日中間の過去の不幸な時代には、日本が中国に優越を示す聖徳太子の言辞として、国威宣揚のために用いられてきたのであるが、ここで言う日出ずる処、あるいは日没する処は、単に東と西という方角を表しているのに過ぎないように思われる。もともと東の和訓の
ひむがし
、、、

は、太陽の出る方角を表す
日向
[
ひむか
]

し、であり、



は方角を示す語であり、同じく西の
にし
、、

は、去るを意味する
いに
、、

と方向を示す



とから成っており、太陽が沈んでいく方角を表している。沖縄の方言でも、東は

[
あが
]

り、西は

[

]

り、と呼んでいるという。

 もっとも、ここで注目されるのは、国書の文言を、東の天子書を西の天子と言い直したとしても、じじつ『日本書紀』に記載されている翌十六年の第二回目の遣隋使派遣の国書では、「東の天皇、敬して西の皇帝に

[
もう
]

す」と改められているのであるが、超大国の皇帝に対して、いささかも自己を卑下する態度が見られないのであり、煬帝に対して対等の姿勢を崩すところがないのである。それは倭の五王たちの封冊、すなわち南朝の皇帝に対して授爵をもとめての卑屈な態度に比べれば、なんと毅然としていることか。今日のわが国の為政者もまた範とすべきではないだろうか。

 他方、隋の煬帝の方も、なかなか凡庸ではないように思われる。いったんは蛮夷の書、無礼なる者あり、と激怒しながらも、翌年小野妹子らが帰朝するときには、鴻臚寺の役人である斐世清を使者として倭国に遣わして、修交の実を挙げているのである。このとき斐世清の来日がなければ、はたしてその後の留学僧や留学生の派遣がありえたであろうかと思うとき、やはり日中文化交流の恩人として、聖徳太子とともに隋の煬帝の名も逸することができないように思われる。

 私は、聖徳太子の遣隋使派遣の目的が、『隋書』に言うように、まずは仏法を学ばしめるためであったことを、特筆しておきたいと思う。なぜならば、推古十五年の遣隋使派遣の三年前に聖徳太子によって作られた憲法十七条の第二条にあるように、仏法をして「四生の終帰、万国の極宗」、すなわち、われわれ人類の究極の拠りどころであり、あらゆる国家の普遍的な思想である、との揺がぬ確信に立った上での遣隋使の派遣であり、仏法による普遍国家の建設が目指されているからである。

  4

 では、最後にふたたび話を、黄海を渡る遺隋使の道に戻しておこう。

 七月の終りにはじめて私は、もう二年も前から韓国の仁川港から、中国の山東省にある威海港へ週二便の定期航路が開かれていることを伝え聞いたのである。いつ国交が結ばれるかもわからない両国間によもや黄海を渡る船が往来していようとは、夢にも思わなかった私は、欣喜雀躍するおもいであった。

 最初の遣隋使は、推古十五年の旧暦七月三日に飛鳥京を出立している。九州の那の津から百済を経て隋へ赴くとすれば、どんなに早くても黄海を渡るのは、新暦でいえば、九月以降になってからのことである。折角のことなら、私もまた小野妹子ら遺隋使が見た黄海や山東半島の景色を、同じ季節に合わせてこの眼で見たいと願ったのである。

 九月に入ると、すぐに私はソウルに飛び、仁川港から乗船した。夕方の四時に出帆したパナマ国籍のフェリーは、山東半島の中・韓合併の臨海工業地へ出稼ぎに行く人びとをのせて、翌朝の九時には威海港に入港した。初秋の黄海は鏡の面をみるように穏かで、凪の海を染める夕陽は心にしみるほど美しかった。小野妹子らが見た落日の光景を、いま私は見ているという感動が静かに胸にわき上ってくる。

 威海港は、山東半島のほぼ東端に位置している。黄海に沿いながら車で北上すると、秦の始皇帝が鱶を射止めたという
芝罘
[
チーフ
]

島のある臨海工業都市の煙台を経て、こんどは渤海沿いに走り、半島の最北端にある蓬萊に着く。この蓬萊こそが、かつて隋唐の時代に登州と呼ばれていた小野妹子ら遣隋使たちの上陸地であった。岬の上にある八仙人を祀る蓬萊閣の楼上からは、渤海海峡に鎖のように連なる廟島群島を一望のもとに見渡すことができた。遼東半島の突端まではおよそ二〇〇キロの近距離である。点綴するこの島伝いに海を渡れば、有視界航行で難なく対岸の遼東半島に、そしてさらに陸地沿いに朝鮮半島の西岸を下って行くことができる。

 この蓬萊からは、海上に蜃気楼が見られることもあるという。古代の人びとは、幻に不老長寿の仙人たちが住む蓬萊島を海上のかなたに見たのである。しかし、この仙境への入口ともいうべき蓬萊は、近世になると海賊の来寇する受難の地でもあった。蓬萊の港の一角には、倭寇の来襲に備えて水城を築いたという明代の抗倭名将戚継光の銅像が建っていた。この蓬萊の地が、日中文化交流の先駆者である聖徳太子の遣隋使たちの最初の記念すべき上陸地であることを知っている中国人は、おそらく皆無に近いほど数少ないに違いない。中国人たちの記憶に残っているものが、また今後に伝えられていくものが、加害者であった日本人の私たちが、とっくに忘れている倭寇のことのみであるとするならば、なんと悲しいことであることか。

 この蓬萊、在りし日の登州を起点に、私は萊州、青州、斉州、すなわち今日の済南へと遣隋使の道を西行した。きっと途々、小野妹子らも当代の名刹を訪ねたに違いないと思い、青州では雲門・駝山の両石窟を訪ねて数百段の石段をのぼり、また済南でも、今日ほとんど人跡未踏となっている黄石崖や玉函山の摩崖を、まぼろしの石仏を探しもとめて、途なき急斜面を、岩にしがみつき、草を捉えてよじのぼった。北魏や東魏の石仏のなんと端厳で、開皇年銘のある隋仏のなんと優しく華麗であったことか。

 山東の旅の終りに、私は曲阜に立寄った。小野抹子らの一行は、かならずやこの古代中国のアルカディアの地に、孔子の廟を訪ね、孔子の墓に詣でたであろうことを私は確信していたからである。若き日の聖徳太子が伊予の湯岡で詠んだ「温泉頌」や、太子の「憲法十七条」に見られる太子をはじめ太子のブレーンの漢文学の素養の高さへの感嘆が、私にそう思わせたのである。孔子の愛した杏林の庭を低徊する妹子らの姿を想像することは、この上なく楽しかった。

(成城大学教授・九大・文博・昭23)