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学士会アーカイブス

あきらめないこと 有馬 朗人 No.791(平成3年4月)

あきらめないこと
有馬 朗人
(東京大学総長)

No.791(平成3年4月)号

この三月に大学を卒業される諸君に心からのお祝いの言葉をおくります。殆どの諸君は、四月より今までと全く違う社会へ入って行かれるでしょう。先ず諸君が心身ともに健康で活躍されることをお祈りいたします。

私は、諸君が大学を去った後も勉強を続けて欲しいと思います。と言うのは私自身の経験から大学卒業後の勉強の方がそれまでより遙かに実り多いものであったからです。最近生涯学習ということが叫ばれるようになりましたが、私はそれを大いに支持したいと思います。

三十八年前、東京大学の卒業式を私自身がどう迎えたかを思い出してみました。私は旧制ではありましたが、そのまま大学院に進みましたので、卒業したという気持ちはあまりありませんでした。しかし一通りの基礎的な勉強は終わり、大学院の学生であるとはいえ、いよいよ研究者としての一歩を踏み出すのであるという覚悟を強くしました。と同時にどうやって食べて行くのか、研究を希望通りに続けられるであろうかと心配をしておりました。純粋な物理学研究者などが就職する教員の空席は大変少なく、又産業界も大学卒業直後ならとも角、大学院で数年を費やしたものは、めったに採用してくれませんでした。そのような時代に貧乏人の分際で大学院に残るのは、実に無謀なことでありました。だが若者らしい楽観的な考えで、私は研究を続けることにしました。

小学校から大学までの過程で、私が十分に勉強したなと思える期間は、小学校の六年生と、中学校の四年生、旧制高校の三年生の時だけです。大学時代は入れるわけには行きません。このような勉強を十分にするべき時代に、出来なかったことは、未だに私が大変残念に思っていることです。

小学校五年生までは田舎にいて、全くといってよいくらい中学進学のことは考えませんでした。六年生の時浜松市へ移り、そこで初めて中学校へ進学するため厳しい勉強をさせられました。中学校へ入ると、第二次世界大戦の終わり頃で、一年生の時はまあまあ授業がありましたが、二年生になると先ず農家の手伝いに動員され、後半から三年生の夏休みまでは、軍需工場へ行き、昼夜三交代で働かされました。旋盤やターレットを使って、飛行機のエンジンの一部を作りました。

中学校三年生で敗戦を迎えましたが、翌年一月父親が疎開先で死亡し、家計の支え手がいなくなり大変困りました。それ以後大学院三年修了後、東京大学の原子核研究所で助手として採用してもらうまで、実にさまざまなアルバイトで食いつないで来ました。大学での成績が良ければ、当時特別研究生と呼ばれていたものに採用されたでしょうが、午後は早くから真夜中近くまでのアルバイトの連続では、授業に出るのが精一杯の有様で、特研生は高望みもよいところでした。

幸い湯川秀樹先生のノーベル賞受賞を記念して読売新聞社が、素粒子理論を研究する若手研究者に、湯川奨学金を出してくれることになりました。論文を提出して審査を受け、第一回から第三回まで毎年それをいただきました。それは研究を続けて行く上で、まさに旱天の慈雨でした。この奨学金の第二回、第三回の対象になった論文は、日本ではあまり認められませんでしたが、当時原子核物理学のメッカであったコペンハーゲンの理論物理研究所(現在ニールス・ポーア研究所)やイスラエルのワイツマン研究所に認められたことが、私の今日までの研究生活の基となったと言っても過言ではありません。それにしてもアルバイト疲れで昼食後は毎日椅子を並べて研究室で寝ていました。そのような状況ですから研究している狭い範囲のことは勉強しましたが、広い常識を持つことは到底不可能でした。まして語学の学校へ行くなどということは夢の又夢、お恥ずかしい話ですが英語で論文を書くには七転八倒いたしました。最近の若い人々の語学力に比べると、あるいは読む力では負けなかったかも知れませんが、当時の私の話す力書く力はお粗末もよいところでした。

助手になり、その後アメリカのアルゴンヌ国立研究所に就職することになりました。それで少し時間に余裕が出て来ましたので、基礎的な物理学や数学など、研究の上で必要なことや、語学などもう少し一般的なことも、勉強することができるようになって、大変嬉しく思ったものです。

英語の読み書きや会話もアメリカヘ行って自習しました。生きて行くためぎりぎり必要なものであって、学校で正しく学ぶなどというエレガントなものではありませんでした。ニューヨークタイムズで勉強したらよいと言ってくれた友人がいて、それを毎日何時間かかけて読むことにしました。難しい単語が出て来るので辞書が真黒になってしまいました。

何といっても一番つらかったのは、ニューヨーク州立大学の学部で、週に二回又は三回の授業をすることでした。大学院の授業は自分の専門をやれば良いし、学生はニューヨーク州外から来ているか、外国からの留学生ですので楽でした。しかし学部の教育は相手が殆どニューヨーク州の出身者で、まだあまりブロークン・イングリッシュに慣れていないこと、又全体を三つぐらいの小クラスに分けて、三人の教員が同時に同じ教科書で授業をしなければならないこと、などのため授業の準備で大変な時間をとられました。二人のアメリカ人が当然のこととはいえ上手に授業を進めているだろうと思うと、全く冷汗ものでありました。その上教える課目が毎年かわり、しかも自分の専門とはかけ離れたものが与えられます。そこで又勉強をゼロから始めなければなりませんでした。更に最後の授業では学生諸君に教員評価のアンケート用紙を渡さなければなりません。それを学生諸君が集めて教室主任へ持って行きます。そのアンケートの項目には、ちゃんと時間通りに来たか、準備はしてあったか、講義は明解であったか、質問にはちゃんと答えたか等々が、五段階かで答えるようになっていました。やられる方はたまったものではありません。しかし講義をする上で大変参考になりました。

講義だけに専念していれば良いわけではありませんでした。研究者として国際会議で何回招待講演をしたか、他大学のセミナーに何回呼ばれたか、どんな論文を書いたか、など事細かに毎年報告をしなければなりません。講義の熱心さと研究実績に基づいて翌年の給料がきまりますし、研究費の大小がきまるのでした。

このような大学卒業後の人生で、私は大学や大学院在学中、やむを得なかったとはいうものの、基礎的知識を十分に身につけておかなかったことをしばしば後悔しました。私の研究の上で学生時代のアルバイトは全く役立たなかったことは明らかですし、学問や研究は本来財力のある人々がやるべきことではないかと、今でも振り返って考え込むことがあります。その時の唯一つの救いは、卒業してからもまだ勉強する時間があるということ――生涯学習――でした。

私は度々、もう駄目かなと思ったことがあります。現在も物理学研究者としての自分の業績に対して大変不満足です。しかしあきらめないことにしています。もうひとがんばりするつもりです。もし私が卒業して行く皆さんに何かおくる言葉があるとすれば、それは平凡ですが、どこまでもあきらめるな、そして健康を大切にということです。

皆さんのご活躍を切に祈っております。

(東大・理博・昭28)