学士会アーカイブス
リクルート疑惑と族議員 猪口 孝 No.784(平成元年7月)
リクルート疑惑と族議員
猪口 孝
(東京大学教授)
No.784(平成元年7月)号
一九八〇年代に脚光を浴びて登場したものに族議員がある。リクルート疑惑でも見え隠れする族議員とは何か。ここでその登場の背景をみよう。まず第一に、石油危機以降累積的な財政赤字を抱える政府部門と対照的に余剰資金で自信をもった民間部門による影響力伸長の試みの活発化がある。極端な例としてはリクルートの江副氏のバラマキぶりをみよ。第二に、中曽根康弘氏がその任期中に弾みをつけた市場自由化の進展による官僚制の相対的な勢力低下があげられる。中曽根氏がみずからを大統領的首相と豪語したのは官僚制の力に拘束を越えたいという願望があったからだ。そして中曽根氏はそれをレーガン大統領の所望する市場自由化にからめて実現にむけて努力した。第三に、民間部門の利益仲介を業とする自民党政治家の官僚制に対する一定の影響力拡大(やや誇張されてきたが、いわゆる党高政低)がある。とりわけ脱規制化の移行期における政治家の影響力の一時的な増大はリクルート事件にみるように相当なものになった。さらには、自民党組織における出世競争の変質がある。とりわけ、当選回数による順番まち、二世議員の増加、総主流体制の形成による派閥所属の意味低下が重要だ。なにか政策関連で取り柄がないと、数百人の自民党議員のなかで出世の糸口をつけにくくなった。第五には、一九七五年政治資金法改正による政治資金調達における政治家の自助努力(株券やパーティーなど)の比重が増大した。企業から政治資金をまかなってもらうみかえりとして政策的な便宜を供与することがまれでなくなった。このように、政治家の影響力は大きく増大させた。
しかし、族議員の勢力伸長は大きな制度的・体制的な拘束の下で起きたことはいうまでもない。その拘束とは官僚制を軸に動く日本政治の仕組みだ。それは官僚制の相対的な影響力低下によっても根本的な変化を受けていない。つまり、日本の政治は法案を作る時でも立法府である国会よりも行政府であるお役所が圧倒的な力をもっている。国会の多数党である自民党は法案作りに最近かなりの程度まで参画するようになったが、それは国会においてではなく、自民党と官僚制の間で行われ、しかも法案のたたき台はほとんどの場合官僚制が用意する。官僚制は歴史的に国家社会の総体的利益の伸長をその使命としていると主張しながらも、上層部は長期一党政権体制下でかなり政治化されている(問題となっている文部、労働前事務次官をみよ)。
少し横道にそれるが、私が官僚主導・大衆包括型の多元主義と現代日本政治経済体制を規定しているのはわけがある。第一に官僚制が政治のペース・メーカーだ。これについてはたとえば一九五〇年代と一九八〇年代をくらべて政治家が強くなったという議論もある。しかし、戦後を通じて組織としての官僚制の相対的な優位は崩されていないと私はみている。組織的な重みの継続性はなかなか変わりにくい。第二に、その官僚制は開明的国益あるいは公平中立あるいは総体的利益代表の名のもとに社会諸利益の主張をかなり広く包括しようとする志向がある。それはほとんど官僚的権威主義に近いものだといってよいだろう。一定の大衆蔑視とエリート主義がある。しかし、できるだけ多くの人々の利益を考慮してはじめて自己の存在理由ありとする信念はかなり強い。それがどこまで実際に大衆包括的かどうかは経験的な問題だ。私は官僚制の伝統からみて、かなりの大衆包括性を実現してきたとみている。しかし、ここで重要なのは日本の官僚制はそういう考え方にもとづく政策を保持しようとしていることだ。
このような仕組みのなかで族議員は勢力伸長を達成してきたが、それはまず寄生的な性格をもちやすい。まず官庁ありきで、次に族議員が登場し、省庁利益を体現して族議員が動くという構図が強くなりがちなのである。いうまでもなく、政治家の力の増大とともに政治家自身のイニシャティブもまれではなくなったが、それは官僚制の優位という大きなピクチャーを崩していない。次に、ここでは政治家、業者、官僚の三者のかかわりあいはほとんどオモテに現れない。つまり、公開性と説明義務が政治過程で強調されていない。それは国会というより、役所の現場、マスコミ、自民党政調会などで断片的に、小規模でなされる。政治家の影の動きは選挙区の有権者にわかりにくい。業者の政治資金供与は株主には全然関係なくなされる。官僚が政治家や業者と招待ゴルフをしても当然とされる。ここに族議員が三者結合のために活躍する余地が増える。
しかし、ひとつ重要なことがある。族議員のやっていることは民間部門の利益仲介の側面をもつことだ。そもそも社会の諸利益を実現するために働くのは政治家の役割なのだ。政治家に利益仲介をやめろというのは代表民主政治を放棄し、官僚による超然政治を支持する結果になる。そのたぐいの議論が族議員やリクルート疑惑に関連してなされることも少なくない。しかし、それでは日本の代表民主政治まで汚職廃絶のために殺すことになりかねない。そうでなくとも日本では官僚制が政治のペース・メーカーであるのだから、政治家の利益代表活動を抑圧する方向に改革を考えるのはよくないだろう。むしろ、公開性や説明義務、そして政治倫理を要求することを通じて政治改革を推進しなければならない。
この点、米国の場合が興味深い。米国では官僚に対する政治倫理の適用は厳格をきわめ、民間人と昼食を共にするだけで疑惑の目を向けられやすい。そうでなくとも、米国人の友人にワリカンにむりやりにさせられて水臭いと思った日本人は少なくないはずだ。しかし、政治家に対する政治倫理の適用はかなり色合いが違う。政治家の私的な所有物の増大に結び付く場合は厳格になされるが、政策的な利益誘導の場合は意外と寛大だ。しかし、政治家の道徳的な問題には非常に厳格だ。国防長官になりそこなったジョン・タワー氏に対する批判のなかで致命的だったのは利益誘導よりも漁色家とアル中の点だ。利益誘導ではサム・ナン議員はじめ上院軍事委員会委員はすべて一つ穴のムジナなのだろう。また、辞職に追い込まれた下院議長ジム・ライト氏に対する批判はやはり利益誘導よりも私的な所有物増大だ。米国では、日本のように「構造汚職」として指弾する声は意外と少ない。それどころか、政治行動委員会という企業や組合の別動部隊を通じた利益代表活動があまりにも極端になり、時に「合法化された汚職」(アミタイ・エチオーニ)と言われるまでになっている。ここで強調したいのは米国では利益仲介、利益代表は日本におけるよりも一〇〇倍も活発なことだ。米国では官僚制というよりも議会がより強く社会利益代表の役割を果たす。代表民主政治では代表が社会の利益(たとえ、非常に特殊な業界や狭い地域の利益でも)を政治的に表明し、その政策的実現に向けて活動するところにある。この点は間違ってはならない。
族議員は官僚制を軸とする日本政治の仕組みの変容のなかで生まれた現象だ。族議員が社会利益を代表する点を伸ばし、しかしその弊害を直すためには政治や経済の仕組みを政治倫理、公開性、説明責任の角度からかなり徹底的に見直して、辛抱強く改革する努力が不可欠だろう。それは政治家だけでなく、官僚や企業人そして有権者に対しても同様に期待されることだ。いうまでもなく、そのような徹底した政治改革の担い手は誰かということになると答えは難しくなる。そしてそのためには一冊の本を書かなければならないだろう。
(東京大学教授・東大・教養・昭41)