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世界の中の歌舞伎 河竹 登志夫 No.782(昭和64年1月)

     
世界の中の歌舞伎
河竹 登志夫
(早稲田大学教授)
No.782(昭和64年1月号) 

 私は二十何回か海外に出る機会がありましたが、そのうち十回までが文芸顧問というような役目で歌舞伎について行ったケースでございます。つい最近も二週間ばかり韓国公演に同行してまいりました。で、今日は体験的に私の知っている話という意味で、「世界の中の歌舞伎」という題は少しオーバーですけれども、海外でどういうふうに歌舞伎が受け取られているのか、そんなことをお話してみたいというわけでございます。

 いま文化交流ということが非常にやかましくなってきておりまして、歌舞伎も年ごとに海外へ行くケースがふえ、今年は四回でございます。その一つは中村扇雀さんの一行で、カナダ、アメリカ、メキシコというふうにアメリカを縦断する一座でございました。それからオーストラリア、これは二度目で中村歌右衛門さんの一行。歌右衛門という人は、ご承知と思いますけれども、熊が非常に好きな人で、コアラベアに会いたいといってお出かけになった。二度目です。それからもう一つは、エジプトのカイロ、これは日本がお金を出したのでしょうが、大きな国際文化会館のようなものができて、そのコケラ落としを兼ねて中村富十郎さんそのほかが行きました。それと九月の韓国公演でございます。韓国公演というのは、一番近い国ですけれども、いままでの公演では一番最後になったわけです。

 これはもう言うまでもございませんが、いろいろな事情はご承知のとおりで、日本の文化に対してはかなりアレルギーがあると言われており、日本の歌謡曲を日本語でうたうことを禁止されているとかということがあったようです。しかし、実際行ってみますと、向こうの方が日本語で歌謡曲をうたっていますし、ところによりましてはカラオケと片仮名で書いた喫茶店やバーがございまして、そういうことは一向に感じられない。けれども建前としてはそうであったわけでございます。それで、今年はオリンピックがらみということで韓国公演がようやく実現いたしました。

 韓国でも、まず記者会見がありまして、いろいろな質問をされました。その中にはやはり建前上でしょうけれども、文化侵略ではないかとか、「忠臣蔵」は好戦的ではないかとかの質問もございました。

 演目としては「忠臣蔵」と「身替座禅」をやりましたが、「忠臣蔵」は長いですから全部というわけにはとてもまいりません。そこで序幕から四段目、つまり判官が切腹をして、由良之助が駆けつけ、その後城が明け渡しになる、そこまでをやったのでございます。これは昭和三十五年のアメリカ公演以来「忠臣蔵」をやるときにはそういう出し方という一つの伝統みたいなものができております。

 それと「身替座禅」です。これは狂言の「

花子
[
はなご
]

」というものからとったもので、六代目尾上菊五郎という近代の名優のために歌舞伎舞踊化されたものでございます。話の筋は不倫ドラマで、つまり夫婦ですけれども、どうも奥さんの方が大きくて強い。亭主には花子という愛人がいるけれども、なかなか会いに行くことができない。うっかり見つかったら殺されてしまう。そこでいろいろ知恵を絞り、一晩座禅をすることだけを許して貰う。そして座禅をするように見せかけて抜け出していくのですが、しかし必ず女房が後で様子を見に来るに違いない。そこで、出かける前に、「女性が来るとけがれの者だから行が破れる、決して部屋へ入つてはならん」と、こう言い置いて出かけます。けれどもそれでも必ず来るに違いないと知っておりますから、自分の召使いの太郎冠者というのを身がわりにする。いやがる太郎冠者を無理やりそこへ坐らせまして、頭からすっぽりかつぎをかぶらせ身がわりをさせるわけです。そして本人はもういい気持になっていそいそと花道へ入って行く。そういうところになりますと韓国のお客さんもよくわかるとみえましてお笑いになる。

 ところが、案の定山の神がやってまいりまして、さぞかし窮屈に修行されていることであろうからといって女中にお茶やお菓子を持たせてあらわれる。太郎冠者は恐ろしい、大変だとブルブル震えている。そこでお茶はいかが、お菓子はいかがというわけですね。口をきいてはいけないと言われていますから頭を振ると、こんなに私が心配しているのにあなたはつれない人だと言ってかつぎをはいでしまう。すると亭主ではない召使いがおりますからばれまして、今度は奥さんが身がわりになるといってかつぎをかぶって座禅の様子をして待っているわけです。そこへ亭主はいい気持になって、ほろ酔い機嫌で鼻歌をうたいながら朝帰りで戻ってまいりますと、またお客さんがお笑いになる。

 いい思いをして帰ってきたわけですから、亭主はその話を聞けと、女房とは夢にも知りませんので、今日あったことをみんなしゃべっちゃうわけですね。そのあげく、もういいだろうとかつぎをはぐと奥さんが出てくる。それでびっくり仰天、許してくれ許してくれ、やるまいぞやるまいぞというので終りになるわけでございます。

 これは要するに浮気物でありますので、韓国は非常に濡教精神の強い国だからこういうものはどうだろうかと言った人もございましたけれども、そんなものはどこ吹く風で、非常に受けました。重い「忠臣蔵」の後にこの「身替座禅」という立てかたは、アメリカですでにこのコンビネーションでやっていらい、間違いないという自信を持っていたわけでございます。

 まあそれはそれとして、先程文化侵略ではないかとか、「忠臣蔵」は好戦的な演目ではないかというようないろいろ質問も出たと申しましたが、それは記者会見のときだけで、それから後一般のお客さんには何の支障もなかった。それどころではありませんで、ソウルとプサンの二ヵ所でやったのですけれども、両方とも切符は全部前売りで売り切れております。プサンでは切符がどうしても手に入らないで、一万ウォンと申しますと、大体千八百円くらいの切符が十万ウォンというように、十倍のプレミアムがついていたようでございます。そんなことで、非常に喜ばれました。特にプサンは戦前日本に住んでいたという韓国の人がたくさんおられ非常に憶かしがって来てくれました。息子さん、あるいはお孫さん達が、敬老の意味で、好きだから連れていこうということで、家族ぐるみのあったかい反響でございました。今度の「忠臣蔵」は、尾上梅幸さんの判官、十七代市村羽左衛門さんの師直と由良之助、菊五郎さんの若狭之助といったような役割でやりましたが、非常に真剣に見てくれました。むしろ日本の方で切腹がどうだとかいろんな危倶をもっていた向きがあったのですけれども、そういう危慎はなかったと思います。

 そういうわけで、歌舞伎の海外公演もすでに戦後三十数回になりましたけれども、一番近くて、しかし、文化的な意味では何となくしっくりいかずに一番遠い国だと思われております韓国でも成功いたしました。これで大体歌舞伎の海外での声価は定まったのじゃないかというふうに思われるわけであります。

 ですが、国の伝統も、歴史も、言葉も、風俗も全く違う海外で、一体歌舞伎がどこまでわかるかと、疑問に思われる方もあると思います。海外公演から帰ってまいりますと、成田空港などで新聞記者や報道陣の人から、成功成功と伝えられているけれども、本当にわかったのかというご質問が当然あるわけです。しかし、本当に歌舞伎がわかったかという質問は、私にはどうもわからないんです。筋がわかったから歌舞伎が本当にわかったということになるのか、筋はよくわからなかったけれども、しかし何だか非常に感動を受けたと、そういう方が本当にわかったということかもしれませんですね。数学等の問題と違って歌舞伎などの場合には、ただわかったかという質問にはうっかり答えられない。何がどういうふうに理解されたか、筋がわかったのか、どういう要素が喜ばれたのか、とそういうことになれば幾らかわかってくるのですが。

 で、歌舞伎の反応ですが、その前にいままで私がついて行ったケースを振り返ってみますと、昭和三十五年が最初で、またこれはアメリカの最初の公演でございました。丁度日米修好百年という年で、その記念としてアメリカから要望があったようです。その翌年が戦後ソ連の初演でした。もっとも歌舞伎の海外公演というのは戦後だけではございません。昭和三年(一九二八)に二代目の市川左団次――自由劇場という新劇の運動を起こしたり、岡本絹堂さんの「修禅寺物語」、そのほかで有名な二代目ですが、この左団次の一行がソ連へ行っております。これは丁度草命後十年ぐらいの時期で、革命十周年の記念に、日本から文化使節のような形で歌舞伎が行ったので、これが最初でございます。その後、六代目菊五郎がロンドンとかパリに行きたいとかあったようですが、戦争になって実現はしていません。戦後昭和三十二年でしたか、亡くなった先代猿之助――いまの猿之助の、お祖父さんが、たしか中国ヘ行ったのが戦後の最初だと思います。それから前進座が中国へまいりまして、三十五年、前にもふれた第一回のアメリカ公演でございます。翌年がソ連、そして数年置きましてヨーロッパの初演、これはベルリンとパリとリスボン、マドリッドを飛び越して、ローマも飛び越してポルトガルへ行ってしまった。これは余談ですが、なぜリスボンに行ったかと申しますと、当時独裁首相といわれていたサラザールという政治家がおりまして、その首相のほとんど直属といわれるグルベンキャン財団とかいう財団がお金をだして、せっかくヨーロッパへ来るならぜひポルトガルヘ来てほしいということで、実現したと聞いています。それからしばらくしてロンドン、ミュンヘン、やがて赤道を越えてオーストラリアへ行くというようなことが実現をいたしたわけでございます。

 その間私も十回ばかりついて行ったわけですが、何がどういうふうに受けたのか、何があまり喜ばれなかったのか、私が実際に体で感じたことをもとにしましてお話をしようかと思います。

 ここでもう一つ考えておきたいのは、最近ますます歌舞伎が文化交流のかけ橋になっているということに二つの理由があるということです。一つは、やはり演劇そのものについての理由です。十九世紀末からの近代リアリズム演劇、西洋のリアリズム演劇というものには、もう行き詰まりが来て久しい。そこで、何とかして額縁に閉じ込められたリアリズムの芝居、客席からじっと息を凝らしてみるそういう芝居じゃなくて、客席ともっとダイナミックな交流のある、舞台からあふれ出るような、つまりいわば反自然主義的な演劇を求めているのが、今世紀世界中の傾向だと思います。そういうときに日本の能とか、あるいは文楽、歌舞伎といった、西洋のリアリズム演劇の伝統と全く関係なく伝わってきたもの、たとえば花道にしても外国に伝統がないわけです。そういうものが向こうにとって、古い日本の伝統演劇という観念ではなくて、リアリズムを乗り越える非常にフレッシュな、ある意味で申しますと前衛的な、あるいは超近代の演劇を求めるそういう要求にとって、さまざまな参考になるところがあるということです。

 たとえばいまパリで一番あたっている劇団の一つにソレイユ――太陽劇団というのがございます。若い劇団ですがいま非常にはやっている。シェークスピアなどをやっているけれども、歌舞伎方式や、あるいは東洋のガムラン音楽を使ったりしております。西洋の一番大きな演劇の伝統というのはやはりせりふの芝語だと思うのですね。ところがここでは、言葉、言葉、言葉というあのハムレットのせりふにもありますように、言葉ででき上がっているそのシェークスピアに、音楽とか舞踊をつけて局部的に言えば東洋風な、あるいは日本的な演出で試みているわけです。笑際に見てみますと何だか八方破れでさっぱり芸術的だとは思いません。評論家達は非常に芸術的にすばらしい試みだと言っているようですけれども、私が見た限りではあまりそういうふうには思えない。ゴタゴタしておりましてさっぱりわからないけれども、行き詰まったリアリズム、言葉の芝居から、それを打ち破ってカーッとしたすごいシンフォニックなものを求め、立ち向かっているという熱気は感じられました。

 そういう近代を乗り越えるものとしての歌舞伎への注目と、もう一つは申し上げるまでもなく、いまの日本が工業社会としてアメリカをも脅かすような経済成長をしたその原因は何かということです。戦後の日本人が非常に勤勉ですぐれていることは言うまでもないし、さかのぼって明治の西洋輸入のあの近代化のスピード、その力というものも充分認める。けれども一体それだけだろうかということですね。近代化が速やかに行われたのにはその基盤があったはずで、それは江戸の市民社会の中にその芽生えがあり、基盤があったと。それを研究しなければ日本の恐るべき高度成長というのはわからないということで、江戸文化への関心は非常に強くなっているわけです。

 数年前、猿之助が歌舞伎でベルリンからヨーロッパまでまいりました。これはロンドンで行われたグレート・ジャパン・エクジビションでしたか、実際には美術が主体だったけれども、大江戸展というものがロンドンで行われたのはご承知のとおりです。このときに国際交流基金がたしか二億円の助成金を出しております。一つのプロジェクトに二億円の金を出したのは異例であったというふうにそのころ伺っておりましたが、受け入れるロンドンの方は日本より貧之でしょうけれども、八億円出したそうです。それでも結構プログラムの売上げや何かで得をしたらしい。しかも、イニシアティブはロンドンにあったようでございまして、それほどの力の入れ方で日本の江戸文化を研究しているわけですね。来年秋にベルギーのブリュッセルでユーロパリア・ジャパンという催しがあるそうで、これには玉三郎君などが行って踊りを踊る計画があるらしいけれども、やはり江戸の民衆文化が大きなテーマになるような気配です。

 いま世界の中における歌舞伎の進出のバックには今申したようなことがあると思いますが、それではどんなものがどう受けたか。その前に、一体外国ではどんな歌舞伎をやっているのか。基本的には、日本でやっているとおりの本物をという建前で一貫しているのです。が、実際には非常な困難があるのはいうまでもありません。たとえば先程花道のことを申しましたけれども、外国には花道はありません。一番大きなネックは、その花道の設定なのです。いまでこそ歌舞伎は花道がなくちゃやれないということは知っておりますけれども、初めのうちは、花道がどうしても要るということから説明を始めなければならなかった。

 やはり劇場条件は外国でも非常に厳しいわけで、花道をつけますと、どうしても客席が減ります。これは歌舞伎座でもそうで、江戸時代から大正大震災ごろまでは本花道と仮花道と二本あったわけです。いま仮花道はまずありません。どうしても必要な芝居、たとえは「妹背山」とか「御所五郎蔵」とか、「鞘当」とかいうものになりますと、そのときだけ文字どおり仮に設定しております。そのかわり、その幕が終わりますともう電光石火のごとくその花道は取ってしまう。つまり通路を使っているのです。明治以来非常に興行的になっておりますから客席をつぶすことは好まない、しかし少なくとも一本はどうしても必要です。ですから、外国でやりますときにどうしても花道が要るということを納得させなければならないわけです。

 昭和三十六年ソ連に行きましたときは一番困りました。あらかじめこういう設計図で、これが要ると説明をしてソ連の方でもわかったと約束したのに、実際に大道具方等が本隊より一足先に行ってみると花道がつくってない。何とかなしでやってくれと言う。そうはいかないと、それを納得させるのに一晩徹夜でけんか腰で向こうの担当者と折衝しました。幸いソ連の通訳の女性が日本文化、とくに歌舞伎を専門に研究している熱心な人でしたから、花道がなければ歌舞伎はできないということをこちらの言うこと以上に力説してくれました。それでようやく向こうも納得したわけです。そのためにモスクワの劇場では六十の客席、レニングラードはもっと大きな劇場でしたので、二百の客席が減った。これはやむを得ないのですけれども、困ったのは、向こうは花道の部分も前売りでみんな売ってしまっていた。当然それを払い戻すとか別の席を斡旋することをしなければならない、これが大変です。お客さまが来てしまいますので、そのために毎日三十分近く開演時間が遅れてしまった。ことに、外国はご承知のとおり客席の等級が非常に細かく分かれています。日本はせいぜい一等から三等、四等ぐらいまでですけれども、向こうは多いところでは二十何階級にも値段が細かく分かれております。ですから花道一本でも前から何番目は幾らとみんな値段が違う。それをいちいち払い戻して別の席を斡旋するというのは大変な手間であります。しかし、いったん納得したらフットライトまで仕込んだ非常にいいものをつくってくれました。日本のようなすりガラスがありませんでしたから、透明なアクリル板を張りまして、それをまたペーパーやすりで一枚一枚すりまして、すりガラスみたいにした、そんなこともありました。

 それから大道具も全部日本でつくって送るのでございます。現地へ設計図や色見本を送ってできるかというと、全然違うものができてしまう。戦後多分最初の中国公演でしょうが、中国は日本の先輩国でありますし、近い国だから、センスは同じだろうというので、すっかり向こうに任せたらしい。ところが、行って見ますと色が全然違うわけです。赤は赤でも日本の中間色、さび色といいますか、向こうではそういうような色が出ない。赤は真っ赤、青は真っ青で、どうも日本の美感覚とは違うものになってしまう。ですから全部日本でつくっていかなければならないわけです。それからたとえば「俊寛」には大きな岩が必要です。あの大きな岩に乗って最後に手を振らなければ「俊寛」の幕は閉まらないのですから、どうしても必要になる。これも日本でつくっていかなければなりません。ソ連で最初にやりましたときのケースですけれども、大体大道具は三月ぐらい前までに全部用意して送り出さなければならない。しかも、国が変わりますと、途中で税関があったりして非常に大変なのですが、とにかく岩をつくった、これを船で送ればいいと。ところが、日本風に大きいままつくってしまったので積み込む段になってコンテナに入らない。大きなままでは梱包に非常にお金がかかります。これは困るというので、大道具方が何人もかかって、大のこぎりで、せっかくつくった岩をたしか十六位に切り刻み向こうで組み立て直すようにして、ようやくコンテナに詰めて送ったと、これは後で聞いた話でございます。

 それから四年後ヨーロッパで初演をすることになり、ベルリンが最初でしたけれども、亡くなった中村勘三郎さんが「俊寛」をやることになった。それで、苦い経験があるものですから、今度はその岩をばらして材料のまま持って行き、向こうでねじでとめて組み立てるようにしました。ベルリンは、回り舞台があったけれども何かの事情で使えなかったのですが、外国の劇場は日本と違いまして、間口は狭いけれども、非常に奥や袖が広い。「俊寛」では最後に岩が出てくるので、初めから岩がありますと前半の芝居ができません。普通は回り舞台でやるわけですけれども、回り舞台が使えないから、下に車をつけて後ろの方に隠しておきました。そしていよいよというときにゴロゴロと岩を押し出すようにしたわけです。日本の道具係が一人その岩にひそみまして、合図によって押し出すようにしました。これは舞台げいこのときはうまくいきました。私も初日は一番うるさい沿客が来るので、二階の正面から芝居をそっちのけで、お客さんの様子を見ていたわけです。そのときに困ったことは、その岩がけいこでやったときより少し手前でとまってしまった。ですから、そこにうまく照明があたらない。もちろん歌舞伎ですからスポットなんか使いませんけれども、それでもよけいに明るくなるようにセットしてあるわけです。ところが、後ろの方にとまっていますから、勘三郎さんが岩によじ登って、いよいよ最後の見せ場をやろうというときになって照明があたっていない。そこで勘三郎さんは困りまして、下に潜んでいる道具方に向かい小声でもうちょっと前だ前だと言うのですが、シーンとしているから客席には開こえるけれども中に入っている者には開こえない。だんだん「もっと出せ」という声が大きくなってようやくわかった。中にいる人はもし前へ出し過ぎて舞台の端から落ちたら大変だと思って控えたのですね。あんなせりふはないんですから私はびっくりしました。
これはえらいことだと思っておそるおそるまわりの様子を見たら、だれも笑わないで見ている。まあ日本語がわからないから幸いだったわけです。

 外国公演の舞台に関しては、ユニオンの関係で全部向こうにやらせなければいけないのですが、どうしてもやれないことはむろんありまして、たとえば幕を引くのは外国人ではだめなのです。ご承知のとおり、歌舞伎は拍子木に合わせて心持ち早くあいたり閉まったりと、同じテンポでスッと引くわけではございません。アメリカで最初やったときですが、緞帳になれている向こうの舞台監督がストップウォッチを持っていまして、こんなものはだれでもできる、いかなる外国のものが来ようとわしはやっているというんで、やったわけです。ところが、向こうは機械でやりますから、さーっと同じテンポであいちゃう。そこでそうじゃない、もう少しゆっくりというと、それではもうちょっとゆっくりやるといったのですが、今度はいつまでたっても幕があかない。拍子木が鳴って待っているけれどもあかないわけです。つまり初めはゆっくりで、心持ち早くというその「心持ち」が問題なのですね。この「間」というものは日本人独特でございますから、ここで一呼吸というのもだめなのです。心持ち早くということが、何回やってもうまくいかないので、とうとう音をあげまして、日本の道具方があけるようにしたわけです。重い幕ですから、手で引くのじゃなくて肩で押してあけるわけですね、そんなこともございました。ドイツで梅幸さんが「道成寺」を鐘入りまで踊ったことがございます。これは最後に大きな鐘がスッとおりて、きれいな娘の白拍子花子がその下へ入りまして鐘が落ちる、そうすると清姫の怨霊になって出るわけでございますね。そのときに大失敗があった。梅幸さんはいつものように踊りまして、鐘の落ちるところまでくると、その合図でスルスルとおりるわけですが、定位置に入りかけたときにおりちゃった。ドイツ人の舞台監督がきっかけを間違えたのでず。しかも落ちたときドーンと音がしました。これはもちろん木の枠でつくって紙を張ったものですから本物ほど重くはないけれども、大きな鐘ですから五、六十キロは楽にあります。ですから、これがまともにあたったらおそらく命が危なかったと思いますが、幸い梅幸さんが入りかけたときにサッとかつらの端をかすって落ちた。かつらが落っこちなくてよかったのですけれど、ともかく先に鐘が落ちたから中に入れない。梅幸さんはベテランですから、少しも騒がず後ろへ回りましてうまくやりおおせはしました。これも、お客さんの方はよく知らないから、そういうものだと思って見ていた。しかし梅幸さんが心配で、後でけがはありませんでしたかと言ったら、「幸いけがはなかったけれども、これが本当に鐘に恨みでございますね」、と笑ってすませてくださってほっとしました。ただこれは重大なミスでありますので、日本の監督の方から厳重な抗議を当然したわけです。しかし、その事故はもう即刻その劇場長の耳に入っていて、大変申しわけがない、おわびのしようがないけれども、とにかく重大なミスをした者は即刻その職責から外して責任をとらせている、許してくれと、こういうことでございました。その点は実に立派だと思いまじた。命に別条がなければまあいいじゃないかとなりがちですけれども、ドイツはその点やはりしっかりしているという気がしたわけであります。

 こういうことをお話していればきりがございませんが、そのほか、たとえば三味線なんかも、日本は湿気が強いのですが外国は乾燥していますので、日本と同じように張って行きますと、向こうですぐ裂けてしまう。ですから、みんな緩めて持っていって、しかも用心のためにスペアの皮を何枚かずつ用意していくと、そんなことまでございます。演目についてはいちいち申し上げる余裕もございませんので、一番受けたものと受けないもの、それはなぜだろうか、そんなことを申し上げてみたいと思います。

 皆様は、歴史も伝統も社会も言葉も違うからドラマになっているものはさぞかしむずかしいだろうとお考えになると思うのです。しかもドラマと言えば、義理とか人情とか、徳川封建時代のそういう枠があってできた芝居ですから、そういう点で現代性というものは大変希薄ではないか、まして外国では受けいれられないのではないかと。それに対して色と形と音と、そういうものでできていて、筋は知らなくてもかまわない、きれいな踊りの方、が喜ばれるのではないかと思いがちだと思います。当事者も最初はそう思っていた。それでやってみたところが、事実はその逆になってしまいました。

 踊りでございますが、最初アメリカでやりましたとき、歌右衛門さんが行くので踊りをぜひ見せたいということになった。一番得意のもので、また踊りの中で最高に洗練されたものでもあるし、それに女形の美しさというのが歌舞伎の大きな魅力でもあるというので、ご存じの「京鹿子娘道成寺」をやったわけです。全部やりますと一時間以上もかかりますので、鐘入りはやりませんで、四十三分ぐらいに詰めました。これは、向こうは興行時間が短いですから、どうしてもカットせざるを得ない。けれども、見せるところは日本とおんなじにたっぷり見てもらおうと、そういうプリンシプルです。四十二、三分にカットはしましたが、踊る人は歌右衛門ですからもう日本一、ということは世界一であるわけでございます。ところが、お客さんの集中力が五分ぐらいしかもたない。きれいな白拍子の花子が花道を出てくる。みんな初めはなるほど、本当にあれは男かなんて言って見ているのですけれども、五分もたちますとお客さんの注意力が散漫になってしまう。こちらは客席を毎日見ておりますからすぐわかります。隣の人と話をする、居眠りを始める、プログラムをあけたりとじたり。

 つまり「道成寺」はだめなのですね。どうしてだろうと、いろいろお客さんに開いたりしましたが、よくわからない。結局、結論として感じましたことは、あれほど磨き上げられた踊りだけれども、外国人の目からみますと、ドラマチックな筋がないため単調になってしまうからじゃないかということです。安珍・清姫伝説がもとにあるといいましても、歌舞伎の「道成寺」というのは、極端に言えば能から全く離れて、一人の踊り手が花笠を持って踊るとか、あるいは恋の手習い、そういう娘心のいろんなパターンを何覆類も踊り分ける、その微妙な踊り分け方が見どころでしょう。しかし、そういう細かいことは向こうにはわからないと思うのですね。プログラムを読んだところで、恋の手習いだって別に筆を持っているわけじゃない、手拭い一本で踊るわけですから。そこがむしろ逆に歌舞伎の方では一番見せ場なわけですが、向こうの人の踊りというのは、足を百八十度ぐらい開いたり、向こうからこっちからと飛んで歩くわけで、たとえば「白鳥の湖」というようなものとは歌舞伎のは全然観念が違う。オペラやバレーにしても、簡単でも筋がありますね。何を踊っているかということがわかる。ところが、「道成寺」の場合はそういうものはないわけですから、向こうの人から見ますと何の変化もなく見えてそれで終わってしまう。

 ニューヨークで舞台げいこのときですが、歌右衛門さんはまじめな人ですから、どこへ行っても必ず衣装をつけて本格的に舞台げいこをやります。そこへ新聞記者や報道陣の人が来て見ていましたが、私のところに来て、通訳して歌右衛門に聞いてもらいたいと。何を聞きたいのかというと、「プログラムを見ると、蛇の精であると」書いてあるというわけです。これはプログラムがよくない。わからせようと思ってよけいなことが書いてあるわけで、だんだん脱ぎかえていくのは、蛇が脱け殻を脱いでだんだん蛇の本体になるのだと、そう読めるような文章なのです。ところがいま見ていてもひとつも蛇らしくなってこないというのです。一つ脱ぎかえて新しい踊りに変わるごとに踊り手は一体何%ぐらいずつ蛇の心になるのかという。そこで「歌右衛門さん、こういう質問ですが」、とききましたら「むずかしい質問ね、適当にやっておいてちょうだいよ」。で、先程のようなことを申しまして、日本の歌舞伎舞踊は筋を追うのが目的ではないのだというようなことを説明したのですが、どうもよくわからなかったようです。四年後今度はドイツとフランスとポルトガルでしたが梅幸さんが行って、筋がはっきりわかればいいかしらというので、鐘入りまでやったのですがだめでした。梅幸さんに気の毒であったのは、何しろポルトガルなどは昼寝する国ですから夜が遅い。日本だとそろそろ帰りのパスの時間が気になる九時ごろに始まるのです。最後に道成寺が出たんですが、そのときはもう十二時過ぎでございました。梅幸さんは、「私も長年何百回と“道成寺”を踊っているけれども、午前さまで踊ったのは初めてですよ」と言っておりました。しかし、結局アメリカ、ソ連とこのヨーロッパの三回だけで、「娘道成寺」は外国公演のレパートリーから消えております。これが本当によくわかってくれるようになれば江戸時代の日本人と同じ人間になれたということかもしれません。

 おなじ歌舞伎舞踊でも、たとえば「鏡獅子」などの方がいい。明治にできたもので筋がはっきりわかりますし、少女の踊りにそろそろくたびれて眠くなりそうなときにパッと変わって獅子の踊りになるので、これはもつのです。けれども、本当に踊りそのものを鑑賞するような踊りというのはだめですね。むずかしさの一つは、やはり吉原文化との関連が非常に強いことではないかと思います。「道成寺」の歌詞を細かく見ますと、廓言葉とか廓情緒というものがある。江戸市民の日常生活が非常に濃く結びついて入っているのですね。私どもは吉原は知りませんから、フグで亡くなった三津五郎さんには、ずいぶん教えてもらいました。「先生、あなた知らないでしょう。〈見返り柳〉というけれども、あれはただ振り返るから見返りじゃない。いつものお客でない別のお客さんと道中して行くときに、たまたまある居先におなじみのパトロンがいたとする。そこで挨拶でもしたらつれのお客に悪いので、さりげなく行きすぎて、ある目印の柳のところで振り返ってニッコリする、これが〈見返り柳〉です」と。そういうことは、日本の踊りの中ではいっぱいからみついている。残念ながら私なんかでもそういう情緒は知らないわけですから、外国人にそれをわかれと言ったって無理だと思うのです。そんな意味で、本当の江戸風に洗練されたものであればあるほどむずかしい。外国に受けなかったのは、それは質が悪いからということではございません、質的にむずかしいということが言えると思うのです。

 それに対して、ドラマのものが意外にいいわけです。簡単に申し上げますが、「忠臣蔵」を最初にアメリカでやりましたときは、師直、由良之助は松緑さんで、非常に立派でした。それに、判官が勘三郎さん、顔世御前は歌右衛門さんで、これはもう最高です。判官切腹の後、城明け渡しが終わりますと、川端康成さんがたまたま見ていらして、幕合いに、あの目を一層大きくしまして、「歌舞伎というものはすごいもんですね」とこう言う。「どういうことですか」と言ったら、「自分の周りは全部外国人ばかりだったけれども、ご婦人方などハンケチを出して泣いていましたよ」、ということでした。これは本当で、どこへ行っても、「忠臣蔵」の時はそういうお客がある。結局、これはドラマがはっきりしているからだと思うのです。判官切腹だけやったのでは、そんなものかで終わったと思いますが、その前にけんか場即ち松の間があり、そのまた前に大序がある。判官と若狭之助、片方は非常に温厚な思慮深い男、若狭之助はカッカと血気にはやると、これは非常にコントラストがはっきりしています。そういう温厚な判官でさえも斬りつけなければならなくなるまで師直がいじめる。そのいじめと斬りつけ、そこのドラマティックな盛り上がりというのは、世界の戯曲の中でも最高の一つだと思うのです。今度も韓国でやりまして、その場にいきますとみんなものすごく緊張してくることが感じられたのです。

 翌年ソ連へ行きまして、当たったのは「俊寛」でした。このときは主演が猿翁、つまりニ代目猿之助で、すでに七十をちょっと越しておりましたが、ぜひ行きたいと言って実現したのでございます。それから流人の二人、康頼というのを八百蔵さん、いちばん若い丹波少将成経をいまの猿之助さん――そのころまだ団子と申しました。海女の千鳥、これは実説と違いまして、成経は千鳥という島の娘と祝言をすることになります。その千鳥をいまの門之助さん、都から船に乗って来る使者が二人、大体歌舞伎ではいいのと悪いのと必ず二人出ます。赤っつらという憎々しいやつを、亡くなった、いまの猿之助のお父さんに当たる先代市川団四郎さん。いい方の使者、それをいまの延若さん――まだ延二郎といっていたかもしれませんが、そういう配役でございました。そのときの義太夫さんは豊竹岡大夫という人で、なかなかの名人でした。

 この公演はモスクワのワフタンゴフという劇場でしたが、初日の状況は全部モスクワ放送局の日本向け放送が録音をとりました。岡田嘉子さんも向こうにいらして、その岡田さんの最後のご主人だった往年の二枚目滝口新太郎さんが主任でした。

 ご承知のように、俊寛は、近松の芝居においては、取り残されるのではなくて、悪い役人を斬ってその罪を自分でつくって残るわけです。なぜ残るかというと、自分の妻は清盛に言い寄られて拒否したため殺され、帰る気がなくなったのが一つ。もう一つは、成経と千鳥が祝言をした、この将来のある若い二人を帰してやりたい、そうすると人数が多くなっていい役人の落度になりますから、こういう罪をつくったから残るのは当然だと言って残るのです。それで、さらばさらばと別れ、船は沖へ、つまり客席の後ろの方に去って行く感じ。すると俊寛は、一介の男に戻って孤独のあまり花道を追って行く。だから花道が必要なわけですね。つまり波打ち際を追って行くわけですけれども、そのときに運悪く上げ潮になってまいります。揚げ幕の奥から、青く染めた波布が出てまいります。

 同時に、波の音、潮が高まって寄せてくる――ドンドン……というのが岸へ寄せて来る音、チャッチャッと崩れる音がそれに入ってくる。上げ潮ですからこれがどんどん強くなる。引き潮のときには消していくわけですね。その波音と、いまの波布、これがソ連のお客さんは言葉もわからないし、イヤホーンも何もなかったのですけれども一目でわかる。俊寛は上げ潮になってきたので、だんだん、潮に追い返されて本舞台へ戻ります。ソ連では回り舞台が使えましたので、その間にぐあいよく回り舞台で岩が回っている。俊寛はその岩によじ登って、幕切れということになるのですが、その波布が出て波の音がしてまいりますと、お客さんはみんななるほどとすぐわかります。しかもその表現の太鼓などは日本独特でございます。つまりシチュエーションがわかって、その上で初めて日本独特の表現というものがわかり、また喜ばれ、感動されると思うのです。お客さんは、俊寛の猿之助の方はそっちのけで、波の方ばっかり見ておりまして、波が主役みたいになった。そして岩に登るのもせりふは一つもないのにお客さんはもう本当にしわぶき一つありませんでした。

 岩に登り切りますとそこに一本の松の木が生えている。その枝にすがってのび上がる。そうすると、その重みでポロッと枝が折れてしまう。そのときにまたドーンと音がします。それで万策尽きたわけです。そしてそのままじっと向こうを見て幕になります。さてそのあとが大変な拍手で鳴りやまない。猿之助の方は前に「鳴神」をやっていて、つぎに「俊寛」ですから、楽屋へ引っ込んでくたびれきっている。そこへ雲つくような大男のロシア人の舞台監督がとんで来て、どうしてもお客さんが鎮まらんから、カーテンコールにこたえてくれないと困るというのです。日本にはカーテンコールの習慣はありませんが、猿之助さんはやはり役者ですからうれしい、お客さんは外国人だから向こうの習慣に従おうというので、結局毎回十回ぐらいもそのカーテンコールに出ることになったのです。

 ちょっと余談ですが、岩とか、松の木とか、舞台に根の生えているものは大道具方がつくりますが、折れる小枝一本、これは小道具の会社がつくる。つまり、手で持つもの、刀でも茶碗でも動くものは、これは小道具係です。ですから、小道具と大道具の打ち合わせがよくいってなくて、技がちっとも折れなかったり、初めからブラブラしていたら困るのです。

 このソ連の公演では五つの演目――「鳴神」「連獅子」「寵釣規」の序幕「見染めの場」、それから「俊寛」「娘道成寺」とあったわけですが、こういう拍手になったのは「俊覚」だけです。この劇もやはり非常にドラマの骨子がはっきりしております。つまり近松のドラマの力だと思いますね。前後十回も歌舞伎の海外公演に同行しましたけれども、このときの「俊寛」のリアクションがやはり一番印象に残っております。その後もこれほどの反響はちょっとないように思います。

 数年前でしたが、皇太子殿下御夫妻がぜひ芝居のことを勉強したいというお話がありまして、東宮御所へ行って二時間ぼかり日本の芝居の話をいたしました。そのあと先程のような簡単な説明をして、いまお聞かせしたテープを聞いていただいたのでした。

 私のお話は結論というようなことはないのですけれども、やはり先程申し上げましたように、どうも純粋の踊りというのはなかなかまだアプリーシエイトしていただくまでにはいかないむずかしい問題だと思います。外国人でも、自分で日本舞踊をやる人とか、あるいは三味線をやる人、これは最高のものだと思って一生懸命勉強して帰りますけれども、一般の人には無理でしょう。これは日本のいまの若い人も同じだと思います。中学生などに対して三十年近く、年に何回か日曜日の朝歌舞伎座で、無料で子供歌舞伎教室というものをやって解説を続けておりますけれども、だいぶ昔「勧進帳」をやったときのことですが、弁慶が勧進帳を読むのを富樫があやしいとにらんでのぞきますね。弁慶が見られたかと気づいて失敗の「見得」になる。もしそれがばれたら大変なことになるので、これは緊張した場面だけれども、なぜか中学生が笑うのです。アメリカで「勧進帳」をやりましたときにもその場で、アメリカ人はクスクスと笑う。何がおかしいのかわからないけれども笑うのです。つまり突然見得になるあの表情がまるっきり異様に見えるのですね。ある人は何であそこで威張らなければならないのかと言いました。私は、中学生、高校生など、とにかく子供のときから近代教育、西洋風な教育を受けた若い人々は外国人の反応と全く変わりないのが当然だと思います。しかし、「忠臣蕗」とか「俊寛」とかのドラマの場合は、ギリシア劇以来、西洋の葛藤のドラマというものが西洋劇の基本になっておりますので、江戸時代が特殊でありましても、もしその時代に自分が身を置いていたらと、そういう座標変換ができると思うのです。それがドラマのものが外国で受け入れられる理由でしょう。

 こういうドラマができたのは、やはり近松のお陰だと思います。近松門左衛門によって、いわゆる江戸市民社会に根を置いた本当のドラマ、これは人形浄瑠璃ですから、音楽劇という意味では形式上ちょっと様子が違うようですけれども、ドラマの骨子という意味から申しますと、ほとんどイプセンの近代劇と変わりない。たとえば、お初、徳兵衛が金と義理から因襲の重みによって破滅心中していく、これは因襲の世界と戦う人間を描いたイプセンの近代市民劇と、ほとんど選ぶところはないと思うのです。東洋にはほかにもっと古い文化の国がたくさんあるけれども、こういうドラマをつくった国はないのではないでしょうか。これは結局三百年の江戸の市民社会が、上は武家に押さえられておりましても、実際は町人の市民社会というものが非常に発達をした。その中で、近松の天才と相まってですけれども、初めて出来上がってきたドラマであります。私は先程、日本の成長は江戸時代にその基盤があるのじゃないかと西洋が見ていると申しましたけれども、演劇の場合も全く似ておりまして、西洋の演劇、近代劇、それを一番東洋で早く受け入れ消化したのは日本だった。これはやはり、近松のドラマというものが元禄時代にすでに確立していて、西洋のドラマと非常に普通性をもって共通しておりますために、西洋の演劇を割合にやすやすと受け入れる基盤になったのではないかというふうに思います。

 今日はあちこちよけいなことばかり申し上げましたが、最後におめでたいもの、韓国へまいりましたときの大入り袋をお目にかけます。これには韓国の貨幣で五百ウォン、大体百円入っております。こんなものが出るくらいに韓国では大当たりでございましたので、お話したわけです。

 どうも取りとめもないことを申し上げましたけれども、世界の中での歌舞伎のいまの状況、そんなことをお耳に入れたわけでございます。

 ご清聴ありがとうどざいました。

(本稿は昭和63年10月20日午餐会における講演の要旨であります)
(早稲田大学教授・東大・文博・理・昭21)