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学士会アーカイブス

中国経済への関心 小宮 隆太郎 No.780(昭和63年7月)

中国経済への関心
小宮 隆太郎
(東京大学教授)

No.780(昭和63年7月)号

中国で一九七六年に「文化大革命」期が終り、まもなく経済体制改革と対外開放政策への転換が始まってから、日本の学者の中にも訪中する人が次第に多くなったが、私はしばらく前まで中国および中国経済にほとんど関心をもっていなかった。

私は経済学の中ではいろんな分野の問題について論文等を書いてきた方だが、日本以外の国や地域の経済については理解が難しいと思ってきたから、地域的には禁欲的な方であった。私を含めていわゆる「近代」経済学者たちの関心は概して欧米先進諸国の方に向いており、私も先進諸国には会議等のために頻繁に行くが、開発途上国にはほとんど行ったことがなかった。それに中国、朝鮮半島はじめ日本がかつて侵略した地域については心理的障害が大きく、できればかかわりを持ちたくないという気持が強く、避けて通ってきたのである。

 

     「中国熱」のきっかけ

一九八三年に北京での「日中経済学術シンポジウム」(かなり僭称だが先方が名付けたのをそのまま使っている)に参加するために私は初めて中国を訪れ、その後一九八四年には吉林大学(長春)で「現代日本経済論」を講義し、八六年には西南財経大学(旧称は四川財経学院、成都)で「国際金融」を講義し、八七年には中国の大学教育にかんする会議(上海)のため、また今年四月には上記「シンポジウム」の第三回会議(北京)のために訪中した。都合、六年間に五回も訪中し、そのうち二回は北京や上海からかなり離れた地方の大学にそれぞれ六、七週間も滞在して講義や学生の指導に携わり、両大学から名誉教授の称号を頂戴した。

世間の「中国熱」がかなり冷めてから、私が中国経済への関心を深めていったので、それはなぜなのかと訝る同僚・友人もあり、「小宮さん、まだ中国熱が冷めないんですか」とからかわれることもある。自分でも振り返ってみると幾分か不思議な気持がする。

私が自分の心の中のこだわりと地域的禁欲主義を乗り越えて中国に行くきっかけ[、、、、]になったのは、私が長年学んできた学問に対して「出番」を求められたからであったと思う。一九八二年頃、中国政府派遣の留学生として東大に来た吉林大学の余昺鵰[よへいちょう]氏(現在同大学副教授)が、私に対して吉林大学で講義をするように熱心に求められ、ほぼ同時に、当時中国社会科学院院長の馬洪氏(現在国務院経済技術社会発展研究中心総幹事)らが、日本の近代経済学者グループと中国経済が当面している諸問題について討論したいと提案された。中国経済についての勉強を始めるのにはかなりの覚悟がいると思ったが、結局、この二つの求めに応じたのが、私の中国経済へのかかわりの始まりであった。

一九八六年と八七年の訪中は、中国が世界銀行から借款を得て数年来進めてきた大学教育(工学・経済学)近代化プロジェクトの仕事のためであった。このときには、「近代」経済学(中国では従来「資産階級」〔ブルジョワ〕経済学と呼ばれていたが最近では「西方」経済学に昇格した)に対する中国の学者や学生たちの知識欲の渇きというか、「西方」の学問を求める熱意に打たれて仕事に励んだ。

     中国の魅力

中国経済に関心をもつようになってから次第に惹きつけられて、度々訪中し、かなりの精力を注ぎ込んで何編かの長い論文を書くようになったのは、今日の中国の経済社会が不思議な魅力をもって私に迫ってきたからではないかと思う。最初の北京訪問とその後の視察旅行、および一九八四年の長春、八六年の成都滞在は、私に一種のカルチャー・ショックを与え、私は久し振りに少なからぬ知的興奮を覚えた。

中国は巨大な国、偉大な文明であり、二千年にわたって日本の文化に大きな影響を与えてきた。文字、言葉、学問をはじめ、人間関係・社会制度等においても日本は中国から多くのことを学び、受け継いでおり、今日中国に旅する日本人はしばしば他の国にはない親近感を覚える。また中国の人々としばらく付き合っているとお互いに親密になり、心あたたまる思いを経験することも少なくない。それでも中国の文化や社会は日本のそれに近いようで遠く、また遠いようで近く、いずれにしても一応の理解に達するのさえ容易でない。

ところがしばらく前には日本は中国を侵略して多大の被害を及ぼし、その後中国は日本とは社会体制の異なる国として発展し、日中の交流の少ない時期が続いた。その間に両国の生活水準、学問・技術・教育の水準が大きく開いてしまった。ある説によると、一九五〇年当時日中のGNPはほぼ同じであったという。当時、中国の人口は日本の約六・五倍であったから、日本の一人当たりのGNPは中国のそれの六~七倍だったことになる。ところが現在では、為替レートによる単純な換算で日本の一人当たりGNPは約二万四千米ドルであり、中国のそれは三〇〇ドル程度であるから、そこに約八〇倍もの差が生じてしまった。

     自らの過去の姿を見る思い

今日中国を旅すると外国人は中国の民衆の貧しさ、日常生活・交通・通信等の不便さに驚かされる。中国の大学で教鞭をとるわれわれにとっても日常生活の条件は非常に厳しい。しかしよく考えてみると今日の中国の貧しさや日常生活の不便の多くは、戦前・戦時中から第二次大戦直後にかけて日本人が経験したこととそれほど異ならない。この点、私の世代の日本人は、欧米人や若い世代の日本人ほどには中国の貧しさに驚かないはずである。今日の中国の経済や社会の中に、われわれはしばしば自分たちの過去の姿を見る思いがする。

一、二の例を挙げてみると、前記の西南財経大学で教鞭をとっていたとき同僚のカナダの大学教授が、同大学の現状について、「教授陣のなかに学位をもっている人も外国の大学に留学経験のある人も皆無に近く、ごく最近までは外国の学者が客員として教えた例もない。図書館には最近の外国の書物・雑誌がほとんどないし、印刷されたカリキュラム一覧表もなければ各コースの内容の説明もない。これではとうてい大学とはいえない」と厳しい評価を述べていた。たしかにそのとおりだが、振り返ってみると私が学生として在学していた当時の東大経済学部はほぼそのような状態だった。中国の文科系の大学は文革期の一九六六年から七八年まで(理科系は七二年まで)全面的に閉鎖され、この間の空白による大きな損失がしばしば指摘されているが、日本でも、戦時中の外国との学術交流の杜絶、軍国主義による思想上の統制・弾圧、さらには軍隊や工場への学生の動員のために、学問・教育の空白時代が長く続いた。

あるいは、中国の道路交通事情は未だに甚だ悪く、自動車で長距離を旅行するときに一時間に三〇キロ位しか進まない。ことに市内や都市近郊では徒歩の人、自転車、牛馬や水牛、小型トラクター(広く輸送に使われている)、トラック、バス、乗用車等々が狭い道路をひしめきあっている。徒歩の人を自転車が追い越し、自転車を後から小型の車が追い越し、それをさらにトラックやバスが警笛を鳴らし続けて追い越そうとする。ときには無理な追い越しのために対向車に警笛で警告されて途中で無理矢理にもとのところに割り込んだり、甚だしいときには対向車と向い合って立往生してしまう。その有様は昭和三〇年代の日本の状況にそっくりである。

その頃日本が世界銀行からの借款で名神高速道路を建設する計画があり、来日した調査団が日本の経済学者の意見を聞きたいということで、後に親しくなった故エヴェレット・ヘイゲン教授らが東大経済学部を訪問し、意見を交換したことがある。このとき東大側では案内役の今野源八郎教授(交通経済、現東大名誉教授)以外は私も含めてまだ高速道路についての理解がゼロに近く、「日本は鉄道が発達し水運の便もあり、産業の設備投資を優先すべきであって高速道路を建設する必要はない」というのが多数意見だった。それで今野先生が大そうがっかりされたことを想い出す。

     社会科学者に求められる「見識」

今の例でもわかるように、後になってから名神高速道路の建設の経緯を調べたり、その後の日本の経済発展に果たした役割を論じることはそれほど難しくないが、日本で初めて高速道路を建設するか否かというときに、その必要性や問題点について見識のある意見を述べることは難しい。しかし経済学は、もっぱら昔のことを丹念に調べてそれをあげつらう「むかし経済学」のみに止まっていてはならないはずである。社会科学者は自分たちの社会が現在まさに直面している重要な経済問題に光をあてて、洞察と示唆を与えるだけの「見識」をもたなければならない、と私は思う。

別の例をあげると、日本で一九五五年に「経済自立五ヶ年計画」と呼ばれる最初の経済計画が作成され、計画成長率を五%と発表したとき、多くの経済学者が同計画は楽観的にすぎ、五%の成長率はとても達成できないと批判した。同計画期間中の成長率の実績は九・一%となり高度経済成長の時代が始まったが、その頃日本の社会科学者の間では日本経済の将来について悲観的な見方が支配的で、楽観派は近代経済学者の一部以外にはあまりいなかった。

中国の将来について政治学者・歴史学者・近代経済学者・マルクス経済学者・社会学者・文化人類学者・中国専門家等々と話し合ってみると、概して近代経済学者は楽観的であり、社会科学の他の分野の人々は慎重な見方の人が多いようである。そうして例えば一九四九年以来の中国では「放」(ファン)の時期は遠からず「収」(ショウ)の時期にとって替わるので、現在進められている自由化と対外開放政策の「放」の時期もいずれ揺り戻しがあるだろう、といった意見を聞かされる。あるいは、中国の歴史や伝統的社会制度から説き起こして、中国ではまだ近代的な個人が確立されておらず社会制度が近代化していないので、経済が順調に発展するとは思われない、というような意見を聞かされることもある。

しかし、この種のやや宿命論的なある種の社会科学の学説に対して私は懐疑的である。「書物的」(“bookish”)な傾向の強い社会科学の碩学たちは終戦後の日本についてもその種のことを述べていたし、それに中国人中心の社会でも、香港、台湾、シンガポールは近年急速かつ順調な経済成長を続けている。

     中国の壮大な社会的実験

私の理解では、一九八〇年代に入ってから中国の経済社会体制には基本的な変化が生じつつある。従来のソ連型の中央集権的、自給自足的な計画経済方式を捨て、市場経済と対外経済関係を積極的に活用する新しい体制への模索と段階的移行が始まった。それにより経済・社会の流動化が少しずつ進み、民衆の新しいエネルギーが発揮されはじめている。

それは一つの壮大な社会的実験ともいえる試みである。一方では「社会主義的」所有制と呼ばれるものを基本的に維持し、しかし他方では農民・企業等の経済主体に自立性を与え、それらが中央や上部機関からの指令によってではなく市場における自主的な取引関係をつうじて相互に結びつき、互いに競争しあう市場機構(商品経済)を発展させようという試みである。このような「社会主義的所有制」と「市場機構」(プライス・メカニズム)の両立が可能であるか否か、という問題が私の中国経済への関心の一つの要素になっている。
現在の日本は、通常「資本主義社会」と呼ばれるが、私は以前からこの点にかんして通説とは違う考え方をもっている。まず“capitalism”という言葉の“ism”は、mechanism,organism, metabolism等の“ism”と同様、システム・機能・組織を指し、主義・主張を指すのではないから、「資本主義」は誤訳であり、「資本制」と訳すべきである。「資本制」とは私的に所有された「資本」と「資本家」がエッセンシャルな役割を果たす経済システムを指すが、過去の時代はともかく、現代の日本経済では「資本」や「資本家」は限られた役割しか果たしていない。現代の日本のような経済システムの最も際立った特徴は、企業が政府(公的権力)に対して一定の自立性をもつ「私企業制」と、それら企業の相互関係としての「競争的市場機構」であり、これを「資本主義」あるいは「資本制」と呼ぶのは適切ではない。第二次大戦後の日本経済の発展の鍵は「資本」や「資本家」が重要な機能を果たしたことにあるのではなく、私企業制と競争的市場機構、ことに後者の成功にある。このような考え方からすれば、競争的市場機構は中国の人々が「社会主義的」所有制と呼ぶものとも両立しうるはずであり、中国の壮大な社会的実験は十分成功の可能性があると考えられる。

 

今日の中国経済は急速な変革の過程にあり、さまざまな難しい問題を抱えている。その状況は社会科学者の関心を惹きつけずにはおかない。貧しく苦しかった戦時中、戦争直後以来の日本の経済的経験が、何らかの形で今日の中国経済の分析、理解、さらにはさまざまな問題解決のために役立つかもしれない。この点でも、また日本と中国の文化的親近性ということからも、日本の経済学者は中国経済が今日直面している諸問題について、欧米人にはない比較優位をもっている。それらについて経済学者、社会科学者としてどれだけの見識をもっているかと、中国経済が私をはじめ日本の社会科学者に問いかけているように思われるのである。

(東京大学教授・東大・経・昭27)