文字サイズ
背景色変更

学士会アーカイブス

日本の天文学 古在 由秀 No.780(昭和63年7月)


日本の天文学
古在 由秀
(日本学士院会員・東京大学名誉教授)
No.780(昭和63年7月号)

今日は何を演題にしようかと考えましたが漠然と「日本の天文学」ということにいたしました。

ご承知のように、日本の天文学の歴史は古く、中国には昔政府の中に天文博士とか暦博士とかいう役職があり、日本にもこの制度が入り平安朝からあったのです。その人達の仕事は暦法をどうするかということでありまして、これは大変な仕事だったと聞いています。現在では小さいコンピューターを持っていれば、アマチュアの人でも暦の計算ぐらいはできるわけですが、当時は太陽暦と月をもとにした暦とをどう組み合わせるかが大問題で、実際には中国から輸入した方法を使っていたわけです。その後徳川幕府の時代になりますと、幕府の中にも天文方という役職があり、天文台もあったようです。そして徳川時代になって初めて中国から来た暦法を改良しようという気運が生まれました。

2年ほど前にハレー彗星がもどってきて人々の関心を呼びました。ハレー彗星で一番有名なのが1910年―明治43年―の出現ですが、その2回前―76年周期ですから1750年―にもハレー彗星があらわれた。当時浅草には天文台があったのですが、江戸幕府の天文方がハレー彗星を観測し、オランダ船でやってきた天文の教科書を見てその軌道を決めたという記録が残っております。ただどこかの時点で現在の天文学と切れているところがあります。

一方、ご承知のように、東京大学から百年史が出版されております。その編さん中にわかったことは、東大のみなもとは幕府の天文方であったということです。その理由は幕府の天文台にオランダ書の翻訳掛ができて、それが独立して藩書取調所―九段下にその跡ということで石碑がある―となりました。それが開成学校になり東京大学につながるので、東京大学の前身は天文方ということになっております。

現在天文学科―京都大学では宇宙物理学科と呼んでおります―があるのは東京大学と京都大学と東北大学の3つしかありません。東京大学の場合ですと、寺尾寿さんという方が明治11年に東大の物理学科を卒業された。そのころの物理の先生は大体フランス系だったそうですが、その寺尾先生はすぐパリに留学をされ、何年かして帰ってこられて、日本人として初めて天文の教授になられたわけです。それで100年以上前、本郷の大学構内に学生実習用の観象台というのができた。その後東京天文台ができまして、今年でちょうど満100年になります。

東京天文台はどうしてできたのかといいますと、100年前にある意味で行政改革がありました。東京大学は観象台、それから海軍も天文台を持っていたようでありますし、内務省に幕府関係の暦をやっていた方がおられたようでありまして、そういう人達が合同して東京天文台という組織をつくったのです。昔から天文の役職が政府の中にあって暦を担当したと先ほど言いましたが、各国とも暦をつくるとか、時刻を決めるとか、国としての仕事というのがあり、それを担当する天文台を必要としたわけです。多分そのために行政改革があったと思います。

私の解釈によれば、当時はそういうことのできる方が非常に少なくて、たとえば寺尾寿先生が台長をやらなければいけないということで東京大学にできたと思います。場所は東京麻布飯倉、現在のソ連大使館のわきでありますが、そこでまず天文観測で経度・緯度を決めたわけで、そこに日本の経緯度の原点があります。その場所は昭和35年ぐらいまで東京大学理学部の天文学科が使っておりました。東京天文台が現在の三鷹に移ってきたのは大正半ばであります。寺尾寿先生が天文の講義を始められた当時は星学科と呼んでおりまして、第1回の卒業生が明治21年、2名出ました。その年の理科大学の卒業生が合計4名ですから、半分が天文の卒業生であったわけです。そのお一人は平山信先生で、後に寺尾先生の後を継がれて東京大学理学部の教授、東京天文台長をされた方であります。もう一人は蘆野敬三郎という方で、海軍大学の教授を長く務められた。その後そこをやめられて、理化学研究所の図書の係をしておられたと聞いております。ちょっとわき道にそれますと、岩波書店から出した最初の単行本は蘆野敬三郎さんが出した“宇宙の進化”という名前の翻訳書だそうです。多分そのころ“宇宙の進化”という題は、非常に目新しい題の本だったと私は思っております。

東京大学の星学科は明治21年2人の卒業生を出して後は30年間に20人ぐらいしか卒業生が出ていません。うわさとしては、当時むずかしい数学の先生がおられて、落第点ばかりつけてみんな卒業できなかったというような話もありますが、真偽のほどはよくわかりません。京都大学で宇宙物理学科ができたのが大正14年です。私たちのころは東京大学が5人、京都大学の方が学生定数が多く8人です。それから東北大学にも現在天文学科がありますが、これは新制大学になってからのことで、それまでは東京から行かれた松隈健彦先生という方が物理学科の中で天文を教えておられ、学生を何人か育てられたということで、戦後学科として独立したわけです。天文学科は先ほどいいましたように少ないのですが、いま天文をやりたいという学生は非常に多い。私も高校生など何人かの人から、天文学者になりたいけれどどうしたらいいのかという手紙を時々もらって困りますが、現在では物理学科の中に天文をやる先生がおられるところが幾つかあります。名古屋大学、北海道大学、大阪大学、それから、京都大学ではいわゆる宇宙物理学科のほかに、物理学科の中に天文の大きな勢力があります。たとえば林忠四郎という、星の進化のこと、あるいは太陽系はどうして生まれたのかというようなことで非常に立派な業績のある方が物理学科におられたし、東大でも教養学部、それから現在は物理学科の中にも天文を教える人がいる。それから文部省宇宙科学研究所(もと東大宇宙航空研究所)では、エックス線天文学といって、天体から出るエックス線をロケット・人工衛星でとらえるグループがあるとか、名古屋大学には空電研究所というのがありまして、太陽から来る電波をとらえて太陽のことを研究しているグループがあり、それから最後になってしまいましたが、文部省に緯度観測所というのが水沢にあります。ここには有名な木村栄先生という方が長いこと所長をやっておられました。木村先生はいわゆるZ項の発見で日本学士院の第1回の恩賜賞(明治44年)をもらわれ、また文化勲章の制度(昭和12年)ができたときには最初に文化勲章を受賞された方であります。

では、日本の天文学はどういう水準なのかと申しますと、初めのころはいわゆる国際事業に参加するというようなことで、輝かしい成果をあげてこられ、木村先生の業績などもその一つであると思うのです。

ここで少し専門的な話として、緯度観測所では緯度を観測してどうするのかという話にふれます。一番最初に東京天文台ができたとき経度、緯度を測定したと申し上げましたが、少なくともそのころ、あるいはもっと後まで、経度と緯度を決めるとき、経度の方が非常にむずかしかった。これは観測技術がむずかしいというのではなしに、経度を決めるということは時計の比較をすることが大事だからです。世界中の時計と合った時計を持っていなければいけない。いわゆる時差を測定することが経度を測定することであり、時差を測定するというのは、たとえば1秒の誤差でやるというのでしたらできないことはないにしても、それより精度をあげることが先ず大変だった。明治にやった日本の経度の測定は現実には1秒ぐらい間違いがあったということが知られています。これは時計を合わせることがいかにむずかしかったかということでありまして、時計を合わせるというのは、原則としてヨーロッパの時計の信号を日本でも受信をするということで、多分初めのころは有線でやっていたと思います。明治6、7年のころ太陽の前を金星が通過するいう特別な現象が日本で見られるとあって、世界中と言っては大げさですが、アメリカ、メキシコ、フランスから観測隊が来ました。現在では恐らくあまり観測には行かないと思うのですが、その人達もやはり世界中の時計と合った、或いはヨーロッパの時計と合った時計が欲しくて、そのためにわざわざウラジオストックから長崎まで海底電線をつけたというふうに聞いています。それで、長崎で時計を合わせ、それを誰かが持って神戸の観測隊にも、東京の観測隊にもその時計を知らせたということです。ですからヨーロッパからも信号が来ていたし、それから大正になって太平洋回りの海底電線がグァム島からやってきて、それでまたもう1回時計をよく合わせて経度を決めました。ところがこれが前のと1秒ぐらいずれていたということで、少なくとも何年か前までの国土地理院の地図にすべて経度は何秒ずらせと書いてあるのはそのためなんですね。そのように経度の観測は非常にむずかしかった。それに対して緯度の方はそれほど時計に頼る必要はない。それで緯度観測というのは非常にうまくできたわけです。その緯度観測を使って地球の軸―南極と北極とを結ぶ軸―が揺れることが分ってきました。これが一定の方向を向かないのを測定するということで国際事業が始まったのが1899年のことです。そのとき世界中で緯度39度8分のところを何ヵ所かつなぎまして観測所をつくり、そこで共同観測を始めました。その一つが水沢観測所であったわけです。ついでに申しますと、日本では39度8分というのは岩手県水沢で
だいぶ北の方ですが、ヨーロッパに行きますとかなり南の方で、イタリアの南の方とか、そういうところを通るということでこの場所が決まったと思うんです。

そういうことで日本の天文学が始まりましたが、初めのころは各大学では主として理論をやっておられました。私の先生に当たります萩原雄祐先生とか、京都大学でも荒木俊馬先生、先ほど申しました東北大学の松隈健彦先生とか、観測もおやりになりましたけれども、主として理論をやってこられた方であります。それから東京天文台などはいろいろと装置等をつくって頑張ってきたわけですが、やはり天文学では最新の観測器械というのがどうしても必要であるということで、戦後諸先生がいろいろ努力をされ、いろんな器械をつくってきたわけです。まず大正の半ばに麻布から三鷹に移ってきたのは観測の適地を求めて移って来たのだと思います。三鷹は通称十万坪の土地を持っておりますが、それでもすぐ足りなくなって、戦後になって日本でも本格的な望遠鏡が必要であるということで三鷹ではなしに岡山の西へ鴨方駅から少し山側に入ったところに74インチの望遠鏡をこしらえ、開所式をしたのが昭和35年であります。この望遠鏡は当時世界で8番目ぐらいだったが現在は四十何位かになっております。それから日食以外でも、太陽のコロナを見ようということで、ちりの少ない乗鞍山頂にはコロナ観測所がつくられました。

ここで世界の天文学の動向ということにちょっと触れさせていただきますと、特筆すべきこととして、世界的に天文人口というのが非常な勢いでいまのところふえてきています。一つには、1960年代から物理の世界でのかなり大きな発見というのが天文の世界でなされてきていることが要因になっています。天文学というのはいわば宇宙を対象にした学問、要するに対象で分けた学問であり、物理学とか化学は研究の手法で分けた学問の分類だと思うのです。現在までのところは天文学も研究の手段としては物理学が多いわけですから、天文の先生が物理教室にいるのは、そういうことであると思っています。それで、先ほど天文でいろんな大発見がなされたと申しました。ノーベル賞には天文学賞というのはないのですが、ここ何年かの間に天文学の発見でノーベル物理学賞をもらわれた方が何人か出てきたのであります。

観測装置というと望遠鏡を思い浮かべられると思うのです。望遠鏡として有名なのはアメリカのパロマ山の望遠鏡で、これはいわゆる光学望遠鏡です。ところが、第二次世界大戦後になって発達してきたのが電波望遠鏡というものです。先ほど太陽からの電波と申しましたが、天体も電波を出しております。それから赤外線天文学というのもあります。皆さんもご承知の方が多いと思いますが、たとえば私達も赤外線を出していると言われておりまして、このごろお医者さんの世界では、われわれの体からの赤外線を受けてどこが悪いかを調べるというのがあると聞いております。それから五千度とか七千度、一万度という非常に温度の高い星は光の波長で一番強い電磁波を出します。ところが、湿度が低くわれわれの身体ぐらいになると、赤外線の波長で強い電磁波を出す。それからもっと低い温度のものですと電波を出す。それから明るい星を見るときと、たとえば雲みたいなものとかガスみたいなものを見るときとでは、おのずから波長を変えなければいけないことになります。光は、曇の日には見えないことはご承知と思いますし、一方星と星との間でガスが非常に濃いところがあるとその向こうの星が見えない。しかし、電波だったらそれを突き抜けてくるので、われわれの銀河系が全体としてどうなっているのか、どう動いているのかというようなことは、第二次世界大戦後に電波の手段でわかってきたわけです。

そういうことで、電波天文学が発展してきた。新しい手段ですから、新しい電波望遠鏡を宇宙に向けるといろいろ面白いことがわかってきました。たとえば、あるところから思いがけずに強い電波が見つかって、それを光の望遠鏡で眺めてみると、点にしか見えないから一つの星ですが、スペクトル写真をとると、そのスペクトルが、波長が長い方にうんとずれている。ずれているということは、ドップラー効果というものによるのですが、天体がわれわれから遠ざかっていると見かけ上スペクトル線がずれて見えるのです。遠いものほどそのずれ方がひどいということが言われております。現在では大体100億光年向うの銀河というものが観測されていて、そういうものが光の速度の何分の1か、あるいは8割とか9割の速さで遠ざかっているというのが観測されているのです。
光で100億年かかって来る距離、100億光年の距離の天体を見ることは100億年前の姿を見ているということになります。われわれの宇宙というのは150億年ぐらい前に大爆発をしたというのが定説ですが、初めのころは広がる速度がいまよりずっと速かったはずで、そのころの広がる速度を見ているから、遠いものほど昔の姿があり、昔のものほど広がる速度が速く見えているということです。一方先ほどの星みたいなものが遠いものに違いない、しかし点としか見えないものがあんなに大きなエネルギーを出しているはずがないとか、いろいろ議論がありました。それからこれも偶然の発見と言われておりますが、150億年ほど前に宇宙が爆発したときには物がないわけで、そのときの輻射というのですか、そういうものが観測されたとか、パルサーといって30分の1秒という短い周期で自転をしているとしか思えないような星が見つかってきました。このパルサーの発見もかなり偶然だったわけです。私どもが星を眺めるときには、20分とか30分、ときによっては何時間もかけて眺めます。そして写真をとるために露出をかけます。その間に星の光の強さが変化しているということは思ってもいなかったのです。ところが、電波で観測するとどうも30分の1秒で自転をしているとしか思えない天体が見つかったということですし、光の望遠鏡でもやはり同じように確かに30分の1秒、さらに最近ではもっと短い周期で変化するものまで発見されております。有名なパルサーの一つは、秋の東の空から上がってきます牡牛座の中の蟹星雲というところにあります。蟹星雲というのは、900年ほど前―西暦1050何年―かにやはり大爆発をした星があるということがわかっています。その時ものすごく明るい星があらわれたという記録が中国や日本にあります。日本には藤原定家が書いた“明月記”にその記録が伝えられて載っているそうであります。それまでは星しかなかったところが、そのときにガスを飛び散らして、そのガスが現在雲のように見えているものだということがだんだんにわかってきたわけです。そういうことをかなり前から言い出したのがオランダのオールトさんという方です。この方は、昨年11月に“京セラ”という会社が出している京都賞というのに選ばれました。90歳になっておられますが、日本にこられまして、藤原定家の“明月記”の本物を見たいと言われ、ごらんになって帰られました。

そのように、天文観測の手段としては、電波とかエックス線で星を見るとかありますが、これらは地球の大気を通ってこない。したがって地上では観測できないので、ロケットとか人工衛星で観測をする。日本では宇宙科学研究所が非常に努力されてその種の人工衛星を盛んに射ち上げられ、現在このエックス線天文学の観測衛星で一番いい衛星は日本が持っているという状態であります。

それでは日本は天文学者がどのくらいいるのかと申しますと、大体300人ぐらいじゃないかと思っています。30年前は50人ぐらいだったと思いますから、非常に増えたわけです。それから世界的にも国際天文学連合という国際組織がありまして、いまだにメンバーシップ制をしいておりますが、この数が7千人ほどおります。実はこの数も非常にふえてきました。1960年には千人です。それから、国際天文学連合によらず、いろんな自然科学の学術団体というのは第一次世界大戦直後にドイツを排除してつくったわけで、そのときはおそらく100人ぐらいの数です。これはやはり、先ほど言いましたように、天文学の世界でいろいろ発見があり、それから観測の手段も光だけではなくて、全般にふえましたし、それからエックス線とか赤外線が観測できるようになったりということで、天文学科を出た人のみならず、物理の出身者が天文の世界に入ってきたためだと思います。

それから、日本では天文学者が300人ぐらいと言いましたが、アメリカでは1500人ぐらいと思うのです。アメリカの人口は日本の2倍ぐらいと思いますから、アメリカが1500人だったら日本が750人あってもおかしくありません。人口比に対する天文学者の数は、まだ日本ではアメリカやヨーロッパに比べれば2、3倍違う。このごろは天文にかなり優秀な学生がやってくるのですが、それでもまだ、数が足りない。日本では天文学が高校以下では地学というところに入っているのですね。地学というと、地質、鉱物、それから地球物理も入るのですが、先生にはやはり圧倒的に地質、鉱物の方が多い。それから私立大学でもこのごろ天文の授業をやると何百人もの人が聞きにくると言われておりまして、私どもとしてはもっと天文学は日本でも盛んにならなければいけないと思っているわけです。

先ほど申し上げたように日本でも木村先生のような仕事、それからもう一つ例を申しますと、平山清次先生という方が大正7、8年に出された“小惑星についての論文”という非常に有名な論文があります。この方は明治21年に卒業された第1回の卒業生ではなくて違った平山先生です。東京大学の場合に大正の半ばから昭和の初めにかけて天文の2人の教授が平山先生であった時代がありまして、よく混同されております。私の言いましたのは東京天文台長にはなられなかった方の平山先生で、この先生は日露戦争が終わって、樺太の国境北緯50度を決めるときの日本側の代表観測者であった方です。北緯50度を決めるときも天体の観測で緯度を決めたのですが、日本側からとソ連側から天文学者が出て北緯50度の境界線を決めたというふうに聞いています。平山先生は“小惑星の族”というのを発見された方でもあります。
それから70年ほどたっておりますが、現在でも少なくとも天文の社会ではその論文が引用されている、世界的にも数が少ないものの一つであります。

現在では観測でもいろいろ有名な論文が日本で出るようになり、先ほどのエックス線天文学では非常に活発な成果を上げておられます。それから東京天文台も、5年ほど前に長野県八ヶ岳山麓に45メートルのミリ波用望遠鏡というのを完成させました。ミリ波というのは電波の中でも波長が何ミリという割に短い波長の電波を受ける器械です。望遠鏡というのは観測に使う波長の10分の1ぐらいの精度でつくらなければいけないわけです。光というのは一番波長が短いですから、光の望遠鏡は最も高い精度を要求されます。ミリ波用では0.1ミリとか0.11ミリが要求精度で、しかも口径45メートルでつくるということはずいぶん大変なことだったのです。これは日本の工業技術がすぐれていたためにできたと思っています。日本でできましたので、その後フランスとドイツが連合してスペインの山の中につくったり、イギリスがつくったりというようなことで日本を追いかけております。そういういい望遠鏡ができますと、また思わぬバイプロダクトがあります。この種の望遠鏡は―世界のどの望遠鏡もそうですが、観測の割当表をつくるのに世界中の天文学者を相手にして募集をするのです。天文学者の数はたかが知れているわけですから、その人達に知らせようと思えばできます。世界の大きな望遠鏡はそれを3分の1ぐらいにしぼって観測のプログラムをつくります。ですから、現在でも野辺山の宇宙電波観測所は世界中から応募があります。日本でもそういうふうに望遠鏡を使わしてあげられるようになると、外国の大望遠鏡も使わしてもらえるようになります。ハワイの一番南の島のハワイ島の北の山、マウナケアという高さ4200メートルのところに大きな望遠鏡が8つほどあります。そのうちにはイギリスが持っているものがありまして、そういうものもかなりの確率で日本人が応募したら採択されるようになったし、ハワイ大学が88インチの望遠鏡を持っていまして、それもかなり使わしてもらえるようになっております。

日本では昭和35年、74インチの望遠鏡をつくったと言いましたが、つくる前にどこにつくろうかとだいぶテストもし議論もしたわけです。特に光の望遠鏡の設置揚所には非常に条件がつきます。まず第一に天気がよくなければいけないし、空が暗くなければいけない。空が明るいと弱い星の光がその後ろに隠れてしまうわけですね。40年前の東京で天の川が見えたことは皆さんご存じと思いますが、現在では見えません。それは空が明るくなったからで同じことがやはり天文学の観測に出てくるわけです。いま出した2つの条件というのは、これは相矛盾するものでありまして、日本でも人のいない過疎のところは空が暗いところがある。なぜ過疎になるかというと、天気が悪いからだと思うのですね。天気がいいところは人が集まってくるので、そうするとやはり明るくなる。実は場所を決めるために昭和30年ぐらいからいろいろ考えたわけです。天文の場合、幸いなことに誘致運動がありまして、岡山県が当時の三木知事を中心として誘致してくださいました。場所も県が補助金を出して私有地を買い上げて、東京天文台にただで貸してくれると、そういうことがあったのですが、次の年から水島工業地帯も誘致されまして空がだんだん明るくなってきました。それからもう一つ、空気の安定しているところだと星のまたたきが少ないのですが、どうも日本は気流のいいところが少ない。現在私どもが探しますと、あるいはもっといいところがあるかもしれないのですが、世界中の最適地の一つがそのマウナケアです。マウナケアというのは4200メートルの高さですから、多少行動の自由は制限されます。中間地の2500メートルぐらいのところに宿泊所を持っていまして、観測する人は必ずそこで一泊しなければいけないという条件はつくのですが、まだあと3つぐらい望遠鏡を置ける場所があって、ハワイ大学がハワイ州から借りて持っており、1年1ドルで貸してくれます。実はここは文字どおり雲の上です。ご承知の方も多いと思いますが、アメリカ本土の方からハワイの方には貿易風が吹いています。その風で雲が飛んできて、ハワイ島ではマウナケアとかそういう山で雲がとまります。山頂まで行きますともちろん雲の上に行ってしまいます。それから空気の非常に安定しているところでもありますし、下に多少明かりがあっても逆に雲で遮られて空は暗いのです。そういう適地があり、それから現在では、飛行機で往復20万円ぐらいで行けて、多分30年前の岡山に行く旅費と同じぐらいの感覚であるし、私どもとしてもぜひそこに直径7.5メートル―300インチの望遠鏡をつくってもらいたいと思っております。しかし、なかなか認めてもらえないのですが、何とか頑張って認めてもらいたいと思います。

それからそういう大きなことをやるために東京天文台は組織替えをしなければいけないということで、今年の7月から高エネルギー研究所とか、宇宙科学研究所と同じようなカテゴリーの研究所になります。ともかく大きな望遠鏡をぜひつくり、その種のものとしては世界一のものであるということにしたい。先ほど野辺山の45メートル望遠鏡のことを言いましたが、現在のところまだミリ波用の望遠鏡では世界一でありまして、せっかく日本がこれだけ豊かになったのですから、そういうものをぜひ実現させたいと思って頑張っているところであります。ではこの辺で私の話を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

(日本学士院会員・東京大学名誉教授・東大・理博・理・昭26)

※本稿は昭和63年2月22日午餐会における講演の要旨であります。