学士会アーカイブス
これからの日中関係 中江 要介 No.779(昭和63年4月)
一、はじめに 最近びっくりしたことが二つありました。この間近くの銀行の支店長さんに会いに行きましたら、「中江さんはいままで外国におられたんですか」と聞かれ、「ええ中国にいたんです」と言ったところが「台湾ですか中共ですか」と聞かれたのです。私は日本の一流銀行の支店長さんから「中国」と言ったときに、「台湾」ですか「中共」ですかという質問を受けたのですごくびっくりいたしました。しかし、いま皆さんの反応を見ていますと、そうびっくりすることじゃないみたいで、やはりこれは問題かと思っているわけです。もう一つは、二年ほど前、ある日本の旅行会社が若い人を募って中国を一週間か十日でしたか遊覧旅行して、無事成田に帰って来た。そして旅行についてのアンケートをとりその一番最後に、あなたはまた中国に行ってみたいと思いますかという質問をしたところ、二度と行きたくない、と答えた人が九十パーセントもいたということをききまして、これがまたショックでした。この二つのことは、これからの日中関係をお話しするに当たって大変大事なことだと思って最初に申し上げたわけです。 二、忘れてならない二つのこと 私はこれからの日中関係を考えるに当たって、日本人として忘れてはならないことが二つあると思っております。その一つは、歴史を正しく認識するという問題、もう一つは台湾問題です。
(一)小異を残して大同につく ご承知のように、一九七二年に田中総理(当時)が中国を訪問されまして、日中正常化が行われ、それから十五年たったわけです。一九七八年には日中平和友好条約が締結されましたが、そのとき、私はアジア局長としてこの条約交渉を直接お手伝いしたわけですが、この条約が締結されて今年は十年目ですね。十年一昔とかいいますが、日中関係は条約締結十年、正常化以来今年は十六年目ですけれども、全然変わっていないと言っても過言でないくらいに、基本的な問題は変化がないのです。それはどういうことかといいますと、当時の中国から見れば、日本というのはアメリカと一緒になって帝国主義の手先で大変悪い国である、のみならず大東亜戦争前の日中戦争時代から日本は中国に悪いことばかりしている、そういう国と国交を正常化するためには原則がある、――周(恩来)三原則とか、平和五原則とか、そういう原則を満足させなければ日中正常化はしないと頑強に言っていたその中国が、手の平を返すように日中正常化にこぎつけたわけです。なぜ変わったのかということについてはいろいろな議論があるのですが、変わるに当たって、いままでの日中間のいさかいをどう整理するか、この方が中国にとってはずっとむずかしかったと思うのです。このいさかいを整理するのによく言われたのが、周恩来総理が偉い人で、日中間の「小異は捨てて大同につく」んだ、つまり、小さな意見の違い、体制の違い――片方はイデオロギー上共産主義・社会主義で、日本は資本主義・自由主義、これが小さな違いであるかどうかは、ちょっと問題の存するところですけれども、それすらも小異の中に入れ、また戦争をしてお互いに殺し合ったということも小異の方に入っていて、そういうものは捨てて大同につくというわけです。大同は何かというと、日中両国民は仲よくしていかなければアジアに平和も安定もない、したがって両国共に繁栄するためにはここで正常化しなければいけない、これが大同だと言われたわけです。日本では、周恩来は偉い人だ、「小異は捨てて大同につくのだ」とみんな言っていました。ところがそのころ中国では何と言っていたかというと、「小異は残して大同についた」ということで、向こうでは小異は残っているのです。日本は捨てたつもりですけれども、中国では全部残っているわけです。ですから、最近は日本人も「小異を残して大同につく」と言うようになったのでやっと正常化されてきたと思います。 日本人は、ちょっと不愉快なことがあったりけんかをしたりしても、もう済んだことは水に流そうと言って肩をたたき合ってまるで親友のような顔をして、明くる日から明るく未来に向かって努力するわけですけれども、中国では済んだことでも水には流さない、みんなたまっているのです。しかし、大同についている間は、そっとして大同のために一生懸命努力する。ところが、大同がうまくいかず不満がでてくると、いろんなところから残してあったものを出してくる。こういうこともありましたとか、そう簡単には忘れられませんとか、言うわけですね。そうすると、中国の人はしぶといとか、しつこいとか日本人は思うのですけれど、もともと小異は残して大同についているわけですから、残したものの中に、過去の歴史の教訓を正しく学んで未来に対処せよ、ということをよく中国の人は言いますが、その歴史の教訓という問題も残っているのですね。というのは、日本と中国の戦争の後始末を、正常化のときにどういうふうに始末をしたかという点で認識の徴妙な違いが残っているわけです。
(二)日中戦争 それからもう一つは、やはり戦争賠償の問題ですね。先ほど申し上げましたように、「日華平和条約」の中でははっきり国際法上の賠償請求権は放棄されているわけです。ですから、同じ戦争賠償の請求権を相前後する二つの政府から放棄してもらったり払ったりと、そんなことはできないのです。ですから、日本としてみれば、「中華民国」との間でもうそれは処理済みであるということになるのですが、あの大きな中国大陸を代表している中国政府としては賠償請求権を放っておくわけにはいかないというわけで、大論争があって、落ち着いたところは戦争の「賠償請求」は放棄するということになりました。「賠償請求権」とは書いてないのです。これがつまり、戦争状態を終結したかどうか、戦時賠償請求権を放棄したかどうかという問題、更に、歴史を正しく認識しているかどうかという問題につながっていくのです。ですから、これからの日中関係を見ていくときに、その原点である日中共同声明にも、これを受けてできた日中平和友好条約にも、いまのような小異が残っていることを知っておく必要があり、またこれは永久に残っていくわけです。昨年鄧小平主任が、「日本は賠償も払ってないし……」ということを言いました。あれは国交正常化後最初にして(おそらく最後の)中国の指導者の発言です。それを受けて「いまごろ何を言っているんだ」と言う人と、「そうだ、あのときに賠償を払っておけばこんなことを言われなくて済むのに」と言う人と、日本の中で両論が出てくる始末です。心情論から言いますと、とにかく日本はあそこで戦争したのですから、迷惑をかけたことは事実なんで、その与えた損害に対して何らかの償いをすべきだという気持があるわけです。これが、田中総理が行ったときに、大変ご迷惑をおかけして遺憾であると言って、その「迷惑」という言葉がよいか悪いかということをそのときに新聞が騒ぎましたけれども、政府としてはあのとき賠償を払えと言われていたらおそらく正常化はできなかったと思います。先ほど申し上げたように、国際法の理論からしてそんなことはできなかったわけです。 それからもう一つ、賠償というものは、個人が受けた損害について、その損害を与えた国に対して個人から直接請求できるものじゃないのです。戦争は政府間で勝手にやったかもしれないけれども、原爆をはじめとして、アメリカの爆撃で全然戦闘に出ない者が損害を受けた。そこで、みんな集まって仮に何千万という署名簿をつくってアメリカに請求しようと持っていっても、そのままではこれは国際法上の権利としては認められない。戦争というのは国と国とがやるんで、国と人民がやるんじゃないという、出発点があるわけです。ですから、中国の人達に賠償を払うべきだと心情的に思っている人が、そのまま政府と政府の間の問題としてあらためて支払うべきだと、次元を変えて主張されますと、これはついていけなくなるわけです。ですから、戦争で日本が中国にどういうことをして、中国はどんな損害を受けて、中国の人達はどんな気持ちでいるかということを十分わきまえて、それを日ごろの日中関係に反映させていく、こういう対処の仕方をしないと、日本では捨てたと思っても、向こうではまだ残してある小異のところを満足させることはできないのです。ですから、この歴史の教訓という問題はものすごくむずかしいということを私は最初に申し上げたわけです。
(三)台湾の帰属
(四)過去の戦争に対する認識 (イ)教科書問題 (ロ)一%枠の問題 (ハ)靖国神社の問題
(五)台湾の問題 それではなぜ二十一世紀の半ばでなければならないのか。二十一世紀の半ばというと二〇五〇年です。そこから一を引くと二〇四九年で、一九四九年の中華人民共和国建設から百年目に当たります。だから、建国百年の大国慶節パレードのときには悲願とした祖国統一を見事になし遂げたい、こう思っていると言ってまず間違いないと思います。 そこで、建国百年に祖国統一をなすために中国はいままで何をしてきたか。まず香港の返還について英国と合意しました。ですから、今世紀の終わり一九九七年には戻ってくるわけです。それからマカオ、これもポルトガルとの間で合意をしまして、今世紀末をもって中国に戻る。そうすると、あと台湾だけですね。だからすべての耳目が台湾に集中していると言っていいわけです。そこで台湾を併合するために何が必要かというと、一国二体制ということであります。これも中国流のやり方だと思いますけれども、一つの国の中に資本主義体制と社会主義体制とが共存してもいいのだ、そういう国をもつのだ、ということで、香港についても併合後いわゆる自由競争の資本主義体制を五十年間保証するわけです。少なくとも二十一世紀の半ばまでの香港はいまの状態のままで、中華人民共和国の一部になるわけです。マカオも同様です。したがって台湾も二十一世紀の半ばに一国二体制で入って来ればいいじゃないかと中国の人は簡単に考える。ところが台湾の人は、われわれがあの共産主義体制と一緒になるなんて考えられないと、こういう気持ちでいる。なぜかといいますと、一緒になるとこちらの富がむこうに移るだけだというふうに思うわけです。そこで中国は、いやそんなことはない、いま一生懸命努力して、二十一世紀の半ばには一人四千ドルまでは行くと言って経済水準の向上に全力を尽くしているわけです。中国はいま経済改革、経済開放と盛んにいっておりますし、またそれに活力を与えるために政治体制改革の一環として若返り人事を行い、日本にもハイテク導入、資本参加、合併をと一生懸命言ってきているのは経済水準を上げて、建国百年のときには台湾と一国二体制のもとで悲願の祖国統一をなし遂げようという国家目標があるからだと思います。 それに引きかえわが日本は、二十一世紀の半ばにどういう日本でありたいと思っているのでしょうか。いろんな人に聞いてもはっきり言える人はいない。時の内閣は、間接税をどうするかとか、土地の値段が高いのをどうするかとか、東京をどこかへ移そうかとか、そういうことには非常に熱心ですけれども、二十一世紀の半ばに中国がある程度の水準に達して、一国二体制のもとで悲願を成就したらどうなるのだろうか。中国は堂々とアジア及び世界に対して今度は働きかけを始めるでしょう。そのときの日本はどうしているでしょうか。中国には二度と行きたくないなどと言った人達がそのころ日本の指導層の年ごろになるのです。笑いごとではないですね。やはり、これからの日中関係を考えるときにはゆるがせにできない問題だと思うのです。 (ロ)光華寮の問題 光華寮裁判の本質は何かというと、二つあります。一つは国内私法上の問題で、つまり所有権に基づく明渡し請求です。皆さんがもし何か所有権を主張されるものがあった場合にそこに不法に占拠者が出たら、やはり邪魔だからどいてほしいですね。それと同じで光華寮という寮に言うことを聞かない学生が何人か居座ったので、どいてくれというのが裁判なのです。これが「台湾のもの」とか、「一つの中国・一つの台湾」とか、「二つの中国」とか、そんなことは何も問うていない。所有権者が、あなたは邪魔だから出なさいとこう言っただけなのです。言われた学生はいま五十歳から六十歳ぐらいになっているそうですが、ずうっと居座っている間に年を取ったわけですね。それは時の流れだからしょうがないにしても、所有権に基づく明渡し請求、これはもう純粋に私法上の問題ですから、日本の裁判所が日本の国内法に照らして処理していくのは当然です。そして京都地裁の一審では簡単に言うと、居座っている学生の勝ち――つまり中国系の学生の勝ち、大阪高裁から差し戻し後の再審判決では所有権者側の勝ち、所有権者はだれかというと、登記簿には「中華民国」と書いてある。これを不満とした中国系学生側の控訴を今回大阪高裁は棄却して、京都地裁再審判決どおりだと言ったものだから、今度は学生の方が怒って、それなら最高裁判所に行きましょうと言うことでいま最高裁にかかっているのが現状です。これはたとえば日本国内である所有権者が不法占拠者に明渡しを請求している裁判があった場合、それに日本政府が介入して、裁判所の言うのは違う、こちらが正しいとか、そんなことは言えない、当り前のことですがそれが三権分立とみんなが言う問題ですね、これが一つです。 もう一つの側面は、この裁判があろうがなかろうが、この留学生寮は国交正常化に伴って当然所有権は中華民国から中華人民共和国に移るべきものかどうかという国際法上の問題で、この二つの側面がある。中国はこれを混同しているようですが、故意に混同しているのかどうかわかりません。この第二の側面は大変に興味のある問題で、国際司法裁判所にでも行って争うに値するくらいの問題なのです。なぜかといいますと、ある国の政府が倒れて革命政権ができ、その新しい革命政権を承認したときに当然所有権が移る財産というのは、前の政権時代の大使館、領事館の土地建物とか、もし通商代表部のようなものがあればその土地建物、そういうものは当然新しい政府の方に移る。これはもう国際法上の通説ですからだれも疑わない。その次は、文化センターのようなものがだんだんグレー・ゾーンに入ってくる。そこで、留学生の寮というのは一体大使館の土地建物のようなものか、それとも単なる一私有財産かという問題なのです。 中国では、留学生というのは政府派遣であって、その留学生がどこでどういう生活をして勉強するかは、国の政策に関するものである。だからこの留学生の寮というのは基本的に公の財産である。したがって大使館などと同じように国交正常化のときにその所有権は中華人民共和国に移っているのであり、その措置をとらなかったのは日本政府の怠慢だと、こうなっていくわけです。これは国際法上の一つの立場であるかもしれません。ところが、他方われわれの体制の国では、留学生のために外国に政府財産を持つことは殆どない。ですから、留学生寮というのは私的なもので、そこには政府留学生ばかりでなく、私費留学生も入ってくるわけですから、寮の管理も政府が直接やるのではなくて、寮の自治会とか、別の管理機関が管理するというような形になる。そういうたぐいの財産は、大使館の土地建物と同じように当然に所有権が移転するかどうかという点について、日本の国際法学者の多数説は、当然に移転するものではない、大使館などとは違うということなのです。しかし、移転するという立場をとったっていい。それは判断の問題で、どちらでもいいということです。ところが、中国の国際法の学者は一人の例外もなく、これは当然移転すると言う立場をとっています。体制が違うのですからこうなるのでしょう。 それでは世界の国際法学者はどうかというと、これはさまざまでどうしても法的に決着をつけたければ国際司法裁判所にでも行くより方法がない。国際司法裁判所まで持っていくためには、日本と中国の間で特別合意書というものをつくり裁判にかける。こういう問題を裁判にかける場合、その合意書をつくるのに二、三年はかかるでしょう。そして、その判決が出るまでにさらにかなりの年月がかかります。一棟の寮の問題ではありますが、ことの性質上、こういう問題こそあいまいな政治的解決ではなく法律的にきちんとするのが、長い日中関係から見ていい解決だと私は思っているわけです。 しかし、中国はまだこれは政治問題だといい張り、いま問題にしているのは大阪高裁の判決ですが、これは三権分立の制度の下では最高裁の判決がでるまでは行政府としては何とも言えないし、できない。どうしようもないから最高裁の判決をまちましょうということです。 そのとき注意をしなければいけないまず第一のことは、先程申し上げたようにこの裁判が求めているのは不法占拠の明渡し請求であって、財産の所有権を争っているのではないということです。ですから判決そのものの中で、この財産の所有権者は「中華民国」と書いてあるけれども間違いで、中華人民共和国のものであるというようなそんな判決は出てこないのです。留学生は出ていくべきかいかざるべきか、それだけが判決ですね。法律というものはそういうものなのです。 では判決の中でどこに問題があるかというと、その「判決理由」の中で、財産の所有権はだれだとか、その所有権は国交正常化のときにどうなったかというようなことにもし触れますと、これがすなわち中国の大変な関心事になるわけです。ではそういう方は心配はないかというとこれは心配ない。なぜならば、日本の憲法には国際約束は誠実に遵守すべしと書いてある(第九十八条第二項)。ある事案が憲法違反かどうかということを決める最終の権威あるととろは最高裁判所です(第八十一条)。ですから、日本の最高裁判所は日本憲法に反するはずがない。言いかえるならば、国際法に反することを書くはずがありません。この場合の国際法は何かというと、中国は一つ、そしてその正統政府は中華人民共和国政府であるということで、これは共同声明と日中平和友好条約に明記してある。ですから、この国際法に反するようなことを最高裁判所が判決理由に書くはずがない。私は、光華寮問題についてはきわめて楽観しておりまして、いまは静観するほかはないし、出てくる判決も心配することはない、最高裁判所を信頼しております、一国民としてはそれが正しい立場です、というのが私の見解です。 三、結びにかえて――青年交流の必要 先ほど二十一世紀の半ばになって日中関係を担う人達は、いまの青少年諸君であると申し上げましたね。ですから、二度と行きたくないという人がすべてだとは思わないけれども、しかし、たまたまそういうグループもあったということ自体は、やはり忘れてはいけないと思うのです。いま中国は貧困と立ち遅れにあって、これを回復するのに百年かかると自ら認めています。百年かけて克服しなければならないということを趙紫陽総書記みずから認めている国に行って、まずしい国だから行きたくないという、そういう若い人達が二十一世紀になって日本を指導するときのことを思うと、日中友好というものはそらぞらしいものになってしまうと思うのですね。 一九八四年に日本から三千人の若者が胡耀邦さんに招待されて国慶節に行きました。そして一週間みんな各地に滞在したわけですが、そして別れぎわに飛行場で日本人も中国人も肩をだきあって別れを惜しんでいる。若い人は純真だな、過去はいろいろあったにしても、やはり若い者同士というのは気脈が通じると思っておりましたけれども、よく見ますと、たくさん涙を流しているのは日本人で、中国人も確かに泣いているけれども涙は少ない。日本人の方がすごくウエットなのです。ところが一年、二年たってそのとき涙を流した日本の青年はどうしているかというと、そんなことがあったかなという人もいるのじゃないかと思うような状況ですね。パッと熱するけれども、帰ったらもう途端に豊かな生活になれて、アッという間に北京空港の涙はどこかへ行ってしまう。これは水に流すのと共通していますね。ところが、中国の方は忘れてはいない。涙を流してくれたのは、日中戦争の苦しみを乗り越えて、日中友好を築とうとする中国の若い世代のことを、日本の青年は理解してくれたに違いないと、こう思っているかもしれない。私がいま一番言いたいことは、日本はどんなことがあってもこれから平和外交で行かねばならないし、この繁栄を維持し、安定を守っていかなければいけない。そのときに、中国と仲たがいしていてはそれが守れるはずがないわけです。また、日中両国民が平和と繁栄を維持するためには、両国の間は友好的な関係でなければならない。この命題は中国に対してよりも、日本にとってより重要だと私は思うのです。 中国は何といっても大国です。日本は小国で、底が浅い。その日中両国を二十一世紀につないでいくためには、二十一世紀に日本を築いてくれる青年男女の皆さんが、もっと過去の歴史を認識し、台湾の問題を考えて相互理解に努力しなければいけないと思うのです。いまの非常に満ち足りた生活にどっぷりつかって、他人の痛みを分かち合う、あるいは他人の怒りをわかり合えるような、そういう広い心の持ち主がいなくなってしまったら、これはもうおしまいだろうと思うのです。 では一体どうすればいいのか。これはきょうあすでは解決できない問題です。若い人が育っていくには、どんなにハイテクを使っても、十年たたなければ十年の年は取れない。そうしますと、日々の活動が重要になる。思い起こすのは、先ほど来申したように、あの激しい日中戦争の後で、日本との関係を、小異を残して大同につくという大方針を打ち出した周思来総理とか、それを助けて日中友好のためにあらゆるところで手腕を発揮した廖承志中日友好協会会長とか、あるいは文化交流ではいつも引き合いに出される郭沫若先生とか、もう少しさかのぼれば、魯迅とか、孫文、こういう人達はかつて若いときに日本で勉強したり日本で生活した経験を持っているわけです。だから、日本というもの、日本人というものの本質について理解していればこそ、この日本と中国は仲よくしていくことが両国のためだということを確信したと思うのです。そうしますと、二十一世紀になって日中間が再び何かむずかしい状態になったときに、いやそれは間違っている、中国と日本は友好的な隣国同志でなければいけない、小異があったらそれを残してでも大同につかなければいけない、ということを説いてくれる指導者はどこにいるかというと、いま中国大陸にいる十一億何千万の中の青年男女の中にいるはずなのです。その中のだれが周恩来になるのか、それはわからない。日本だって、そのころだれが総理になるか、そんなことわからないですね。ですから、たとえば百万人の留学生を日本が受け入れて、その中からたった一人でも二十一世紀の周恩来が生まれれば、これは日中友好のためにどんなに有利であるか。一人も生まれなかったら日中友好は絵にかいたもちになるかもしれない。同じことが、中国にゆく日本の留学生についてもいえるわけで、若い世代の交流、これは特に日中関係を考えるときには欠くことのできない問題だと思うのです。 留学生の問題がいろいろ言われ、最近は国際化だとか国際感覚だとか言って、上っ面の数字で国際感覚があるとかないとかいう、そんなことではなくて、もっと心を広く持って、どこの国の人も温かく迎える、またその痛みを分かち合うような世代になってほしいし、そういう人と中国の若い人達が交流して、二十一世紀の日中関係を文える柱になってもらいたいと、こう思って中国から帰って参りました。 最後に日中双方の次の世代を担う若い人達の交流のあらゆる場面で、日中双方共よく考えた言動をとっていっていただきたいということを訴えて、私のお話を終わります。ご清聴ありがとうございました。 (前中国大使・原子力委員会委員・京大・法・昭22)
※本稿は昭和63年2月10日夕食会における講演の要旨であります。
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