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学士会アーカイブス

ウイルスと死に至る病 日沼 頼夫 No.775(昭和62年4月)

     
ウイルスと死に至る病
日沼 頼夫
(京都大学ウイルス研究所教授)
No.775(昭和62年4月号) 

   ――ウイルスと人間の病気――

 地球上にはいろいろな生物がいる。植物も動物も、それから植物か動物かわからんという生物もいる。ウイルスというこの微生物も、まあこの類とみてよいだろう。小さい(二〇~三〇〇ナノメーター)だけでなく、これは欠陥生物である。自らの力で子孫を作ることができない。専ら他の生物にもぐりこんでその細胞の中で繁殖する。寄生の最たるものである。この寄生性がウイルスの本質であるといってもよい。あらゆる種類の生物に、それぞれ特有のウイルスが寄生する。人間、犬、猫、蛙、昆虫どころか、
細菌
[
バクテリア
]

(これも細胞である)までが、ウイルスの宿主になる。しかもそれぞれ複数の種類のウイルスが寄生する。人間を宿主とするウイルスだけでも何百とある。生物の種類よりもウイルスの種類が多いという勘定になる。こうしてウイルスも生物界の一員としてりっぱに(?)地球上で生存してきた。おそらく生物の発生と殆ど同じ頃から……。

 さてウイルスと宿主との関わりあいをみてみよう。ウイルスによっては、宿主細胞内で子孫を殖やすが、細胞には、見かけ上何の害も与えないものもある。中にはウイルス遺伝子がちゃっかりと細胞遺伝子の中にはまりこんでいるものもある。だからこの場合は細胞遺伝子の部分というべき状態にある。ところが、ウイルスの種類によっては、宿主細胞に害毒を与えるものがある。自らの子孫を殖やした結果、その宿主を破壊して殺してしまうのである。一般に病気の原因になっているのはこうしたウイルスである。病原ウイルスともいう。つまり病原体である。病原体とよばれる微生物には他に細菌・かび・原虫・スピロヘーター・マイコプラズマ・クラミジア・リケッチア等々がある。ウイルスはこれら病原体の仲間ではその種類もひきおこす病気も多い。いわば、微生物によっておこす病気・感染症(伝染病でもよい)の顔役である。しかも困ったことに、このウイルス感染症に対しては、特効薬がいまだにない。細菌に効くペニシリンのような薬がないという意味である。今のハイテクノロジー時代に信じられないような話である。世界中の多くの科学者がこれまで何十年もかかって研究してきてもまだ、ウイルスをやっつける薬はみつかっていない(このことは後ででてくるエイズの問題に関係している)。

 人間からみると、病気の原因になるから、ウイルスは悪い奴だということになる。しかしウイルスは、そもそもは、その宿主を病気にしてことごとく殺してしまうというものではない。というのは、若し感染した宿主を死に絶やすようになったら、自分の子孫を殖やす宿主がいなくなる。これは矛盾である。ただしその宿主を病気にする位のことは、あっさりとやってのけている。ウイルスにとっては人間の病気なんてエピソードに過ぎない。ただ時にはウイルスの仲間にも猛猛しいのが出現してきて、人間に死に至る病をひきおこすことがある。しかし大体は、一般にウイルスという微生物は、比較的おとなしく人間(或いは他の生物)と共存共栄しているのである。

 これまで知られてきたいろいろな種類のウイルスが人間にひきおこした病気は、いわゆる急性感染症である。インフルエンザ然り、鼻かぜも然り、日本脳炎、ポリオ(小児麻痺)、風疹、はしか、おたふく風邪、水痘等々すべてこれウイルス感染症である。ところが、ウイルスが関わっている病気は、これら急性のものだけではない。最近のウイルス学の研究によって、ウイルスが人間の病気という舞台で演じている役割は、大変多彩であることが次第にわかってきた。例えば慢性の経過をとる中枢神経(脳)感染症の原因になる、専門語でいうスローウイルス感染症もこれである。また見方を変えると、幾つかのウイルスは日和見感染症(生体の免疫抵抗力が低下した時だけ、はびこって悪さをする微生物病原体による)の主役にもなる。あるものは喘息の発作の引金になる。或いは、もう精神病のカテゴリーに入る一部の病気の病原体もウイルスと似たような実体である。プリオンとよばれているものがそれである。そして、ついに癌の原因にまで、ウイルスはのし上がっていることがわかってきた。そしてまたついに、癌でもないのに、圧倒的に高い致命率を示す、新しい人間の病気、エイズが登場してきた。これはウイルスによる死に至る病であった。そこで先ずウイルスと癌、次にエイズをとりあげてみたい。

    ――ATLとウイルス――

 癌には種々様々のものがある。またその原因も種々様々である。発癌物質(化学的)による発癌、あるいは原子爆弾(物理的)による発癌などは、その例であるが、すべての癌の原因がわかっているわけではない。というよりも、癌の原因は、まだわからぬところが多々あるといった方がよいかもしれぬ。しかしその中でウイルス感染によっておこされる癌もあるということは、動物の癌については、わかっていた。では、人間も動物であるからには、その癌のうちにウイルスによっておこっているものがあってもよいのではないか、という単純な推理がある。それを解決するためのおびただしい数の研究が、特に最近二十年間に進められてきた。

 そしてついにというか、やっとというか、一つの人間の癌の原因が、一つのウイルスであるという証拠が出た。成人T細胞白血病(Adult T‐cell Leukemia略してATL)という名の白血病である。白血病には種々様々あるが、このATLというのは、そのうちの一つである。しかも、これは世界のどこの人にもあるというものではなくて、我国、日本人に特別多く発生するという、いわば日本の風土病ともいうべき白血病である。我々がこのATLの原因ウイルスをはじめて発表したのは一九八一年である。ATLは死亡率の極めて高い悪性の白血病である。日本全国で年間約三百例ほど報告されるが、実際はその二倍近い患者が発生し、そして死亡していると推定される。このATLは日本人が長生きするようになってはじめて見つかった病気である。人生五十年という昔では、この病気になる人は極めて少なかったにちがいない。何故ならば、これは殆ど五十歳以上の老人に多い病気だからである。

 このATLは、ATLウイルスに感染した人々の中からだけ発生する。もちろん少しの例外はある。ATLウイルスに感染した人(キャリアという)は必ずATLになるのではない。むしろ稀である。ATLウイルス・キャリア千五百人いると一年間にそのうちの一人だけが発病する。他の大部分のキャリアは、ぴんぴんしている。健康人キャリアといってもよい。このキャリアは日本全体で約百万人いると推定されている。このうち半数は、九州・沖縄に、他の半数は北海道・本州・四国に散在している。しかも海岸、離島の僻地の人々に多いことが目立つ。そして、キャリアの多い地方からATL患者は多く発生している。

 ATLウイルスの自然感染は家族内に限定されている。家族以外へは伝播しない。このようなウイルスは人間ではこれだけである。そして母子間感染は母乳を介してということがほぼまちがいない。また精液を介して夫から妻への感染がある。キャリアの母乳中、或いは精液中にATLウイルス感染細胞(リンパ球)が多数存在しているからである。自然感染経路以外に重大なことがある。それは輸血という人工的な経路による感染である。キャリアの血液(細胞成分を含んだ)を輸血すると、受血者は高率で感染する。

 原因ウイルスが判明しても、残念ながらATLが一旦発症すれば、これを治癒させる薬も手段も依然としてない。対抗する手段は、このウイルスの感染を防ぐこと、つまり感染経路を遮断することである。キャリアの血液は輸血に用いない。これは行政レベルで一九八六年から実行されはじめた。全国の血液センターでの献血者の血液について、ATLウイルス抗体検査がはじまったのはこのためである。抗体陽性者は、すなわちウイルス・キャリアであるということはATLウイルスではっきり証明されている。だからキャリアであるか否かは、その抗体の有無で判定できる。自然感染経路をブロックすれば、家族内感染は防げる。論理はその通り、しかし現実にどうしたらよいか、幾つもの科学を離れた難問がここに横たわっている。現在我国の各分野の専門家がこの問題を慎重に検討している。また積極的予防法としてのATLウイルスワクチンの研究が進んでいる。かくして、ATLウイルス伝播を防止する方法論は確立したといってよい。しかし、大問題が残っている。それは、日本中に百万人とも推定されるキャリアの発症を抑える方法である。研究は一段と難しいところにさしかかっているのは冷厳な事実である。

 このATLウイルス研究の進行中に、偶然というか、当然というか、あるひとつの医学以外の「謎」がとび出してきた。それは、一体、このATLウイルス・キャリアの日本人は、どこから来たのか? ということである。これについては、別に詳しく書いた(拙著、中公新書・新ウイルス物語)ので参照されたい。

 結論だけを述べておくと、このウイルスは日本の先住民(縄文人といってもよい)からその子孫が脈々と受けついできたものである、ということになる。これは現在ひとつの仮説として受けとっていただくが、このウイルス学からの日本人起源論は人類学の専門家から、可成りの評価を得ている。

 人間の癌をひきおこす可能性が疑われているウイルスは、ATLウイルスの他にも幾つか挙げられている。例えば、パピローマウイルス、ヘルペス群ウイルス(特にEBウイルス)、B型肝炎ウイルスなどがあるが、紙数が限られているのでこれ以上ふれることができない。

    ――エイズとそのウイルス――

 一九八一年、我々がATLウイルスをATLの原因と発表した同じ年、ひとつの新しい奇妙な病気が、米国の医学専門誌に発表された。それが後天性免疫不全症候群(Acquired Immune Deficiency Syndrome 略してAIDS、エイズ)である。そして二年後、このエイズの原因ウイルスが、パリのパストゥール研究所から発表された。そして現在まで全世界のエイズ患者は鰻上りの増加をつづけている。

 ウイルスはその遺伝子と構成成分及びその構造(物理化学的性状)から分類されているが、ATLウイルスもこのエイズウイルスもレトロウイルスという群に属している。RNA遺伝子と逆転写酵素をあわせもっているウイルスである。ところが同じレトロウイルスといってもATLウイルスの方は癌ウイルスであり、エイズウイルスの方は細胞破壊性ウイルスである。ATLウイルスの攻撃(感染)する標的細胞は主としてT4という記号をもった細胞(リンパ球)にあるが、エイズウイルスの方も同じT4細胞である。このT4細胞は、我々人間の抵抗力(免疫)の構造の大変重要な要素である。この細胞を癌化させてどんどん異常増殖させて白血病という病気をつくり出すのが、ATLウイルスである。一方エイズウイルスは、この細胞を破壊して死滅させてしまうから、生体は当然のことながら免疫不全の状態になってしまい、抵抗力が喪失して、日頃はおとなしい細菌・ウイルス・かび・原虫・或種の癌までが繁殖し、ついには生体が参ってしまう、というのがエイズである。

 エイズウイルスは何処からきたのか? 少なくとも先進国社会(北アメリカがはじめ)の人間に侵入しはじめたのは一九七〇年の後半からである。ところが、どうも、殆ど同じ頃、アフリカ大陸の中央部の人々に発生したと推定されている。一体、それまでこのウイルスは何処かにいたのであろうか。いろいろな推定はあるが、はっきりしたことはまだわからない。このウイルスの突然の出現を予想した人(科学者)は誰もいなかった。そしてこのような大規模な人類への攻撃も……。何から何まで新しいことばかりのこのウイルスの極立った特徴は、変異をおこす速度が非常に早いという点である。インフルエンザウイルスも変身の早い方だが、エイズウイルスの比ではない。極端に言うと、ある一人の人間に感染したときのウイルスは、その個体がこのウイルスで斃された時に、大きく変異したウイルスになっている。初めのウイルスと終りのウイルスは同一ではないということである。こんなにすばやく変異するウイルスは、人間のウイルスでは、これだけである。エイズウイルスに感染してその個体に一旦そのウイルスに対する免疫が出来上がったとしても、ウイルスが変化するから、その免疫は変ってしまったウイルスには無効である。これが長期間にわたって繰返し、繰返しこの生体内でおこっていると想像される。発病に至る潜伏期は長い。年単位である。しかし遂にその個体の免疫は最悪となり、前に述べたようなカタストローフを迎えることになる。この変異のために現在の理論ではワクチンは望みがない。

 このウイルス感染の流行のパターンは、アフリカ型と欧米型がある。何れにも性病としての大流行をおこしている。前者は男・女ほぼ同率で感染している。後者は圧倒的に男性が多い。同性愛男性社会にはびこったからである。次いで廻し打ちをする注射麻薬常用者に多い。更にこのウイルスは感染者の血液中に存在しているから、感染血液の入った原料から製造された血友病患の治療薬(第八因子、或いは第九因子製剤)に当然のことながら、そのエイズウイルスはいた。そして、何も知らずに血友病を治すためにそれを注射していた人人は、エイズウイルスに感染してしまった。このような患者は、日本にも多数いる。何ともやりきれない。

 現在の医療は、この発症してしまったエイズに対して全く無力である。治療法がないということである。特効薬はない。エイズウイルス感染を予防すること。これには、情報と教育という手段しかない。すでに感染して未だ発症していないところの地球上の何百万、何千万、そして億に達するだろうと推定される感染者の発症を何とか封ずる方法はないか。これに応えうるのは、現在世界をあげて進行中の研究の成果だけであろう。この地球という惑星の上で人間という最も複雑(高等)な生物と、ウイルスという最も単純(下等)な生物の一種(エイズ)との劇的遭遇(戦い)は、いましばらく続くであろう。しかし、その運命については、現代の科学はまだ確信のもてる予想を与えることができないでいる。

(京都大学ウイルス研究所教授・東北大・医博・昭25)