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学士会アーカイブス

脳と神経回路網 伊藤 正男 No.774(昭和62年1月)

脳と神経回路網
伊藤正男
(東京大学教授)

No.774(昭和62年1月)号

「脳」に対するわれわれの見方はいろいろである。解剖学者にとってはこの上ない複雑な構造物であり、科学者にとっては様々の珍しい物質の宝庫である。医師にとっては治療困難な多くの病の源であり、工学者にとっては憧れのスーパーコンピューターとも見えるであろう。生理学の畑を歩いてきた私にとっては脳の働く仕組は永遠の謎とも見え、これを解くことはまさに見果てぬ夢といえる。

われわれの大脳皮質の一ミリ立方メートルをとると、その中には十万個の神経細胞がつまっている。これらの細胞はのベ十五キロメートルにも及ぶ突起をのばし十億個もの接合部(シナプス)で連結し合っている。脳の秘密はまずはその神経細胞にある。

一九五〇年頃一つの神経細胞に刺し入れてその膜の電気活動を直接にとり出す硝子管微小電極法が案出されて世界中に広まった。大学を出たばかりの私はこれを使って蟇の後根神経節細胞の膜の性質をしらべ、これで博士論文を書いた。そして一九五九年から六二年にかけてオーストラリアのエックルス教室へ留学してネコの脊髄の運動神経細胞の研究をした。この細胞にはエックルス教授が初めて微小電極を刺入して、それまで興奮性のものしかないと思われていたシナプスに抑制性のもののあることを見出し、この功績により一九六三年にノーベル医学生理学賞を授与されたいわくがある。私は京大の荒木博士(現教授)やスウェーデンのオスカソン博士と共同でこの抑制性シナプスをおこす膜のイオン透過性をしらべた。全部で三十四種に及ぶ陰イオンを電気泳動的に微小電極を通じて運動神経細胞に注入し、抑制性のシナプス電位を変化させるかしないかの判別をする実験を一年つづけた。またやはり東大から留学された大島知一氏(現東京都神経研所員)と一緒に運動神経細胞の膜の電気的性質をしらべてそれまで一つしかないといわれていた膜の時定数に三つの違う成分があることを見付けた。こういう風に一個の神経細胞の基本的な働きをしらべるのが一九五〇年代から六〇年代にかけての生理学の中心的な課題であつた。

一九六二年に東大へ戻って手造りの測定器を集めて実験室を造り、延髄のダイテルス巨大細胞を材料に研究を始めた。運動神経細胞と同様に大型で微小電極を刺しやすかったし、医学生の頃この巨大細胞の話を解剖学の故小川鼎三教授から伺ったのが印象的で、この細胞が一体何をやっているかしらべてみようと思ったのである。

研究を始めてしばらくしてびっくりするような事実にぶつかった。吉田充男博士との共同実験で小脳のプルキンエ細胞を刺激した所ダイテルス細胞に抑制性のシナプス電位が出たのである。当時は抑制性のシナプスは特殊なもので、小型の短突起の細胞の一部だけがこれを出し、脳内シナプスの大部分は興奮性と思われていた。しかしプルキンエ細胞は大型で長い突起を出し、小脳皮質の出力はすべてプルキンエ細胞によって送り出されている。これが全部抑制性であるということで、抑制性シナプスの脳内での地位についての考え方が大きく修正されることになった。

またプルキンエ細胞の抑制作用を仲介する化学伝達物質がガンマ-アミノ酪酸であることも小幡邦彦博士らとの共同実験で判明した。温血動物の脳でこの物質が抑制性シナプス伝達物質であることを示した世界で最初の実験である。

今日脳の中の殆どの神経細胞についてその興奮性、抑制性の区別がなされ、これらを仲介する化学伝達物質が判明した場合も数多い。最近では化学伝達物質やその合成酵素を免疫組織学的に標識する方法が進歩し、神経細胞における特異的な局在をしらべるのに威力を発揮している。

エックルス教室では筆者の帰国後、京大の佐々木博士(現教授)と米国のリナス博士が協力して小脳皮質について研究を進めプルキンエ細胞以外の神経細胞の性質を次々に明らかにした。電子顕微鏡を使ったシナプス構造の研究もハンガリーのセンタゴタイ教授らにより進められた。

こうして何種もの神経細胞がつながりあった小脳の神経回路が出来上がった。これらの知見は一九六七年エックルス、伊藤、センタゴタイの共著の単刊本『神経機械としての小脳』にまとめられドイツのスプリンゲル社より出版されたが、小脳で初めて脳の設計図らしいものが判ったというのでコンピューター工学や応用数学、生物工学の畑の人々に大きな反響があり、国際的なシンポジウムもいくつか開かれた。

当時、私たちはこの成果は脳に対する神経細胞やシナプスレベルからの根源的な挑戦であると考え、神経回路図には小脳の設計原理が秘められていると意気込んでいた。しかし、何種類かの神経細胞をプラス、マイナスの接続点でつないだ簡単な図面にそれ程大きな秘密があるとも思われず、いささか当惑気味であったことも確かである。

そうしているうちにケンブリッジのブリンドレイがプルキンエ細胞のシナプスのあるものが可塑性をもつのではないかと言い出した。可塑性シナプスとは何かのきっかけで信号の通り方が持続的に変化するもので、記憶現象を説明するため脳の中にある筈だと古くから仮定されてきたものである。ついで一九六九年やはりケンブリッジの応用数学にいたマーがこの可塑性をメモリーとして小脳皮質が一種の学習能力をもつパタン認職装置を構成するという理論を発表した。二年おくれて米国のアルブスが、ローゼンブラットの単純パーセプトロン理論に従って本質的にはマーと全く同じ理論を立てた。こうして小脳の神経回路の中にメモリー素子としてのシナプス可塑性が存在するか否かが実験側に問い返されることとなった。

一九七〇年代の初めいくつかの実験室でマー、アルブスのシナプス可塑性の仮定を検定する実験が行われたが残念ながらみな失敗に終ってしまった。今から思うと何という無残なことをしたものかと呆然とする程である。結局は実験の技術が未熟であり、当時予測出来なかったいくつもの障害があったため十年もの時間を空費してしまったことになる。

一九八〇年頃から筆者が実験条件を整え直して追試を行った所、このシナプス可塑性は見事に姿を現わしたのである。今日長期抑圧と呼んでいる型のシナプス可塑性が見出され、小脳の理論に確固たる根拠を与えるようになった。

シナプス可塑性の存在は長い間理論的に主張されていたが、大脳の海馬皮質で長期増強とよばれるシナプス可塑性とアメフランの神経節で感作とよばれる別種のシナプス可塑性がみつかったのは何れも一九七〇年代の初めである。小脳の長期抑圧型シナプスは十年おくれて日の目を見ることになった。何れにしてもこれら三種の具体的なシナプス可塑性が見出されたことによって、神経回路網の研究には一つの大きな節目が出来たようである。

神経回路網は脳のあらゆる所にはりめぐらされている。その成分の神経細胞や伝達物質、更にその結合してつくる回路網構造のパタンは場所によってすべて違っている。大脳基底核や大脳皮質についても、今日多くの知見の積み上げがある。しかし残念ながら小脳についてなされたような理論的な考察はまだ成功していない。小脳の場合には何か単純パーセプトロンのようなものというアナロジーが可能であり、更に藤田の適応フィルターモデルのように、より現実に接近した理論モデルまで作られてその働き方の原理について或程度の理解が可能となっているのであるが、その他の脳組織についてはこれが全く不可能の状態にある。筆者にとっての脳研究の最大の隘路はここにある。

脳内のいろいろな所にある局所回路網は、単独では働かない。これらがいくつも遠くつながり合って大規模なシステムを作り、局所回路網はこのシステムの一部として働く。例えば小脳は多数の小さな領域に分かれており、各領域はそれぞれ小脳外の別々のシステムに組込まれて働いている。進化の早い段階に発達した小脳の部分はいろいろな反射と組合って働いているが、進化の遅い段階につけ加わった小脳の部分は大脳と組合って大脳機能を助けている。

筆者らは一九七〇年頃に進化的にみて小脳の一番古い部分である片葉についてしらべ、これが前庭動眼反射の経路につながっていることを見出した。頭が振れると逆方向に目を動かすこの反射は視野の安定に役立っており、この反射に故障がおこると電車の中で本を読むことなどが出来なくなる。前庭動眼反射は内耳の中の三半規管が刺激されておこるが、この刺激が延髄へ伝えられる間に片葉へも送られ、片葉が丁度反射経路の側路になるようにつながっている。一方網膜からは視覚路が片葉につながっており、視野のブレを示す誤差信号を伝えている。

このような前庭動眼反射システムの構造に基づいて筆者は視覚の誤差信号が片葉の中でシナプス可塑性をひきおこし、片葉の信号の伝え方を変え、ひいては前庭動眼反射の動特性を変化させるのだと考えた。前庭動眼反射は単純な反射ではあるが、頭の動きに対して眼が動き足りなくても動き過ぎてもいけないという正確さが要求されている。内耳の信号を眼筋に伝えるだけの反射経路だけにこれだけの正確さを要求するのは無理である。そこで小脳の一部が反射路に挿入され、誤差に応じてその信号伝達特性を変え、反射の働きを常に適切に保つための適応制御の中枢として働くと考えたのである。網膜誤差信号が片葉の中で長期抑圧型のシナプス可塑性をおこすということで、前述のシナプス可塑性の考えともよく一致する考えである。実際にはこの前庭動眼反射の片葉制御の仮説のおかげで小脳のシナプス可塑性の可能性に執着し、一九八〇年になってその直接の追試をはじめたのが本当の所である。

この片葉の仮説を一九七一年ミュンヘンの国際生理学会で発表した時、同時にカナダのメルビルジョーンズが人間に視野の左右を逆転させるプリズム眼鏡をかけさせると前庭動眼反射が次第に抑えられ、更には方向が逆転するという報告をして、筆者を大いに驚かせた。プリズム眼鏡で網膜誤差を人工的に作ると、それに合わせて前庭動眼反射の動特性が変化するわけで、これは片葉の働きを示すに違いないと思われたからである。

その後ネコやウサギ、サルで同様の実験が行われるようになり、片葉をこわすと反射の適応変化が起らなくなること、反射の適応変化と平行して片葉内のプルキンエ細胞の信号発射の様子が変化することが明らかになり、仮説を裏づけることが出来た。また藤田の適応フィルターモデルを使って前庭動眼反射全体の振舞のシュミレーションが行われ、適応性の変化が見事に再現されている。

こうして小脳の神経回路網を組込んだシステム全体の働き方を、前庭動眼反射という比較的単純な系で明らかにすることが出来た。他の多くの反射についても小脳は誤差信号によりシナプス可塑性を駆動させ、系に適応性を与えるという働きをするものと思われる。大脳に発する随意運動の系についてはまだ解析がよく行われていないが、原理的には共通したメカニズムによって運動の練習や熟練の獲得に小脳が寄与するものと筆者は推測している。

他の脳の部分についても大きなシステム構造を考えることが必要である。感覚、認職、運動制御、情動、意識、学習といった脳機能を営んでいる脳の部分は可成りよく分かれており、これらの働きを分担する大きな神経システムが脳の中では別個に働いている。大脳の皮質は皮質だけで働くのではなく、視床や大脳基底核、小脳と連合した大きなシステムの一環として働いている。こういう神経システムの概略は今日かなりの程度まで判明しているがその機能原理の理解にはまだ程遠いのが現状である。ここにも現在の脳研究の大きな隘路がある。

現在の脳の研究は所謂「分子神経科学」の方向に大きく傾斜している。遺伝子工学を初め多彩な技術が提供され、この方向には大きなはずみがついている。しかし上に述べたような方向はこれとはまた別である。最近になってこのような「情報神経科学」乃至「コンピテーショナル神経科学」の必要性が一部の識者から強く指摘されるようになった。しかしこの方向には残念ながら有効な接近の技術が乏しいのである。実験的事実と理論的可能性の間には大きな間隙があり、どうすればこれを越えることが出来るかの予測は出来ない。しかし小脳の回路網理論と実験との見事な融合はこの困難な方向への前進を勇気づける大きな一つの戦訓であろう。何時か何処かで大脳について、大脳基底核について、その間隙を越える日が来ることを夢みるこの頃である。

(東京大学教授・東大・医博・昭28)