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学士会アーカイブス

線の集団と点の集団 内田 祥哉 No.770(昭和61年1月)

線の集団と点の集団
内田 祥哉
(東京大学教授)

No.770(昭和61年1月)号

建設工事の中で、土木に関わる仕事は、大部分が線状で、河川・道路・水道・鉄道の様に始めと終りがあるのが普通である。と、土木系の発言者として、F先生が言われた。

そこで、建築系の発言者として、私は、建築の関わる仕事は、専ら散乱した点の中での仕事になると述べた。建築は川や道で仕切られた中の仕事で、一見面状に見える時もあるが、実は点の集りで、面として取りあげようとしても、バラバラになって、まとまりにくい。それは、都会にあるビルが隣同士、同じものでないことを見てもわかるし、一つの建物の中でも、隣の部屋が同じ仕様とは限らない。大きなビルを大きな粒に譬えれば、その中は又小さな粒の集りで出来ている、と述べた。

土木の仕事は、線の集団を相手にするのに対し、建築の仕事は、点の集団を対象にしているということになる。

これは、先端技術をもっと建設工事に取り入れようという、委員会でのことである。先端技術の一つ、エレクトロニクスと建設工事とを結びつけて、第一に思いつくのはロボットである。そこでロボットの建設工事への応用というのも、此の場での大きなテーマの一つであった。

ところで、ことロボットの利用に関しては、線の集団の方が点の集団より圧倒的に有利である。線が一様なものであれば、様々の仕事のできるロボットを順序よく一列に並べておいて、それらを線に沿って進行させることができれば、工事のロボット化が実現する。工場のロボット化は、一列に並んだロボットの方が動かないで、物の方がベルトによって動くのだから、それもこれも、道具立ての考え方に基本的違いはない。F先生はそのことを指摘されたのである。

ところが、点の集団の場合には、一つの点でロボットが仕事をしたとしても、次の点の仕事をする為には移動が必要で、そのためには分解して運ばねばならない場合もある。又複数のロボットを並べて使う場合にも、その編成が同じでよいとは限らない。ロボットの利用に関する限り、点の集団には、線の集団の様なメリットは見当らない。点の集団がエレクトロニクスの利用ということで成果を得るためには、視点をかえた別の角度からの接近を考えた方がよさそうである。

日本電信電話会社のサービスの一つ、DEMOS(DEN-DEN MULTIACCESS ONLINE SYSTEM)が開業されて数年たった時の話である。DEMOSは電電の大型コンピューターを電話線に接続した端末機で利用するシステムなので、各方面への利用を予測して、様々なソフトウェアが用意された。ところが意外なことに、売り上げの筆頭が、その約半分を占めた建築物の構造計算(強度設計)だったのである。その理由は、建築物の構造計算をする設計組織の大部分が、零細な企業であり、当時は、構造計算のできる様なコンピューターは、そうした企業には持てない時代であったから、進んで電電の大型コンピューターを利用したのである。一方大口の利用者であるはずの大企業は、それぞれが自家用に大型のコンピューターを装備する様になったので、電電のコンピューターを利用しなかったのである。建築という、点の集団を設計する組織は、これまた零細な点の集団で、それがエレクトロニクスの恩恵をうけるのに、DEMOSは好都合なシステムだったといえよう。

建築と土木は、同じ建設という枠の中に入れられ乍ら、造る物は線と点の違いがある様に、事業としても、土木は公共主導型であるのに対し、建築は民間主導型で対照的である。そしてそれを造る組織も一方が線としての繋がりが強いのに対して、他方は個々ばらばらで、一匹狼の多い点の集団である。これらは、よくいわれていることである。

建築は点、土木は線というのは、中々的確な表現である。だがそれは大きな視野で見た時の話で、仔細にみると、それぞれの中にも、線と点とがあり、その組み合せがある。建築でいえば、照明器具とその配線、給水給湯器具とその配管等、線状の物を組み込んだものは沢山ある。そして点の始末には馴れている建築屋達も、思いがけない所に出没する線と、その太さには、手をやくことが多い。土木事業の中にも、川と橋、橋と道、鉄道と駅というように、点状のものが組み合されていることは多い。線の処理には馴れている土木の人達も、点の始末にはてこずる、ということはないのだろうか。

線と点との組み合せは、建築や土木の世界だけに限るものではない。もっと一般化すれば、端末装置とラインの話になり、物流とエンドユーザーの話にもなる。又、ラインと交換装置の話になり、信号とインターフェースの話にもなろう。話をそこ迄広げてみても、やはり線の集団には線の集団としての共通性があり、点の集団には点の集団としての特徴が見られる様に思う。

点の集団は、端末機にしても、エンドユーザーにしても、多様で個別的な所が、特徴の一つであるが、数の多いのがもう一つの特徴で、それらが集約された場合には、数を頼りにマス効果を発揮する。個々ばらばらな建築の中でも、部品は共通でよいものがあるから、台所の流し、暖冷房の端末機器を始め、最近では間仕切を兼ねた収納家具や、風呂場、便所に至る迄、大形のものが部品化され量産される様になった。それらの中には、勿論ロボットで造られているものもある。点の集団が人の場合にも、目的が一致した人達が協同して、大きなマス効果を発揮していることは言う迄もあるまい。点の集団は本来個々バラバラなものであるから、協同や団結は長続きしない。時を経ると必ず多様化の気運が見え始め、やがて個々バラバラの細かい集団にもどりたがる。点の集団は、時に一体となって砂岩の様な巨塊になることもあるが、大きくなりすぎたり硬くなりすぎると再び分解して別々に動く。それを繰り返している様にも見える。

テレビを見ていると、最近は視聴者が参加する番組が目につく。クイズの問題を公募するたぐいは、随分以前からあった様に思うが、最近は本人の出演を含めて、番組の筋書きを創り出す様な所にも一般視聴者の参加を頼りにしているものがある。之等は限られたスタッフが、限られた知恵を絞って作る番組よりも、はるかに多様で、豊かな発想のものが出来るからであろう。視聴者は、いわば個別的な点の集団である。そこで、視聴者参加による番組の作成は、点の集団の持つ個別性と、そのマスの中から限りない多様性を汲み上げようとするものであろう。これは、量産、量販、協同等、という時の一様な集団のマス効果とは違って、構成要素に個性を期待する多様な集団のマス効果である。点の集団が、点の集団らしい力を発揮できるのは、実は此の場面にもあるのではないだろうか。

情報の集積という仕事に、コンピューターが参加する様になってから、集積の規模は、見違える程大きくなった。しかし、その中で最も面倒なのが情報の採集と、コンピューターへの最初のインプットである。これだけはどうしても個別的にせざるを得ない。それは個々の情報が本来個別的であるという性格をもっているからで、これだけは量産することのできない所である。

量産はできないけれど機械化し自動化することはできる。例えばAMEDAS(Automated Meteorological Data Acquisition System)の様に全国にある個々の気象資料を刻々と自動的に集めているものもある。しかし一般には、情報の採集と、そのインプットは、人手に頼っているのが現状である。特に情報の内容が複雑になればなる程、採集にも、インプットにも人の手を煩わす仕事が多くなる。それもやがては、機械化できるかもしれない。だがその時はもっと複雑なものを入力したくなるだろう。結局人手を煩わすものがなくなることはないだろう。ともあれ、データの採集と入力は、やっかいな仕事であって、集積の規模が大きくなればなる程、内容が複雑になればなる程に、機械化も集中処理も困難になる。それを解決出来るのは、データを持っている端末が、自ら入力に参加することである。AMEDASはその例であるし、人手による例としては、銀行の預貯金システム等がそれであろう。更に、INS (Information Network System) の様に、多くの人のインプットしたもっと複雑なデータを、再び多くの人がサービスとして役立てられるシステムもある。多くの人達が進んでインプットに参加する様になれば集積の規模は勢を得て増すことになる。個別性豊かな点の集団が、本当にその力を発揮する場面は此の辺にあるのではないか。

線の集団と、点の集団とを、対比してみると、形態の違いから始まって、性格も違い、何から何迄違う様に思われて来る。だが、それは絶対に切ることの出来ない関係によって、相互に結ばれ、互いに全く頼り合っている状態にあるためでもあろう。線で結ばれていない点は、生きて行くことが出来ないだろうし、点のない所に線があっても意味がない。だから未開の天地に線や点が発展しようとすれば、線と点とは、相互にゆずり合って鶏と玉子の例の様なかかわりになる。

線も点も、土木や建築で扱うものは、幾何学でいうのとは違って、太さもあれば、体積もある。線は筋であり、点は枠である。それが組み合さって、都市が出来、地区が出来ている。空間に余裕が十分ある時は、新しい筋を通すのにも、新しい枠を取ることにも困難がないが、密度が高まってくるとそれが難しくなる。やがては空隙があるにもかかわらず、筋が通らないとか、枠がとれないとかいう状態が出来る。筋が通るのに枠がとれないとか、枠がとれるのに筋が通らないという状態が起きると、それは計画が悪かったということになる。そこで筋と枠とのバランスについては、あらかじめ十分な将来計画を立てておかねばならないことになる。しかし、昨今の様に変化の激しい社会情勢の中で、それを完璧に実行することが出来るだろうか。

線と点との関係は、建築の中にもその縮図があることは前にもふれた。自動車や家庭電機器具の様なもの迄含めて、凡そ人の造る昨今の機械はすべて、配線や配管と部品で構成されているといってよい。だが十年以内で使い捨てされるものの場合には、古くなれば新しいシステムのものと丸ごと取り替えてしまうから、線や点を後で追加する必要など起きるわけがない。しかし建築や都市の様に、長い期間の使用に耐えねばならないものは、古くなったシステムを新しいシステムに改造して行かねばならないから、線や点の追加変更をさけるわけにはいかない。貴重な明治・大正の建築の殆どが取り毀されてしまったのも、それが出来なかったのが主な理由であったことを顧みると、これから建てる建物には、線と点との組み合せに将来の自由度を含めたものにしておかねばなるまい。

線に太さがなく、点に体積がなければ、線で点を結ぶことには、常に無限の可能性が残されている。しかし、線に太さがあり、点に体積がある場合には、その関係は無限でない。無限でないものに不測の自由度を貯えておきたいというのは無理な注文である。しかし点と線との関係で出来ているシステムが、時代の変化に対応していくためには、その無理な注文に答えることを考えなければならない。古くなった線を取り除いて新しい筋を通す方法、古くなった点を消して、新しい枠を取る方法、そういうことの出来るシステムの開発が望まれている。

註 現在はNTT-DEMOSE(DENDEN MULTIACCESS ONLINE SYSTEM-EXTENDED)

(東京大学教授・東大・工博・昭22)