文字サイズ
背景色変更

学士会アーカイブス

法学士の経済学 金森 久雄 No.770(昭和61年1月)

法学士の経済学
金森 久雄
(日本経済研究センター理事長)

No.770(昭和61年1月)号

私は、昭和二十三年の春東大法学部政治学科を卒業した。その後、商工省、経済企画庁、日本経済研究センターと四〇年近く、経済の分析、計画、予測などを仕事としてきた。これでも、高文の試験の時には、憲法、民法、刑法はもちろん刑事訴訟法まで勉強したのだが、試験をパスして以来今日まで法律には全く縁がなかった。後の人生が予測できたら、若い頭脳に、刑事訴訟法の条文をつめこむかわりに、ミクロ、マクロの経済理論を焼き付けておくのだったと、残念に思うこともある。

しかし今ふりかえってみると、大学で習ったことは、私の職業のためにも随分有益だった。政治学科というのは、政治、法律、経済を混合した学科であるから、経済関係の講座もいくつかあった。経済原論、社会政策、財政学、経済政策などがそれだ。私は、昭和十九年十月から、二十三年三月まで三年半在学したが、途中八ヵ月兵隊にいっていたから、正味は三年足らずである。その三年間に四つの経済関係の講義をきいた。時間数にするとどれぐらい出席したか、ちょっと思い出せないが、一講座六〇時間として合計二四〇時間ぐらいだろうか。人間の一生は七四・五歳まで生存するとして六五万時間だ。私はそのうち五四万時間を生きた。二四〇時間の知識をもとにして、五四万時間の生活の資を稼ぐことができたのは有難い。

次に、私はどのような講義をきき、どのような利益を得たか、いかに満足し、いかに不満であったかを述べよう。

経済原論の先生は、舞出長五郎教授で、『理論経済学概要』という教科書を使った。当時世界では、ケインズ経済学の嵐が吹き荒さび経済理論が大変化をとげつつあった。ところが不思議なことに、東大法学部には、ケインズ革命の嵐は少しも吹いてこなかった。舞出教授の『理論経済学概要』にもケインズの名前は一回でてくるだけであった。それも、彼の主著である、『一般理論』や『貨幣論』でなく、『通貨改革論』からの引用であった。私達の仲間で、ケインズの名前を知っているものはごく僅かだったと思う。私がケインズという名前を初めてきいたのは、舞出先生ではなく、大内兵衛教授からであった。大内先生は、経済学部で財政学の講義をしていた。私は、この有名な先生の顔も見ておきたいと思って、経済学部の講義をのぞきにいった。それは、多分、ケインズが死んだ直後、一九四六年(昭和二十一年)四月だったと思う。先生は、ケインズが死んだことを告げ、その生涯を簡潔にのべた。ケインズは経済学の点数が悪かったので、「多分先生は僕よりも経済学を知らないのだろう」といったというエピソードもたしかこの時聞いた。成績が良くない時には、こういえばいいのだなあと大いに感心した。大内先生は、ケインズを大分高く評価しているようではあったが、彼の管理通貨論はインチキだといった。私は、大内先生がインチキだというケインズの経済学とはどういうものだろうかと興味をもった。これが、後に私がケインズ派となるきっかけとなったのだ。

舞出先生の経済学は、経済の概念から始まって、生産論、交換論、分配論、経済発展論の各篇からなる極めてオーソドックスなものであった。ケインズばかりでなく、ケインズが批判した新古典派の経済学よりもさらに一時代古かった。限界革命、ケインズ革命にもビクともせず、正統派経済学を守り通してきたのは流石に伝統ある東京大学であった。

舞出教授の『理論経済学概要』は、まちがいなく時代おくれであったが、相当な名著であった。私はそれをくりかえし読み、経済学の基本的な考え方を知った。先生は「天丼を食べる時一杯目は大変うまいが、二杯目はそれ程でもない、三杯目には見るのもいやになる。これが限界効用逓減の法則だ」といった。当時は、非常な食糧難の時代であったから、三杯も天丼が食べられたらどんなに幸福だろうという気持が先行して、限界効用逓減の法則は感覚的にはピンとこなかったが、理性によって理解することができた。後になると経済学はだんだん難しくなって、効用は測れない、効用曲線はダメで無差別曲線を使わなくてはならないといった議論がでてきた。しかし、私には、そのような経済学は少しも有難くなかった。過去四〇年、私が現実の経済を考える場合無差別曲線などが役に立ったことはなかった。天丼から連想した限界効用逓減の法則や、限界効用均等の法則で、必要且つ十分であった。私も、大学で、いま少し新しいマクロ経済学を教えていただけば良かったとは思うが、新しすぎて現実から遊離した高級な理論を習うことによって頭脳に無用の負担をかけることがなかったことは幸いであった。

社会政策は、大河内一男教授の担当であった。大河内教授は、社会政策は、労働者を保護しようとするものでなく、労働力の再生産を確保するための総資本の要求の産物であるといった。すなわち、個別資本は、労働力をできるだけ安く使おうとするが、それでは労働力が喰いつぶされて資本主義経済そのものがダメになってしまう。資本主義的な再生産を可能にするためには、総資本の立場にたって、労働力を保全することが必要であり、そのための政策が社会政策だというわけだ。私は社会政策というのは、労働者を保護するための人道的な政策とばかり思っていたので、理想主義を傷つけられた気がして少しがっかりしたが、政策の本質をこのように冷静につきはなして見ることができるのかと感心した。国民経済というのは一つではない。総資本と個別資本、総労働と個別労働のさまざまな対立と協力の産物である、国民経済を一つのもののように考えては単純すぎる。社会を構成する個人の満足の総和が最大になるのが、最適状態であるといった理論から経済学に入っていく人よりは、大河内先生のおかげで、経済を見る目が深まったと思う。もっとも、社会にでてからは、総資本というのはどうも抽象的すぎて、そんなものが政策の主体になるだろうかと疑問ももった。大河内先生は後に、社会保障制度審議会会長となられた。私は、その会議によばれて先生の前で意見を述べる機会があったが、先生は総資本のために働いているつもりなのかなあと、昔の講義を憶い出して不思議に思った。

財政学は東京商科大学(現在の一橋大学)から井藤半弥教授が来て教えられた。井藤教授の講義は、他の先生とは違い世俗的であって、予算や租税についての具体的な内容に即しての説明や議論が多かった。今考えると、かなり有益な講義だったようであるが、現実世界を知らない学生には、財政学というのはゴタゴタした学問に思えた。成程、財政学とは、カメラリズム(官房学)であると実感した。具体的な知識は忘れたが、井藤教授の講義ではっきりと頭に残っているのは、財政の定義である。教授は、財政とは強制獲得経済であるといった。これはたしかに、財政の本質をとらえたすぐれた定義である。教授は「過去より現代にいたる人間生活で、強制獲得経済の代表的典型的形態は国家財政生活である」といった。市場経済の内部で、強制獲得経済が拡大するとロクなことにならない。日本では、歳入を賄う場合、租税によることは健全、国債に依存することは不健全という通念がある。しかしこれは多くの場合誤りであると思う。国債の発行は市場の法則によらなければならない。これに対し、租税という強制獲得手段による時は、浪費が行われ、市場経済の合理性が損われやすいのである。自由の民は市場の取引よりも、強制獲得をよし[・・]とすべきではない。財政の本質についての井藤教授の定義から私は租税よりも国債依存の方が健全だという異端の考えをもつようになった。先年、ノーベル経済学賞の受賞者、ミルトン・フリードマンが来日した時、私は彼の意見をたずねたが、彼は即座に、自分は租税より国債の方がましだと思うといった。私は、日本の異端は必ずしも世界の異端ではないことを知った。

経済政策の講義は、商大の中山伊知郎教授と、農学部の東畑精一教授とが一週間ごとに交替で行った。中山先生と東畑先生とは、若い時一緒にドイツヘ留学して以来の大変な親友であるが、両者の講義ぐらい対照的なものは少なかった。中山先生のは、理路整然とした極めて明晰な名講義であった。先生の政策の旗印は安定と進歩である。中山先生はいかなる政策によってこの目標を達成するかを論じた。一方、東畑先生の講義は、どこで始まってどう展開しているのか甚だ把握し難かった。私は後に去来の「尾頭の心もとなきなまこ[・・・]かな」という俳句を知ったが、これが東畑先生の講義だと思った。ところが意外なことに記憶に残っているのは、中山先生ではなく、東畑先生の講義である。記憶に残っているばかりでない。随分、現実経済の分析や見通しにも役立った。東畑先生は、農業政策を講ずる際「所有の魔術は砂を化して金となす」ということわざを引いた。当時、農地解放が進行中であった。小作人は自作農となった。その後の一〇年、二〇年の間に、日本の農業生産力は飛躍的に上昇した。東畑先生の予言のごとく所有の魔術の力は絶大であった。また、戦前の日本の商社がアメリカヘ蜜柑を輸出した時のことであるが、箱の下の方に小さいのを詰め、上に立派なのをいれて送ったところ、アメリカ人は箱をさかさにして開いて、日本人は奥床しい、上の方は貧弱だが、底には立派な蜜柑が詰めてあるといって感心したという話もうかがった。これはどういう文脈で出てきたのか憶えていない。が、戦前の日本人の行動や国際的な誤解の説明として面白かった。不思議に、話の断片が記憶にのこる講義であった。最も良くあたる天気予報のやり方というのも教わった。それは「明日もまた今日の如し」というのだ。これは後に私が景気予測をやるようになってから随分役立った。天気も景気も連続している。変るよりも変らないことの方がずっと多い。したがって景気予測でも「来年もまた今年の如し」というのが一番適中率が高いのである。ただあまりいつも「来年も今年と同じです」などといっていたのでは、景気予測業が成り立たなくなるおそれがあるのが難点である。

以上が、私がきいた経済関係の講義のすべてだ。これをもとにして、少し、ケインズやハロッドやシュンペーターやサムエルソンの断片をつぎ足して今日まで何とかやってこられたのであるから、学恩山よりも高しである。

(日本経済研究センター理事長・東大・法・昭23)