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学士会アーカイブス

名前についての無駄話 菅野 昭正 No.768(昭和60年7月)

名前についての無駄話
菅野 昭正
(東京大学教授)

No.768(昭和60年7月)号

その昔、大学に入学して最初に出席したのは、渡辺一夫先生のヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』講読であった。その場景はいまでもはっきり思い出せるが、先生は教室に入って来られるとすぐ、Jean-Marie Mathias Philippe/Auguste Villiers de l’Isle-Adam (ジャン=マリ・マティヤス・フィリップ・オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン)と黒板に書かれた。そして、「たいへん長いですが、オーギュストまでが名前、ヴィリエ・ド・リラダンが姓です」と説明された。

あれは今にして思えば、フランス語のテクストを読む術もろくに弁えもしないで、ひとりよがりに高邁と思いこんでいる文学論に耽りがちな学生たちにたいして、まず基本的なことがらに注意してほしいと仄めかす、渡辺先生流の産婆術的な遠まわしの教訓であったにちがいない。私は即座にそこまで思いいたらなかったが、『未来のイヴ』の作者の名前の長さはやはり印象的であった。フランス人の名前に多少とも興味をもつようになったのは、そのときからである。

これは名前ではなく姓のことになるが、ヴィリエ・ド・リラダンが姓であると渡辺先生が強調されたのは、当時、日本では姓はリラダン、名はヴィリエと誤解する向きがまだ少なくなかったからである。リラダン作『残酷物語』などという訳書が罷り通っていた。そんな誤解がどうして生じたのか詳らかにしないが、姓としては長すぎるせいもあろうし、貴族のしるしでもあるdeが間に挟まれているのも、一半の理由であったかもしれない(ヴィリエ・ド・リラダン家は、十一世紀からつづいている伯爵の家柄である)。

ヴィリエ・ド・リラダンばかりでなく、長すぎる姓は誤解を生じやすい。近頃はすっかり人気が低落してしまったが、かつては日本でもひろく愛読されるフランス小説の代表格だった『ティボー家の人々』の作者も、姓はマルタン・デュ・ガール、名はロジェであるのに、デュ・ガールと誤解される場合がないではなかった。三島由紀夫『サド侯爵夫人』の仏訳者ということになっている小説家アンドレ(が名前)・ピエール・ド・マンディヤルグも、日本にはじめて作品が紹介された頃、マンディヤルグ姓で通っていた。

こういう種類の長い名前になると、全部書いたり発表したりするのは厄介だから、フランスでも後半を省略してヴィリエと呼ぶ場合が多い(ただしリラダンと略すことはない)。一九七四年から一九八一年まで大統領の職にあったジスカール・デスタン氏も、フランス人の日常の会話で話題にされるとき、ジスカールと呼ばれるのがむしろ普通である。

それに反して、『ティボー家』の作者の姓については、省略されることはまずないようである。長い姓といっても、四音節でまあ大したことはないからでもあろうし、またマルタンは名前にも使われる呼称だから、紛らわしいという理由もありそうに思う。ピエール・ド・マンディヤルグにしても、ピエールと簡略化されることはなく、省略するとすればマンディヤルグとなるのが普通だが、これもピエールだと名前と混同しやすいせいではあるまいか(男性の名前としていちばんありふれたピエールとは綴りが少し違うが、発音は同じである)。

名前としても用いられる姓といえば、五年ほど前、ある知人に紹介されて、ロベール・アンドレ氏という姓名の、哲学教授で小説家としても活躍している人物と知りあいになったことがある。こういう種類の姓名は、うっかりすると逆に思いこんだりしがちである。知りあった直後、手紙を出さねばならぬ用件がおこったときも、封筒の宛名にアンドレ・ロベールと書き、郵便局で投函する間際に思い違いに気づく始末だった。しばらくしてアンドレ氏に会ったときにその話をすると、間違えられることはときどきあると慰めてくれたが、まんざら社交辞令でもなく、姓と名前を逆立ちさせられた経験は本当にありそうな感じだった。姓にも名前にもなる両棲類は、すぐ思いだすだけでも、べルナール、クロード、ジャン、ジュリヤン、マルセル、マルタン、フィリップ、レーモン、シモン、トマ等々、数えあげればかなりの数にのぼるだろう。マルセル・ロベールとか、レーモン・ジャンなどという姓名は、最初から注意して覚えないといけないのである。『未来のイヴ』の作者の名前のことにもどると、ああいう長い名前を持っているのは、なにもヴィリエだけに特別なことではない。たとえばポール・ヴァレリーの名前を完全に書くと、アンブロワーズ・ポール・トゥッサン・ジュール。ヴィリエもヴァレリーも四つの名前を付けられているわけだが(ヴィリエのほうは、数えかたによっては五つになる)、歴史的には、南フランスのほうが古くから長い名前を愛好する傾向が強かったのにたいし、北フランスではその流行は遅れてやってきたという。また貴族など上層の階級のほうが、長い名前を選ぶことも指摘されているが、それはおそらく長いほうが特異さを誇示しやすいからであろう。

先日たまたま、パリの社会学高等学院の刊行になる、『名前 流行と歴史』(一九八四)という共同研究をまとめた本を読む機会があったが、そのなかに、名前の数を調査した報告がのっている。フランスの北東、べルギーに近いトゥルネーという町の、一八二一年から一九六〇年までの出生者を対象にして、十年ごとに区切りをつけてそれぞれ男女五百人ずつを抽出、つまり合計一万四千人について調べた報告である。それによると、もっとも長いものは、十の名前をもつ例が一件あるという。全体を通観すると、十九世紀なかばまでは半数以上が名前一つだけ、しかし、どういう理由によるのかよく分らないが、一八七〇年代からそれはしだいに少数派になり、現代では名前を三つ持つ例が、統計的にいちばん多いという事実を教えてくれる(一九五一年=六〇年の十年間は、千人中三七四名がその部類に入る)。

小さな町の例だけから、フランス全体のことを推しはかるのはもちろん危険だが、これでもおよその傾向を知ることはできよう。ヴィリエやヴァレリーのように第四の名前まで持つ者は、多数派とは縁遠いにしても、一八三〇年代には千人中二十四例(ヴィリエは一八三八年生れ)、一八七〇年代には突如として急増して一〇五例であるから(ヴァレリーは一八七一年生れ)、かならずしも稀少であるとも言えまい。

三つも四つもつづく長い名前の場合、全部すっかり呼ぶのは誰にしたって煩わしいから、ふだん使われる名前は決められていて、戸籍簿でもその旨届け出がされる。ヴィリエ・ド・リラダンの名前は、通常はオーギュストとだけ呼べばよいし、ヴァレリーにしても、ポールとだけ覚えていれば十分間にあうのである。

いま思いだしたが、南フランス、モンペリエの大学の付属植物園の一隅に、若くして死んだあるイギリスの娘を葬った「ナルシスの墓」と呼ばれる、木立に囲まれた半洞窟のような場所がある。一八九〇年十二月、その頃モンペリエ大学の学生だったヴァレリーは、パリから訪ねてきたアンドレ・ジッドと、そこで詩や芸術を語りあったことがあるという。薔薇の花びらを嚙みながらポール・アンブロワーズと語りあったという、二十一歳のジッドの言葉を刻んだ標示板が、いまも壁面に掲げられている。いかにも世紀末の青年らしい文学趣味と衒気を偲ばせる言いまわしはさておいて、ふだんはほとんど使うことのないアンブロワーズという名前を、ジッドはなぜわざわざ持ちだしたのだろうか。ポール・アンブロワーズと重ねることによって、慣用の呼び名との差異をつくり、二人の特別な親密さを強調したのでもあろうか。

よく知られている通り、フランスの伝統的な習慣として、子供が生れると、バラン(男性)、またはマラン(女性)と呼ばれる名親が立てられる。すくなくともフランス革命の頃まで、名親となる者は、できれば新生児の父方あるいは母方の祖父か祖母、それが無理ならば次は大伯父(母)、大叔父(母)、ついで伯(叔)父、あるいは伯(叔)母というふうに、姻戚関係のなかから選ばれる習慣であった。そして名親の名前が新生児にあたえられる場合も多かったし、また父親の名前をそのまま息子が受けつぐこともあり、家系の意識を強める配慮がこらされていたらしい。地方によって程度の差はずいぶんあるようだが、近代になってから一般にこの習慣はしだいに弱められ、姻戚関係以外から名親を選ぶ事例がしだいに増えているという。

さきほどあげた共同研究報告書の「流行と歴史」という副題が語っているように、名前にもやはり歴史的な変遷が見られる。「人間は考える葦である」と言ったパスカルが、ブレーズという名前であることはことわるまでもないが、これは十七世紀から十八世紀にかけて好まれた名前である。フランス革命という大変動期まで、名前の選びかたはキリスト教と結びついていて、聖人、殉教者、聖書の人名から取られることが多かった。洗礼者ヨハネに当たるジャン=バティストという名前がよく目につくのも、名前の選択に宗教が大きな影を落していた証拠である。

フランス革命とともに、さまざまな古い制度や慣習が衰頽に追いやられたが、名前も例外ではなかった。旧制度と結びつく宗教的な名前は忌避され、共和暦、市民的な美徳、古代ギリシャやローマの英雄の名などが名前を選ぶ基盤となり、フロレアル(花月)、リべルテ(自由)、ブリュテュス(ブルータス)等々、革命的な名前が大々的にひろがる一時期があった。十九世紀末のサンボリスムを代表する詩人ステファヌ・マラルメの父親は、ニュマという他にあまり見かけないめずらしい名前だが、それは一八〇五年、即ち共和暦第十四年の生れだからである。ニュマは、ローマ史と結びつく革命的な名前であった。

時代がいささか飛ぶが、十九世紀後半になると、男ならばポール、エミール、アンリなど、女ならばマリー、ルイズ、ジャンヌというふうな、短い言いやすい名前が好まれるようになった。それがたぶん、当時のブルジョワジーの趣味にかなっていたのであろう。しかし、短い名前の種類は限られているから、流行が拡大すれば、同じ名前の人間の数がやたらに多くなって、なにかと不便が生じる場合も少なくない道理である。そのせいであるのかどうか、二十世紀になると、ジャン=ポール、ジャン=ピエール、アンヌ=マリー、マリー=クリスティーヌなど、二つを合成した名前が数を増してくる。そして、その傾向はいまもつづいているように観測される。

宗教的な規制力は弱まっているし、名前によって血統の意識を強める配慮もすっかり薄れてしまっているから、現代においては、名前の選びかたの基準も大いに変ってきているにちがいない。『名前 流行と歴史』のなかの或る報告は、一九七一年に、ジョルジュ=ヴァレリーという合成の名前が新生児につけられた例を、とくに注意に値するものという調子で挙げている。これは当時の大統領ジョルジュ・ポンピドゥーと、次期大統領の有力候補だったヴァレリー・ジスカール・デスタンの名前をつなぎあわせたものである。いかにも出世主義的な俗臭にみちた名前としか言いようがないが、こういう命名法が現代ふうなのであろうか。もっとも、これが通俗的であるにせよ何にせよ、別の見方をすれば、そこには、日本にくらべて、現代フランスでは政治家の位置がまだ高いことを示す、小さな証拠を見ることもできるのかもしれない。戦前ならばいざ知らず、今日の日本で、角栄とか康弘という名前を子供につける親がそうたくさんいるとは思えないから。

(東京大学教授・東大・文・昭28)