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学士会アーカイブス

日本人はなぜレンブラントやベートーヴェンを受け入れたのか 吉田 秀和 No.767(昭和60年4月)

     
日本人はなぜレンブラントやベートーヴェンを受け入れたのか
吉田秀和(音楽評論家) No.767(昭和60年4月号)

 好き嫌いと理解とは違う。これはどんなことにもあてはまるわけで、芸術の場合もその例外ではない。誰それの絵が好きだといって、それがよくわかっているとは限らない。逆に、何々音楽をよく理解しているからといって、それが好きである証拠にはならない。
 私は時々考えるのだが、日本人が西洋に向って門を開け、それまで自分たちの伝統になった芸術にふれたあと、自分たちにわかりやすいものを特に好んでとり入れたというのでもなく、むしろ、自分の伝統からは極度に遠いものを特別高く評価したり、あるいはとりわけ好きになったりした例がいくつもあるけれど、これはなぜか、どういうことを意味するのだろうか。このごろは、よく、それを思う。
 先日、人に誘われ、熱海のMOA美術館にいって、光琳の紅白梅をかいた屏風とレンブラントの若いころの自画像を眺めてきた。
 いうまでもなく、ここにはほかにも名品が数多くあるわけで、その日も私はいろんなものを見てまわり、特に中国の禅の坊さんがかいたという書や畫に、自分でもびっくりするほど強い感銘をうけたのだが、それは別として、出かける前は、今いった光琳とレンブラントがみられるのを楽しみにいったのだった。
 光琳は本当に楽しかった。中央に水の流れがあり、その左右に白と紅の梅を1株ずつ配置するというごく単純な構図を踏まえて、そのシンメトリーにできる限りの変化をつけることにつとめている画家の姿が目に浮ぶようだ。右が紅梅、左が白梅。右の梅の枝はすべてが上を向いて勢いよく伸びており、壮年の元気な姿でかかれている。それは、がっしりと両足を踏んばって立っている根元の描き方にも出ている。左の白梅は、それと逆に古木なのだろう。大きく枝が下がってきたあと、反転して上に向き直ってゆくが、枝はみな節くれだち、紅梅ののびのびと艶やかな枝とちがって、堅くて、ほそいのが多い。それに根元も、まるで背をまるめて全身で大地にしがみついている老人を連想させずにおかない形をしている。中央の流れにしても、非常におもしろい渦巻きがつぎつぎ出てくるが、これも右と左で、いろいろかきわけられている。
  私は、日本の美意識は、シンメトリーを土台とする中国やヨーロッパのそれとちがい、いつも左右相称から少しずれたものに向う傾向がある──それは完全な調和の形より、それを少し乱し、少し破った時の方が、むしろ安らぎを感じ、自分にぴったりした美を感じるようになっていると考えているのだが、この絵も、その典型的な例にほかならない。
 それにこの絵の場合、全体は平面的に塗られ装飾的な技法をとっているのに、その中の梅は、よくみると、細部でさかんに遠近法的発想がとり入れられているのである。私はこういう遠近法はルネサンス・ヨーロッパ絵画にはじまるもので、日本には19世紀以降ヨーロッパからとり入れたものとばかり思っていた。たとえば《源氏物語絵巻》などみると、手前が狭く、遠くなるにつれて拡がってゆく、いわば扇子を拡げたような逆三角形のパースぺクティヴがとられ、ルネサンス以来の「科学的遠近法」と正反対になっていた。それが、この光琳では、たとえ部分的にせよ、採用されているのはどうしてだろう。
 また、平面的描法と科学的立体的(?)描法という、様式的にいって矛盾するものが同じ絵の中に共存しているのは、なぜだろう?
 こんなことを考えながら、私はしばらくこの絵の前に立っていた。
 そのあと、しばらく休んでから、レンブラントをみた。これは、光琳その他の日本の芸術とは、全く別の世界である。
 画面は暗く、その暗いところに光が射しこみ、帽子をかぶった青年の胸から上を照らしだしている。彼の顔や何かは暗い闇の中から光に照らされて浮き上がってくるわけだが、じっとみていると、光は外側から顔に当っているのと同じくらい、青年の内部からこちらに向って放射されているみたいにも見えてくる。それに、これは、黒、褐色、灰色その他の暗い色を基調に、そこに赤が加わってできている色の世界にほかならないが、それらの色は1つからつぎの色へと滑るようになめらかに移行してゆくのであって、光琳でみた、金地に白と赤とか、墨色の地に緑といった反対色を直接ぶつけあって、そこから強くて鮮やかな対照をつくり出し、それを通して、それぞれの色に新しい輝きを与えるという手法とは正反対である。だが、レンブラントのこの滑らかに移行する色の世界でも、鼻の先と唇、瞳と眉毛、頭髪と皮膚といった対照はあるし、襟まきと肩の革、その上のボタンのように、全く違う質料感とその手ざわり、暖かさと冷たさ、軽さと重さなどの相違は、的確に描きわけられ、描き現わされているのだ。
 光琳の明るさ、軽さ、華麗さと、レンブラントの暗さ、重厚な厳粛さとは水と油のように違う。いや光琳だけでなく、レンブラントは、日本のそれまでの美術全般からは、最も遠いところにある絵画ではないか。
 その違いの中でも、特に重大なのは、レンブラントでは、色の1つ1つ、タッチの1つ1つが、精神の表現となっている点だろう。
 これは、美しさを追及し、それを楽しむ芸術ではない。ある「真実」を画面に実現させようと、1点に向けて精神の緊張力を集中している間に生れてくる芸術である。
 私は、どのくらいレンブラントの前にいたか、もう覚えてない。とにかく、気がついてみると、すっかり疲れてしまったので、もう一度休もうと、重い足をひきずりながら、フォワイエに向って歩いていったのだが、その途中で、日本や中国の陶器の皿や壷のある部屋があった。それを横目で見るともなく見た時、その焼きものたちが、まるで若い女性の肌みたいな滑らかさ、艶やかさで匂ってくるような気がした。私は思わず溜息をつき、慰められたような、さびしいような不思議な気分になった。
 こういう焼きものだとか光琳や広重の絵だとかにとりまかれ、生きてきた日本人が、はじめてレンブラントのあのきびしい精神性の芸術にぶつかった時、どういう対応の仕方をしたのだろうか。好きになったか、敬遠したか。少なくとも、すぐ、わかった気になったろうとは、想像しにくい。
 私は長い間、やれバッハだ、モーツァルトだ、ベートーヴェンだといったり書いたりして生きてきた人間である。そうして、自分がそういうものと全く違った音楽文化の伝統の中に生れ、社会的環境にも大きな差のあるところで育ったにもかかわらず、これらの音楽を自分にいちばん親しいものであるかのように考え、それを当り前のように感じて生きてきた人間である。私はまた、私のような日本人はほかにも大勢いると思っている。その中には、ただ音楽をきいて楽しむだけでなく、自分でもその音楽を演奏するのを一生の仕事としているものの数も決して少なくない。
 ただ、西洋の音楽といっても、いろいろである。それはちょうど美術でも、レンブラントだけでなく、またいろんなものがあり、その中には、モネだとかルノワールだといった、日本の美術にずっと近いものだってあるのと同じである。MOA美術館にも、今度レンブラントの絵が展示されるようになった同じ場所に、前は、モネの《睡蓮》の絵がかけてあったのだし、今度もその絵は、モネの《ポプラ並木》と並んで、同じ部屋の別の壁にかけてあった。この2枚などは、レンブラントに比べたら、はるかに華やかで甘美で明るく、日本の絵画にずっと近い。事実、美術史家の中には、モネら19世紀フランス印象主義の画家たちは、日本の美術──特に北斎、広重、歌麿らの浮世絵から深大な影響、刺戟を受けたと考えている人が少なくない(私も、その考えである)。
 だから、日本人の多くがモネやルノワールに対し、一際熱い親愛の情を抱いているのは当たり前のことだ。この場合は、よくわかる──共鳴する──ということと、好きになるということが、うまく一致した例だろう。
 音楽でも印象派美術に当るドビッシーとかラヴェルといった近代フランス音楽を愛する人がいるのは、ちっとも不思議ではない。しかし、およそヨーロッパの音楽と近い関係にいる日本人の間では、そういった音楽よりも、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンら、18世紀から19世紀にかけてのドイツ音楽に親しんでいる人の方がずっと多いのはどういうわけであろうか。
 日本では、毎年、年の暮れになるとベートーヴェンの第九交響曲が全国各地で数えきれないほど演奏され、それに参加して合唱で歌ったり、歌わないまでもききに来たりする人の数は大変な量にのぼるというのは、私が書くまでもないことである。
 しかし、これを社会現象としてではなく、音楽として考えると、ベートーヴェンの音楽などというものは、さっきのレンブラントの自画像と同じように、日本の伝統芸術とは非常にちがう。その違いは、構造の上でも、精神の上でも、どちらがどちらといえないくらい大きいのである。
 ベートーヴェンの音楽は、比較的単純な形に要約される、ある一定の音の形(動機)をもとにして、それをできるだけ厳密に論理的に発展させるという手続きを通じて、大きな音の建造物をつくり上げるという考えで書かれたものであって、これはさっきみたレンブラントの限られた数の色をつかって、滑らかに横すべりするみたいに色を移行させてゆく技法に非常に近い。ここには飛躍はなく、対照のための対照をつかって、華麗な効果をつくって、人を驚かせたり、よろこばせたりすることは、むしろ、避けられる。土台に使った一定の音の形(動機)は、それだけできいても楽しい旋律というより、むしろ、はっきり定義づけられた抽象的な概念であり、作曲家は、それを(音楽の)論理に従って厳密に操作して、ある結果をつくり出すという点で、科学的学問の手続きと本質的に共通するものがある。だから、ベートーヴェンの音楽が、カントやヘーゲル、マックス・ウェーバーやアイン・シュタイン、フロイトやユングなどを生んだドイツ・オーストリア系のヨーロッパ・ゲルマン人の国から生れたのは、当然といえば当然の話なのである。
 これはきびしい精神文化の所産なのである。ただ、その土台に、自然界その他の外界の法則に従うだけでなく、同時に自分の内部にあるものの自己表現も徹底的に追求し、自分の精神の求めるものでなければ、音の1つ、響きの1つも、作品の中にまぎれこませないとするという点で──もしかしたら──学問とちがうのかもしれないのだ。(いや、私は自分の知らないことは書くべきではないのだから、学問との共通性と相違にまで、筆をのばすのは慎むべきだった。私は、ただ、日本人が西洋にふれた時、芸術だけでなく、「学問」というものについても、それまでの自分だけの思考方法とは異質のものに出会ったという体験をしたのではないかということを少しばかり示唆したかったにすぎない。)
 いずれにせよ、ベートーヴェン的音楽は、レンブラント的絵画と同じくらい、日本の伝統芸術とは遠いところに生れ──遠いところだからこそ生れ、育ったのだった。
 そういうものを、選りに選って、日本人が、しかも少なからぬ数の日本人が、好きになったというのは、どういうことだろうか。もしかすると、日本人はベートーヴェンの音楽が自分の感性、美学と正反対だから、好きになったのであって、その音楽を理解したからではないのではなかろうか。
 私は前に、MOA美術館では、中国の禅僧の書と畫にぶつかり、衝撃を受けたといった。私のみたのは子庭祖柏の《石菖蒲図》と無準師範の《帰雲》という2文字が大きく書いてある軸とである。前者は潑墨法というのだろうか、雪舟などでみたことのある描き方で、墨をたっぷり含んだ筆で描かれた岩と、そこから湧然とふき上げてくるような何本かの條線とからなり、この線の方は、ダイナミックに跳り上がり、はね上がっている。これが菖蒲なのだろう。しかし岩にせよ菖蒲にせよ、さきに骨組と輪郭があって、それに墨がぬってあるというのでなくて、筆の躍動した跡、それが岩とか菖蒲と呼ばれる形であり、それ以上に筆をとる人の精神の発動の姿であるような絵である。書の方も、本質的には変らない。「帰」という字と「雲」という字が並んでいるが、これも外側からものの形に近ずくというのでなくて、作者の内部、精神の動きを如実に示したあとが、書と呼ばれるのである。
 こういうダイナミックな精神の動き、昔の人が気韻生動と呼んだであろうようなものを見るものの前につきつけるという仕事は、レンブラントやベートーヴェンと共通する。その点で、こういった西洋の芸術は、中国に生れ育ち、それから日本にも伝わってきた伝統により近いものがあるのは確かである。ただ、禅の坊さんのものは一気呵成にかいたというか、それまで内部に累積され鬱積していたものが、火山が爆発したみたいに、ある機会をきっかけに、炎や灰となってぱっと跳ね上がったり、溶岩となって溢れ出すとでもいえるような趣きがある。これに対し、ベートーヴェンやバッハの音楽は、たとえ、きくものにそういう感じを与えることがよくあっても、実は、そういうふうに生れたのでなくて、前述のように、綿密な設計に基づき、厳密な操作によって構成された建物である。そういうことが土台になっているにもかかわらず、きくものには、冷たい計算書をみるのでなく、その瞬間に目の前で爆発した生ま生ましさ、烈しさを感じさせるというのが、傑作の條件といってもいいのかもしれないのだ。

 (音楽評論家・東大・文・昭11)