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学士会アーカイブス

日米両国の相互理解について 猿谷 要 No.762(昭和59年1月)

     
日米両国の相互理解について
猿谷 要
(東京女子大学教授)
No.762(昭和59年1月)号

 ご紹介をいただきました猿谷という非常に珍しい名前の者でございます。今日はどんな話が出来るかわかりませんけれども、日米相互理解ということについてお話をしたいと思います。話を単純化するために、日本のアメリカ理解度、次にアメリカの日本理解度、最後にどうすればいいのかというような形でお話をしたいと思います。

 本筋に入る前に、最近ロンとヤスというのがはやり言葉になったような感じがあります。勿論ロンとヤスというふうにファースト・ネームで気楽に呼び合えるということは、呼び合えないよりははるかにいいことですけれど、初対面からファースト・ネームで呼び合ってどれだけ長続きがするか、そのポストにその人達がどれだけ長くいられるのか、という事の方が重大ですね。むしろ、ファースト・ネームで呼び合えるような人が、片方の大統領になり、また片方の首相になるということのほうがはるかに望ましいのです。しかも金子堅太郎という前例があるわけです。あの人は大日本帝国憲法の草案を書いたり、皇室典範の原案を書いたりした方ですが、ハーバード大学に留学をして法律を勉強しているときにある一人の友達が出来ました。彼は帰ってきて日本で重要な役割を果しましたけれども、ファースト・ネームで呼び合った相手の友達はその後だんだん出世して大統領になりました。セオドア・ローズベルトです。しかもその時代に日露戦争が起りました。起ったときにアメリカの世論をロシア側につけるか日本側につけるかというのは大変重大な問題です。そのときに金子堅太郎は重要な一役を果したわけです。

  今度のロンとヤスの場合は、学生時代にファースト・ネームでお互いに呼び合った金子堅太郎ほどの土台はないわけです。金子堅太郎は本当にファースト・ネームで呼び合いながらホワイトハウスに入っていったそうです。ですからたちまちアメリカの世論が日本に有利になって、当時の駐米ロシア大使が、もう外交がやりにくくてしようがないと言って苦情を申し込んだという記録が残っております。それでその結果、ポーツマス条約はローズベルト大統領が日本に非常に味方をした形で結ばれている。勿論これは金子堅太郎一人の手柄によったんじゃありませんけれども、彼の個人の活躍が個人を超えて国際的な役割を果したという非常にいい例だろうと思います。

  ファースト・ネームでも、アメリカ人は母音が二つまではとてもよく覚えてくれます。私みたいにカナメとなるともう全然駄目です。ですから私はカナメと言いにくいなら、Kで始まる名前なら何でもいいからつけてくれといったら、暫く考えていて、「Kで始まるファースト・ネームでポピュラーなのはケネスである。これからあなたをケネスと呼ぶけどいいか」と言うので「結構だよ」と言ったのですけれど、こんどはケネスと呼ばれてもこっちが全然反応を起こさない、相当たってからやっと返事が出るのですね。それで私は考えて一番名前に近いのはカーナーだから、それで呼んでもらうことにしました。日本語を生かじりしているアメリカ人は、私に手紙を書くときミスでよこすこともあります。なぜかというと、カナメのメというのは日本語で女という字を書く、また発音もメだからですね。

  アメリカの高校生が大ぜい日本にホーム・ステイして帰るときに沢山の作文を書いた。それを読んで感想文を書かなければならない。私は忙しくてもう英文なんかやっている暇がないと言ったら日本語で結構です、英語にしてから活字にしますからというので、昨日の夜、私の書いたものが英文でどうですかというので送ってきた。見てびっくりしたのは、「私達夫婦は」と書いた日本文が、「マイ・ハズバンド・アンド・アイ」と訳されている。つまり、やっぱり私は女性だと見られたんですね。ですからファースト・ネームというのはなかなか難しいものですが、多分ローズベルトと金子堅太郎の場合は学生時代、片方はテッドとかテディーとか言ったでしょうし、金子堅太郎は恐らくケンと呼ばれたでしょう。実は最近になってむしろそういう例がなくて、昔のほうがありました。やがて五千円札で登場してきます新渡戸稲造先生は、国際連盟の事務次長までやったわけです。いま私の大学に先生が筆で横文字を書いた額がありますが、ものすごい達筆ですね。英語が普及しなかったあの時代のほうが、人数は少ないけれども英語の達者な人が出たのだろうと思います。いまは広まったけれども薄まったんじゃないだろうかというような感じがします。

  さて、日本がどのくらいアメリカを理解しているかということですけれども、皆さんご承知のとおりテレビをひねればアメリカのことが出てくる。週刊誌を買えばどこかにアメリカのことが必ず出ている。若者は気楽にウエストコーストなんていって出かけていく。それぐらいアメリカの情報が日本に溢れるようになりました。けれどそれでいて、では十分知っているかというと、そうではないと思う。基礎的なところで猛烈に欠けている。一つ二つ例をあげますと、たとえばIBMの問題がありました。おとり捜査というあんなやり方をするのは実に汚いと、日本はあの事件が起ったとき大変な騒ぎだったのですが、ある雑誌社から電話がかかって参りまして、私達の雑誌は毎月右側に賛成、左側に反対と、ある一つのテーマをめぐって論争をやるページがある。今度おとり捜査についてやりたい。ところがあちらこちら電話してみたけれど、みんな反対反対で賛成に回ってくれる人がいない。ことによると先生なら賛成に回ってくれるかもしれないと。どうしてそう思われたのか知りませんがそういう電話がかかって来まして、それで私は条件つきならばと言って賛成論を書きました。

  というのは、勿論私だっておとり捜査をやらないで済めばこれにこしたことはないし、あまりいい方法だとは思いません。しかし、たとえば頭の中にマイナス二というイメージがあるとします。ところが、そのマイナス二という悪いことをやったためにマイナス十というもっと大きな悪いことがわかるということになると、アメリカ人はそれをやるのです。やったほうが得であると考えるわけです。そういう国民であるということは当然知っていなければいけないはずなのです。もし日本人だけにやったのならこれは問題でしょう。そうではなくて、アメリカに住んでいる人なら世界のどの国の人に対しても、また自分の国の下院議員、上院議員に対してもやっている国ですから。そんなことがまだわからない。

  もう一つわからない例を話しますと、アメリカ人にはノーといってもいいんですね。むしろ言わなければならないときはノーと言わなければいけないのです。一番いけないのは、ノーと言わないで帰って来て、何もしないということですね。たとえば日本の代表がアメリカの代表と会って、そしてアメリカの代表がこういうことをしてくれと言ったときに、日本の代表はノーと言わない。言うと日米関係が悪くなるかもしれないし、目の前にいる大統領は青筋たてて怒るかもしれない。それでニコニコ笑って帰ってくる、そして共同声明を出すわけです。ところが共同声明を出したために外務大臣がやめたという例がありました。あんなべらぼうなこと、恥ずかしくて。よくぞ日本が国際社会へ入ったと思われるような大醜態を、つい数年前に演じたばかりです。一番いけないことを実はしている。つまりやるようなイメージを与えて帰って来て実は何もしないのですね。これは一番アメリカ人を怒らせる方法です。そんな基本的なことがわからない。国益を損しているのです。

  アメリカ人は中学時代からディベートというのをイングリッシュの時間にやります。時間は五十分です。イングリッシュの時間というのは日本で言えば国語の時間ですね。日本人は日本語や外国語を勉強するときに、言葉というものは読んで解釈することに圧倒的なエネルギーをかける。アメリカ人は読むこと、しゃべること、書くことになるべく時間をかけて平均化しようとする。日本のように英文解釈、古文解釈と、解釈だけじゃないんですね。そこで、しゃべることの訓練として猛烈にホットなテーマを選び、中学のときにディベートをやる。これは見ていますとすごいですね。

  たとえば男女平等法案の成立に賛成か反対か、そんな問題を中学で選んで、あらかじめ賛成二人と反対二人を選んで、一週間ぐらい前にきめておきます。選ばれた者は図書館に通ったりして一所懸命に調べて出てくる。場所によってやり方は違いますが、一つのモデルケースを言いますと、三分間賛成派が一席打つわけです。それに対して反対派が三分間、ペアですからもう一人の賛成派が三分間、反対派が三分間で、一回りしてわずか十二分です。その後で延々とやり合うのですが、これも質問は一分、答えは二分で一往復三分です。先生は四人の名前が書いてあるエンマ帳みたいなものを持って、論旨の展開の仕方とか、質問に対する答の誠実さとか項目別になっていて、黙って五十分みていると点が出てきてしまう。傍聴者が見ていると勝敗歴然としてきます。すごい訓練ですよ。そういう訓練をした者が高等学校に入り、大学ではもうそんな基礎の訓練は出来上がっているわけですから、ゼミの時間には全員が発言する、しなければ恥かしくていられない。そういうふうにして社会へ出て、特に弁舌さわやかな連中が政治家になり、その中でも特にさわやかなのがホワイトハウスに入るわけです。

  そういう人が手ぐすね引いて待っているときに出掛けていく人、たとえば日本の歴代首相のことを考えてみてください。勝敗は歴然としているんですね。たとえばなくなられた大平さん、大体あの方は日本語でも何を言っているのだかわからない方ですね。あの方が首相になる前、外務大臣のときにアメリカへ行って、ブレジンスキーというその後カーターさんの特別補佐官になった人ですが、この人と対談するとかで、三十分間テレビ中継するからと解説を頼まれました。私はこれはいけないとお断りしてテレビを見ていたのですが、やっぱり会話が成り立たない。同時通訳は忠実にやっているのですが、忠実にやればやるほどわからなくなってくる。本当に会話が成り立たないのですね。二十分ぐらいしてブレジンスキーさんが質問し、大平さんが答えるのですが、私日本語を聞いていてわからない、禅問答みたいなことを言っている、それを忠実に訳すからますますわからなくなってくる。時間がもう五分しかないにもかかわらず全然成果が上がっていない、それでブレジンスキーのペンを持っている手が焦りを出してきて、その手だけをテレビがバッチリ撮ったのです。私が解説したら、あれは会話じゃありませんでしたねというだけになっちゃいますから、しないでよかったと思いました。ですからノーと言うときは言わなければいけません。ただし理由を言わなければいけません。

  こういうことが戦後四十年くらいたっていて一国の首相がわからないし、その側近もわからない、また忠告もしない、こんなばかな話ないんですね。日本のアメリカ理解の程度はまだその程度で、一番大切な何かが抜けていると思いますね。これは個人として損得の段階だったらまだいいんですけれど、国家の損得になってくることがあります。ニクソン・佐藤会談はその典型的な例で、いまと同じように、ニクソンさんは約束させたと思ったのに、帰ってきた佐藤さんは何もしなかった、約束をしたと思わなかったのかもしれません。それで非常にニクソンは怒って、もうミスター佐藤の顔は見たくないと言ったそうですが、それが翌年とんでもないことであらわれてきました。日本の頭越し中国訪問の発表、頭越しの金融政策の大転換。やはり国家というのは人間によって構成されているんで、土地によって構成されているんじゃない、人間と人間です。そこで敵意とか、嫉妬とか或いは尊敬とか愛着、いろいろ出てくるはずです。そういうことが重要な人の場合には意外に大きな影響を及ぼすのですね。それがいままで随分繰り返されていたということは、日本のアメリカ理解の限界というか、情ないのですけれども、いままでそんな程度だったのです。

  さて、ここでちょっと私個人のことをお話いたします。というのは、日本のアメリカ研究というものについてよくわかる例があるのです。

  私は第二次世界大戦中陸軍のパイロットでした。最近ときどき入院をするのですが、長く入院したとき看護婦さんと仲よくなって、看護婦さんに私は昔パイロットだったと言うと看護婦さんが驚いて、「先生がパイロットだったのですか、どこの航空会社だったのですか」と言うので大分ショックを受け、相当年代が過ぎたんだなという気がしております。それで私がなぜ戦後アメリカのことを勉強しようという気になったかというと、終戦間際北海道にいたときに、私の目の前をグラマンの一機が超低空で飛んだその瞬間のことをまだ忘れないのです。それは本当に驚くべき一瞬でしたけれども、そのパイロットの顔は、まだあどけなさが残る少年の顔だった。なぜ驚いたかというと、それまでは鬼畜米英といって教わってきた。額から角が出ているような感じだったですね。そうやってその顔をみた瞬間に敵愾心が一瞬にして消えたのです。考えてみると日本でも少年航空隊というのがありまして、二十歳前のパイロットがおりましたし、私は二十一歳でパイロットの教官になったのですから。まあ、とにかくそのときの印象があまり強くて、それでどういうふうにショックだったかというと、つまりそのとき旧制高等学校の生徒だったのが軍隊に入ったので、日本人の平均的学歴より上だったわけです。その私がアメリカのことを何も知らないということに気がついた。だから一般的な日本の人はもっと知らないでしょう。知らない相手と、鬼畜米英とだけ言われて夢中になって戦っていたんですね。その驚き、もし生きて帰れたらアメリカのことを知りたいと思って戻ってきました。それで何をしたらいいかいろいろ考えた結果、アメリカの歴史を勉強するのが一番順当だろうと思って、終戦の翌月、まだ軍隊の帽子をかぶったまま復員し、文学部の西洋史学科に入学しました。

  ところが驚いたことに、東京大学の西洋史学科にアメリカの歴史を教える先生はいませんでした。それに気がついたのは入学手続きをとって暫くたってからです。私が講義を受けたのはローマ共和制時代の歴史とかギリシア時代の歴史、それから西洋史概説、受けてみると一年の終りにやっとローマの終りまでで、つまりいまから四十年前の学問の分野では、アメリカというのは独立して百年あまりしかたたないのでまだ入ってこない。西洋の歴史といったらもうドイツかイギリス、フランスです。或いはさかのぼってギリシア、ローマですね。文学でも同様で、殆ど圧倒的にシェークスピアが大きな顔をして存在しておりました。ですから、一時学生がアメリカ文学をやりたいというときに教える先生がいなくて、イギリス文学とアメリカ文学の供給と需要のバランスがものすごく崩れたことがありますね。私は二年半学部に在学をしまして、というのは、軍隊に入っていたのが半年生かされまして、単位だけはとりましたが。それから大学院五年間、その大学院も教えてくれる先生はおりませんでした。ですから八年間東大で独学をしたと、そういう言い方をしております。

  そうすると、一体日本のアメリカ研究というのはどうだったのかということです。私が草分けなんていうのでは情ないでしょう。ところがもうちょっと上に系列というのはありました。先程お話した新渡戸稲造先生が、いかにアメリカを研究することが大切であるかということについて、大正八年に『実業之日本』という雑誌の四月号に、「米国研究の急務」という論文を書いておられます。それはそのときどのくらいの影響を与えたかどうかということは知りませんけれども、大正八年というのは日米関係がだんだん悪くなってきて、やがて排日移民法が成立するそういうところへ差しかかった段階ですね。新渡戸先生はご承知のように奥さんがアメリカ人ですから、太平洋のかけ橋になりたいと考えておられた方ですね。その後アメリカ研究の成果が大きく広がってきたかというと、そうではありませんでした。ただ、新渡戸先生の助手のようなことをなさっていたのが高木八尺先生です。高木八尺先生は戦争前から法学部で一講座――ヘボン講座というのでアメリカの政治を担当なさっておりました。この高木先生の助手のようなことをなさっていたのが中屋健一先生で、先生は私が東大を卒業した後で駒場へ来まして、アメリカ科というのをおつくりになりました。私も十年間ぐらいそのアメリカ科の講師をやっておりましたけれども、私が独学をした時代から見るといまは隔世の感がありますね。アメリカの政治、経済、社会、金融など、およそアメリカに関するあらゆる専門の先生が来て集中的に学生に教えるわけです。ですから随分変ってきたというふうに思います。

  現在アメリカの学会というのが大学の先生だけでつくられておりまして、会員約六百名です。ただし一番多いのは文学専攻の方ですね。日本人はよほど文学が好きな国民だと思いますけれども、圧倒的に多い。その次に歴史、政治、社会それから最近では国際関係論、まあ日米関係のような問題ですね。経済関係はまだ割合少ないですね。私と一緒に同じシステムでアメリカへ行った嘉治元郎さん、ああいう専門の方はまだ数はそう多くはないと思います。この六百名は人文科学と社会科学の方だけで、自然科学の方は入っていない。なぜかというと、自然科学の方で大勢アメリカへ勉強に行っておられますが、結局、たとえばここの医学部は心臓のこういうのがいいというんで行くわけで、アメリカを研究に行くのじゃないですからね。勿論生活していればアメリカの体験もなさって帰ってはきますけれども、本来はとにかくそこの大学のこれがいいから行くのだと。数学、物理学もみなさんそうです。ですからこういうところの先生方は入っておりません。

  それからジャーナリスト、これは相当多い。アメリカに於ける外国人ジャーナリストの中で一番多いのは日本人だそうで、百名を少し超えている筈です。ただし、その人達殆どがワシントンとニューヨークに集中しておりますから、はっきり言いますけれども、情報はきわめて偏っております。日本のように朝日、読売、毎日などというのはなくて、それぞれの地方紙しかないわけですから、その地方紙の中で日本のインテリにとっても向いているような「ワシントンポスト」とか「ニューヨークタイムス」という、インテリ向きのものが出されている地域だけに日本の代表が集中している。ですから、大統領選挙の噂なんかでも、日本に入ってくるのと実際行ってみるのとではずいぶん違う。一九七二年の選挙でマクガバンという候補が出て来て、マクガバン旋風なんていうので日本の新聞は大々的に書いた。その直後に私はアメリカへ行って中古車を買って、カリフォルニアから三か月ドライブをしたのです。途中でいろんな人に会って聞いたら、殆どがニクソン支持というのですね。果してニクソンが圧倒的に勝ちました。もっともあのウォーターゲートというのをやってのことですけれどもね。

 このように日本へ入ってくる情報が地域的に猛烈に偏っている。いまから一昔ちょっと前に私がエモリーという大学――これはアトランタにあるのですが、カーターさんが州知事になる直前に暫く生活をしました。そのときに本当にびっくり仰天するようなことが、日本には報道されていない。たとえば沖縄返還というときに、南部の非常にリベラルだといわれる一流新聞に、沖縄を返すなという投書がいく日も大きく載った。読んでみると、成程ということが書いてある。「沖縄の一つの島を取るために何万人のアメリカ人の血が流れたか。しかも現在それをアメリカが持っているということは、日本の安全を図って、それもあって持っているのじゃないか。今迄世界史上に何万人もの血を流して取った島を、無償で返した例があるか。それをそのまま返したら、そこで流したアメリカ人の血は無駄になる」と、理路整然と書いてあるわけです。アメリカ人がそれを読んだら、ああそうかと思うようなことが書いてある。それが連日出る。そういうことが日本に一体報道されただろうか、恐らくされていないでしょう。南部にそういう意見が出たくらいですから中・西部にも恐らく出たでしょう。

 それからコロラド大学にいたときもそうでした。八月九日長崎の日、有難いことにキャンドル・サービスをやってやろうというので、それが新聞に出て、私達夫婦は喜んで参加しました。キャンドルを持って町を歩いて、町の外れの集会場へ集ってきて、みんな核兵器反対と叫んだわけです。アメリカ人は長崎の日を後悔してこれだけやってくれるのかと思って、日本人は私達夫婦だけだったのですが、とても嬉しく思っておりましたら、二、三日たって新聞にすごいのが出た。「あんなことをやるのは大反対だ」と、投書なんかじゃなくて堂々たる論文です。「長崎の日なんて言われるくらいだったら、真珠湾の日をやれ」と。タイトルは長崎と広島はソドムとゴモラであると書いてあるのです。旧約聖書の悪徳の町、神の怒りによって焼き尽された町ですね。読んでみると、軍国主義日本が犯した罪をワッと書いてある。相当よく知っている人なのですね。それで最後に、長崎の日とか広島の日なんてやめろと、どうしてもやるならばパールハーバーの日をやれと最後にそう結んでいるわけです。これも恐らくは日本のことを知らないアメリカ一般大衆に対して、相当の説得力があったでしょう。そういうムードがあるということを新聞は日本人に知らせてくれているかというと、全然知らせてくれていないですね。ですから、日本人のアメリカに関する知識は一時より随分増えましたし、現在は猛烈に多いように見えますけれども、割合底が浅い。その代り本当に広いと思います。

  さて、アメリカの日本理解はどうか。これは一般的に言えば、もう全く本当に情ないものです。たとえば大阪に万国博があったとき、アメリカ人は日本についての関心があまりなかったのですけれども、「タイム」とか「ニューズウィーク」がそのときだけ表紙に大阪の写真を載せました。そこでさすがに気になったのですね、日本のことを知りたいというのです。丁度そのときアトランタに住んでいたのですが、私が行ったエモリーという大学はヒストリー・デパートメントで、先生としてでも学生としてでも受け入れられた最初のジャパニーズでしたから、とにかく珍しい。それで私達夫婦はよくいろんなところから日本のことを話してくれというので、手分けして出かけていきました。

  ある小学校へ行ったとき、白人の女性の先生ですが、日本の旗とアメリカの旗を生徒につくらせて、大歓迎してくれたわけです。そこに世界地図が出ていまして、先生が棒を持って、さあ日本の方が遠くからはるばるやって来ました。皆さん日本がどこにあるかおわかりになりますかと言って、地図をずっとさしていったら、先生がわからなくなっちゃったのです。教師というものはどんな場合でも予習をすべきであるという非常にいい教訓になりました。勿論アメリカの地図ですから日本は真ん中に書いてあるわけじゃありませんし、日本だけ真っ赤に書いてあるわけではありません。けれどもその先生は漠然たる知識はさすがに持っていました。アジア大陸の東から南へかけて島がいっぱいある、それのどれかだということはわかっていたのです。ですから大体そこへ棒がいったのですけれど、ふと見たらあまりにも島があり過ぎて、それでわからなくなっちゃった。私はそのときうしろでハラハラしていましたが、さすがに暫く迷った後で、皆さんここですよと、よく見たらフィリピンだったのです。そのときどうしようかと、生徒の前で先生の間違いを直すべきであるかどうか、まさしくハムレットのような心境でしたけれども、そのときは黙っていて、二人になったときに、さっきの場所は南過ぎましたねといいました。とにかく一般的にはその程度です。それはあまり責められないこともあります。

  まず第一に、アメリカ人の大部分はヨーロッパを母国にしているということです。日系米人という人たちがおりますけれども、人口は〇・三%、現在七十万人ぐらいです。日系米人は日本のことに関心がありますが、しかし大部分がヨーロッパですから目がみんなヨーロッパのほうへ向いている。キッシンジャーさんが安全保障担当の特別補佐官に最初になって、それから国務長官になった。その間にやっと彼は日本を勉強するのです。なったばかりのときには、日本について関心もないし知識もない。カーターさんのとき首席の補佐官のジョーダンという人がいましたけれども、この人もアメリカに日系の人がいるということは知らなかった、会ったこともないという言い方をしております。それくらい日本についての関心は少なかったし、そしてアメリカの中学校や高等学校のテキスト、教科書はとても沢山ありますが、それを全部集めてアジアについて何パーセントのスペースが割かれているかを調べた人がいる。これは今から二十年ぐらい前の調査ですけれども、それによりますとアジアについては、世界史では全体の九%、世界地理で全体の七%です。その中でアジアについてだって一にまず中国、二はインドです。ですから日本なんて飛び飛びに出てきて、これじゃ富士山、芸者ガールも無理ないという感じがしますね。

  いまはもうちょっとよくなっていると思いますけれども、しかし基本的に一般の人は、自分の生涯専門にする分野以外の一般的知識は、高等学校卒業くらいの知識です。それにプラスアルファーが何かあるかどうかぐらいのところであって、これは皆さんが毎週一回あの「クイズ面白ゼミナール」というテレビ番組をご覧になって、小学校の理科の問題とか数学の問題、あれをおやりになればよくわかるのですね。高等学校のレベルを維持していれば大したものだということになるかもしれません。そうだとすると、現在少しよくなっておりますけれども、二十年前のこの調査は、現在の中年のアメリカ人は大体こうだということですね。それが現実です。ですから、アメリカの日本理解というのは、もともとからそういう状態、これが基本的な問題です。

  戦前には日本について関心を持つ人がそれでもいました。これはどちらかというとアマチュアの知的遊戯のような、ある種のエキゾチシズムを通して見ているという感じのながめ方でした。だからごく僅かですけれど、日本がいい人はやたらにいい、客観的に見る余裕はまだないのです。そういうときにアメリカの日本理解の基礎を築いたのは、宣教師逹が相当中心になっています。これがアメリカの日本理解の第一世代と言われているんですが、その代表がライシャワーさんです。この第一世代といわれている人達が戦争前に日本のことについて勉強を始めております。そしてライシャワーさんの次の第二世代というのは第二次世界大戦の中から生まれてきました。

  第二次世界大戦のときに日本人は英語をやってはいけないというので、野球も日本語でやっていた。ストライクは「よし」、アウトは「だめ」とか、それほど英語を使っちゃいけないと言っていたときに、アメリカではいまこそ日本語をやるべきだと。これ、一つは戦略的な意味もあったのですね。諜報関係の問題もありました。そこで日本語を集中的にうんと勉強させようというので、海軍はコロラド大学、陸軍はミシガン大学、そういうところで集中的な訓練をやったのです。私はコロラド大学で一夏過しましたから、現地をみてよくわかりびっくりしました。六人ぐらいの小さなクラスをいっぱいつくり、英語を全然使わないで日本語だけ使って日本語を教えるわけです。先生は強制収容所に入れられていた日系米人の中のインテリを連れてきて先生にしたわけです。そのときの集中度、それから語学のやり方というのはすごいですね。いまコロンビア大学でやっているのがやはり同じです。ケントホールという大きな建物がありまして、左半分がジャパニーズ・スタディーズ、右半分がチャイニーズ・スタディーズ、その中では先生も学生もすべて一切英語を使ってはいけない。私はその中でよくワイフと待ち合わせしたのですが、あるとき、いま面白いことがあったというので聞いてみたら、廊下を誰か歩きながら大きな声で、「疾きこと風のごとく静かなること林のごとく」と言っているので、誰がしゃべっているのかと首を出してみたらドナルド・キーンさんだったというのです。

  また学生も日本語しか使っちゃいけませんから、白人の学生がすれ違いざまに挨拶するときに「オス」と言って挨拶する。そこまでやるわけです。私もハワイ大学で一夏ひどい目に遭ったことがありまして、朝から夕方まで英語を読むこと、しゃべること、書くこと、もうとにかく日本語を全然しゃべれない。そうすると夕方になると日本語がしゃべりたくてむずむずしてくる。そのとき私は結婚していましたから、夕方になって解放されるとワイフが待っているところへ行って、顔を見るや否や三十分ぐらい立て続けに日本語をしゃべるので、随分おしゃべりになったと言われましたが、朝から晩まで英語をやらされたらそうなるのですね。それでキーンさんとかサイデンステッカーさんとかそういう人達、第二世代が生まれてきました。

  キーンさんはすごいです。お茶の会に招かれていって掛軸をみる。私など読めませんのでそばにいる日本人に聞いてみてもみなわからない。そういうときにスラスラと読んだのはキーンさん唯一人でした。そこでキーンさんに聞いてみたら、「私は日本語の研究者じゃない、日本文学の研究者です」と。ですから日本語を知っているのは当りまえのことで、彼に日本語がうまいですねといったら失礼になるでしょう。こういう話を日本の英文学の先生にしたいですね。キーンさんは、片仮名、平仮名、漢字の三種類を、楷書、行書、草書でスタートからそう習ったそうです。古文書なんかスラスラと読める、こういう人がたまにはいますね。

  いつかも、南部のバンダビルトという大学へ行ったときに、昔ですから日本人が少なかった。それである白人の先生が来て、私は丁度東アジアのことを教えているところです。日本から人が来るというのは珍しいからあなたのワイフを一時間貸してくださいと、一時間たって戻ってきていまとても面白かった――というのは、その先生は英語で日本のことを教えていて、テキストも英語です。ところがその先生は彼女を立たせて、皆さん日本からお客が来ました。ご紹介しますと言って、黒板に何て書いたかというと、「友あり遠方より来るまた楽しからずや」と漢文の順序で書いたというのです。あの言葉の順序はそう難しくはないけれど、皆さん書けますか。わかりやすく言うと、日本のアメリカ理解は広いけれど浅い。アメリカの日本理解は狭いけれど深いのです。大部分の人は日本を知らないけれど勉強している人は深いですね。それが第二世代です。

 第三世代のトップを行っているのは同じくコロンビア大学のジェラルド・カーチスという人です。この人に至っては九州に泊り込んで一年間ある自民党の代議士に付き添って、その人が当選するまでを調べて帰った。それで日本語で『ある代議士の誕生』という本を書きました。これは名著だという評判で、日本の代議士諸先生方が、選挙になるたびごとにそれをテキストにして駆けずり回っているというのですから、それぐらい有名になった本ですが、これが第三世代、まだ若い人ですね。

  第四世代というのは大学院の学生たちあたりだと考えていいと思います。

  ついでに、地域的にはどういう大学が日本のことを勉強しているのか、大学院の博士論文の出ている数なんかを一つの例にしていいますと、一番はハワイ大学ですね。それから昔から伝統的に日本研究をやっているようなミシガン大学とかハーバード大学、これはエンチング・ライブラリーというのがあって日本研究をやっています。ライシャワーさんなんかがいるところです。それからコロンビア大学、そういう伝統的なところのほかは太平洋岸が多い。スタンフォード大学、それからカリフォルニア大学の中でも特にバークレーとUCLA。それからシアトルにワシントン大学というのがありますが、ここでも相当熱心にやっています。それ以外のところでしいて探せばテキサス大学です。

  ワシントン大学で日本語を勉強しているある女子学生と同じ家で暫く寝泊りしたことがありますが、その時は絶好のチャンスというわけで、私のことをつかまえて放さなかった。会話がつまって出て来なくなると、自分の頭を叩きながら悪戦苦闘して、日本語の会話を私と繰り返しやりました。ですからアメリカの場合にはこれから相当優秀な人達が何人か出てくるでしょうけれども、それが一般にどのくらい反映するかが問題です。

  さて最後に、今後のあり方という点についてお話をしたいと思います。

  最近「タイム」で非常に評判のよかった日本特集があります。実は去年は「ニューズウィーク」でやり、一昨年はやはり「タイム」で特集をやりましたが十頁足らずのものでした。なぜ今年が問題になったかといいますと、殆ど全頁を使っているということです。それがいま日本語に翻訳され一冊の本になって、これがまたベストセラーになっているそうです。これによってアメリカ人が、どうやって日本を知ろうとしているかがわかり勉強になりました。

  一昨年の「タイム」は、とくに面白かった。たとえばなぜアメリカが追い抜かれたか。オイルは九〇何%輸入、アルミニュウムは一〇〇%輸入、或いはどういうものは何%輸入というような国日本が、なぜアメリカと並び、追い抜こうとしているか、ダンピング的な輸出のためであるかと、まずそういう古典的な質問を出す。これは調査機関が国際的にありますから調べればわかることです。それから労働者の賃金が安いからかと、これも調べるとそれほどでもない。答がみんなノーなのですね。それでアメリカは困って、とうとう最後行き着いたところに、神前結婚の写真が出てくるのです。この神前結婚がキリスト教よりいいという意味ではありません。それは松下の写真、つまり日本では結婚式まで企業持ちでやるということです。そこにアメリカ人は少なくともこの号において一つの結論を見出したわけです。企業に対するロイヤルティーの問題ですね。

  この中には随分私の知らなかったことが書いてあった。たとえば天文十二年、一五四三年ポルトガルの人が種子島にやって来て、鉄砲を二、三挺伝えた。そうしたら日本人は大喜びしたので、これこそいい商売になるというので、ポルトガルは鉄砲を商売にしようと思って本国へ戻った。ところがポルトガルはご承知のように小さな国で、隣のスペインのほうが強い。スペインは中南米だけではなくてフィリピンまで取っている時代です。それからオランダとかイギリスだってアジアへ出てきているという時代ですから、それで三十年間出てこられなかった。三十年たって日本へきてみたら、日本ではもう二万挺の鉄砲があったというので、商売にならなかったのです。これは丁度いま日曜日の夜のNHKでやっているあの大河ドラマの時代ですから、鉄砲を制する者は日本を制するという時代です。信長をはじめみな優秀なのをつくって、忽ち三十年間で二万挺になった。これはいい勉強になりました。なぜかというと、戦争が終って日本は灰になって、灰の中から三十年たってこれだけ奇跡的復興をやったのと、丁度時間が合っているのですね、非常にいいヒントになりました。

  それからもう一つ驚いたのは、日本の国防費は全世界でいま八番目になっていると書いてある。私はこれを読むまで情ないことにそのことに気がつきませんでした。愕然として日本の資料を調べたら、紛れもなく本当でした。ですから私は日本人が読んでもとてもいい勉強になると思いました。

 ともかく、いずれにしてもアメリカが日本から学ぼうという気が起ってきていることはたしかです。ですから、たとえば皆さんご承知のように豆腐ブーム、これは、日本は経済で追い越しただけではないということの証明です。なぜかというと、日本人の平均寿命はアメリカ人を追い越した、これはアメリカ人にとっては経済の問題とは別に非常に驚いている。日本人はなぜわれわれよりも長命なのか、食べる物が違うのだろうと。まあ、日本と同じような食べ物には切り替えられないでしょうけれども、しかし豆腐は大豆からで、大豆はアメリカでたくさんつくるわけですから、それで、その大豆から作る豆腐というのは何か出来るぞというのでブームが始まった。私は一昨年ですか、アメリカのレストランで豆腐サンドイッチというのを食べてきました。それでその作り方を日本の週刊誌でご披露したことがあります。それから豆腐バーガー、これは私作れませんし、決してうまそうでもなかった。

  ところが最初にお話した、ホームステイをして帰った高校生の文章の中で、非常に面白いのが一つあった。彼が日本へ来る以前にアメリカでもう豆腐が好きになっていた。そして日本へ来て生活している間に、どんぶり物が好きになったというのです。これはちょっと変ったアメリカ人ですけれど、私が暫くいたコロラドなんかではどんぶり物が相当はやっていて、牛丼なんかが出ていました。なぜかというと、お米はアメリカのほうが安い。うまさだって同じくらいのが幾らでもありますし、牛肉は問題にならない安さでしょう。牛丼が大活躍できる余地があるわけですね。とにかくその高校生はホーム・ステイをしている日本のお母さんに向って、「すみませんけれど豆腐どんぶりをつくってください」といったそうです。お母さんは「イッツ・ベリー・クレージー」と答えたというのです。それはそうでしょう、豆腐どんぶりなんてつくったことがない。そこでお母さんが寝た後でその家の日本人の高校生と一緒になって、台所へ入ってひそかに豆腐どんぶりを作って、ご飯の上にのせて食べたら「ベリー・グッド」と書いてあるのです。作り方は書いてないですけれど。そして彼は最後に結論して、これは恐らく二、三年後には日本のレストランどこでも出来るようになるだろうと書いてあります。

  とにかくいいなと思ったら積極果敢、これはアメリカ人のほうがさすがにその態度は見上げたものです。駄目になったって構わないからとにかくやる。やることによって七はプラスだけれど三がマイナスになるというときに、日本人はマイナス三が気になってやらないのですが、アメリカ人はマイナス四であってもプラス六ならばやろうと、ここが日本との違いでしょうね。ですから日本はいま幾つかの点でアメリカを凌駕したように思うかもしれませんけれども、天狗になっていたらすぐまたやられるでしょう。同じファイトで戦ったらもともと国力はあるわけですから、とてもかないっこない。アメリカがポカンとしているときに日本人が一所懸命にやってきたその累積がこういう形になったので、惰性がありますから暫く行くでしょうけれど、この惰性を消さないうちに日本人が目覚めないと具合が悪いだろうと思いますね。

  最後にもうちょっとつけ足しておきたいことがあるのです。どういうことかと言いますと、これから日米関係仲よくしていくについて、日米共に未知の世界に入ったということを去年私は朝日新聞にちょっと書きました。どうしてかというと、それは日米関係過去百年余りの間を五つの段階に分けて分析しました。その結果、アメリカと日本が仲よくて対等であったということは一度もないという結論を出したわけです。アメリカと日本が仲よかった幕末から明治半ばへかけては先進国と発展途上国で縦の関係でした。日本が日清戦争、日露戦争に勝ち、だんだん強くなって、縦の関係が横になってくると、排日移民法が成立したりして日本の移民が迫害をうけて、そしてだんだんギクシャクしてきて、最後に真横になったとき真珠湾空襲です。戦争というのは真横でやるわけですから。今度戦争が終ったらどうかというと、また日米蜜月時代にはなったけれど、それこそ戦勝国と戦敗国ですから垂直の関係です。垂直の関係のときには仲がいい。今度少し日本の経済の力が強くなってきて縦が真横にならなくても斜めぐらいになってくると、日米経済大戦争なんていう言葉が使われるのですね。同じようなトラブルがドイツとアメリカ、イギリスとアメリカ、フランスとアメリカの間に起ったってそんなに大騒ぎしませんけれど、日本とではあるのです。これは日本とアメリカはまだ仲がよくて対等になった経験が残念ながらない、これは事実です。ですから、日本とアメリカは仲がよくて対等であるという新しい道をこれから模索しなければならない、未知の時代に入ったのだと。しかもこれをさらに拡大してみると、アメリカは日本に対してだけではない、仲がよくて対等ということがなかなか出来ないのは、有色人種のあらゆる国に対してそうです。

 それからもう一つさらに拡大すると、アメリカだけではないということもわかります。イギリス、フランス、ドイツなどアングロサクソンとかゲルマンとかいうあたりがそうです。黄禍論――イエロー・ペリルということを言い出したのはドイツですね、これは世界史的に言えると思うのですね。けれども古代や中世はそうではありませんで、近世に入ってから明らかに白人優越という形になりました。私は世界史を担当している人間で、これは世界的に言ってそうです。そういうことを書いたら恐らく随分反論もあるだろうと思いましたし、またアメリカの新聞にも随分転載されましたから、アメリカからも随分反論がくるだろうと思ったら、どこからも反論がなかった。反論がないということは、言われてみればその通りだと思って感心してくれたのか、それとも全然黙殺されたのかどちらかですけれども、アメリカからも載せたというので幾つかの新聞から英訳されたものを送ってきました。ですからアメリカと日本はいまや本当に難しい時代に入ったと思います。けれども最近の例をみますと、アメリカのほうへだけ行っていた参勤交代の日本の首相、アメリカからは日本へ来なかったのが、ここ三代、フォードさんから始まって三代来るようになった。恐らくレーガンさんの次の大統領も日本へ来るだろうと思います。日本の重要性、それからアジアの重要性、環太平洋の重要性ということを考えると、これからは歴代のプレジデントは在任中に日本へ来るだろうと思いますね。そういう点はかなり横にいい線になったと思います。

  それとサミットですね。このサミットをみるとこれは大変だと一時驚きました。というのは、与えられた十分間なら十分間を各国首脳がしゃべる、同時通訳がすぐ行われる、これは結構です。けれどコーヒーブレイクのとき、みんなコーヒーカップを持って庭へ出て肩を叩きながら冗談を言うわけです。そういうときにわが国の代表は一歩も二歩も遅れる。それは冗談を言うときまで通訳を連れていくわけにもいきませんから無理もないですね。私はそれを見て、これは大変だ、二倍も三倍も努力しなければならないハンデキャップを背負っていると思いました。けれどもいまはそう思わなくなりました。そうじゃなくて、これは実にいいチャンスを日本人はつかんだぞと、国連議場の過半数、四分の三くらいは有色人種の国で、みんな国連議場で一票を持っているのですね。ですから、有色人種の国でアジア人としてたった一人代表として送れたということが、うまくすると日本とアメリカの関係を突破口にして、二十一世紀には、これまで何世紀か続いてきた白人優越というこのアンバランスが平等になるきっかけを日米関係からつくっていったということになるかもしれない。人種の差などなくなって、みな平等に、タテではなくヨコの関係が世界に実現するかもしれない。もしそうなるとしたら二十一世紀の歴史家は、日本という国に最大の賛辞を呈するでしょう。

  いま全世界、先進国でも発展途上国でも日本語を勉強したいという気運が盛り上がっている。そういうところから日本語のテキストを送ってくれ、先生を送ってくれとワンサときている。しかし日本はこれに応えられない。なぜかというと、日本の国際文化交流費の一年間の予算は、戦闘機一機の予算より少ないからです。どちらのほうが本当に高度な安全保障になるのかということを、レーガンさんに向っても、ソ連の首脳に向っても日本は言うべきだろうと思いますね。それを日本は核兵器の問題でも、大部分の国は核兵器に反対する決議をしているときに、原爆を落された唯一の国日本は、棄権したり或いは反対に回ったりするというのが実情です。

  最後に、日本はアメリカに向って言いたいことを言う、その代わり約束したことは守るとけじめをはっきりする。ノーならノーと言うけれども、言うときには理由をちゃんと言わなければいけません。その理由はそのとき相手に納得されないかもしれませんけれども、やがて後になって納得されるに違いないのです。たとえばベトナム戦争の最中に、なぜ日本はもっと早く「あなたそれは間違いだよ。早く手を引いたほうがいいよ」とアジアの友人として忠告をしなかったか。ジョンソン大統領はきっとそのときいやな顔をしたでしょう。けれど、アメリカ国民は五年後十年後にはその間違いに気がついたのですから、手を引くことが一年ぐらい早く出来たかもしれない。そして五年後十年後には、アアあのとき日本は素晴しいアドバイスをしてくれたと感謝するでしょう。そういう道を日本は選ぶべきだと思いますね。これが日本とアメリカの相互理解の今後の起点になるべきじゃないかと思います。ご清聴有難うございました。

(東京女子大学教授・東大・文・昭23)

(本稿は昭和58年11月10日夕食会に於ける講演の要旨であります)