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学士会アーカイブス

緑と文明について 筒井 廸夫 No.758(昭和58年1月)

緑と文明について
筒井 廸夫
(東京大学教授)

No.758(昭和58年1月)号

       一 失われる緑

最近の都市開発計画では、森林を都市機能の中でどのように活かすかを大きな課題としているものが多い。森林の緑を活かし、市民生活に潤いと安らぎを与えようとするのがその目的である。都市計画の描く将来の都市像としては、普通には機能的な公園都市、健康的な生活安全都市、中枢管理機能の高い都市、住民自治の進んだ都市などがかかげられている。急激な都市化、工業化、モータリゼーションによる生活環境の悪化を防ぎ、快適で安全な道路、機能的な都市施設、住宅や工場を美しい緑と豊かな自然の中に配置しようとするのである。

「自然に囲まれた環境」とか、「緑豊かな環境」といった言葉も、建売住宅の販売広告に、工場紹介の記事に、テレビのコマーシャルにあふれている。きれいな空気、さわやかな緑、豊富な水など、豊かな自然にとりかこまれた環境を求める人々の願いは、今ほど大きいものはない。「緑に飢えた都市生活」こんな言葉がぴったりとするほど都市の環境は荒れている。街の大通りを、わが物顔に突切っていく「オニヤンマ」の威張った姿も見られなくなって久しいし、初夏の風物詩であった「ホタル」も身辺から影をひそめてしまった。人里遠く離れた所にしか住まなくなったこれらの生物たちは、現代の都市の在り方に一つの反省を促していると言ってよい。

鉄とコンクリートでつくられた都市が、人間の生活環境として適しているのか否か。答は明確である。人間が生物である以上、その心身を健康に保ち、豊かな人間性と潤いのある生活を保証する環境が大事なことは言うまでもない。自然の中に生きた人間の野性を、自然に畏怖した宗教的感情を、また、自然美にうたれた芸術的感動をいま一度身近なものとしたい。こうした願望が広く生れているところに、人間性の破壊の危機をみる。

人間性の回復の道は、自然と一体になった人間の在り方を確立する以外にはない。自然と一体になるということは、自然を人間の功利のために利用するのではなく、自然の中の内的生命を人間社会の中に活かし、それを基本とする人間文化を創り上げることである。自然を克服することによって進歩してきた機械文明の中へ、自然の一要素としての人間を位置づけ、人間の真の生を確立することである。自然と一体となった文明をかりに「自然文明」と呼ぶならば、機械文明と自然文明との融合した新しい文明を現代は求めているのではないか。そして、この新しい文明を開く鍵が「緑」なのである。

       二 緑を守る

しかし、現代の社会の中に緑を定着させることは容易ではない。

(1) 第一には緑を保つ森林は経済生産の対象になりにくいという点がある。森林がその効用を発揮するには五〇年なり一〇〇年なりの長期間ストックされた状態が続かねばならない。その間伐採収益はあがらない。つまり、投下資本の回転期間は通常の商・エ・農業とは比べようもないくらいの超長期なのである。木材価格が低い場合、育林資本の投下はほとんど望まれない。

(2) 第二には森林は野外の自然の中で育つので、風害、虫害、人害など多くの災害を受け易いという点がある。一たび大雪がくれば何十年と丹精こめて育てた森林が倒れる。昭和五十五年から五十六年にかけての豪雪は福島県でも福井県でも大きな傷跡をスギ人工林に残した。また人里遠く離れたところでは管理の目も行きとどかず、心なきハイカーの捨てたタバコの吸殻が何千ヘククールの火災を引きおこしたこともまれではない。

(3) 第三には森林は地質や気象などの自然的条件によって著しく生態条件を異にするという点がある。わが国は北は北海道から南は沖繩まで、亜寒帯から亜熱帯まで長くのびている。それによる植物の生育条件は多様である。しかも一つの地域の中でも微妙に異なる。同じ村の中でも谷や峯を異にしただけで土壌や気象条件を異にすることも多いが、森林はそのようなすこしの条件の違いでも敏感に反応する。

主な点を拾っただけではあるけれども、このような性質をもった森林であればこそ、取扱いには忍耐強い細心な配慮が必要となるのである。

古くから、森林を育て、その活力をいつまでも維持するためには、多くの努力が注がれてきた。たとえば農業用水の水源にある森林を田林[たばやし]水林[みずばやし]として守ってきたのもその一つである。農民たちはそこでの伐採を禁止した。禁止するだけでなく、立入りをとめたことも多かった。「天狗のいる山」として子々孫々に伝え、奥深い神気の宿る山としてあがめたなどはその例である。また、西北の風の吹き荒ぶ日本海岸のいたる所では、「砂留林[すなどめばやし]」が育てられた。灼熱する夏の砂浜に、寒風にさらされる冬の砂丘の上にクロマツを成育させるのは並大抵の苦労ではない。何年も何十年も、人々は自然の猛威に耐えながら森林を仕立てた。内陸部の「風除林[かぜよけばやし]」もそうである。農地を、住宅を、人々はこうして必死になって守った。防砂・防風林の管理は厳しかった。日常の薪や草をとることもあったが厳重な規制の下でしか行われなかったし、暴風で木が倒れ森林内に穴が明けば村民が総出で植林した。何百年もの間、人々はこうして大事に森林を守ってきたのである。緑が維持されるためには人間の心をこめた管理が必要であると言いかえてよいであろう。

       三 緑を創る

現代における森林の意義は以前に増して大きなものとなっている。

(1) その一つは木材の生産面である。わが国は現在年間一億立方メートルを超える木材を消費している。建築用材、パルプ用材、合板用材などがその主なものである。スギ、ヒノキ、マツなどは建築用にあてられる。国内生産量だけでは不足で総消費量の約三分の二は外国から輸入する。東南アジアからは南洋材、米国やカナダからは米スギ、米ツガが、ソ連からはエゾマツ、トドマツなどが日本に供給されている。しかしかつては無限と考えられていた外材資源ではあったが、カナダの丸太輸出の禁止をはじめ、東南アジア諸国でも丸太輸出の制限がすすんでいる。フィリピン、マレーシア、インドネシア、パプア・ニューギニアの各国は、SEALPA (South East Asia Lumber Producer’s Association 東南アジア木材生産者連合)を結成し、対外的な交渉の組織としている。資源ナショナリズムの昂揚、国内資源の有効利用の方向が強くうちだされ、これからは以前とは異なる外材需給環境になることが予測されている。この面からもわが国の国内森林資源の充実が強く要求されている。

(2) 第二は水の需給の面である。社会経済の発展、人口の都市集中により、水の需要も急速に増した。都市用水(生活用水、工場用水)、農業用水の合計で、昭和五十年に八七六億立方メートルであった需要量は、昭和六十五年には一、一四五億立方メートルに増えることが予測されている(国土庁調べ)。増加する水資源の確保をはかるため、約三六〇カ所の水資源関連施設(ダム等) の新設も計画されている。水資源を確保するうえに、水の保留機能をもった森林の働きや、ダムヘの土砂流出=ダム埋砂=を防ぐ森林の働きが重要となっている。

(3) さらに風や砂や洪水の災害を防ぎ、人命や財産を護る森林の働きも重要さを加えている。日本海・太平洋海岸にはいたるところに海岸林(防潮林、防砂林、防風林)があり、山地には、流量を調節し降水が一時に流れだすのを防ぐ森林が配備されている。海岸線や、河口付近に都市が発達し、産業施設の集中しているわが国では、これらの森林の役割は重い。

(4) また、レクリエーション利用人口の急増がある。自然公園利用者が八億人を超えた現在、自然公園をはじめ、レクリエーションの森、県民の森、都市公園など、豊かな緑を保持する森林の確保は人間が心身を健康に生きるための最低限の条件となっている。

しかし、以上のように、国内森林の重要性が増大するなかにあって、森林を創る条件は逆に悪化の一途を辿っているのが現状である。山村から労働力が都市へ流出し、地価が高騰して林業を放棄する者が増え、林業投資もまた急減しているのが実情である。スギやヒノキなどの造林面積を年次的に見ても、昭和三十五年の四〇万ヘクタール(国有林、民有林全国計)の年間造林面積は同四十五年には三五万、同五十年には二三万、同五十四年には一七万ヘクタールとなっているほどである。山村にとって唯一の産業とも言える林業がこうした衰退の傾向を辿っていることは、一国の社会、経済の在り方としては決して健全な姿ではない。

都市が繁栄して「都市公害」を起すほどの頂点に達している反面では、山村では廃屋、潰地、離村があいつぎ「疲弊障害」の重症に陥っているものが多いのである。山村の疲弊が資本不足によることも多いことを見れば、森林を創るための資本を山村に投下する必要の大きいことは明らかである。明治一〇〇年の日本の発展にはそれまで長い年月をかけて蓄積した山村の資源がずい分役に立ったが、その結果は現代に見るように、山村は荒れて都市は栄えるという、アンバランスな状態が生れたのである。都市のエネルギーを山村へ、たとえば水源林の整備のための費用を都市が分担すること、こうした「資金還流」の必要性が大きくなっている。水を貯える上流水源地帯の山村と、水を消費する下流受益者の都市とは、水を媒介として成りたつ「流域共同体」でないかとする考え方が生れ、緑を絆とする上下流一体化を望む声の強くなっているのは、こうした現代の要求を反映したものと言ってよい。

国のすみずみまで豊かな緑で包むことにより、新しい文明の基礎がつくられる。都市と山村とが力を合わせることはその一つの側面である。

(東京大学教授・東大・農博・昭23)