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ディッチリー国際会議について 伊東 俊太郎 No.752(昭和56年7月)

ディッチリー国際会議について
伊東 俊太郎
(東京大学教授)

No.752(昭和56年7月)号

ディッチリー国際会議について

筆者は今年の四月の十日から十二日まで、オクスフォードの西北十三マイルのところにあるエンストーン郊外のディッチリー・パークで行われた「イスラム国際会議」に出席し、各国のイスラム学者、知識人と三日間寝食を共にして過すことができた。このディッチリー財団の主催する国際会議については、それが民間レベルの国際会議として、かなり重要な役割を果しているにも拘らず、まだあまり我が国では知られていないようなので、ここに紹介しておきたいと思う。

イギリスのディッチリー財団(The Ditchley Foundation)というのは、デイヴッド・ウィルス卿(Sir David Wills) という郷士が私財を投げうって一九五八年に設立した私立の財団で、当初は英米両国の共通の問題を共同で討議するという目的をもっていたが、その後枠を広げ、英米のみならず西欧諸国および日本を加えた各国から有識者を集め、そのときどきの特定のテーマについて数日間泊り込みで自由に議論し合い、互いに啓発し合うことを目的とし、政府機構からは一切独立して、何ら特定の政治的な目的をもたないことを特徴としている。この財団の運営はその成立の事情から云って、英国人が中心となる理事会によってなされているが、欧米諸国や日本もこれに参加し、我が国からは土光敏夫、前田義徳両氏が理事に就任されている。一九六四年にアメリカにもこれに対応する米国ディッチリー財団が設立されたが、一九七六年には日本にもディッチリー日本委員会が設けられ、経団連会長の稲山嘉寛氏が会長を務められている。

この国際会議が行われるディッチリー・パークというのは、美しい川の流れる広大な敷地をもった閑静な庭園で、そこには十八世紀の貴族の瀟洒な三階建の邸宅がある(写真)。この建物は一七二〇年代にリッチフィールド侯ジョージ・リーによって建てられ、一九三二年までリー家のものであった。因みに南北戦争で有名なアメリカのリー将軍も、この一家の出である。リー家は英国王室と縁続きであり、代々親密な関係にあったから、現邸宅の前にあった建物にはヘンリー・リー卿の時代に、ときのエリザベス女王(一世)やジェイムズ一世、さらにはチャールズ二世も訪れたと云われる由緒ある場所で、今の邸宅にも現在のエリザベス女王(二世)が訪れて記念の植樹をしている。さらに戦時中には、時の宰相ウィンストン・チャーチルが、ロンドン空襲の難を避けて、この建物を彼のヘッドクォーターとして用い、内外の著名な政治家と会見したところとして歴史的な建築物たる意味をもっている。この建物の六号室はたしかチャーチルが寝泊りしていた部屋で、そのほか内部には三十人から四十人の客を宿泊させる個室があり、立派な食堂や図書館を併せもっている。全体は豪華なロココ風の装飾で彩られているが、個室で用いられている家具は、机も椅子も洋服棚も大変な時代物で、日本ならさしずめ骨董品であるが、それらを大事に補修して保存し、むしろそうした歴史をもつ調度品をそのまま使用していることに誇りを感じてさえいるような、イギリスらしい古風な貴族性が面白かった。これは回顧趣味とばかりはいえない生活様式の問題で、何でもすぐに新しいものに切り換えていって、歴史的な蓄積の余韻や余裕をたのしむことない日本的なせっかちなやり方がよいかどうか―イギリスの停滞性と一言で片附けてはしまえない生活の質の違いを感じさせられた。

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ところでここで催される国際会議のテーマは、EC、中東、アジアなどの地域問題もあり、教育、文化、経済、社会に亙るさまざまな特殊問題もあるが、会談は全く私的なもので、公務にあるものが出席する場合でも、個人の立場で発言することになっている。日本からは一九七六年以降、「技術進歩の調整」というテーマで勝沼晴雄(東大名誉教授)、高垣節夫(日本エネルギー経済研究所研究理事)の両氏が続けて出席されたのを皮切りに、最近では「工業開発―環境と社会」のテーマで金沢良雄氏(成蹊大学名誉教授)、「原子力問題」のテーマでは都甲泰正(東京大学教授)佐々木史郎(東京電力原子力管理部長)の両氏、「太平洋地域における勢力バランス」のテーマでは、緒方貞子(上智大学教授)細見卓(日本興業銀行顧問)の両氏など、すでに多くの日本の学者や知識人が参加されている。原子力問題一つとっても、MITのラスムッセンのような推進派ばかりでなく、『ネイチャー』編集長のマドックスやアメリカ科学者連合のストーンのような消極派や反対派の人々も招かれるというふうに、一般に人選に偏りがないことに特色がある。

日本ディッチリー委員会の要請で、筆者が出席した国際会議のテーマは「イスラムの再興」(The Resurgence of Islam)というもので、石油ショック以来、欧米諸国や日本に強烈なインパクトを与えるようになったイスラム・パワーの勃興をどのように評価し、それにどんな対応をしていったらよいかという問題を討議するのが主眼点であった。参加者はやはり主催国のイギリスが最も多く十三名、ついでアメリカから十名、フランスから二名、ドイツ、スイス、カナダ、オーストラリア、インド、日本からそれぞれ一名、それにアラブ圏からはエジプト、イラン、ヨルダン、パキスタン、トルコから計五名が参加した。そのなかから主だった顔ぶれを紹介すれば、イギリスからはオクスフォード大学のイスラム研究の大御所ハウラーニ(Prof. A. Hourani)、オクスフォードのペンブローク・カレッジの学寮長でクウェート大使も務めたことのあるジョフリー・アーサー(Sir Geoffrey Arthur)、ロンドン大学のオリエント・アフリカ研究校のヤップ(Dr. M. E. Yapp)、アメリカからはイラン研究を専門とするアムハースト・カレッジのベイトソン(Dean C. Bateson)、テクサス大学のビル(Prof. James. A. Bill)、コロンビア大学のヤーシャター(Prof. E. Yarshater)など、ドイツからはオリエント研究所のシュタインバッハ(Dr. U. Steinbach)、フランスからは近代アジア・アフリカ高等研究センターのゴマーヌ(Dr. J-P. Gomane)、スイスからはジュネーブ在住のイスマイル派の教主、アーガー・ハーン(Prince Agha Khan)、アラブ圏からはカイロ大学の哲学者ハナーフィー(Prof. H. Hanafi)、ヨルダン大学のイスラム史家、ドゥーリー(Prof. Abdul-Aziz Duri)、アンカラ大学の法学者オズブドゥン(Prof. E. Ozbudun)、イランからのレフュジーで現在オクスフォードのアントニー・カレッジで教えているエナヤート(Dr. H. Enayat)などの諸氏で、こうした学者のほかに、これまで中東とかかわりをもった外交官や実業家も参加した。これら全体の座長をつとめたのは、ワシントンの中東研究所の所長をつとめるブラウン氏(President L. Dean Brown) であり、会議の事務局長はディッチリー財団の理事で、ヨルダン大使を務めたことのあるアダムス卿(Sir Philip Adams)であった。

会議は一日目に「イスラムの復活」とその「国際的意味」をめぐって、まずハウラーニ教授とビル教授の基調報告を中心として全体的な討議がなされ、二日目には「認識と理解」(Knowledge and Understanding)「貿易と金融」(Trade and Finance) 「政治上の緊急事」(Political Imperatives)の三部門に分れて、各部門ごとに討論を行い、三日目にはこれらの討論の結果をもちよって、再び全体で議論するというやり方で進められた。

筆者は専門から云って第一部門への参加を希望したが、日本の経済的地位の向上から、第二部門にも少し出席して欲しいと云われ、まずここに顔を出すことになった。ここではイスラムの勃興がこれまでの西欧の貿易のパターンや金融のとり扱いにどのような影響をもっているか、これらの点について西欧諸国はイスラム諸国とともにどのような改善を試みるべきか、というようなことが論ぜられた。このセッションは筆者にとっては畑違いの領域であったが、ほぼ次のようなことを述べておいた。すなわち西欧や日本はアラブ諸国を石油ほしさの利用対象とのみ考える発想を捨てて、南北問題のグローバルな解決のために技術援助を行い、彼らの自立を助けるべきこと、またイスラム諸国は現在オイル・マネーによる表面的景気のよさにも拘らず、原料を輸出して製品を輸入するという構造において未開発国であり、彼らが現在の富を浪費するならば、近いうちに元の木阿弥になることは必須であるから、今こそイスラム諸国は階層並びに国家間の経済的格差を解消すべくその富を利用する好機で、欧日はこの方向で技術援助を試みるべきである。

続いて「認識と理解」の部門に出席したが、ここではイスラム諸国と非イスラム諸国がその相互の認識と理解を深めるにはどんな手だてが必要か、共通の関心事においてイデオロギーの違いによる破局を避けるにはどうしたらよいか、これまでこの異文化の価値の相互理解に関して適切な努力がなされてきたか??というような問題が討論された。ここでも筆者はかなり大胆に、日本独自の見方や考え方を述べておいた。すなわち従来西欧諸国はイスラム文化圏に対し、十字軍以来、それと対立しそれを克服して自らの勢力を築いて来たという歴史があるため、自覚するとしないとに拘らず、どうしても植民地主義的な自己中心の立場から見てしまうきらいがあった。イスラムをイスラムの文脈ではなく、自己のなかに吸収された限りにおいてしか見ないというエスノセントリズムを捨て去っていない。この点日本はアラブ諸国との付き合いが浅く歴史的経験ははるかに乏しいが、それだけに偏見におかされずにアラブをアラブの立場から見てとることができると思う。いわばアラブと西欧の両方に対して等距離に立って、その公平な仲介者となってゆくことができるかも知れない。そうした役割を今こそ日本は果すべきであると。

こうした見方は、まずアラブ圏からの参加者の好意的評価を得たし、オーストラリアその他の中進国の人々も賛同してくれたようだった。フランスのゴマーヌ氏は、西欧のアラブ研究がいまだにコロニアリスティックだと告白していたし、イギリス人も意外に寛大で、こうした非西欧的見解にも耳をかたむけてくれる人が多かったように思う。だがアメリカの若干の旧い世代の学者には、「何を生意気を云うか」という気持の人もいたことは確かである。

しかしこうしたヨーロッパの国際会議でいつも感じることなのだが、いたずらに西欧的見方に迎合せず、アジアの一角からそれとは異なった見方や考え方を提示することの方が、若干の反撥にあっても、結局は相互の利益になると筆者は確信している。それにしても英米の学者はいうまでもなく、ドイツの学者などが早口にまくし立てているのを聞いていると、いやおうなしに言葉のハンディというものを思い知らされてしまう。しかし各国の学者、知識人と三日間寝食を共にして語り合えたのは、筆者にとっても大変貴重な経験となり、今後の国際交流についても多々考えさせられることがあった。別れ際に主催者のウィルス卿が、「あなたのコントリビューションは大きかった」と云ってくれたが、これはもちろん外交辞令であるにしても、その幾分かはお世辞ではなかったことを願うものである。

主催者側のもてなしは完璧といってよく、駅までのバスによる送迎や、会議の間のティー・パーティー、ディナー、レセプションなど、みなヨーロッパのよき時代の華麗なホスピタリティーの名残りを伝え、没落したといわれるイギリスが保っている気品ある矜持を十二分に示していた。

今後ともこうした自由で闊達な国際会議が多くの実りをもたらすことを祈りたい。政治や国家の枠を離れて、さまざまな国の識者が個人レベルで相互理解をとげてゆく機会が益々多くなることは、それが性急な現実的見返りを要求していないだけに、かえって長い眼でみると好ましい影響をもつのではないだろうか。ヨーロッパにはこの種の国際会議として、ほかにオーストリアのアルプバッハ会議などがあるが、日本でも我が国に見合った適切なテーマで、こうした国際会議がもたれてもよいであろう。

(東京大学教授・東大・文・昭28)