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今後の医学教育について―主として臨床医学教育― 日野原 重明 No.752(昭和56年7月)

今後の医学教育について―主として臨床医学教育―
日野原 重明
(聖路加国際病院臨床医学教育顧問)
No.752(昭和56年7月)号

    まえがき
 去る昭和五十六年、四月二十三日、二十四日の二日間、アメリカ合衆国の北カロライナ州デューク大学において、デューク大学医学部とJ・メーシー・ジュニア財団の共催による国際セミナーに参加する機会が与えられた。主題は「大学病院の役割の将来展望」であり、これには欧米諸国と日本を合わせて八ヵ国の代表者(主として学長または学部長)が参加し、極めて有意義な討議がなされた。

 私は、明治の時代から始まる日本の医学教育は、第二次世界大戦までは、全くドイツにならったものであり、戦後アメリカのシステムを指向するように変りつつあるが、しかしアメリカとは、今なお、種々の点において非常に異なることを指摘した。

 以下、日本の医学制度と、その内容とがこの方面では今日最も進歩しているアメリカとはどう異なっているかを具体的に述べ、今後日本の医学教育を刷新していく方向づけを考えたいと思う。

    一、不明確な教育目標――サイエンスとアート
 先ず日本の医学教育は、教育目標の設定が不明確であり、良い医師の養成というよりも、医科学の進歩のためという考え方が、今なお、教官の多くのものによって支持されているように思われる。

 よい医師を作るには、医学教育の目標が次の三方面においてバランスがとられていることが必要である。すなわち知識(knowledge)技能(skill)と態度(attitude)とである。ところが日本の医学は欧米の進んだ医学に追いつくために、日本人の勤勉さで非常に努力してきたが、その大部分の努力が医学知識の追求とそのレベルアップであり、技能の面では、メカニックスを中心とする技術(technology)に重点が置かれたのであった。

 医師として本当に必要な技能である臨床的技能と英米でいわれているものは、単なるテクノロジーではなく、患者の中に隠れている健康上の問題を、どのように明確にとり出して解決するかということであり、その基本は、患者やその家族という人間に効果的に接するインタビューの技能と、診察術とである。

 ギリシャの時代から、医はアートとされてきたが、西洋の医学は、アートにサイエンスがくっついて発展したといえよう。

 しかし、日本では、医学の中のサイエンスに重点がおかれ、病気を持つ人間と医師との、科学の領域外を含めての人間関係のもち方や、その病む人間へのアプローチの技術、患者の心身の中に潜む問題を明確に取り出す術といったアートの育成が、非常におろそかにされていたのである。

 欧米では、bedside diagnosis を重視する。この点では現在の英米はドイツ以上にそうであるが、日本では bedside diagnosis を支えるものとして、どのように患者にインタビューをして問診し、視診、聴打診、触診をどう効果的に行うかについてのよき教育的指導に欠けている。その教育は、多くは講義中心になされ、診断学という名称で、各科の専門家によってそれが行われるが、それは英米におけるような診察術の教育(art of physical examination)ではないのである。日本では診断学というとすぐ、内視鏡、心電図、心エコー、一般X線撮影、CTスキャン、血管造影、血液化学検査といった機械によってふるいわけされるものが優位に置かれ、先ず対応する患者から素手で所見をとり出す技能の訓練が甚だお粗末であった。心尖拍動、頸静脈波の拍動、心音聴診、打診、腹部臓器の触診など、種々の検査にまさる所見が臨床的熟練によって得られるのに、それらを把握できる技能が医学生に育成されない。

 これは指導者の長である内科の教授さえ、自分の狭い専門領域以外の体の診察能力は非常に乏しく、回診で学生にこれを指導することが少ないためである。これは循環器専門家、消化器専門家、外科専門家である前に、一個の臨床医であることの訓練が、日本ではなされず、そのようにして、専門家になったものは、次の時代の学生に、広い基盤に立つ診察術を伝授することができないのである。

 今日アメリカでは、学生に対するこの physical examination の技法の教育は、内科医か、プライマリ・ケアを専門とする医師によって行われ、レジデントへの極めて専門的な技法の教育は各科の専門医によってなされている場合が多い。

 アメリカでは、これを診断学の講義とは呼ばず、introduction to clinical medicine と呼んでいるところが多い。

 このような教育は、学生になるべく多くの患者に触れさせることによって行われるが、日本では学生は患者に触れる機会が少ない。またアメリカの医学校ではシミュレーションによる効果的な心音聴診教育、その他各方面のシミュレーションを用いての教育もなされ、シミュレーションによる教育評価もなされて非常な効果をもたらしているのである。日本ではこのような教育をする大学は少ない。

    二、ケアを忘れた医学
 次に日本の医学教育に欠けている重大なことを指摘しよう。

 医療の目的は、単に患者の病気を診断したり、手術したりするのではなく、患者のケア(care)であるという英米医学の思想を現代の日本の医学はとり入れることが少ない点である。この意味は、「医は仁術である」という東洋の古い思想の中に当然包含されているものと私は考えている。日本では患者のケアというものは、医師よりも看護婦の手に渡されている観がある。

 英米では、ウィリアム・オスラー(William Osler)やフランシス・ピーバディ(Francis W. Peabody)の如き十九世紀から二十世紀にかけての優れた臨床医の思想が、近代医学の中に強くとり上げられてきたのである。しかし、日本での有名な医師は、患者のケアを重視するよき臨床医のモデルであるよりも、むしろ医学者であり、そのアカデミズムが若い学生の心を強く引いてきたのである。

 ケアということは、患者や家族の問題を解くこと、悩みを軽くするために、いつも患者の立場に立って努力することであり、それには、患者や家族の問題を、人間的に理解し、共感できる職業人でなければならない。

 ジョンス・ホプキンス大学の内科教授のオスラーは、一九〇三年に、トロント大学の学生への講演「医学への道」で次のように語った。
「医学は Art(術)であって、商いではない、これは、天職であって、決して、単なる職業ではない。この医業によって、諸君らの心と頭脳とは、等しく錬磨されるのである。諸君の働きの大部分は、水薬や散薬といったものよりも、むしろ、強いものが弱いものに、正しいものが不正のものに、賢いものが愚かなものに対して与える感化に関することの方がもっと多い。
………君たちのする仕事の少なくとも三分の一は、専門の医学書以外の本に、書かれる内容のものである。君たちが生をうけたのは、自己のためではなく、他人の幸福のためであることを、よく心に覚えるべきである。」
 ――医学への道――(1903)
William Osler
Tronto 大学にて

 そのために、オスラーは医学生に、就寝前の三十分間、新旧約聖書、シェークスピア、モンテーニュ、プルターク、マルカス・オウレリウス、エピクテタス、医師の宗教(トマス・ブラウン)、ドン・キホーテ、エマーソン、オリバー・ウェンデル・ホルムズなどの著書を読むことを勧めている。

 アメリカでは、医学部に入学するには、高校卒業後に四年のカレッジ(理科または文科何れか)を卒業することを受験資格にしているので、日本の二年の進学課程の倍の期間に、一般教養を身につけるという点で、非常に違っている。オスラーは、医学部に入学するまでの四年のカレッジのコースの必要性を説きつつ、医学部入学後も、ひきつづき人間としての教養や人格形成を重視した人である。

 ピーバディのハーバード大学医学部学生への講演 The care of the patient (JAMA. 88:887, 1927)の中には次の言葉がある。
「診療は広い意味で、医師と患者とのすべての関係を含んでいる。それは進歩しつつある医学的科学に基づいた技術であるが、しかしなお多くの科学の領域外のものを含んでいる。医学において技術と科学性とは相反するものでなく、互いに相補いあうものである。………

 疾病の治療は全く非個人的かもしれないが、患者のケアは完全に個人的でなければならない。医師と患者との間の個人的な関係を密接に保つことは重要であって、それが強調され過ぎるということはない。なぜならば、診断及び治療の両方が直接個人的関係に依存しており、若い医師がこの関係を樹立できないために、患者のケアを効果なきものにしていることが余りにも多いからである。

 臨床像というものは、ただ単にベッド上で病んでいる患者の写真ではなく、それは家庭、仕事、親戚、友人、喜び、悲しみ、希望、そして恐怖などにとりかこまれている患者の印象的な画である。

 それ故、患者をケアしようとする医師が、この患者の情緒的な生活に寄与している要因を無視することは、研究者が実験に影響する条件のすべてをコントロールしないのと同様に、非科学的なことである………。

 臨床家にとって本質的な資格の一つは、人間性を重視することである。なぜならば患者のケアの秘訣は、患者を大切にすることだからである。」

 このような患者へのアプローチができるように学生を教育し、研修医を育てるということが、日本では非常におろそかにされ、そのような診察よりも、高等な機械を使ってのデータ出しの方に、若い医師や学生の興味や関心が向けられるということは、我々が強く反省すべきことである。

    三、一般医と専門医
 次に、わが国での臨床教育の中で、一般医(generalist)と専門医(specialist)の養成状況を考えてみよう。

 わが国では、戦後から始まり、昭和四十三年、医師法改正までは、医学校の卒後、不完全ながら各科をローテーションする一年間のインターン制があって、これを終わったものに国家試験の受験資格が与えられたのである。

 ところが、これは学生の反発に会い、インターン制は崩壊し、これに代わって二ヵ年の研修医制度が、政府の補助金の下に行われるようになった。大学を卒業したものの80%が大学病院のどこか希望する科に入局して研修を始めるのであり、残りの20%は、大学外の教育病院で研修をするのが現状である。

 しかし大部分の卒業生は、卒後すぐ消化器内科、循環器内科、脳外科、胸部外科などといった、いわば subspecialty を専門にする医局にも入局でき、その場合そのような医師は極めて狭い範囲の医学を初めから専攻することになる。これは英米の実情とは異なるもので、たとえ生涯ある専門領域の専門家になるにしても、これは非常に幅の狭い医師を作ることになる。それも我が国の現状では、卒後10年、20年と狭い分野の医学をやったものが、種々の理由からその50ないし75%が結局開業して、種々様々の病気や病人を扱う開業医となるのである。

 このように卒業後ストレートに専門科に入ることを避け、一、二年は幅広い臨床医学を修めた上、専門分科に進むことが望ましいのである。また生涯プライマリ・ケアをやろうと決心するものは、内科、小児科を中心としながらも、多方面の臨床医学に触れて、地域の家庭医となって幅広いプライマリ・ケアのサービスをすることが望ましいのである。

 即ち将来は、在来の専門医の養成から一般医を一応区別して、幅広い家庭医を作る道を拓くと同時に、専門医を本当に指向するものにも臨床医学に入る最初は、幅広い臨床を一応修得させることが専門性を伸ばすためにも望ましいと考える。

 日本では、厚生省の審議会の中の医師研修部会では、卒後のローテーション・システムを教育病院が設けることを強く勧めているが、未だこれは普及されるに到っていない。

 アメリカでは、学部三、四年の間に、このような臨床的な幅広い研修がなされた上で卒後すぐ専門科に入るのであるが、日本では医学部の上級の研修がそのような効果的な臨床研修になっていないので、卒後の研修をアメリカと同じように考えるのは間違いであると思う。アメリカでも幅の広い一般医を養成して地域に送るためには、卒後三年の幅広い臨床研修を受けさせるコースが、家庭医学 family medicine の専門科として、すでに一九六九年から発足しているのである。

 アメリカでは専門医制度が非常に発達し、先ず、一九一七年から始まる眼科の専門医制度の発足以来、今日までに二十三科の専門医制度が確立しているが、日本では現在までに十四の専門医制度が発足し、ようやくこの制度が定着しようとしている。日本で最も早く専門医制度を打ち出したのは、麻酔科であり、一九三〇年にアメリカの制度を習ってこの発足をみたが、アメリカでは一九三六年に発足した内科専門医制度は、日本では約三十年遅れた一九六八年にようやく発足したのである。日本の臨床医学においては、このような専門制はまだ充分にシステム化していないという現状である。医学教育におけるシステム化は日本では非常に遅れていると考えられる。

 日本では専門家という場合には、専門の内科とか外科とかに何年か入局していたという経歴だけで専門家と自称しており、その専門性を客観的に証明するような試験が長い間なかったことが、日本の専門医学の進歩のテンポをはばんだのである。アメリカの専門医資格認定はすべて、試験に合格したものに限るわけであるが、わが国においては、最近ようやくこのようなことが実施されるようになったのであり、このことは遅ればせながら非常によい傾向ではないかと思う。しかし専門医制度が充足されるとともに、もっとそれ以上に幅広い家庭医を養成することの必要が地域医療のために強調されなければならないと思う。

    四、教育病院として欠陥の多い大学病院
 私は、日本の医学生や研修医の医学教育の中で欠けている他の重要なこととして、大学病院の偏向性を取り上げたい。日本の大学病院では、医師が担当する患者の数が、非常に限られており、少数のしかも稀な病気を持つ患者のみを詳しく診療し、その意味でいろいろのケースを幅広く体験的に学習させることが欠けている。教育に必要なことは、よき指導者を得ることとともに、体験的学習を重ねることである。この意味では、いたずらに慢性疾患の多い大学病院(平均在院日数約四十日、アメリカの教育病院では約九日)の入院患者を整理するか、大学病院外に関連教育病院を持ち、幅広い患者層と指導者を持つことが必要である。この関連教育病院は、過去十二年前から日本において新設された国立医科大学で実験されつつあるが、両施設間の緊密な連絡なしでは、その成果は得られないものである。

 次に大学病院やその他の病院は、病院としての基本的な機構と機能を具えることが必須であることを強調したい。これなしには、バランスのとれたよき診療は願えず、病院は奇形化し、よき教育の場となりえないのである。

 診療記録管理体制の整備、ソーシャル・ワーカーの活用、看護婦の能力に応じての活用、精度管理の確かな中央検査室、臨床薬剤師の病棟での利用、正当な経済的基盤をもつ病院経営、ボランティアの活用等である。

 右に述べた諸点は、何れも日本は英米の病院に遅れ、建物以外の内側の病院のシステムが整っていない所に教育の場として貧困さがみられるのである。

    むすび
 以上は、正しい医療への取り組みに基づいたわが国の医学教育刷新への私の提言であり、これは、医師養成のみならず、医学研究の本質的な方向に関する基本的問題への提言ともなるものと考えている次第である。

(聖路加国際病院臨床医学教育顧問・京大・医博・医・昭12)