学士会アーカイブス
ウスケボー物語 佐治 敬三 No.752(昭和56年7月)
Whisky の語源は Gaelic(ケルト語の一派)の Uisge beatha(ウイスケベーハー)に発している。Uisge beathaが Usquebaugh(ウスケボー)に変化し、簡略化されて Usky 更に転じて Whisky となった。Uisge beatha はラテン語のAqua Vitae に当る。相応するフランス語はブランディに用いられる eau de vie 何れも生命の水を意味する。 さてスコットランドのウイスキー、すなわちスコッチウイスキーは、いつ頃、どのようにして生れたか、確かな史実はハイランドの深い霧の中に没して明らかではない。 スコットランドとは、ブリテン島の北部、ローマ人がカレドニアとよんだ地方である。その南半分がローランド、北半分がハイランドで、そこは山岳、沼沢の地である。 ケルト人はインド・ヨーロッパ語族の中の北方系一支族である。彼らは南ドイツにあったと思われる原故郷から諸方に移動し、今日のヨーロッパの大部分の地にその文化の影を落し、紀元前五、六世紀ごろからいくつかの波となって、ブリテン島、アイルランド島にケルト文化を定着させた。北部スコットランドにはピクト人、南部のイングランドにはブリトン族、隣のアイルランドにはスコット族が住みついた。「ケルト人は好んで集り、好んで大いに食い、好んで酔い、大がかりな騒がしい宴を人生の意味と考える。」いわば、グルマンにしてグルメな人種であった。 実際彼らは葡萄酒に眼がなかった、とローマの史書は伝えている。アルプスを越えて、アンフォラ(陶器の壺)に入ったおびただしい量の葡萄酒がガリア即ちケルト人の土地に送られた。彼らは時に一壺を購うのに一人の奴隷を当てるほど葡萄酒を珍重した。 後年ローヌ川、モーゼル川、ライン川、更には南仏ボルドーの地は、葡萄酒の銘醸地としてその名をうたわれるようになるが、これらの地方の葡萄酒を守り育てたのはケルトの人々であったといわれている。 ケルト人の原故郷バイエルンはビールの銘醸地。そしてウイスキーもまたケルトの産物。そう見てくるとヨーロッパは、その酒文化のすべてをケルト人に負っていると言えるのかもしれない。 ウイスキーの語源がブランディのフランス語と同じく「生命の水」を意味しているという事実の奥に、(たとえそれがラテン語を介してのことであったとしても)ケルト人のセンチメントを感じる。 ゲルマンの国々では葡萄酒の蒸留酒が Branntwein (焼酒とでもいうべきか)転じて Brandy とよばれることを考えると、両者の間に横たわる深淵を思わざるを得ない。 さてウイスキーは蒸溜酒。単純化していえばそれはビールの蒸溜産物である。 蒸溜即ち液体を加熱蒸発させ、再び冷却して溜液を得るという技術は、かなり古くから人類に知られていた。メソポタミアのテペ・ガウラでは、BC三九○○年頃のものと推定される蒸溜器が出土している。ところが不思議なことには、ヨーロッパにおいて酒類を蒸溜して得られたアルコールが最初に記載された歴史的な文書は、一一〇〇年、イタリア、サレルノ医学校のそれである。宗教的な制約か、錬金術士による秘密の保持が厳重をきわめたのか、いずれにしても蒸溜器の発明からあまりに歳月が経ちすぎている。 アイルランドの伝説は、五世紀その守護神セントパトリックが巡礼の途次、蒸溜の技術を習い、それをアイルランドにもたらしたという。またその頃アイルランドのケルト人スコット族はスコットランドに進攻し、ピクト族を圧迫してその地に住みつき、(この地をスコットランドとよぶ所以である。)蒸溜の技術もまたこの時スコットランドにもたらされたという。この事の当否はおくとして、地中海地方に発した蒸溜技術の波はイベリア半島を経由して、案外早くアイルランドに到達していた可能性を、全く否定し去るわけには行かないであろう。 もっともアイルランドでも史書にウイスキーが現われるのは大分後のこと、一一七二年イギリス王へンリーニ世がアイルランドに進攻した際、その地でUisge beatha が飲まれている姿が述べられている。 スコットランドにおけるウイスキーの製造が初めて公文書に記載されるのは、更に下って一四九四年スコットランドの大蔵省文書である。それによると「8 bolls の麦芽が修道僧ジョーン コーアにアクアビテー(ウイスキー)を造るために与えられる」とある。8 bolls は約一七○○ℓに当るから、製造されたウイスキーは本数にして約一〇〇〇本である。 当時の製造技術はまだ至って未熟であった。一度の蒸溜では、勿論アルコール度数も低いし不純物もありすぎて、酒としての品質は落第点。二度、三度でもまだ不足、四度目の蒸溜でやっと度数は上がったが、あげくのはてにそのままでは飲めないというので様々の薬草香料などを加えたという。 スコットランドの歴史は、ケルト民族悲劇の歴史といってもよい。ブリテン島に独自の文化を誇っていた彼らに屈辱の日がやってくる。BC五五年ヨーロッパ大陸を席巻したローマのシーザーは、海峡を渡ってブリテン島に進攻したのを皮切りに、一世紀末ドミティアヌス帝の時代に至って島の南部はローマの属領となる。続いて四四九年にはゲルマンの一族アングロサクソンが今日のイングランドに侵入しはじめ、遂にはケルト民族はスコットランドとウエールズにおし込められる。スコットランド人は南や東からの他民族の侵攻に抗しながら、この地にケルトの色彩を濃くのこした独自の文化を育ててゆくのである。 スコットランドとイングランドは色彩の濃淡はあっても、いわば同根の人々の国である。時に反発しながら、時に連合して外敵に対して来たのだが、いつも割を喰うのはスコットランド。憎さ百倍のたとえの通り、スコットランド人の心の中には鬱鬱たる不満がふくれ上がってゆく。それが爆発するのが、ウイスキー戦争である。 一六○三年両国の同君連合を経て、一七○七年には両国議会の合併による大英連合王国が成立する。 イングランドとスコットランド併合後の一七一三年、英国国会は麦芽税課税を決定した。麦芽に対する課税はスコットランドにはなじみがなく全くの不評判、それにイングランドから徴税吏が、境界をこえてスコットランドに入ってイングランド式の徴税を強行する。これらをスコットランドに対するイングランドのいわれなき圧迫として、グラスゴウとエディンバラでは大規模な反対の暴動がおこる。世にいうウイスキー戦争である。一方イングランドの徴税吏が入りこめなかったハイランド地方には密造が簇生しはじめる。 イングランドにとって厄介なことには、密造ウイスキーは麦芽を充分に用いることができるため、正統な納税品(課税を軽減するため麦芽の使用量を減らし、代りに他の穀類を用いることになる)より品質が良好なことであった。その上もっとしまつが悪いのはハイランドは山岳地帯、どこにでも恰好の密造蒸溜所が造れるし、できたウイスキーの隠し場所にもことかかないことであった。 徴税吏と密造業者のいたちごっこがはじまる。政府はついに軍隊まで派遣するが、密造を根絶するどころか効果的な徴税さえできない。 ハイランダーにとってはもともと密造に対して罪の意識はない。先祖代々彼らは、彼ら自身の麦を使い、彼らの水を使い、彼らのピート(ヒースの炭化した泥炭)を使って彼ら自身の民族酒を造りつづけてきたのである。 密造者はおおむね零細な小作農家であった。彼らは小作料支払に要する現金収入のために、収穫の一部をウィスキーにかえていた。密造はその意味からも生活にかかせぬ業である。小作人をかかえる地主階級にとっては小作料収入確保のために、はたまた社会秩序維持の上からも、密造は必要不可欠であったのである。 ハイランドの密造を根絶するため、政府は一層高率の課税に走り、取締を強化した。ハイランドの密造業者とイングランド政府との闘いは、更に延々と続く。 小規模業者を根絶しようとして五○○ガロン以下の蒸溜器を禁止した一八一四年の法令は、事態を極度に悪化させた。五○○ガロンの蒸溜に必要な穀物や燃料の手当、加えて製品の売りさばきは一人の農民の手に負えるスケールではなかったのである。勢い密造者が更にふえる。 スコットランド人にしてハイランダーの心と実状を知る一人の上院議員、アレクサンダー ゴードン公は一八二三年の議会で新しい税制を提案し、つづいてこう述べている。 この時、提案された税金は、一ガロン当り二シリング三ペンス=二七ペンス。(ちなみに現在は二六・六ポンド=二六六○ペンス)四○ガロン以上の蒸溜器に対する免許税一○ポンド。 勿論新しい法令は即効を顕したわけではなかったが、密造者の摘発数は一八二三年の一万四千件から、一八七四年には六件へと著減した。 免許取得の第一号となったのは、グレンリベットのジョージ スミス。一八二四年ゴードン公のすすめに従って新しく大規模蒸溜所を建設し、今日に至るまで最高のウイスキーとしての名声と免許第一号蒸溜所の名をほしいままにし、唯一正統のグレンリベット ウイスキー「ザ グレンリベット」を製造しつづけている。 グレンリベットはスペイ川上流の渓谷、気候風土に恵まれてウイスキーの製造に好適。スミスが免許を取得した当時は密造の中心地で、二○○軒の無免許蒸溜所があったという。 今日も銘醸地の名をほしいままにして、同地に所在するいくつかの蒸溜所は競って Glenlivet を名乗っているが、それらはすべて、例えば Glen Grant Glenlivet の如く、何らかの接頭語を付けることが義務付けられている。スミスの蒸溜所だけが、接頭語なしに定冠詞 THE を付けることが許されているのである。 ところでハイランドのウイスキーも、もともと麦芽のみから造られるとは限らず、他の穀類、すなわち裸麦、ライ麦、小麦などが混用されていたが、先にも述べたように麦芽税の課税を機にハイランドの密造ウイスキーでは麦芽の使用量が増加し、やがて十八世紀の後半には麦芽のみを原料として単式蒸溜器によって蒸溜される所謂「ハイランドモルトウイスキー」が誕生した。その原料麦芽を乾燥するのに用いられるのがハイランドに豊富な泥炭ピートである。ハイランドモルトウイスキーに特徴的な重々しい香りを付与するのは、一に、麦芽、二にピート、三に単式蒸溜法ということになろう。 さて、このハイランドの誇り高きモルトウイスキーに対する強敵が現われる。一八二六年ロバート スタインによって発明された連続式蒸溜器、一八三〇年にはアイルランドのダブリン市の徴税吏、エニアス コフェイによって改良され、通称パテントスチルとよばれる効率よく純度の高いアルコールを収得出来る蒸溜器を用いたグレインウイスキーがそれである。 グレインウイスキーにはさまざまな原料を用いることができる。 モルトウイスキーの主役、麦芽はその王座を譲り、せいぜい全体の二割を占めるばかり。代って小麦や裸麦、トーモロコシ等々、安価な原料が使用可能となる。得られる蒸溜液は、アルコール分が高く不純物が少ない、一言にしていえば純粋に近い、特色のないアルコールなのである。 モルトウイスキーはフランスのブランディと同じく風土の産物、所変れば品変るわけだが、このグレインウイスキーはどこで造ろうと品質にさほど大きな差を生じない。おまけに生産費も安く貯蔵の必要もない。(そんな代物がウイスキーとしてまかり通ったことに疑問を持たれる向きがあると思うが、グレインウイスキーは、れっきとした商品として現在でもイギリスには存在する。ジョーン ヘイグ社発売の Choice Old Cameron Brig がそれである。) スコットランド人の気質の中にはケチ精神と共に、どうしようもない投機根性が巣くっている。ハイランドのみならずローランドのあちこちに、たちまちいくつものグレインウイスキーの工場が建設された。品質に特色がないのだから、後はおきまりの価格競争しか残されていない。過当競争の末、ウイスキー会社は「もう死に死にや」というところまで経営が悪化した。たまりかねたジョーン ヘイグなど大手六社が協定を結ぶ。おかげで価格はガロン当り一シリング七ペンスから、一挙に七シリング七ぺンスにはね上がる。協定は生ぬるいとばかりに一八七七年には、六社による新会社DCLが誕生する。今日、世界に冠たるスコッチウイスキーのジャイアンツの前身である。 パテントスチルのグレインウイスキーも、モルトウイスキーと等しくウイスキーとよんでよいものかどうか。主としてハイランドに本拠を置くモルト派と、ローランドのグレイン派との間に論争がたたかわされ、ついに問題は法廷にもちだされた。有名なウイスキー訴訟事件である。数々の権威によるおびただしい論議、現場検証、証人喚問等々の末に生れた結論は次の如くであった。 委員会の最終報告は一九○九年七月二十八日公にされた。曰く『さまざまな分析によっても、ポットスチル(単式蒸溜器)によるかパテントスチルによるかによって、製品の健全さに明白な差を見出すことはできない。したがって我々は、ウイスキーというよび名をポットスチルのみに限定すべきであると勧告することはできない。』 これは正しくグレイン派にとっての輝かしい勝利であったといえる。が同時に、それはスコッチウイスキー業界(ポットスチル派を含めた)にとってもまたすばらしい発展への門出となる価値ある決定であった。 それより先、エディンバラのウイスキー商(グレンリベットの代理店であった)アンドリュー アシャが始めたモルトとグレインとのブレンド(今日、但し書なしでスコッチとよばれているものは、ほとんどすべてブレンドである)を試み、これがロンドンにおいて大変な好評を博しはじめていた。 グレインは先にものべたとおり、原料に由来する香味成分の量をおさえた、いわば中性に近い性格を有する。スコットランド人はこれを静かなウイスキーとよんでいた。それに反しモルトは、単式蒸溜の故に多量の不純物、言葉をかえていえば特色を持った香味成分を含んでいる。声高なウイスキーとよばれる所以である。 ハイランドの人々は、モルトウイスキーのこの香味こそがウイスキーの醍醐味と主張して譲らないわけだが、ローランドの人々や更に都会のロンドン子にとっては、それは粗野な香りとしかうつらない。当時のロンドン子のスノビッシュな飲みものは、ボルドーの赤ワイン クラレットであり、フランスのブランディだったのである。 ウィンストン チャーチルは、かつてこう思い出を語っている。 「我が父は、ヒースの繁ったうそ寒い荒地へ狩猟に出かけたとき以外は決してウイスキー(モルト)を飲んだことはなかった。彼はブランディ ソーダの世代に生きていたのだ。」 その頃大陸では葡萄酒やブランディの供給に一大異変が生じようとしていた。フィロキセラという害虫の蔓延によって、全ヨーロッパのほとんどすべての葡萄が枯死しようとしていたのである。一時はストックで凌いでいたブランディも、ついに底をつかんとしていた。 そのときに現われたのが、ブレンデッドウイスキーというわけである。これならブランディと同じくソーダで割ってのむことができる。ウイスキー訴訟の結果、正式に市民権を得たブレンデッドウイスキーは、その大きな市場をロンドンに見出すことになった。 一八八〇年頃には、ヘイグ、ウォーカー、ブキャナン等々、機を見るに敏な荒武者達がこの技術を駆使してロンドン市場を席巻しはじめる。 もともとグレインウイスキーの業者であったDCLもこの趨勢をいち早く察知して、プレンデッドウイスキー製造に必要なモルトウイスキーの蒸溜所の買収、新建設に積極的に乗り出した。 この頃からの約十年間は、スコッチ業界の黄金時代であった。ロンドンのみならず、アメリカや英領植民地も彼らの大きな市場として育っていった。ビッグ ファイブとよばれる銘柄、ヘイグ、ホワイトラべル、ジョニーウォーカー、ホワイトホース、ブラックアンドホワイト、がのし上がってきたのもこの頃のことである。 スコッチ業界をパニックに陥れるパターソン事件が起るのは正にそのブームのさ中、一八九八年十二月六日のことであった。 スコットランドのリース市のブレンダー(自らは蒸溜工場を持たず、モルトウイスキー、グレインウイスキーをそれぞれ生産者から買い求め、ブレンドして自らの商標で販売することを業とする者。今日でもスコットランドにはこのような業者の数は多い。)パターソンは、ぬけ目のない商才によってまたたく間にのし上がり、その成功に勇気づけられ、投機的ともいえるスケールで蒸溜所を次々と建設した。スコットランドの銀行家の惜しみなく与えた信用がその背景になければ、なし得なかったことである。一発屋はこのパターソンばかりではなかった。ブームの熱気にあおられて、自らの生産を二倍三倍に増大し、あるいは新しい蒸溜所の建設に狂奔する業者は数知れず、過剰生産は最早避けがたい状勢であった。やがて破局の朝が、あまりにも早く訪れる。ある日「パターソン商会金融不安」の噂が流れる。事態収拾の最後の努力も空しく、パターソン商会は一切の支払を停止した。混乱は全業界に及び、ことに中小蒸溜業者の中には、将来への希望も失い廃業していった者もまた少なくはなかった。 すでに強固な基盤を築き、ウイスキーブームに対しても慎重な対応を続けてきたDCLはこの嵐に耐え得たばかりでなく、それを機会に多くの蒸溜所を、しかもめっぽうな安価で(パターソンが六万ポンドを投じた設備を、DCLはわずか二万五千ポンドで入手している。)手に入れ、今日の基礎を築くことになる。 当時総支配人としてこの合併劇を推進したのが、DCL育ての親ロスであった。勇気と深謀と忍耐、はるか将来を見通す先見の明、強固な意志、それに加えて廉潔。類まれな資質に恵まれたロスは、自らの信ずるところに従ってスコッチウイスキー業界独占への道を驀進しはじめていた。 彼ロスのいだいていた信条は、「DCLが全業界の生産も販売もそして価格をも調整する力を持つことによって、ウイスキー業界の合理的な、しかも公正な競争を維持すべきである。そのことは消費者をもまた利益する。」ということであった。 勿論独占禁止法の存在しない、古きよき時代のことである。DCLの独占体制が完成するのは、第一次大戦後のことである。それまでDCLの城の外にあって、誇り高い敵国として対抗していたビッグ ファイブにとって、戦争の痛手を癒すことは容易ではなかった。ストックは枯渇し、資金もまた潤沢とはいえない彼らに残された道はDCLとの協力しかなかった。かねてからDCLの役員として近しい関係にあったへイグが、その子会社、ブレンド専門のジョーン ヘイグ社をDCLに参加せしめたのをきっかけに、ロスは残る大物、ウォーカー、ブキャナン、デワーを説得し、更に二年後一九二七年にはホワイトホースとの合併にも成功、ここにDCLは、名実共にスコッチの巨人となったのである。ピーク時には、DCLは全スコッチウイスキーの六○%、全英ジン生産の六七%、アルコール生産の八○%を占有していた。 スコッチウイスキーを原点として、世界にはいくつかのウイスキーが生れた。アメリカのバーボンウイスキーはトーモロコシを原料として独得の香味を有している。カナディアンウイスキーの原料はライ麦である。日本のウイスキーは、原料も製法もスコッチと同じ、原点にもっとも近いところに位置している。 そして日本は今や世界で二番目、本国イギリスを凌ぐウイスキー消費国なのである。その理由はと問われれば、私はこう答えたいと思う。 そして日本のウイスキーは、水割りによって冴えるウィスキーなのである。 スコットランドの諺に、こんなのがある。 参考文献 (サントリー取締役社長・阪大・理・昭17)
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