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学士会アーカイブス

冷泉家と時雨亭文庫 角田 文衛 No.750(昭和56年1月)

     
冷泉家と時雨亭文庫
角田 文衛
(平安博物館長)
No.750(昭和56年1月)号

 最近、話題に上っている冷泉家は、もと伯爵の上の冷泉家のことである。この家の分家には、下の冷泉家と藤谷家、入江家(共にもと子爵家)とがある。

 この冷泉伯爵家の蔵に夥しい典籍、古文書の類が秘蔵されていることは、学界では早くから知られていた。しかし同家は、『勅禁』を理由に文献の公開を拒んで来た。佐々木信綱博士や吉澤義則博士は一、二度閲覧を許されたけれども、それはほんの僅かな典籍であった。しかも両博士とも、御文蔵へ立ち入ったのではなかった。

 尤も冷泉家としては、これらを全く秘蔵する意図はなく、先代の為系(ためつぎ・1881-1946)氏は、令息の為臣(ためおみ・1911-1944)氏と諮り、家蔵の典籍類を『時雨亭文庫』と名づけ、国学院大学で国文学を修めた為臣氏の手で逐次公開しようと図られていた。この計画は緒につき、『藤原定家全歌集』や『定家卿筆跡集』などが刊行されたけれども、為臣氏の招集、戦死によって折角の計画の挫折してしまった。

 終戦後の混乱期においては、冷泉家も家門を維持するのに必死であり、未婚の令嬢に西四辻家より為任(ためとう)氏を婿に迎え、京都市内に散在した家作などを売却し、なんとか没落を免れた。冷泉家は東京に移住しなかったため、大震災や空襲などの損害を蒙らなかった。また当主の為任氏は、実業家であって、家政を巧みに処理されはしたが、それだけに事業に忙殺され、同家には文書、典籍を公開する余裕がなかったことも事実であった。

 昨年、為任氏が定年退職されると、同家は冷泉家の建物と文書、典籍をもって財団法人を設立し、学界に公開すると共にこれらを永久保存する方策を立てられた。そして文書、典籍の整理は、平安博物館に委嘱された。京都に現存する唯一の公卿屋敷である同家の建物(寛政二年竣功)は、京都府教育委員会の手で調査され、近々に重要文化財に指定される予定ときいている。

 周知のように、冷泉家は、藤原道長の六男の権大納言・長家(1005-1064)を始祖とする名門である。長家はは歌人として卓越し、後冷泉天皇から『本朝歌仙の正統』という称号を賜ったと伝えられている。長家は、左京の三条坊門小路(現在の御池通)南、大宮大路東に所在した御子左第に居住していたため、彼の家門は御子左家と呼ばれた。御子左家の人びとは先祖の名にそむかず、いずれも歌人として勝れていたが、俊成(1114-1204)が出て、幽玄体の歌風を創成するに至って、その名声は宮廷歌壇を圧倒するに至った。俊成は勅撰の『千載和歌集』を選定し、大いに新歌風を鼓吹した。その嗣子の定家(1162-1241)は有心体の家風を提唱し、父・俊成の歌風に一段と磨きをかけた。定家は後鳥羽上皇の信任が篤く、『新古今和歌集』の選集に主要な役割を演じた。さらに彼は、後堀河天皇の勅命によって単独で『新勅撰和歌集』を選集した。『新古今和歌集』は情景の余韻を尊び、琢磨された語法、高雅あるいは妖艶な歌風の点で、日本和歌史の結実と言える。但し、晩年の定家の歌は、平淡、端正な趣きを加え、それは『新勅撰和歌集』に反映している。

 定家は、十九歳の治承四年(1180)から薨去の近く、すなわち治仁元年ないし二年(1241)まで毎日のように日記『明月記』を書き続けたが、本書の歴史、文学の研究にもつ大きな意義については、今さら説くまでもない。のみならず定家は、六十歳頃から日本の古典―主として文学作品―の蒐集と校訂・書写に努め、この事業によって不滅の功績を遺したのである。

 定家の後をついだ為家(1198-1275)は、歌人として傑出してはいなかったが、よく新勅撰的な歌風を守ったし、また西園寺家との姻戚関係を通じて権大納言の地位をえ、宮廷歌壇の宗家たる面目を発揮した。

 ところが為家は、後妻の安嘉門院の女房・四条を寵愛し、彼女が産んだ為相(1263-1328)を溺愛する余り、家伝来の文庫ばかりでなく、初め一男の為氏に与えた播磨の細川荘(兵庫県三木市細川町)をすら為輔に譲る旨を遺言し、紛争をひき起こした。

 為氏ののち、御子左家は、二条家(為氏)、京極家(為教)、冷泉家(為相)に分かれた。しかし、二条家の為氏と冷泉家の阿仏尼(夫の没後に出家した安嘉門院四条)とは、所領をめぐって鋭く対立した。このため阿仏尼は、女の身で遥か鎌倉に下向し、幕府にその裁断を仰いだ。『十六夜日記』がこの時の記録であることは遍く知られている。またこの対立もあって冷泉家は、二条家の新勅撰的歌風に対して、新古今式歌風をやや平淡な趣で採った。冷泉家と言うのは、為輔の邸が冷泉小路(今の夷川通)と高倉小路の辻にあったためである。

 実のところ最も御子左家らしい歌風を伝えたのは、京極家であり、その歌流からは永福門院のような卓越した女流歌人を出した。しかし二条家は大覚寺統に接近し、京極家の為兼は、歌人としては勝れていたが、政治的には野心家であったため、両家とも鎌倉時代の末から南北朝時代にかけて断絶してしまい、俊成―定家の歌風を伝える宮廷歌壇の宗家は、自ら冷泉家となったのである。

 室町時代いらい冷泉家が歩んだ道は、決して平坦なものではなかった。権大納言・為尹(ためただ)の後に冷泉家は上と下に分裂したが、室町時代の前半には下の冷泉家の方が将軍家の愛顧を受け、勢いが旺んであった。とは言っても御子左家の文書、典籍は、上の冷泉家に伝来されていた。しかし伝統によって歌壇の宗家たる地位を維持していた上、下の冷泉家も、室町時代後期の乱世には悲運を閲した。上の冷泉家は難を播磨に避け、或いは、駿河国の今川家の食客などとなり(為和、為益)、辛うじて断絶を免れた。しかし都を留守にしている間に、伝来の典籍類は、かなり散逸した。家宝の『明月記』も百巻ほど失われたようであるし、重要な歌集なども相当数散逸した。定家と藤原家隆が承元三年(1209)に書写した『新古今和歌集』、為家自筆で定家の識語のある『新勅撰和歌集』、定家自筆の『長秋詠藻』等々も、その時分、冷泉家から流出したようである。

 織田信長の入京(1569)いらい都は平穏に帰し、地方に疎開した公家たちも都に帰参した。その翌年の八月、前権中納言・為益(1517-1570)は都で 薨じたが、嗣子の為満(1559-1619)はまだ少年であった。そこで近所の山科家の権大納言・藤原言継(ときつぐ・1507-1579)が冷泉家の面倒をみ、嗣子・言経の妻に為益の娘を迎え、両家の間柄は特に親密となった。

 天正十三年(1585)の六月、所領の問題で山科家の言経(1550-1611)、為満、四条家の藤原隆昌の三人は、正親町天皇の逆鱗に触れ、急遽都を出奔し、堺に屏居した。のち三人は、大阪に移住し、またたびたび都にも潜入した。冷泉家の重要な典籍は、この時、大阪に運ばれたらしく、言経は天正十四年、為満より定家自筆の三代集や『拾遺愚草』などを借り受け、大村由己(秀吉の御伽集。天満宮宮司。学者。1596没)のため、これらを書写している。

 三人の勅勘は容易に許されず、慶長三年(1598)十一月、徳川家の家康の奏請によってやっと勅免となった。都では、天正十九年、秀吉によって皇居の周囲に公家町が営まれていたが、右の三家は都を留守にしていたため、公家町の中に邸宅を賜らなかった。そこで上の冷泉家は公家町の北に千坪余の敷地を求め、為満は敷地の西の部分を二男の為賢に与えた(藤原家の興り)。山科家の方は、冷泉家の東隣に邸宅を営んだことであった。

 こうした蟄居や当主の早世によって、江戸時代初期にあっては、上の冷泉家はすこぶる逼塞しており、その間に定家自筆本の古今集や後撰集なども外部に流れ出た。冷泉家が復興の曙光を浴びたのは、権中納言・為綱(1664-1722)の世代になってからのことである。

 これより先、慶長十九年(1614)、家康が上洛した時、彼は為満に『明月記』の書写を講うた。大恩ある家康の所望であるから、為満はこれを快諾した。そこで家康は多数の筆生を動員し、南禅寺でこれを筆写させた。『元和偃武』の後に学芸尊重の風が高まると、冷泉家の秘籍は、いたく文人たちの感心を喚ぶに至った。寛永三年(1626)、近衛家の関白・信尋(1599-1649)も、為頼から『明月記』を借り、これを写させた。

 後水尾天皇は、冷泉家伝来の『古今伝授切紙』の入った筥を勅封とされたが、霊元天皇は一歩を進め、冷泉家の御文蔵を勅禁とし、勅許なければ開封できぬよう定め、秘籍の逸散を防がれた。

 為綱の頃から家運が復興した冷泉家は、その子・為久(1686-1741)の代に至って大いに繁栄した。彼は歌人としても卓越し、『為久卿集』六巻を遺した。為久の子・為村(1712-1774)は、冷泉家では為相以来随一の歌人であって、その門弟は全国に亙って夥しかった。冷泉家の歌道は、権大納言・為泰(1735-1816)や中納言・為紀(1854-1905)らによって維持され、宮廷歌壇の宗家としての面目を発揮した。明治維新後も冷泉家は東京に移住せず、為紀は、平安神宮の初代宮司、伊勢の大宮司を歴任したが、彼は御歌所参候の栄をえ、また書家としても知られていた。冷泉家にとって御文蔵の秘籍は神様であって、家宝であると共に歌壇の宗家たる象徴であり、明治時代にいたって『勅禁』は解けても、その一部の公開すらが考慮の外におかれていたのである。学界に秘籍を徐々に公開しようとする動きは、伯爵・為系・為臣の胸に萌していたが、初めに述べたような理由から折角の計画も画餅に帰したのである。

 四月一日における御文蔵の開扉は、私共にとって生涯忘れ難い瞬間であった。薄暗い階下の入口に近く存した茶箱からは、定家自筆の『明月記』五十六巻が発見された。それらは、多くは冷泉家に宛てた消息の裏にしたためられたもので、もし将来、表具の仕立直しをしたならば、これらの古文書は学界に裨益するところ莫大なものがあろう。

 定家自筆の『拾遺愚草』の存在も、確かめられ、関係者を雀躍せしめた。ついで定家自筆の『更級日記』,『伊勢集』、定家が権中納言を願望した申文案(もしぶみあん)、三歌人(俊成、西行,定家)の直筆を貼り合わせた掛軸、『恵慶集』、『江帥集』、『拾遺和歌集』、『時明集』、また俊成筆『六条斎院宣旨集』等々が続々と現れ来たり、われわれを愕かした。

 典籍は、冷泉家と言う家柄の点から日本文学に関したものが圧倒的に多い。懐紙、詠草のたぐいは、無数に存する。中には勅点が付された詠草なども少なくない。御宸翰などは、唐櫃にいっぱい保存されている。

 平安博物館は、財団法人・冷泉家時雨亭文庫を設立する書類に添付する典籍類の目録作りをお力添えしたのである。研究調査は、財団認可の暁に他の学者たちと共に一緒にさせて頂きたいと思っている。これらは国家の貴重な財宝であり、史料であるから、何人といえども抜けがけの功名などは考えてはならないのである。

 財団法人設立のための発起人会(入江相政会長)も発足し、必要な基本財産(現金)も寄付された。しかし私共が目録をとったのは、第一のお蔵(御文蔵)の階下だけであるし、また同家には、文書、典籍がぎっしり詰まったもっと大きい第二のお蔵がある。

 従って財団が認可されても、直ぐこれらを学者たちに公開することには無理がある。マイクロ写真の撮影、閲覧室の建設など幾多の問題が後に控えてはいるが、それらはやがて強力な理事会によって逐次解決され、すべてが学者に公開される日も、遠くはないであろう。

(平安博物館長・京大・文博・昭12)