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学士会アーカイブス

長江の三峡 茅 誠司 No.749(昭和55年10月)

     
長江の三峡
茅 誠司(日本学士院会員・東京大学名誉教授) No749号(昭和55年9月号)

 六月二日午前八時半からのTBSの時事放談の中で細川隆元氏が私の名前を出して、『中国は近代化を止めたらどうか』と中国の要人に私が勧告したと述べられた。確かにその通りだが、これは私の見て来た揚子江の三峡の美しい平和な風景が近代化によって壊されてしまう事を恐れた表現であって、近代化が不可能であるという意味ではない。

 そこでこの会報をお借りして、揚子江を重慶から武漢まで下った記事を戴せて頂くことにした次第である。筆者は過去に五回中国を訪れているが万里長城、明の十三陵とか桂林の漓江下り等でその風景に感嘆すると、中国側は必ず揚子江の三峡下りが一番素晴らしいから是非それを実行するようにと勧められてきたので、思いきって四月下旬から五月中旬のよい気候の時に実行しようと思った。幸いにも中日友好協会からの招待があったので家内と秘書の荻原さん、日中協会の事務長の白西紳一郎氏の四人で出掛けることにした。この事を高木国鉄総裁に話したところ、揚子江の船の中は寒いので風邪を引き易いから充分その準備をしてゆくようにという注意を受けた。そこで毛編みのスエーター等を持って行くことにしたが、それではまだ心許ないので最近流行している懐炉でビニールの袋から出して採むと二十四時間位暖かいというのを十ほど用意して行った。

 さて四月二十七日に成田から上海に行ってみると、ここのほうが東京より大分寒いのに吃驚してしまった。これは上海としても異例らしいが四川省のような山奥はもっと寒いに違いないと一同すっかり心配してしまった。中日友好協会からはわれわれ四人の為に林波さんと夏永宏さんの二人を態々派遣してすっかり世話を焼いて頂くことになったが、この二人の生粋の中国人もこの時期の揚子江下りは初めてとのことで、重慶から武漢までの気候についてはさっぱり頼りにならなかった。すると、上海で復旦大学の学長をしている数学者の蘇歩青君がいいものがあるといって、前述の懐炉を五つ日本から貰って来たらしいのをわれわれに呉れた。この蘇君は筆者と仙台の東北大学で同じ家に住んで勉強したという五十五年来の親しい友人であったが、それを持っているとは言わないでその好意を受け、総数十五の懐炉を持って重慶に出発することになった。

 上海に三泊して四月三十日に四川省の成都に飛び、そこの名所の社甫草堂を訪れた後夜行列車の寝台で重慶に向かった。不思議なことに成都も上海よりは遥かに暖かく、又五月一日朝着いた重慶も更に暖かく街路樹(鈴かけの木と楊柳が多い)の葉はすでに初夏を思わせるものがあった。重慶は七百五十万の人口を持つ工業都市で非常に高低が多い。私共の泊ったホテル重慶市人民大礼堂は、北京の天壇を思わせるような壮大な建築で、私の泊った部屋は客室とベッドルームが別になっている豪華なものだった。ここは毛沢東、周恩来の二人が共産党を率いて国民党と協調した場所でそとの紅岩革命記念館を訪れたり、その中で国民党と調印したという記念の建築を案内して貰った。

 この重慶は竹細工の名所だというので、家内の乞うままに百貨店に赴いたが、折しもメーデーで繁華街は人間が渦を巻くように沢山歩いていた。どうもこの人達は何もする事がなくてただ街を歩いているだけらしい。家内が買物をしている間車の中に残っていたら、この紅旗という大型の車が珍しいらしく十重二十重に人垣が出来て、中にはドアの取手に手をかけてガタガタ揺る者さえ出て来た。筆者は幼い時、自分の村に平塚のアームストロング火薬製造所の英国人がオートバイでやって来た時の事を想い出して懐かしくなった位である。あとで知った事だが、重慶は土地の高低が多い為に、自転車が使われていなくて、出歩いている人の多い街だという事であった。

 夕食には、対外友好協会の重慶支部長の方が招いて下さったが、夕食後重慶で一番高い山、(批把山)の頂上から重慶全市を見て頂きたいという事で、折からの満月下の重慶市の夜景を楽しむことができた。そこも又一杯の人だった。

 翌五月二日朝早起きして七時に船に乗った。東方紅四九という名の船で二,九〇〇トン、速度は二七ノットという優秀なものである。この様な船は沢山ある様で下から上って来る同型のものと屢々出遇った。私共六人の室は一等室中でも一番良い室らしく、一室二人であり、設備も相当良好だった。室を出て船の中央の廊下をぬけるとそこは談話室らしい広い室で、香港あたりから来た服装はよく、持物も日本製高級カメラを持っているが行儀の悪い老若の男女が椅子に腰を下ろしていて、一隅では景色などには関係なくマージャンに凝っていた。これから二泊三日の船旅が始まった訳である。

 重慶から目指す武漢までは千三百キロある。川幅は重慶あたりでは二、三キロ位あり、真黄色な濁流が緩くり流れている。重慶は前述の様に高低のある工業都市で、高い所にある工場から廃棄物を裏側の崖から遠慮なく下へ落して棄てるので揚子江の汚染が甚だしいとの事だった。幸いにして黄色いので眼には見えないが、下流の上海あたりはこれに困惑しているとの事であった。

 船は五月三日の朝から最も景色のよい三峡を眺められる様に時間を調整しながら進行し船客と荷物の上げ下ろしを川沿いの町々で行っていった。周囲の山々は相当頂上まで畑になっていて麦らしい黄色の筋が縦に上から下に向かってできている。日本では瀬戸内海などで横に筋のある畑があるのに、ここは縦の筋なのが不思議だった。そして川岸に近い所には蜜柑らしい果物の樹がある。山の頂上近い所には日本では見られない細長い木で葉が上の方にばかりある奴だが、これは人為的な形なのか自然なのかよく判らない。川には漁師がいて、竹の輪に網をかけたのを流れに逆に動かしているが、ついに魚のとれるのを見ないでしまった。こんな悠久な景色は中国以外では見られない。中国を近代化するととんな景色は消えてしまうに違いないと思った。

 五月二日早朝出発した船は夜になって万県という所に行って泊った。私は老人の故で早く寝てしまったが若い連中はここに上陸して、様々の珍しい物を楽しんだらしい。殊に豚の尻尾などあって、これを喰べたとか喰ベなかったとか翌朝騒いでいた。五月三日起きてみると両岸は最早高い山々になっていた。三峡というのは瞿塘峡、巫峡、西陵峡の三つからなっていて、長さは全部で一九三キロある。この辺になると川幅は一番狭いところは百メートルしかなく黄色の濁流が物凄い渦を巻いている。蜀の劉備が後事を諸葛亮に托したという白帝城をすぎてから両岸の山々は千五百から二千メートル位となり、カメラを向けるのに中々大変である。航路は右手に赤色の、左手に白色の浮標が置いてあって至極明確である。今日は幸いにして雲が一つもなく山々の峯は実にくっきりとしていて美しい。船の左手の川岸から少々上のところに険阻な道路が見えるがこれが所謂蜀道である。この道を阻止すれば兵力を四川省に入れることはできないと言われている。この美しい景色の中で乗客はカメラを持って右に行ったり左に行ったり大騒ぎである。食事の時間に食堂に行くのも惜しい感じである。

 筆者は五年前中国の有名な景色の桂林にも招かれて行ったが、そこの漓江を七時間下ってその景色を満喫したが、ここ長江の場合は殆ど一日中眺めなければならない。従って三峡最後の西陵峡が終って宜昌が見えてきた時は、ほっとした気分になった。この宜昌で川は急に広くなり、そこにダムの工事が行われているのが見えた。この三峡の景色を犠牲にすると二千五百万キロの電気を起すことができるという。しかしそうすれば、蜀道はおろか重慶にいたるまでの名所が水没し尽すというので、中国としてはまだ結論はでていないという。中国の招いたアメリカのミッションは結論として長江を交通のための水路として残すべきだとしたという。一度ダムを作ってしまうとエジプトのアスワンダムの場合と同じく再び元に還すことはできない。中国は今環境問題に悩んでいると言われる。これは後のことになるが、かつて四川省の第一書記をされたことのある趙紫陽副総理と人民大会堂で対談した時、この問題が話題になったが、筆者は「勿論この長江を発電に利用するか、交通路として利用するかは中国で決定すべき事だが、しかし若し第三国人の意見を参考にしたいと仰るなら、私は敢えてこう申します。第三国人で三峡を見た人全部と揚子江の魚は一緒になって全部ダムを作ることに反対であると。何となれば、あの美しい平和な景色はすっかり消し去られてしまうから」。すると趙紫陽副総理はニコニコと只笑っておられた。

 宜昌に大鉄橋が懸っているのを見たあとは坦々たる大河が茫々としているばかり、一晩おいて五月四日になって右手に赤壁が見えてきたばかり。四時半頃、一九五七年に完成した大鉄橋の下をくぐって漢口に接岸して、この船旅を終りとした。

 結局寒くて風邪を引くことを心配したのに船中は暖かくて何等その心配はなく、従って日本から持って来たのと蘇歩青君からのと合せて十五の懐炉は残念ながら使う機会が無かった。あとで聞くと、重慶や武漢は中国で暑いスポットとして有名な所だそうである。

 筆者は一九五五年にこの武漢を訪れたことがあるが、その時は漢口、武昌間の大鉄橋は計画中で、そのあと二年ほどに完成したものである。この鉄橋を完成した時の中国は、非常な自信と誇りを以ってこれを迎えたという。丁度日本中が敗戦に引ち拉がれている一九四九年に湯川博士にノーベル物理学賞が与えられ、われわれ物理学者だけでなく総ての日本人が日本人としての誇りを回復したという事実を想起した次第である。

 これで長江下りの報告を終るが、只筆者はこの十五日間の旅行中に中国側の好意でお針を五回受け、又漢方薬を調合して頂いた。それは筆者の左脚の付け根の所にある太い静脈が詰っていることが原因で、立っていると左脚が腫れるという事が中国側に判っていたらしく、これを中国のお針と漢方薬で治してしまおうという事だった。上海と重慶で一回宛、北京で三回お針の治療を受け漢方薬の処法をして貰った。五月十一日旅行から帰ってからもその漢方薬を服用していたが、五月中旬頃から左脚の浮腫は急速に無くなり、現在は殆ど心配する必要はなくなった。筆者は何が原因で治ったかは判らないが兎に角中国の方々の好意によって快癒した事を心から感謝している。

 (日本学土院会員・東京大学名誉教授・東北大・理博・大12)