学士会アーカイブス
哲学の新しい学問領域について 今道 友信 No.748(昭和55年7月)
(1) 国際哲学会での仕事 (2) eco-ethica 従来の倫理学(ethica)は、人間相互の関係としての行為の事実やそこに於ける規範的価値としての徳目の基礎づけや系譜を明らかにすることを主題としてゐる。それはそれで大事な学問であるが、現代の状況に立つて問題を立てるとき、3つの大きな欠点がある。そのひとつは、(a)従来の倫理学は人を自然の中に於いて考へてゐて、技術聯関が人間の環境となつてゐることを無視してゐる。次ぎに、(b)新しい徳目の事実上の誕生、古い徳目の事実上の衰退についての反省が不足してゐる。ここに人間の価値環境が変はつて来てゐることへの無視がある。そして第3に(c)人間相互の関係としてのみ行為が考へられてゐるが、事物に対する人間の行為といふものも考へられる。ここに於いても、人間の環境には文化があるといふことを、従来の倫理学は無視してゐる。これらは、3つとも、人間の生活圏の変化増大に伴ふ生態論(ecologia)的省察を倫理学(ethica)と結びつけることによつて矯正せられ、更に新たな思索地平を拓きうることを予想せしめるものではないか。そこで、人間の生圏に注目した倫理学としてeco-ethica(生圏道徳学)といふものを樹立してみよう、といふことになる。そこで、右の3つの環境に即して、eco-ethicaがいかなるものであるかを、具体的に説明してゆきたい。 (3) 環境としての技術聯関に於ける行為 これは周知のやうに、アリストテレースの『ニコマコス倫理学』の中にある古典的な実践三段論法の形式である。これは、これで、現代人の個人的決断の地平に於いて、極めて日常的に認められるものである。人間は今日でも自然に於いて生きてゐる面をもつてゐる以上、そのやうに自然環境の中で成立した行為構造が、人間の基本的なものとしてあることに変はりはない。しかし、このやうにして、手段行使としての行為が効果を増加するやうに努力の対象となるにつれ、技術は進歩を示して止まず、遂に今日の技術優位の世界をもたらした。技術聯関としての環境は、今日我々の生態を往昔のものとは全く異なつたものにしてゐる。我々は我々の共有財として強大な手段としての力を保有してゐる。例へば電力、例へば大資本、例へば原子力。そして、そのやうな強大な力としての手段は、我々の社会が行為をおこすときの自明的な前提なのである。そこで、現在の人間の行為構造を論理化すると次ぎのやうになる。 この場合、行為の選択は、自明的に認められてゐる事実としての此岸的な力によつて分析的に導出せしめられる幾つかの目的に関してである。それは、而も個人の責任を何処かに消去せしめるやうな委員会の倫理を要求するかの如く、常に、命題の主語が我々となつてゐる。これは、而も、この世的な力が可能にする物理的結果を導出する定式であつて、かくて、行為は徹頭徹尾複数の人格からなる人間集団の世俗的物理的性格からまぬかれえない。 この定式を一般化すれば、 技術聯関に於ける行為は、このやうにして、構造的に人をして世俗化に傾斜せしめる。従つて、嘗て自然を超越せんとして技術が成立したやうに、よく生きるために、技術といふ環境に埋没せず、これを超越せんとする何ものかを、人間の生のために、生圏を顧慮した倫理学(eco-ethica)によつて掲げなくては、具体的な人間的生の向上はなく、技術環境の中に自己を適応させるもの(環境に適応するのみのものは動植物である)としての技術動物が成立してしまふ。それはニイチェの言ふ末人の類であらう。従つて、ここに於いて、人生を自然の原始状態から高め保つ技術を失はずに、しかも技術の中に埋没しない生き方を可能にし、人間を世俗化の方位のみに定着せしめないための倫理的超越を可能ならしめる方途を考へなくてはならない。それは、eco-ethicaの大きな課題である。 (4) 人と徳の変貌 このやうに見て来ると、自然の中のみに動いてゐた人間と技術聯関が環境の重要部分を形成してゐる人間との間には、確かに生態に大きな差があり、その差に基いて環境に於いて「よく生きる(to eu zen)」生き方としての他人への配慮としての徳の構造や形相も異なつてゐる。それゆゑ、eco-ethicaが立てられなくてはならない。そして、そこでは、原理的に、機械と道徳の問題を、道具と道徳の関係としてではなく、環境と道徳との関係として反省しなくてはならない。同時にまた、そこでは、自然や原始を過去としてとらへるのではなく、層としてとらへる構造的な人間観が要求せられる。それは、また、技術聯関の中で等質化せられ、局地性の特色を喪つた世界空間に於いて、技術装置の特殊性として現出する新しいタイプの局所性とそこに於ける人間の自己変貌の問題を提出する。所の神として人々を呪縛した地霊は、装ひを変へて、場の機能として人々を方位づける。そこには、公私の完全な断絶があり、公的機関としての場に於いては、私的な一切が排拒せられる。それがために、父の社会に貢献する営みの現実態は子の目からは遮断せられ、世代間の共棲教育は幼年にして断たれてしまふ。このやうにして、本質的には、憩ひの場、養ひの場としてのみに限定せられる家庭には、厳密な意味での教育は去る。そこでは教師としての親権は崩壊する。道徳の基礎として人々がもたなければならなかつた内的権威の最初の原理的象徴としての親権が揺らぐとき、果たして道徳教育は可能なのであらうか。しかし、それは試みられなければならない。道徳の基礎づけをいかに企てるか、それもまた、eco-ethicaの大きな課題なのである。 (5) 事物と人間 どのやうな倫理学に於いても、人間がこの地上の支配者であり、王者であるといふ考へ方には共通したものがあり、それゆゑ、環境としての自然、すなはち、人間以外の地上的存在者としての他者を崇める、といふことは、全くありえないことであつた。かけがひのない存在者として個的存在(indi-viduum)の名に価ひするものも、たゞ人だけであつた。それゆゑ、人間は人間以外の他者は、これを手段として自由に使用することが許され、もし、そこに規制や限定があるとすれば、そこに他の人間の権利が関はる場合であつた。従つて、道徳学は、まさしくその名の通り、倫理学(人間の仲間としての人々の間柄の筋道の学)であつた。そして、神の実在を信じない限りは、そこに対神徳を立てる必然性はなく、そのゆゑに、対人徳を中心とする対人関係の学として、倫理学は一応の自己完結を示してゐたと言つてよいのである。 ところが、人間の環境は一変した。歴史の進行の過程で、人間は多くの文化的所産を築き上げてゆき、そこに精神の高度の精華を結晶せしめる。その結果、我々の環境としての自然の中に幾つかの文化的所産が置かれてゐた時代とは異なつて、貴重な作品群が人間精神の半ば永遠化した記念碑となり、我々に対話を迫る存在として我々を囲繞し、まさしく我々をめぐる環境を形成するに至つてゐる。すなはち、我々の環境は自然のみではなく、技術聯関のみではなく、文化環境があつて、而もこの最後のものを具体的に形成するものとしては、学問的著作や芸術的作品の如き事物がある。そして、多くの学問的著作の如く、印刷せられ、その意味では同一物が多数ある事物でさへ、その数に限定のあることも原因して、大切に保管される場合が多いが、殊にその原典的原稿となれば、代替不可能の宝物として、番号づけられ、国の宝として極めて慎重に大切に管理せられる。何故ならば、そこに偉大な真理探求者の類稀な思索の軌跡があり、行間の書きこみなどに至つては、写真等によつてはうかゞひ知れぬ微妙な筆づかひの起伏があつて、その人自らの年経た後に加筆したものかその人の弟子のものなのか、判定は尚今後の課題になるやうな問題であり、而も、それが何れに決するかが、また、偉大な思索の機微にふれるといふ場合もあるからである。このやうに見て来ると、この手稿は、すでにして、他と代替不可能な個的存在者であり、人類の文化の歴史の貴重な事物として、恐らく、その書庫の近くの駅周辺を彷徨する善良な一介の下級サラリーマンよりは、人類にとつてより大切なものとなりはしないか。これは事物が人間よりも貴重な存在ではないか、といふ問ひである。もとより、自然環境のみの時代に於いても、王冠や祭具が、また武器が、その部族の構成員よりも大切にされた事実はある。しかし、それは、その部族や民族の史的事情による主観的価値附与であり、今日、誰もそれを客観的に正しいとは言はない。ところが、現代の文化環境に於いては、まさしく、この一片の手稿が、二三流の学者その人の生命よりも大切に思はれ、そのやうに扱はれてゐる、といふところに大きな問題がある。 私は、会議のため、年に2、3度は渡航しなくてはならない。心臓を病む私には、医者が、1人旅は無理ではないか、と忠告してくれたこともある。パスポートまで置き忘れることが何度もあるタレース型の私には、本来、護衛が必要なのである。いや、たしかに、大学内を自由に歩くことが難しかつた時期があつた。いつ愚かな徒輩が躍り出て、私を取り囲み、無礼な言動で無法な要求を押しつけるかわからないからである。それゆゑ、まじめな学者の安全のためには、本来、ボディー・ガードが必要な社会なのである。しかるに、我々には1人のボディー・ガードもゐない。それなのに、ミロのヴィーナス様が御渡来遊ばした時の騒ぎはどうであつたか。この永遠的な傑作の彫刻品のためには、私はその委細を審かにしはしないが、1人、2人の随員で事が足りたとは思はれない。ひとつの傑作は、事物ではあるが、1人の人間よりも、誰か多くの人々に生きるよろこびを与へたり、人類の偉大さを告げ知らせたりして、人間を全体として大切にすることを思はしめるのであらう。その効果のゆゑに、また人類の自己証示の証人として、人 それゆゑ、アムステルダム論争の時の私の問題をここに提出しておかう。1人の極悪人で癌を病む死に面した患者がゐる。その室にレオナルド・ダ・ヴィンチの絵(本物)がある。そこに火災が生じた。君はその悪人か絵か、どちらか1つをしか救ひ出せない。君はどうするのか。これをめぐつて、根拠を深く索めるeco-ethica的思索が色々となされた。テルトウリアンはかすに1年を以てせよ、即答は不可能である、と言ひつつも、老人を救はねばならないと言ひ、芸術の尊厳のために、マンゲは絵を救はねばならぬ、と言ひ、ハンガーラントは、自分が老人で悪者だから老人の方を救つてやりたくなる、と答へた。神は事物を滅しても、人を救はうとするであらう。しかし、その救ひとは、この世の命のことなのであらうか。人々はこの問ひをめぐつて、いかに新しいeco-ethicaの学問が緊急に展開されなくてはならないかを痛感したのである。 事物に対して道徳が必要である。それは、生ける自然をも死物の如く利用しつくさうとした科学主義や営利主義が、今面してゐる環境破壊の現状をどのやうにするか、といふことに対して、科学の立場や行政指導の立場のみからではなく、人間の道徳として、人間の自己反省の深みからも考へてみなくてはならない仕事として、要求されてゐる。 私は、このeco-ethicaの研究テーマで、21世紀学術文化財団から研究奨励金を拝受する光栄をえた。有難いことである。しかし、国際研究プロジェクトには、まだまだ多くの援助が必要である。私どもの研究室は、哲学美学比較研究国際センターとして多くの国際的に緊急な研究プロジェクトを開発し、研究しつつあるが、そのひとつに、「自然学の後に」といふ意味の形而上学(metaphysica)とはまた異なつて、「工学の後に」といふ意味の技而上学(metatechnica)があり、これは1976年のウィーン会議でかなりの反響を呼んだ。いづれもその内部で、芸術を大切な契機としてゐる。芸術はその享受に於いても、創造に於いても、新しい環境の中で圧縮されてゐる時間経過を、絶対に必要とするからである。それならば、芸術の人間復位への機能とは、どのやうにして、倫理や技術と関はるのであらうか。美学(calonologia)も大きな問ひに直面してゐる。私は学士会会員の方々が、かういふ地道な、しかし、大切な基礎的研究に温かい目を注いで下さり、有形無形の援助をたまはることを請ひ願ふ者である。 (東京大学教授・東大・文博・昭23)
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