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歴史家としての森鷗外 小堀 桂一郎 No.746(昭和55年1月)

歴史家としての森鷗外
小堀 桂一郎
(東京大学助教授)

No.746(昭和55年1月)号

本日は、鷗外の晩年の歴史の仕事について少々お話申し上げたいと思っております。普通の意味での小説家としての鷗外が、明治の末年においては文壇の一方の旗頭として高い地位を持っていた事は改めて言うまでもないことであります。

ところが、彼がある時点から俄かに歴史小説家として注目されるに至る、その機縁はこれもかなり有名なもので、皆様方ご存知と思います。つまり大正元年九月十三日に乃木希典の明治天皇への殉死事件がございまして、この事件に鷗外は非常な衝撃を受ける。あの当時、雑誌「中央公論」が何人かの知識人に乃木さんの殉死事件をどう思うかというようなアンケートじみたものを発送したのじゃないかと思うのですが、それに答える形で鷗外が書きました作品が「興津弥五右衛門の遺書」という小説であります。

それまで鷗外は大体現代風俗に材料をとり、例えば有名な「青年」とか「雁」、或いは諷刺的な「ヰタ・セクスアリス」というような小説を書いています。それが「興津弥五右衛門の遺書」を書きました時から彼は俄かに歴史小説家に転向したように見えるのであります。

――当時豊前仲津の藩主だった細川忠興の家中に興津弥五右衛門という侍がいた。この興津が壮年の頃、忠興の使いで長崎に行きお茶事に使う安南わたりの香木を買って来るという役目を仰せ付けられます。その時、その香木を仙台の伊達公の家臣と競り合いをし、結局非常に高い値段で競り落してその香木を求めて帰るということがあったわけです。その時に、同役の横田清兵衛という侍と長崎で激しい口論をする。横田の言い分はたかがお茶事に使う香木位にそんなに沢山の金を費やすのは、結局主君のために忠義とは言えまいという。興津の方は、主君の仰せとあれば、理屈はともあれ、なんとかして相手に競り勝って逸品を買って帰るのが自分は忠義と言うものだと思う、というような反論をして、結局その横田を斬り殺してしまいます。それでその香木を買って帰り細川忠興にその経過を報告して、同僚を殺害した責任を負って切腹するというのですが、それを殿様からなだめられ一命を助けて頂く。そこで深く殿様の恩に感じまして、細川忠興が亡くなって十三回忌、また同僚殺害事件を起してから三十五年目に当る主君の命日に主君の墓前で切腹して、すなわち殉死を遂げるという話であります。この小説が乃木さんの殉死事件の一種の解釈のようなものではないかという事は今でも読めばすぐ判ります。

ところが発表当時は意外にその連関が世間には分らなかったらしゅうございます。それはともかく、主君に助けられて三十五年後に主君の御恩を感じて後を追うという、その三十五年という年数はどこから割り出したかと申しますとこれは興津氏の史実ではございません。乃木将軍がまだ若い少佐で連隊長であった当時、西南戦争に出まして反乱軍に連隊旗を奪われたという事がある。乃木少佐は自責の念にかられるあまりに自決を考えていたそうですが、寛大に許され、かえってこれを機会に明治天皇の御信任が一際厚くなるという次第でありました。それから日露戦争の旅順の攻防戦に際して、自分の不手際から沢山の兵隊を戦死させてしまったという自責の念も重なりますけれども、主として明治天皇の御恩を明治十年以来の三十五年間非常に苦しく感じていたという事があって天皇のお跡を追って切腹するわけであります。

この事件には当時の世間で色々な批評が出ました。日本の武士道まだ廃れずというような批評ももちろんありましたが、この種の賞賛の言葉は案外外国から多く寄せられております。国内では否定的意見だった人もありまして、一部では必ずしも評判がよろしくなかった。

それに対する鷗外の意見、と申しますより、当時の人にも分りにくいものになっていた殉死の心情をなんとか理解し弁護して見ようという気持、それが「興津弥五右衛門の遺書」という作品に結実したと考えられます。現在では「興津弥五右衛門の遺書」は稿が改められ、乃木さんの苦衷の三十五年間に合わせたような年数の事は、史実とは違うらしいという事が判りましたので改められております。しかし、鷗外がこの作品を創作した動機については変りがないわけであります。そして、この小説は見たところ確かに歴史小説でありまして、作者が近世の武士の倫理の一つの項目について考えてみたその研究の結果の如きものでありますが、本来これは殉死した乃木さんの心理を分析し解釈した結果を比喩的に表現した文章でありました。

一方、この作品を制作したのを機会に、鷗外はこの縁にひかれ、近世の武士の倫理というのは一体何であったかという一つの問題を自分に課し、自然にその歴史的領域に深入りして行きます。興津弥五右衛門の事件と殆ど同じ時代に、同じ細川家の家中に同じような殉死事件が起るのですが、この事件は興津の場合とは正反対に、非常に不幸な経過を辿った人物が、登場する。それを扱ったのが有名な「阿部一族」でございます。阿部一族の場合、これも作品でご存知の如き悲劇的な経過を辿って一族滅亡に到るわけでありますが、鷗外がこの作品で試みました探究は、もう少し複雑なものになります。主君に対する家来達の絶対的な忠誠とか献身という封建的な道徳、それの精華というべき現象が殉死だろうと思いますが、それでは殉死という封建的な武士の徳目がそのまま賛美に値するものかというとどうもそうではない。現実に、歴史の上に暗い、悲惨な陰影を刻んだ事例がいくつかある、という研究心が動いて、それがこの「阿部一族」に結晶するわけであります。主君の命令には絶対服従であるが自分の内心に頭をもたげてくる自我の要求や衝動というものがある。これとその服従とは、一体どういうふうに折り合いをつけて行けるのだろうかといった、問題意識が持ち上がってきたのじゃないかと思います。そして、この疑問の延長線上にもう一つの答案を書いて見たという形で「佐橋甚五郎」という、大変我の強い主人公の青年が、主君の徳川家康と衝突をして隠微な形で主君に復讐を遂げるという不思議な小説を書くのでありますが、これが歴史小説の第三作と言われております。つまり大正元年九月の乃木さんの殉死事件に衝撃を受けた事から鷗外は封建武士の倫理の研究という事業に没入して行く。そして鷗外の研究心は次第に旺盛になって、やがて敵討ちという徳目をも取り上げています。敵討ちというのは日本の武士の抜きさしならぬ倫理であるというふうにうたわれているが、あれは一種の強制された徳ではなかったか。必ずしも誰もが欣然として勇み立って敵討ちに向ったわけでもないだろう。中にはいろいろ迷った侍もいたのではないだろうかというような事で、これが「護持院原の敵討」という小説に結晶して行きます。

更に、大塩平八郎の乱を扱いました「大塩平八郎」を書きます。大塩は正義の徒であった。社会の悪を自分の力でなんとか矯め直してやるんだというような正義の感情にかられて反乱を起こす。しかし、結局世の成り行きというものに敗けて挫折してしまう。その正義の旗印を掲げての逆賊叛徒の心理とはどういうものであっただろうかという問題設定です。或は例の大逆事件についての鷗外の感想がそこに二重映しになっているかも知れない。これは鷗外の失敗作だという見方もありますが、とにかくむずかしい問題で、うまく答案が出ていないという面もあるかと思います。

こういうふうに、「興津弥五右衛門の遺書」を書いたのをきっかけとしまして、鷗外は現代小説から離れ、封建時代の武士の道徳の再検討という課題を小説の創作という形で果して行くわけであります。この段階では鷗外は結局歴史小説家でありましてまだ歴史家と呼ぶべき型の人ではなかったように思います。

日本人は歴史小説が好きだと言われております。今日も司馬遼太郎さん或いは海音寺潮五郎、山本周五郎、山岡荘八といった方々の人気は大変なものです。この傾向は案外に古くから、近代の写実主義小説の誕生と同じくらいに早く始まっておりまして、今日大衆的歴史小説の専門家として明治文学史に名前が残っているような人達は大体明治三十年代に作品を書き始めております。こういう人達は必ずしも文学史の表通りでは尊重されていないかも知れません。ここに鷗外との関係で二人だけ名前を挙げてみますと渋柿園と号した塚原蓼洲と碧瑠璃園渡辺霞亭が三十年代に活躍を始めます。鷗外の歴史小説はその当時口の悪い批評家達から、あれは結局、塚原渋柿園の二の舞であるというふうに批評され、鷗外もそれを気にして随筆にそのことを書いている部分がございます。

私、実はこの塚原渋柿園を一つも読んだことがありませんが、由井正雪とか北条早雲、伊達政宗といった昔の英雄を主人公にしたもの、或いは「天草一揆」というような小説は大変評判を呼んだものだそうであります。

鷗外の歴史小説の世界は、その後次第に深さを増し幅も拡がって、塚原渋柿園の二の舞とは到底言わせないような分析の鋭い格調の高いものが出て来ます。例えば、彼が近世の庶民の世界に材料を求めた「高瀬舟」という作は、大変有名で中学、高校の教科書に採られておりますし、或いは「最後の一句」も教科書に採られているようです。また安井息軒夫人のことを書いた「安井夫人」とか「魚玄機」、これは唐時代の一女流詩人の数奇な運命を描いたものですが、そういう過去の女性の生き方にも目を向けた作品を書きまして、次第にその文学世界の幅を拡げてゆくのであります。しかし、私はこれらを歴史小説というよりもテーマ小説というものではないかと考えております。作品の登場人物は、歴史上の実在の人物であることが多いのですが、作者が書いているのは実は甚だ現代的な問題であり、それを展開するのにただ過去の人の姿を借りているだけだという形になっている。例えば先程申し上げました「興津弥五右衛門の遺書」は乃木希典の殉死の心情を理解する試みであったということ。「高瀬舟」のテーマは、すなわち財産の観念ということでありまして、財産の価値というのは畢竟、人がそれに感ずる満足の度合いによるものであり、そういう相対的な尺度によって測られるものではないかという問題提起がここになされている。それからもう一つ、これは現代でも切実な問題として取り上げるべきことで、安楽死という処置は認められるかどうか。これも一つの問題提起となっている。これらは突きつめてみればテーマ小説でありますが、見たところいずれも歴史に題材を求めた作品であり、大正期の鷗外はまずは歴史小説家と呼んでよい存在に見えるのでありますが、その後「栗山大膳」「椙原品」という作品を書いたあたりから彼の歴史を扱う意図にいくらか変化が起ったように思われます。「栗山大膳」を考えてみますと、渡辺霞亭も確か大正二年頃の殆ど同じ時期に同じ題名の「栗山大膳」という小説を発表しており、これが今読んでみましてもなかなか面白いものです。この渡辺霞亭はその頃新聞の連載小説を書いて大変人気があった人であり、その作品の数はまことに厖大なものでありますが、私が読みましたのは実はその「栗山大膳」だけであります。この人の歴史小説は史実の裏付けがしっかりしておりまして、また実によく近世史の資料を読んだ人のようであります。彼が歴史小説を書くために蒐集した江戸時代のいろいろな資料、文献の類は今日霞亭文庫という名前で東京大学の図書館に収められており、貴重な立派な蒐集でございます。

霞亭の「栗山大膳」は福岡の大名黒田家のお家騒動を材料にした小説でありますが、その黒田家の累代の忠臣の家柄である栗山家の主人大膳が黒田家のお家騒動の中に巻き込まれ、濡れ衣を着せられたり、或いは自分からもある意味で手を汚したりというような事で苦労しながら、黒田家が破滅しないように、辛うじて収拾をつけるという、波瀾万丈の大ロマンと申しますか、そんな感じの面白い大衆的読物であります。ところが鷗外はその同じ材料を用いてまるで性格の違った「栗山大膳」を書くことになります。要するに、大膳がどういう人柄の人であったかということをお家騒動事件を考証の材料にして、再構成してみようという試みなのであります。

「椙原品」というのは、伊達綱宗の側室だった女性であります。この綱宗は有名な政宗の孫でありますが、万治二年二十一歳の時、幕府から職務怠慢というような事でお咎めを受け、品川の屋敷に蟄居を命ぜられ、七十二歳で死ぬまで品川の屋敷から出ることがなかったという生涯を送ります。綱宗には三沢初子という正妻がおりまして、長男の亀千代という若様が生れ、夫婦仲も大変よろしいということで、そこに二番目の女として椙原品が登場する余地がないようにみえる。ところがこの品は綱宗が謹慎を命ぜられたと同時に品川の屋敷に行って、綱宗と共に住み、五十年間見事に添い遂げるという事蹟があるのだそうであります。しかも、品は綱宗の屋敷に行く時に、実家に親戚の者を呼び集めて別れの宴を催し、自分はこれから綱宗に一生を捧げるつもりだという意志を表明して綱宗のもとに来たという。綱宗もその品の心根に感じ入り、何か家紋を作って与えてやったということがあるらしい。これは一体どういう女であろうかと鷗外は興味を持つのであります。綱宗は有名な伊達騒動の際にも蟄居の身分ですから、それを遠くから傍観しているより致し方がない。一切の活動力を奪われてしまって、まことに索漠とした生活だったのではないか、それに五十年間連れ添って、死後も尼になってその菩薩を弔うという女に鷗外は興味を抱いたのであります。ところが、なにしろ材料がないのものですから、ただ作者の椙原品に対する興味だけがそこで言われているという一寸不思議な作品が生れてくることになりました。

作品の性格の上でのこの変化をどう見るかと申しますと、どうも鷗外は歴史の中に見出されるテーマよりも、人の性格、もっと簡単に言えば人の姿に興味を引かれるようになったのではないかと考えられるのであります。そしてその「椙原品」のような殆ど作品の形を成さないようなものを書いたそのすぐ後に、有名な「渋江抽斎」が書かれるわけであります。その「椙原品」という作品は、言ってみれば史伝でありましょうし、他にも史伝と呼ばれる作品はいくつかありますけれども、大体「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北条霞亭」というこの三つの作品を三大史伝などと申しまして、「史伝」の名前で呼ぶことになっております。

さて、その史伝とは何か、ということですが、どうして史伝に改めて定義などが要るかと申しますと、これは小説なのかそれとも実録なのかという問題がかなり古くからあるからであります。鷗外がこれまで書いて来たのは、只今申し上げた通り一種のテーマ小説であります。普通、歴史小説と言えば、今の塚原蓼洲とか渡辺霞亭ばりの英雄、豪傑或いは代表的人物を主人公にした波瀾万丈の歴史的ロマンというふうに解するわけでありますが、鷗外の史伝はそういう性格とは甚だ違っている。今、名前を挙げました三篇の史伝の主人公はそれまでおよそ読書界には知られていなかった名前であります。もし、鷗外が採り上げておりませんでしたら、今日でも依然として人には知られていない名前ではないかと思います。つまり、渋江抽斎と言えば我々は鷗外の作品の主人公だということを知っているだけであって、鷗外の作品以外で渋江抽斎の名前が挙げられるというのを聞いたことはございません。

こんなふうに世間の知らない人物を主人公にしておりますので、この作品は抽斎伝にしても蘭軒伝にしても、到底塚原・渡辺両氏のような意味での歴史小説とは言えないと思います。また、伝記という概念からも甚だ遠いのであります。鷗外は普通の意味での伝記「西周伝」というのがございますし、或いは「能久親王事蹟」というのがございます。いずれもやや堅い儀礼的な著作と言えないこともありませんが、それなりに立派な伝記だと思います。それから、幸田露伴には「渋沢栄一伝」という力作がございます。これらは結局故人に捧げた紙の上の頌徳碑のような趣きがあると思います。鷗外は渋江抽斎に対して自分の親愛の感情を作品の中で繰り返し表現しているわけでありますが、しかし、その結果出来上がったものはどうみても頌徳碑といったような意味合いはない。普通の伝記とはどうも性質が違っているようであります。つまり小説でもないし伝記というものでもない、史伝なのであります。一体史伝という呼び方はいつ頃から出来たものか、これもはっきりしないわけでありますが、ただ鷗外が渋江抽斎の伝記を書いていた時に、ある批評家が、鷗外という人は故人の古手紙の切れ端を集めてそれをつづくり合わせて史伝を作っている、あんな仕事は書記(実は刀筆の吏という難しい言葉を使っていますが)にでも任せておけばいいというような意味のことを言ったそうであります。つまり鷗外のような文豪が手を出すべき仕事ではなかろうというつもりで言ったのだと思います。今では我々は史伝という名前を聞きますと、すぐに鷗外の三つの作品を思い浮かべる。岩波書店の露伴全集を見ますと、史伝という部立がございますけれども、そこに入れられておりますのは有名な「頼朝」とか或いは今言いました「渋沢栄一伝」のようなもので、伝記とか或いは明らかに歴史小説であるかどちらかでありまして、どうも鷗外の史伝というものとは違っているらしい。

ところで鷗外がこれを書いていた頃、史伝という名前は現在の私達程には耳遠いものではなかったのではないかと思われる節があります。これは私の臆測でありますが、それは、明治二十年頃でありましたが、大蔵経の活字印刷が実現いたしまして、以来日本の仏教学は年々非常に進歩いたし、やがて大正の末年有名な「大正新脩大蔵経」の刊行にいたるわけですが、この大蔵経の中には「史伝部」という部門が立てられております。或いは明治四十年代に「新群書類従」という叢書が編纂されておりまして、極く普通に図書館にあるものですが、この中にもやはり史伝という部立はございます。その「史伝部」にはどういうものが入れられてあるかと申しますと、要するに歴史の書物なのであります。支那の正史には帝紀とか列伝といった古めかしい分類がみられますが、その列伝にやや近い、名儒伝とか名臣伝といったもの、及びお寺や神社の縁起とか或いは霊験談といったようなもの、ですから中には多少仏教説話じみたものも入っているのでありますが、そういうものを集めて史伝という部立を作っております。そういう歴史的な記録、坊さんが活動したり、教えを広めたりした事蹟を忠実に記録した資料類が史伝と称されているわけであります。従いまして、鷗外の「渋江抽斎」を指して、これは鷗外が作った史伝であると当時のある批評家が言ったそうでありますが、その着目は案外正しかったかも知れないのです。鷗外自身は必ずしも自分の仕事に史伝という名前をつけてはおりません。また、そういう意志を持っていたわけでもないようであります。自分は素人歴史家として抽斎や蘭軒の事蹟をたずね、それを発掘し、何んとかして彼等の事蹟をこの世に出したいのだということをはっきり言っている。私はやはり、これを素直にとった方が宜しいのではないかと思います。と申しますのは、結局、鷗外はこの三つの史伝で実は歴史を書いているのだということであります。それにも拘らず、鷗外の史伝が当時から今に至るまで、どうも小説として扱われる、というと語弊があるかと思いますが、あれは小説とどう違うのだということが盛んに問題になるわけであります。或いはその境目はどこにあるのか、殊に「渋江抽斎」は大変読み易く、まさに小説を読むように面白いのだから、だからあれは小説なんだろうということではないかと思いますが、とにかく読んでみればそこに詩的な、文学的な感動がありますし、作者の感情移入の痕跡も濃厚であります。全体に高雅な文学的な味わいがありますので、普通の意味での歴史書とはどうも考えにくいというのは尤もだと思います。ですから、中には端的にあれは小説だと言う人もありますし、分類に困りますと史伝小説という折衷的な名前をつけたり致します。史伝小説とは私、少々無理な呼び方じゃないかと思っておかしく思うのですが、例えば、斎藤茂吉のような鷗外の文学に理解の深い人でさえ史伝的小説という呼び方を使っております。私自身はこの三つの史伝に、小説という名前を与えることは避けたいように思っております。

ここで鷗外は結局何を書いたかと申しますと、例えば「渋江抽斎」なら抽斎及びその家族の日常の生活をただ年代を追って淡々と書いているだけであります。そして、その際作者鷗外の基本的な方針はどうみても文学的な効果、創作の物語として如何に効果を上げるかというようなところにはない。そうではなくて、彼の苦心は、如何にして主人公をめぐる歴史的真実を発掘したらいいか、そしてそれを如何にして正確に表現し伝達するかということに向かっていたと思います。そこで、歴史的真実と簡単に言いますけれども、それは一体何だろうかということがまた問題になって参ります。これも大変難しい問題であります。普通我々は、現象としての単なる歴史的な事件とか或いは事実というものに出合うわけであります。それは直接の見聞とか体験という形をとることもありますが、それが昔のことですと、まず、史料という形でそれにぶつかることになる。例えば、或る人物について歴史的な真実というものを調べる一番の資料は、その人の著述の場合もありますが、故人の生活についての直接的な資料は、その日記とか手紙が主なものだろうと思います。

この渋江抽斎という人の場合、鷗外は抽斎の手紙とか日記の類は殆ど手に入れていないのであります。それでは何を材料にして書いたかと申しますと、抽斎の末っ子の渋江保という人がありまして、この人は明治の後半に文筆家としてかなり名が聞えていた人であります。ただ啓蒙的な、或いは児童向の読物を博文館という本屋の求めに応じて盛んに書き散らすというようなタイプだったものですから、文学史に名前が載る程ではなかったが、たいへん良く筆の立つ人であった。この人に鷗外がめぐり合いまして、この渋江保から抽斎に関する史料の全てを受けとるわけであります。渋江保は赤ん坊の時にお父さんの抽斎が亡くなっているものですから、直接的な父の記憶がない。ただ自分の母、つまり抽斎の未亡人から父の逸話をいろいろ聞かされていた。それを、記憶力も強く、また筆まめな人であったものですから鷗外の求めに応じて覚書の形に記述し、更にいろいろ資料を集めて、それらを全て鷗外の自由な使用に委ねたわけであります。ですから鷗外の「渋江抽斎」は多くの部分がこの保の手記に基づいて出来ておりまして、少し意地の悪い見方をすれば、どの辺までが鷗外の功績なのか、どの位までは渋江保の手記が「渋江抽斎」の中身なのか、一寸見分けがつきにくいようなところがあるわけであります。つまり、渋江保が書いた亡き父親についての覚書に鷗外が恣に手を加える、つまりは自分の好みに合せてそれを美化して書いた、その結果が「抽斎」ではないかという批評もありうるわけであります。ただ、私が結論を申しますと、確かに鷗外は自分の想像を書き加えておりますが、それは必ずしも史実を歪めたことではない。そうではなくて、鷗外の想像力が加わったことによって、歴史的真実というものが、実は明らかに表に出てくるようになっている。渋江保の手記は単なる事実とか事件にすぎない。その奥にやはり歴史的真実というものがあるのではないか、それを鷗外は発掘して読者の眼に見やすい形で表現したのだ、歴史家の仕事とは本来このことなのだ、と、こう申したいのであります。そこで保の手記と鷗外の作品との間にある違いが生ずるのはこれはむしろ当り前で、違っている部分にこそ、鷗外の手によって表に出された歴史的真実があるのだろうと、こう言いたいわけであります。

こうした解釈を支える一つの面白い例がありますので、取り出してみたいと思います。鷗外が渋江抽斎の事蹟を書きました時に、その副次的な産物として「寿阿弥の手紙」という作品を書いております。これも、かなり長いものでありますから、或いは三大史伝と言わずにこれを加えて四大史伝と言うべきかも知れません。寿阿弥というのは、江戸の「真志屋」という大きなお菓子屋の主人で渋江抽斎の友人だった人ですが、出家して寿阿弥という坊さんみたいな名前を名乗る。この人のある手紙が古本屋に売りに出た時に鷗外はかなり無理をしてそれを買い込んで、抽斎伝の資料とするわけであります。この寿阿弥の手紙の中に一つの奇談が報じてあります。それは多町という江戸の町に火事があって銅物屋が焼けた。その焼け跡に大きな釜がありまして、その中に七人の焼死体があった。どうしてそんな釜の中で人が焼け死んだのかという謎の話なんですが、こういうふうに書いてあります。「銅物屋の事故[ことゆえ] 大釜二つ見せの前左右にあり、五箇年以前此辺出火の節、向う側[ばかり]焼失にて、道幅も格別広き処故、今度ものがれ可申、さ候はば外へ立のくにも及ぶまじと申候に、鳶の者もさ様に心得、いか様にやけて参候とも、此大釜二つに水御坐候故、大丈夫助り候由に受合申候、十八歳に成候男は土蔵の戸前をうちしまひ、是迄はたらき候へば、私方は此所よりは火元へも近く候間云々」

と言ってお暇して帰ってしまったというわけであります。「其跡は推量に御坐候へ共……」とまた寿阿弥は書いております。

「……とかく見せ蔵、奥蔵などに心のこり、父子共に立のき[かね]、鳶の者は受合[かたがた]故彼是仕候内に、火勢強く左右より燃かかり候故、そりゃ釜の中よ、といふやうな事にて釜へ入候処、釜は沸上り、烟りは吹かけ、大釜故入るには鍔を足懸りに入候へ共、出るには足がかりもなく、釜は熱く成[かたがた]にて、死に候事と相見え申候」
と、こういう文章があるわけです。鷗外はこの手紙の文章を大変推奨し、その中でもこの火事の奇談を甚だ面白いと言っておりまして、「叙事は精緻を極め、一つの冗語だにつけない。実によって文を[]る間に、『そりゃ釜の中よ』以下の如き空想の発動をみる」というふうに批評しております。

さて、考えてみますと「そりゃ釜の中よ」という一語は決して事実を伝えたものではない。これこそ寿阿弥の空想が付け加えた言葉に違いない。しかし、鷗外は恐らくこういうあたりに歴史叙述というものの秘訣があるということを見抜いたのではないかと思うのです。客観的に言えば、七人皆焼死んでしまったのですから、釜の中へ逃げ込む時にどういう状況であったかということは証人もいないので証明のしようがない。しかし、「そりゃ釜の中よ」という一句を以て、その人達の考えた事、実際に為した事とその結果との連関が誠に生彩躍如たる文章になって読者の印象に訴えかけてくるわけであります。少し奇警にひびくかも知れませんが、私は歴史的な真実というものをこういうところに求めてみたいわけであります。つまり、実際そうとしか考えようがない事態の推移について、このような空想に発するものではあるが的確無比の一語を付け加えることによって、それは没価値的な事実の次元から浮き出てきて後世に伝わるだけの面白さを帯びるに至る。この火事の際の奇談が後世に語り継がれ、伝えられるだけの興味深いものになり得たのは寿阿弥の叙述によってでありまして、さらにその情景が目に見えるように巧みに描かれたのは、空想から出た「そりゃ釜の中よ」という一句のお蔭であったという事、鷗外が賛嘆しているのはここなのであります。

最後に「渋江抽斎」、「伊沢蘭軒」、「北条霞亭」というこの三つの史伝について敢えて多少評価に渉ることを申し上げてみたいと思います。普通、世間一般に人気がある作品はどうも「渋江抽斎」のようであります。それは確かにその通りで抽斎に対する鷗外の親愛の情と申しますか、むしろ敬慕の情というものが本当に美しく出ている文章であります。しかし、あまり人気はないかと思いますが、或る意味で鷗外の書いた歴史として典型的なものは「伊沢蘭軒」でございます。その典型的である所以はいろいろ挙げる事が出来ますけれども、蘭軒の場合医学者であり、かつ考証学者であった人でありますが、これを江戸時代の知識人の一つの代表例と見てよろしく、その知識人の日常生活の情景がまことに丁寧に描写されている。当時の人達が弟子をとる場合どういう形式を踏んでとり、そして書生を養うとは一体どういった事であったのか、学者である主人の蘭軒の平生の衣食住はどういう形のものであったか、普通の政治史にはもちろん文化史にも学芸史にも書いてない、そんなことが、実に精細に書いてあるわけであります。またこの蘭軒の場合には、榛軒、柏軒という二人の男の子がおります。いずれも父の業をついで医者になります。榛軒に子供がおりませんで、棠軒という養子をとりますが、結局伊沢家三代の歴史、蘭軒の誕生から孫の棠軒が成人して明治維新の激動の時代に遭遇するまで、江戸時代後期百年の歴史の市民的次元での実相が真によく出ている。蘭軒が在世当時は所謂文化文政時代で、この時に頼山陽や菅茶山という有名な文人との親しいつきあいがある。鷗外は山陽とか茶山という有名な人物については伝記を立てるだけの資料は多分持っていたであろう。それをさておいて、元来ならば歴史の脇役にすぎないような蘭軒を主人公にしたところが面白いので、これは私も多少ある種の謎を感じております。とにかくその蘭軒と茶山、山陽のつきあいを通じまして、私共は山陽父子の間柄、父親の春水、これが大変厳しい学者だったようでありますが、その性格の一端、或いは有名な詩人、茶山の春風駘蕩たる面影を垣間見ます。そして彼等はこの文化文政という泰平の時代に実に風流な感情生活を送っているのに我々は驚きと共に羨望の念を禁じ得ないのです。

この時代の文人学者達の風流の実体はどういうものであったかということについても、「蘭軒」一篇は真によき資料であり証言でもあります。やがてこの人逹の中での長老格たる茶山が死に、主人公の蘭軒が世を去り、山陽も死ぬ、というふうに天保、弘化、嘉永、安政と時代が進んで行きますと、徳川三百年の太平の夢が次第に揺り動かされ、日本は否でも応でもその時代の国際情勢の厳しさに目覚めて行かざるを得ない。そうすると保守的な古い学者のタイプであった伊沢家の人々が、外の世界の影響をどのように受けとめてゆくであろうか。例えばペルリの来航、或いはイギリスのスターリングが長崎に入港して日本の民心を脅かすというような時に彼等はどういう反応をしたであろうかといった事が、本当にそうであったに違いないと思うような如実な感じで書いてあるわけです。それは例えば、我々が昭和十六年十二月八日とか昭和二十年八月十五日というような激動の瞬間に一体どんな生活をしていて、あのニュースをどんな言葉で受け止めていたであろうかというような事を考えますと、それに重なり合ってくるような風景なのです。民衆というのはいつの時代にも結局呑気な小世界の住人でありうるものだとか、知識人という存在とても結局は同じことなのだが、ただ国際社会という大世界の消息にどうしても自分の私生活を左右されざるを得ない、そんな敏感な一面もたしかにある、というようないろいろな感想が浮かんでくるわけであります。

大佛次郎さんのライフ・ワークとなりました「天皇の世紀」という幕末維新の時期を描いた長大な歴史書がありますけれども、あの激動の時代を一人の市民の家庭のあり方を通じてみたら、どんなふうにみえただろうか。例えばこの「伊沢蘭軒」などが巧みにそれを果しているわけでありまして、普通にはまるで小説と歴史の合いの子のように言われております鷗外の「伊沢蘭軒」が、実は徳川時代後期の民衆の歴史の実態を生々と描いた、立派な史書である、というような認識が日本の歴史家の側に生じてくることを願ってやまない、私はそんな感想を常々いだいている次第であります。

大後半、話をいそぎまして、「霞亭」にふれることができず、お聞き苦しい所もあったかと思いますが、ここ迄にさせて頂きます。

(東京大学助教授・東大・文博・昭和33)
(本稿は昭和54年11月12日夕食会における講演の要旨であります)