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学士会アーカイブス

昔の学生・今の学生―学問に未来はあるか?― 大内 力 No.744(昭和54年6月)

     
昔の学生・今の学生  ―学問に未来はあるか?―
大内力(東京大学名誉教授・信州大学教授) No744号(昭和54年6月号)

今年の3月一杯で足かけ30年勤めた東大を無事卒業した。経ってみれば30年といってもあっという間に過ぎてしまったようで、まさに邯鄲の夢といった感じがしないでもない。助教授になりたてのころは人なみに生意気だったから、当時定年に近かった先輩の先生方をそれとなく観察しながら、30年やってもあの程度のことなのかと己惚れたことを考えていた。そのときは、何となく間もなく追いつき追い越せるような気がしていたのである。しかし30年経ってみると学問の進歩がいかに遅々たるものであるかを思い知らされる。まさに少年老いやすく学成り難しである。出発点からほんの一段か二段かを上がるために、どうやら一生の大半を使ってしまったらしい。30年が一朝のように感じられるのもそのためであろう。

 しかし学問の研究にとっては30年は短くても、歴史としてはこの30年は第二次大戦後の時代のほとんど全部を覆っている。この間世界も日本も、そして大学も大変大きな変化をしめした。早い話が私が大学に戻ってきたころには、惨憺たる状態にあり、悪くすれば国民の三分の一ぐらいが餓死するかもしれないといわれた時代である。30年後の日本が自由世界第二の経済大国になるなどと予想した人は、日本中に一人もなかったにちがいない。

 大学、ことに東大のような長い伝統をもつ大学は、あるいはもっとも変化のすくなかった社会かもしれない。すくなくとも外からみると大学はいつまで経っても旧態依然たるものがあり、社会の変化に対応しきれていないという感が強いのであろう。例の東大紛争のときなどは、ジャーナリズムをはじめ世間一般は大学の古い体質を盛んに攻撃したし、ある意味でそれを内部から告発した学生や大学院生、助手などの若手研究者に、多分に同情的であった。

 しかし大学の中に生活をしていると、やはり大学もさまざまの点で大変な変化をとげたことがひしひしと感じられる。もちろんこの間、自然科学や技術のみでなく、人文、社会科学も世界的にみて大変な進歩をとげた。研究の手法やそのために必要とされる設備、手段もいちじるしく変ったし、大型化、機械化がすすんだ。もっともとくに理科系の学問では、こういう実験装置やその他の研究手段の点で、大学は金がないためにしばしば民間企業の研究機関や政府の試験研究機関におくれをとり、そのいみで研究の時代おくれが生ずるという事態が起っているようである。理科系の教授たちにはそういう点で大変強い焦りがみられ、これでは大学の研究は世界の研究水準にはるかにおくれてしまうと嘆く人が多い。私などは、大学は果してそういう大型研究、なかんずく実用的な研究の面で、最先端をゆく必要があるのか、一見古くさく、時代おくれに見えようとも、より基礎的な、いわば物の考え方を明らかにし、教えれば足りるのではないかと思うのだが、その辺は大学観の相違だから議論をしてみてもなかなか片づかないであろう。それにしても、こういう学問の発達におうじて、大学でも建物や施設がますます大型化し、研究のやり方も授業の方法も変るのはとうぜんである。本郷のキャンパスも、戦前の広々とした静かな、落着いたたたずまいを知るものにとっては、最近はいかにも雑然としており、東京の町と同じように過密化してしまって、索漠たる思いがするが、それは時代の然らしむるところで、嘆いてみてもはじまらないことであろう。

 だが、変ったのはそういう物的な面だけでなく、ある意味でより重要なのは人的な面であろう。その中でも、大学にとって重要なのは学生の気質なり能力なりの変化である。それは直接に時々の大学の教育なり学生運動なりに影響を及ぼすというだけのことではない。その学生がやがては社会に出てゆくのだから、それは日本の社会にも大きな影響を及ぼすであろうが、大学にとっていえば、かれらはやがては次代の研究を担うべき学者の卵である。とくに大学院生はそうである。もちろんそれは学生のなかのほんの少数者にすぎないが、それにしても学生の能力、気質の変化は、この意味で、将来の大学にとって、したがってまた、将来の日本の学問研究にとっても、重大な影響力をもっているといわなければならないのである。

 ところで、最近の学生が一般にいって、いちじるしく学力が低下していることは、おそらく大学教授のすべてが痛感していることだろう。もっともこの点は、あとでふれるような理由で、東大のばあいとくに目立つのであって、他の大学の学生はもう少しましなのかもしれないが、いろいろ他大学の先生に聞いてみても似たりよったりという感じがする。

 このばあい学力というのは、かならずしも大学で直接に教える、経済学なら経済学といった専門的な学問の知識のことではない。その点についていえば、大学で教える内容はたしかに昔に比べればずっと高級になっているし、講義のやり方、教材の与え方などの点でも、旧制の大学のころよりはずっと整備されている。すくなくとも昔みたいに、やたらに休講が多くて、しかも講義の内容といえば10年も前のノートと同じなどという豪傑の先生はみられなくなった。ただしこういうふうに大学の授業が小中学校なみによくいえば真面目に、悪くいえば規格化されてきたことが、大学教育として果たしていいことなのかどうかはいささか疑問だが。

 ともかくこうして講義の内容は高級化しているのだから、ひと通り真面目に教室に出て勉強をした学生が卒業のときに備えている専門知識の量なり水準なりは、あるいは昔より高いといってもいいのかもしれない。中以下の学生は、どの道きちんとした知識をもっていないが、その点は昔でもそう大きな差はなかったであろう。

 しかし、そういう片々たる知識は、すくなくとも経済学などのばあいには、社会に出てから大して役に立つものではない。また、そんなものは、学力さえあれば、必要が生じたときすぐに獲得できるものである。それが真の学力とはとうていいえないであろう。

 では真の学力とは何かといわれると、一口で答えるのはむずかしい。しかしいやしくも大学である専門の学問を四年間も学んだのだから、その学問に特有な基本的な物の見方、考え方は身につけているべきだろう。その上に立って、他人の意見、主張をきちんと理解するとともに、正しく批判すること、何か具体的な問題にぶつかったばあいも、その立場から問題に接近し、不明確な点については自分で事実なり文献なり統計なりを調べてその解明をはかること―そういう能力が学力の一部であることはたしかである。

 だが、こういう学力ということになれば、今の学生は昔の学生よりはるかに非力である。第一今の大学生の大部分は外国語のことはおいて日本語で読んでさえ、すこし難しい本は読みこなせない。それに読書力がひどく弱くなっているから、大きな本にとり組んでそれをマスターするまで読むとか、多くの文献を漁ってこれを使いこなすとかいうことは、まず望みがない。せいぜい概論書か入門的な解説書くらいがかれらの理解の届く範囲である。

 その上、どういうわけか最近の学生は日本語の文章がまともに書けないものが大部分である。論文などという気のきいたものでなく、数枚とか十数枚のレポートのたぐいでも、何とも体をなさないのが普通である。それもただ誤字、脱字が多いとか、カナづかいがめちゃめちゃだとか、語彙がおそるべく貧弱だとかいうだけでない。一方では日本語として平仄のあわない文章がいくらでも出てくるし、他方では文章の脈絡がどうにもわからないというのが多いのだから、これは大分重症である。

 こういうのは、いうまでもなく、ただ文章を書く習練が足りず、表現力が弱いといった技術的な話ではない。文章がきちんと書けて、自分の考えていることを的確に、論理的に表現できるかどうかということは、自分自身が事柄をどこまで理解し、どこまで思考を整理しているかにかかることである。反対にいえば、きちんと話の筋のわかるような文章が書けないということは、事柄を正確に理解し、みずからの頭の中でそれを整理する能力に欠陥があるといっていいであろう。つまり学問をきちんと理解できていないのである。

 大学の卒業生の学力がこういうふうにはげしく低下してきたことは、最近、役所とか会社とかでも問題になっているらしい。将来の幹部要員としてせっかく採用した新人が、いざ使ってみると、問題を正確に理解する点でも、それにたいして何らか創造的に取り組むという点でもはなはだ頼りないだけでなく、起案文さえ満足に書けないとあっては、役所や会社がガックリくるのはとうぜんであろう。

 右のような学力は、むろんたんに役人や会社員なるものにとって必要だというだけではない。研究者、学者になるものにとっても必要不可欠である。しかしそのほかに、とくに後者にとっては、旺盛な問題意識も欠くことができない。この場合問題意識というのは、社会科学に志すものにとっては、一面からいえば現実の社会についての問題関心であることはいうまでもない。現実の社会のさまざまの現象について鋭い関心をもち、その中で学問的解明を必要とするような問題を的確につかみとる能力なり志向なりがなければ、そもそも社会科学の研究ははじまらない。そういう問題意識はかならずしも実践的要求とかかわるものでなくてもいい。もちろん学問が何らか現実の問題の解決に役立つことを目的とする以上、それは実践的課題と無関係ではありえないであろうが、しかしさし当りは、それは純粋に学問的な関心から発した問題意識であってもさしつかえない。それにしても、現実にたいしてつねに疑問をもち、その歴史的、社会的意義を問う心がまえがなければ、そしてそれをただあるがままに受けとり、その常識的な説明に安住しているのではおよそ社会科学の研究は成り立たないであろう。

 しかし他方では、この問題意識というのは既成の理論なり既成の説明なりにたいする批判意識でなければならない。人のいったことをただくりかえすのでは、科学に進歩はない。学問はあるいみでいえば、人の考えないことを考え、人のいわないことをいうところに価値がある。もちろんそれはこれまでの研究の蓄積のうえになされるべきことであって、素人の思いつきによる床屋談義は多くのばあい不毛である。

 ともかくこういういみにおける問題意識がいまの学生にはおそるべく希薄である。報告をさせてもレポートを書かせても、そもそも自分が何を疑問とし、それにたいしてどう答えようとしているのか、そこのところがてんでわからないというのが大部分である。もちろん私は、問題のたて方の稚拙さとかその解き方の粗雑さ、不十分さをいっているのではない。それは初学者にはまぬかれえないことであり、昔の学生にもむろんあった。しかし今の学生には、それ以前の問題意識がそもそもないのである。だから結局、ありきたりの問題をたて、人のすでにいったことを下手くそにくりかえすだけのことに終ってしまう。それも、さきにいったように、読書力がないので、せいぜい一冊か二冊の概説書の要約を出ないのである。

 こういうことでは本人も学問をやっていてもちっとも面白くないだろうとこちらは同情したくなるのだが、そういうのが結構一所懸命に大学院を志し、研究者になろうとするのだから不思議である。まさか他人の著書や論文のひき写しをもって男子一生の業と心得ているわけでもないのだろうが。

 さて、なぜ今の学生がこういうふうに変ってしまったのか。そこのところはよくわからない。おそらくは入試地獄の深刻化によって、また○×式の問題にたいする解答術だけをマスターしようとする受験勉強なるものによって、標準的な教科書や参考書を丸暗記し、重箱の隅をつっつくような瑣末な知識の断片を頭につめ込むことには長けても、自分で本を読み、自分で物を考え、それを自分の言葉で表現するという訓練を一度も受けたことなしに成人になってしまったということもその一つの理由であろう。あの、空欄になった箱のなかに、どういう前置詞をはめ込むべきかといった、私などがみると謎ときとしか思えないような難問の出る入試をやすやすと突破してきた学生が、ごくやさしい英語の一頁位を翻訳させてみると、まるで内容を理解していないことを暴露するのは、まことに象徴的である。

 またおそらくはテレビや漫画に毒されて、読書の習慣を失ってしまったということもあろう。小学校以来教師が作文や読書をきちんと教育しなくなったということもあろう。さらに、世の中が太平楽になって、矛盾や問題を感じなくなったということもあるのかもしれない。

 ともかく学生がこうなってしまっては、これから10年,20年先の日本の学問はどうやら絶望的である。ここから創造的な経済学などが生れようとはとうてい思えない。そう考えると、自分も30余年、学問に未来をつくり出すのでなく、未来をだめにするような教育しかしえなかったのかと、いささか落莫たる思いがする。しかしそれは時代の帰結であろう。大厦の倒るるや一木の支うるところにあらず、である。

 (東京大学名誉教授・信州大学教授・東大・経・昭17)