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学士会アーカイブス

学士会館開館50周年記念特別号

     
≪学士会館開館50周年記念特別号≫
No.740(昭和53年7月号)

 
【所感】
  山口青邨

 学士会館開館50周年になるという、誠に目出度い。こうして安泰に繁栄しているが、ここまで来るには当事者のご苦労が大変だったと思う。最近では会館地所の所有権、そのための金の工面、方法、私は評議員として出席、その都度経過報告を承っており、理事長、理事の方々のご苦労は大変だったと思う。

 学士会の料理は安くてうまいという評判、実際そうである。結婚式を初めいろいろの祝賀宴等に利用されていて、みなよい印象を持っている。品位を持ち、親切で心がこもっているのだ。料理担当の精養軒の社長森田さん、私は亡くなった弟さんと一緒に、むかしから知っている。昭和7年以来草樹会の夕食を食べて来たが、その頃から知っている。一皿1円か1円20銭、それがうまかった。
 今も一皿、それが大変うまいのである。評議員会の昼食、老人が多いので心を使っており、すべて軟らかで、こくがあって、これまた大変うまい。

 私の子供たちの結婚式もお世話になった。いつも恩恵を受けている。
  4、5年前、南原さん、末延さんと3人で能を見たことがある。西沢東吉君が切符をくれた。 金春流のある会の記念演能。水道橋の能楽堂で道成寺を見た。
 「能はよく御覧になりますか」と訊くと、「いや見ませんね」とお二人とも笑った。それから間もなく南原さんは亡くなられた。勤勉な執務ぶりだったと聞いた。

(俳人・東京大学名誉教授・東大・工博・大正5年卒)

【万葉三水会のことなど】
  石井庄司

 私は昭和3年3月の卒業で、すぐ入会の手続きをすませた、ように思うので、正に50年間、お世話になっている次第である。

 昭和5年5月、同じ年に、東大・京大・東北大の国文を出た者6人が集まって、万葉集を話し合う会をもった。3階の一番狭い会議室であったと思う。
  さて会名をということになり、いろいろ話し合った末、その日が第3水曜であったので、三水会ということにした。帰りに、次回の部屋の予約をするため事務室へ行ったところ、すでに三水会なる会があるとのこと、そこで誰言うとなく、われわれは万葉だから、万葉三水会にしようということで、以後、ずっと毎月お世話になってきた。

 夜5 時集合で、顔が揃うと地下の食堂へ降りて行って、当時金50銭也のチキンライスをめいめいに注文して、サービスのお冷で平らげて、すぐ会場へ戻ってきた。
  毎回、当番一人の研究発表を中心に、自由討議ということで、時になかなか議論の収拾がつかず、幾度も閉館の時間と催促を受けた。さだめし迷惑のかかることの多い会合と思われていたことであろうと恐縮する次第。

 万葉三水会は、会員相互の研修が主で公開はしていなかったが、ある時、会館にお泊りの新村出先生が玄関に掲示が出ていたからと、おいで下さったことがあった。
  また、ある時には、予告なしに斎藤茂吉・土屋文明の両先生がおいで下さった。この日は、森本治吉君の当番で「田子の浦ゆ」の「ゆ」についての発表で、後で両先生からも発言があり、面白い会となったこと、今も記憶に残っている。

 戦後、会館は遠来の人たちに引き渡されたため、私共は他に会場をさがし求め続けていたが、本郷分館が出来上がると、すぐ、そちらへ移って、相変わらず、毎月第三水曜に開いてきた。
  万葉三水会は、その後会員が減って、息も絶え絶えであるが、私は、別の万葉集と源氏物語の会で、今も、月2回本郷分館のお世話になっている。かれこれ半世紀になろうとしている。まことにありがたいことである。

(東海大学教授・京大・文博・昭和3年卒)

【会館と私】
  高梨正夫

 丸の内の一流会社の新入社員で独り暮らしと、まだマーケット・バリューが高かった頃だったのに、私はひまさえあれば会館に通った。当時、町のフロ屋が5銭位だった頃、会館では泊らなくても20銭か30銭出すと白いタイル張りの豪華なフロが独占できた。親切なボーイさんが時々新しい石鹸を出してくれた。
 大小の真白いタオルがちゃんと用意してあったことはいうまでもない。地下で夕食を済ませ、談話室の大きな革張りの椅子に身を埋めて一服すると、もう重役になったのも同じだと思った。会費を払っている証拠に1円50銭くらいも出して○に学の字の入ったバッジを買った。今も大切にもっている。

 やがて私にも赤紙(軍の召集令状)がきた。海兵団とは予想外だった。戦争も末期になった頃、敵の本土上陸に備えてベニヤ板製の特攻艇が私達に割り当てられていると聞かされた。「むづかしいことはない。敵艦に向けて舵を固定してしまえば、眠っていても今度気が付いたときは間違いなくお前達は靖国神社に行っている」と上官から言われた。「あそこなら会館も近くて今後何かと便利だ」と話し合った仲間の幾人かは、もっとましな艦艇ではあったが、一足お先にほんとに行ってしまった。学士会館の話が彼等の生涯の最後の笑顔だっ
たかもしれない。

 終戦後、会館が米軍の手から戻ってくると私はまた通い始めた。今度は読書室が目的だった。我が家では子供がまだ小さかったので落ち着いて原稿が書けない。5年間も通って、内容は兎も角、学位論文や何やら書くことが出来た。
 その頃は冷房もなかったが、公害もなかった。夏など開け放された窓から涼風が快い。そのせいか初めから昼寝のために来ている御仁がいた。いつ行っても椅子を三つ並べてシャツ一枚で鼾を書いている。鼾が余り高くなるとボーイさんに頼んで注意して貰った。何しろ相手が「象アザラシ」のように肥って大きく見えたから。
  その後、私はあまり来なくなったが、たまにくると、子供の時、親父に連れて行ってもらった郷里の母屋のようなズッシリとした安堵感が味わえる。

 会館も今年で50周年を迎えるそうだが、私が通い始めてからもうまる40年にもなる。その間に結婚式や会合で来たことも少なくない。時々、会館に安くて上品な葬式をやってくれないものかと思うことがある。だが、窓口で「お日取りは?」と聞かれると予約がちょっとむづかしい。

(明治学院大学教授・東北大・法博・昭和14年卒)

【学士会館50周年を迎えるに際して】
 名倉英二

 私が昭和28年評議員となりました当時の理事長は山田三良先生でした。言葉少ない厳粛そのもので、自ずと頭が下がる様な高邁さですが、その反面には無言で人を抱擁する魅力さがあり、私共は心から深く敬慕し、評議員会の都度拝顔、その議案の進行振りの快適さには、只々敬意を捧げるのみでした。
  その言葉少ない先生が、大学新卒業生の歓迎会では、言を極めて学士会入会を説き、懸命に薦められます熱心さには、心打たれるのみでした。
  当時は未だ終戦後の混沌さが残存して、当学士会の運営上にも色々と難関がありましたが、如何にも合理的に一つ一つ解決、今日の基礎を確立せられましたことは、驚くばかりでした。

 此度、目出度く50周年を迎えますことは、洵に御同慶、慶祝に堪えませんが、山田先生初め、当時評議員会の都度お目に懸かっていました高橋明先生(東大名誉教授)、颯田琴次先生(東大名誉教授)、友人佐藤基氏(元会計検査院長)、森村義行(森村合名社長)、その他多数の御物故者を追想すると洵に感無量です。玄に謹み50周年記念のお祝いを述べ、物故者様のご冥福をも謹み祈ります。

(名倉病院長・九大・医博・大正11年卒)

【開館50周年記念によせて】
 末松満

 昭和3年4月、私は東大法学部へ入学し、直ちに帝大新聞の編集部員となった。
  5月21日号の帝大新聞は、第3面を学士会館特集ページとしたが、そのトップ記事は、「顧みれば過ぐる大正2年、この計画を発表して以来十有六年、予算を変更すること3度に及び、幾たびか実現に支障を来たしたが、たまたま帝大創立50年記念に遭遇し、会員より相集めて遂に100万円の巨費を計上し……」と書き出している。

  100万円の巨費のおかげで出来上がった会館は、「玄関へ第一歩を入れると旭石を張りまわした壁、大理石の笠石に浮彫を刻んだ天井が重々しく……4階は29室の寝室となって申し分ないホテル」と描写され、その見出しは「石柱立ち並ぶ豪華さ、感嘆の叫び先ず口を突く」となっている。

 8ページの帝大新聞は爾来、毎週その第4面に学士欄を設け、1段ないし2段のスペースを割いて会館の近況ならびに各地学士会の参集者氏名を掲載しつづけた。
  10月8日号にはホテル部の客が毎日平均25名あり、遠からず部屋が足りなくなるが、客筋としては、長期滞在の京大、九大両総長や長崎控訴院長、石川県知事などの氏名を挙げ、陽気で派手な向きの投宿を歓迎する旨が記事となっている。
  結婚シーズンに御大典記念が重なり、明治節の11月3日には6組の結婚式で賑わった。媒酌人の中に山田三良教授ご夫妻の登場も紹介された。また、第一回の家族会がこの日会館の講堂で開かれた。学士会理事長、阪谷男爵が宮中参賀の帰途、金ピカの大礼服姿で出席し、子供たちから大持てだった、という話。
 一方、美濃部達吉博士が常連仲間と碁を囲みながら、知り合いの家族会参会者と目礼を交わしていた、という情景も報ぜられている。

 私が卒業する昭和6年を迎えたとき、学士欄は消えていたが、「会館の集い」という短信は相変わらず続いていたし、別に「昭和学士の珍職業」という連載読物が始まった。銀座のカフェー美人座のマネジャー経済学士、弓を売る文学士、今では決して珍職とは思われぬラジオのアナウンサー法学士など、十数回ほど続いた頃に、私は帝大新聞ならびに法学部を卒業して朝日新聞社に就職した。任地が大阪だったので、3年間馴染みを重ねた学士会館とも、しばしお別れということになった。

(東海大学教授・東大・法・昭和6年卒)

【開館50周年記念によせて】
 丹羽貴知蔵

 昭和11年札幌にグランドホテルが新築され、隣りの商工会議所の講堂とは2階の廊下で繋がっており、ホテルで午餐のあと、会議所の講堂で、毎年学士会の催しが行われるようになった。
  昭和15年東北大学に転勤したが、工学部側の北門の前の角に学士会館の分館があって、昼食とか、種々の会合に使わせていただいた。これも、終戦の年の戦火に遭い、今はその名残りも止めていない。
  その後、大阪での勤務を経て、昭和23年、亡くなった恩師の後を継いで北大に復帰したが、上京する度に苦労をしたのは宿である。31年の11月であったか、戦後進駐軍に徴用されていた学士会館が返還され再開された時の喜びは、そのお祝いを兼ねた宿泊申込第1号の祝電となったものである。爾来、常宿にさせて戴いているが、昭和35年春のこと、学会シーズンで会館に宿泊中、弟子の婚礼の媒酌に愚妻を札幌より呼び寄せた為に、その前日から学士会館を出て、他のホテルに泊るの余儀なきに到った。当時の宿泊は、男子の会員に限るということで、「学士会館で仲人する為に妻が来たのに、折角泊っていた会館を出て他のホテルから通わなければならぬ、というのは真に不合理ではないか」と当時の支配人の方に申したところ、「もとは、女性の来客があると、客室のドアーを開放して戴くとか、食堂に出られる和服の方には袴をお貸ししたものですよ」という昔話まで聴かされ、畏れ入ったことであったが、その翌年の4月から、同伴の家族も泊れるようになり、その後の盛況を見るに到ったのは、寔に喜ばしいことである。
  北大の学長在任中は、毎年国大協の総会のある機会に、故南原理事長先生からご招待を受け、会館取って置きの食器でご馳走になり、新渡戸稲造先生のお話など伺うことが出来たのは、、全くの感激であった。
  今後は、戦前にあったように、主な支部に分館を造られ、本館や本郷の分館で行われている行事が地方に及べば、地方に在住する会員の喜び、これに過ぎるものはない。

(北海道大学名誉教授・北大・理博・昭和8年卒業)

【学士会館と私】
 湯川泰秀

 学士会館が開館50周年を迎える由であるが、私の出身校大阪大学は未だ50周年を迎えていない。理学部の1回生として昭和8年に入学したが、昭和11年3月の卒業式のあと、学士会に盛大な祝賀会を開いていただいた。これが豪華なパーティーで模擬店が並び、ミス何とかといった当時のウェイトレスが林立してわれわれは些か度肝を抜かれた次第であった。ご馳走になって早速、学士会に入会したのはもちろんである。
  終戦後の米軍接収が解除されて、化学会の理事、副会長や学術会議会員など東京での用務に比例して会館の利用が増して、今年の前半などは毎週お世話になっている始末である。
  昨年、阪大を定年退官して振り返ってみると、宿泊はもちろんのこと、研究会、シンポジウムなどの集会を初め、息子や娘の結婚式と学士会館には何から何までお世話になっている。大学の安月給で何とかやってこれたのも学士会館のサービスのお蔭であるが、それにも増して随分多くの会員の方々に知遇を得たことは忘れられない。北大総長だった杉野目先生と浴衣がけでいつも駄弁ることができたのも、学士会館ならではであった。

(大阪大学名誉教授・阪大・理博・昭和11年卒業)

【開館50周年によせて】
 白戸紋平

 学士会館の本館が開館50周年を迎えるという。今でもあの神田学士会館の落ち着いた建物が好きな会員は多いと思っている。恐らく多くの会員や地域の人達に見守られ、愛されながら50年の歴史を経たのであろう。
  欧米の大学の建物や市街地や住宅地のたたずまいには、日本と比較して格段に地域や自然との、また建物相互間のハーモニーを感じる。ヒューストン大学のK教授夫妻に至っては、庭一面のカクタスに合わせて家を新築し、寝室以外の部屋と廊下は全部カクタスに沿って床を張り、正に人間とカクタス同居のご自慢の邸宅を披露してくれた。

 マロニエ、鈴掛、アカシアなどが亭々と聳えるパリ市街の並木道は限りなく美しい。筆者の勤務する名古屋大学東山キャンパス近くの街路樹にはカナダ楓が多い。選挙や行事のたびごとにポスターを掛ける針金で縛られる。その結果のためか、醜くふしくれだっている楓の幹をみると、パリの人々に長年育てられ愛され続けてきたであろう並木にも、自由平等博愛をよしとしたという彼の国の国旗にも、長い年輪の歴史がしのばれる。ひるがえって、現代の私共が次の世代に遺すべき心と物が、余りにもなさすぎることに驚くのである。学士会も会館も大学も、今まで関係者や地域の人達に愛され見守られてきたが、私共も愛し育て続けて、さらに次の世代へと伝え続けねばならない。

(名古屋大学教授・工博・名大・昭和21年卒業)