学士会アーカイブス
学士会館開館50周年記念特別号
学士会館開館50周年になるという、誠に目出度い。こうして安泰に繁栄しているが、ここまで来るには当事者のご苦労が大変だったと思う。最近では会館地所の所有権、そのための金の工面、方法、私は評議員として出席、その都度経過報告を承っており、理事長、理事の方々のご苦労は大変だったと思う。 学士会の料理は安くてうまいという評判、実際そうである。結婚式を初めいろいろの祝賀宴等に利用されていて、みなよい印象を持っている。品位を持ち、親切で心がこもっているのだ。料理担当の精養軒の社長森田さん、私は亡くなった弟さんと一緒に、むかしから知っている。昭和7年以来草樹会の夕食を食べて来たが、その頃から知っている。一皿1円か1円20銭、それがうまかった。 私の子供たちの結婚式もお世話になった。いつも恩恵を受けている。 (俳人・東京大学名誉教授・東大・工博・大正5年卒)
【万葉三水会のことなど】 私は昭和3年3月の卒業で、すぐ入会の手続きをすませた、ように思うので、正に50年間、お世話になっている次第である。 昭和5年5月、同じ年に、東大・京大・東北大の国文を出た者6人が集まって、万葉集を話し合う会をもった。3階の一番狭い会議室であったと思う。 夜5 時集合で、顔が揃うと地下の食堂へ降りて行って、当時金50銭也のチキンライスをめいめいに注文して、サービスのお冷で平らげて、すぐ会場へ戻ってきた。 万葉三水会は、会員相互の研修が主で公開はしていなかったが、ある時、会館にお泊りの新村出先生が玄関に掲示が出ていたからと、おいで下さったことがあった。 戦後、会館は遠来の人たちに引き渡されたため、私共は他に会場をさがし求め続けていたが、本郷分館が出来上がると、すぐ、そちらへ移って、相変わらず、毎月第三水曜に開いてきた。 (東海大学教授・京大・文博・昭和3年卒)
【会館と私】 丸の内の一流会社の新入社員で独り暮らしと、まだマーケット・バリューが高かった頃だったのに、私はひまさえあれば会館に通った。当時、町のフロ屋が5銭位だった頃、会館では泊らなくても20銭か30銭出すと白いタイル張りの豪華なフロが独占できた。親切なボーイさんが時々新しい石鹸を出してくれた。 やがて私にも赤紙(軍の召集令状)がきた。海兵団とは予想外だった。戦争も末期になった頃、敵の本土上陸に備えてベニヤ板製の特攻艇が私達に割り当てられていると聞かされた。「むづかしいことはない。敵艦に向けて舵を固定してしまえば、眠っていても今度気が付いたときは間違いなくお前達は靖国神社に行っている」と上官から言われた。「あそこなら会館も近くて今後何かと便利だ」と話し合った仲間の幾人かは、もっとましな艦艇ではあったが、一足お先にほんとに行ってしまった。学士会館の話が彼等の生涯の最後の笑顔だっ 終戦後、会館が米軍の手から戻ってくると私はまた通い始めた。今度は読書室が目的だった。我が家では子供がまだ小さかったので落ち着いて原稿が書けない。5年間も通って、内容は兎も角、学位論文や何やら書くことが出来た。 会館も今年で50周年を迎えるそうだが、私が通い始めてからもうまる40年にもなる。その間に結婚式や会合で来たことも少なくない。時々、会館に安くて上品な葬式をやってくれないものかと思うことがある。だが、窓口で「お日取りは?」と聞かれると予約がちょっとむづかしい。 (明治学院大学教授・東北大・法博・昭和14年卒)
【学士会館50周年を迎えるに際して】 私が昭和28年評議員となりました当時の理事長は山田三良先生でした。言葉少ない厳粛そのもので、自ずと頭が下がる様な高邁さですが、その反面には無言で人を抱擁する魅力さがあり、私共は心から深く敬慕し、評議員会の都度拝顔、その議案の進行振りの快適さには、只々敬意を捧げるのみでした。 此度、目出度く50周年を迎えますことは、洵に御同慶、慶祝に堪えませんが、山田先生初め、当時評議員会の都度お目に懸かっていました高橋明先生(東大名誉教授)、颯田琴次先生(東大名誉教授)、友人佐藤基氏(元会計検査院長)、森村義行(森村合名社長)、その他多数の御物故者を追想すると洵に感無量です。玄に謹み50周年記念のお祝いを述べ、物故者様のご冥福をも謹み祈ります。 (名倉病院長・九大・医博・大正11年卒)
【開館50周年記念によせて】 昭和3年4月、私は東大法学部へ入学し、直ちに帝大新聞の編集部員となった。 100万円の巨費のおかげで出来上がった会館は、「玄関へ第一歩を入れると旭石を張りまわした壁、大理石の笠石に浮彫を刻んだ天井が重々しく……4階は29室の寝室となって申し分ないホテル」と描写され、その見出しは「石柱立ち並ぶ豪華さ、感嘆の叫び先ず口を突く」となっている。 8ページの帝大新聞は爾来、毎週その第4面に学士欄を設け、1段ないし2段のスペースを割いて会館の近況ならびに各地学士会の参集者氏名を掲載しつづけた。 私が卒業する昭和6年を迎えたとき、学士欄は消えていたが、「会館の集い」という短信は相変わらず続いていたし、別に「昭和学士の珍職業」という連載読物が始まった。銀座のカフェー美人座のマネジャー経済学士、弓を売る文学士、今では決して珍職とは思われぬラジオのアナウンサー法学士など、十数回ほど続いた頃に、私は帝大新聞ならびに法学部を卒業して朝日新聞社に就職した。任地が大阪だったので、3年間馴染みを重ねた学士会館とも、しばしお別れということになった。 (東海大学教授・東大・法・昭和6年卒)
【開館50周年記念によせて】 昭和11年札幌にグランドホテルが新築され、隣りの商工会議所の講堂とは2階の廊下で繋がっており、ホテルで午餐のあと、会議所の講堂で、毎年学士会の催しが行われるようになった。 (北海道大学名誉教授・北大・理博・昭和8年卒業)
【学士会館と私】 学士会館が開館50周年を迎える由であるが、私の出身校大阪大学は未だ50周年を迎えていない。理学部の1回生として昭和8年に入学したが、昭和11年3月の卒業式のあと、学士会に盛大な祝賀会を開いていただいた。これが豪華なパーティーで模擬店が並び、ミス何とかといった当時のウェイトレスが林立してわれわれは些か度肝を抜かれた次第であった。ご馳走になって早速、学士会に入会したのはもちろんである。 (大阪大学名誉教授・阪大・理博・昭和11年卒業)
【開館50周年によせて】 学士会館の本館が開館50周年を迎えるという。今でもあの神田学士会館の落ち着いた建物が好きな会員は多いと思っている。恐らく多くの会員や地域の人達に見守られ、愛されながら50年の歴史を経たのであろう。 マロニエ、鈴掛、アカシアなどが亭々と聳えるパリ市街の並木道は限りなく美しい。筆者の勤務する名古屋大学東山キャンパス近くの街路樹にはカナダ楓が多い。選挙や行事のたびごとにポスターを掛ける針金で縛られる。その結果のためか、醜くふしくれだっている楓の幹をみると、パリの人々に長年育てられ愛され続けてきたであろう並木にも、自由平等博愛をよしとしたという彼の国の国旗にも、長い年輪の歴史がしのばれる。ひるがえって、現代の私共が次の世代に遺すべき心と物が、余りにもなさすぎることに驚くのである。学士会も会館も大学も、今まで関係者や地域の人達に愛され見守られてきたが、私共も愛し育て続けて、さらに次の世代へと伝え続けねばならない。 (名古屋大学教授・工博・名大・昭和21年卒業)
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