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学士会アーカイブス

日本文化はエネルギー危機を乗り切れるか 堺屋 太一(池口 小太郎) No.739(昭和53年4月)

日本文化はエネルギー危機を乗り切れるか

堺屋太一(池口小太郎)
 (著述業)

No.739(昭和53年7月)号

  ◎今の日本に問題は多いが・・・・・・

 現在、日本には多くの問題がある。

 受験戦争と乱塾に象徴される教育の荒廃、薬づけとか救急患者のタライ回しとかが話題になる医療の混乱、二百浬問題で世界の海から締め出されそうな漁業の苦難、大赤字でサービスの悪い国鉄、借り手のない団地を建て続ける住宅公団、十兆円を越えた赤字を抱える国家財政、そして何よりも長期化する深刻な不況等々、一日の新聞を見渡しただけでも十指を越える大問題が浮び上って来る有様である。

 もっとも、こうした話題になる難問題が多いからといって、今の日本が著しく不幸な状態にあるとは必ずしもいえない。今、マスコミの話題になっている問題の中には、騒がれているほどには重大でも深刻でもないものも少なくない。また人々の暮しがより豊かになったために生じた問題や、国民がより幸せになったために気付かれるようになった問題も少なくない。いわゆる「幸せの代価としての不安」ともいうべきものである。

 例えば、明日の糧にも事欠く貧しい人々は、多少の大気汚染や都市美の欠如には至極無関係なものだが、豊かさと安楽とを獲得した人々なら清浄な空気や美的な街並みをも強く要求するものだ。勿論、大気汚染や都市美の欠如が「どうでもよい問題」というわけではないが、それが重大関心事となり得るだけの豊かさを持つ人々は、そんなことに気遣っている余裕すらない貧しい人々よりも幸せであることは間違いないだろう。

 さらにいえば、こうした数々の問題が話題となり、大いに騒がれていること自体、少なくともそれを話題とし、騒ぎ立てるだけの言論、思想の自由があり、発言と行動の余裕があることを示すものでもある。この限りでは、多くの問題が語られている国には、それだけの自由と余裕のあるという幸せがあるわけだ。

 実際、社会問題も政府批判もなく、一見、天国のように見えた独裁専政の国家においてこそ、国民の大多数がきわめて不幸な状態にあったという事例は、昔も今も数多いのである。

 そればかりか、一つの事柄が問題視され、論議の対象となっていることは、それ自体、一つの「安全弁」の始動とみることができる。その事柄が問題となり、それに関係する政策や行政機構が批判されているということは、既にして改善ヘの要求が出されていることだからだ。「言論の自由」を容認し、その発表手段を限りなく許容した真の民主主義の利点は正にこの点にあるのだろう。

 現に、今の日本では、教育についても、医療についても、国鉄や住宅公団や国家財政についても、その改善、改革がいろいろと検討されている。長期不況の問題についても、景気対策上の手が種々打たれていることは周知の事実である。

 もっとも、こうした努力が、直ちにあるいは遠からず、成功するかどうかは分らない。社会問題に関しては、常に幾分かの事実認識上の誤りと対策上の無知や錯覚が含まれる。しかもそれは、その時々の国民の感情によって増幅されることも珍しくはない。その上、一つの事項が問題視されている背景には、必ず集団間の利害対立がある。つまり、現状の制度や政策から利益を得ている―従ってこれを改革することによって不利益を受ける―者がいる。このことは当然、改善に対する反対勢力の存在を意味している。

 こうした事柄―誤解、無知、錯覚、極端な感情論あるいは利害の対立等々―が、実現の政策を歪め、改善を阻害し、時には全く逆効果でしかない政策を実施させたりすることも少なくはないのである。

 この点、長期不況のような全般的問題は別として、現在の日本において問題視されている分野のほとんどが、経済合理性の貫徹されていない国営または国等の統制下にある分野であることは注目に値するであろう。資本主義の高度な発達によって、いわゆる「神の見えざる手」による調整力が減退したことは事実だとしても、なお人知の愚かさと利害に溺れるいやしさよりは、はるかに正確で高潔だといえるように思えて来る。

 ところで、これまでに挙げた例―教育、医療、住宅、交通、漁業、不況等は、既に明確になっている問題である。こうした分野は、現に何十万、何百万もの人々によって観察されているし、苦痛と不満を感じられてもいる。その意味で、これらの問題は、まぎれもなく「現在の問題」である。

 しかし、今の日本には、これらとは全く異質の重要問題もある。つまり、今日、只今の所は、何の不便も混乱もないが、遠からずきわめて重大な状況を作り出す恐れがある、といった類の問題である。この種の問題は、現実のものとして観察されるわけでもなく、人々が今実際の苦痛や不満を体験するわけでもなく、ただ、理論的な思索と統計的推定によって想像できるだけだ。いわば現状においてはまだ「潜在的」な問題である。その意味で、これを「近未来の危機」と呼ぶことができる。この種の問題こそ、自由経済体制だけでは解決されず、国・公共の施策が不可欠であろう。

 この種の問題の典型―つまり、遠からず実現の問題となる蓋然性が著しく高く、その結果がきわめて重大なものの一つとして、エネルギー問題がある。

 現在の所、日本には顕在的なエネルギー危機はない。エネルギーの不足もなければ不便もない。その上、価格の点でもここ一年あまりは安定している。それどころか、我が国のエネルギーの大宗たる石油は、むしろ供給過剰気味であり、円高の影響と石油各社の過当競争のために、ガソリンを中心に価格低下の傾向にある。五年前に全世界を仰天させた「石油ショック」の頃と比べれば、正に「様変り」の状態である。

 しかし、これをもって長期的構造的な問題としてのエネルギー問題が、解消したということはできない。日本が一次エネルギーの七五%までを依存している石油は、依然として地域的に片寄った資源であり、長期的には枯渇化しつつある資源でもあるからである。

  ◎日本に幸いした「石油過剰」

 戦後二十数年間、日本経済は年平均実質一〇%もの高度成長を続けて来た。その中で育って来た我々は、高度経済成長をあたかも当然のことのように考える習慣が身についている。日本では、国家・公共の財政も、企業の経営も、また我我個人の生活や人生設計も、高度成長を暗黙の前提としてでき上っているのである。

 ところが、振り返って考えてみると、日本のような巨大な経済単位が、二十数年間にわたって年平均一〇%というような長期高度成長を続けたのは誠に異例のことだ。何しろ、年率一〇%の経済成長が百四十年間も続いたとしたら、はじめと終りとでは経済規模は略々百万倍にもなる勘定である。いかに経済が発展し、社会が変化するとはいっても、経済規模が実質百万倍になるとは考えられない。つまり、こんな高度成長はそう長くは続かないはずなのである。

 実際、人類の歴史をみると、経済はさほど発展していない。キリストが生れてから今日まで、約二千年間の西欧の経済成長率を推定したある学者の研究によると、二千年間平均での経済成長率は約〇・二%だ、という。人類の産業と文明が最も急速に進歩したのは前世紀の中頃からだが、それからの百年間、つまり一八五〇年から一九五〇年の間の西欧諸国の経済成長率でさえ、年平均実質一・八%ぐらいだったとされている。

 人類の産業と文明とが最も急速に進んだ時期の、その中でも比較的急成長した西欧先進諸国の成長率でも、百年平均すればこの程度であることを考えれば、戦後日本経済が示して来た年率一〇%という高度成長がいかに異常なものであったか、分るだろう。当然、こういう異常な高度成長が、異常なまでの長期間続いたのには、それ相応の理由があったはずである。それも、一つでなくいくつかのものが重なり合い、あるいは相次いで生じていたのに違いない。例えば、高度成長期の前半(昭和三十年代まで)のキャッチ・アップ効果(追付き効果)と、後半(四十年代)における人口構造の良さとが、巧い具合にバトンタッチされたことなども、重要な要因であっただろう。

 しかし、この全期間を通じて、日本の高度成長に最大の貢献をしたものの一つが、「一次産品環境の有利さ」があったことを忘れてはなるまい。

 世間ではよく
「日本は国土も狭いし資源も乏しい貧乏国だ」
といってなげく人があるが、事実は全く逆であり、
「日本は国土が狭く資源が乏しいお陰で高度成長して大金持ちになれた」
のである。

 なぜなら、戦後―一九五〇年以降の世界市場では、資源や農産物などの一次産品が大変な供給過剰であり、一次産品の買い手、殊にどこからでも自由に買える「フリーハンドの買い手」にとって非常に有利だった。そしてこの「フリーハンドの買い手」の有利さを大いに発揮できたのが、国土が狭く資源の乏しいわが日本だったのである。

 この日本にとって有利な一次産品過剰を生んだものは何かといえば、それは石油である。戦後、一九四〇年代の末から五〇年代にかけての十数年間に、中東のアラビア湾(ペルシャ湾)の周辺で多数の大油田が発見され世界の石油需給は大いに緩和された。しかも中東の油田は規模が大きいばかりでなく、生産コストもきわめて安い。今日、原油の国際価格は―生産地や品質で多少の差はあるが―一バーレル当り十三ドル内外だが、中東の最大級の油田で掘られているコストは、その百分の一にも満たない十二セントぐらいといわれている。

 こうした大油田が多数発見されたのだから石油価格は大暴落した。物価の全般的上昇を考慮すれば、一九六〇年代後半の原油価格(バーレル当り一・六ドル)は四十年前に比べてほとんど八分の一になっていたのである。

 この石油の大暴落と大量供給のために、数々の石油化学製品が安価に作られ、綿花、羊毛、金属、木材、天然ゴムなどに代替された。従ってこれらの資源、農産物をも供給過剰にしたのである。さらにまた、石油化学から造られる安価の化学肥料は世界の農産を大幅に拡大したし、石油燃料のお陰で発電コストがさがり、アルミニウムのような電力集約製品も安価になった。これらのことが、さらに多くの農産物や銅、錫などの金属資源を一段と供給過剰にしたことはいうまでもない。

 つまり、石油の供給過剰と価格低下が、エネルギーの転換と化学工業の発展を通じて、ほとんど全ての一次産品を過剰にし、価格低下させて、「持たざる国、日本」を有利にして呉れたのである。

 例えば、エネルギーそのものにおける日本の優位がその典型であった。一九六〇年代後半においては、日本は中東の原油をバーレル当り一ドル六〇セントぐらいでどんどん輸入していたが、この頃アメリカは国産原油の生産を保護するために関税障壁をめぐらして安い中東石油を入れず、国産石油を五ドルで使っていた。西ドイツやイギリスは、国内の石炭産業を保護して電力、都市ガス等の大部分を国産石炭でまかなっていたが、当時ドイツで掘られる石炭で発電すればバーレル当り七ドルの原油を使うのと同じコストになるといわれたものだ。

 幸いにも[、、、、]、日本は国内にさほど石油も石炭も産出しなかったお陰で、安価な石油を大量に使用し得たのであり、このことが日本の国際競争力の強化と産業の発展に大きな有利さを与えたわけである。

 同様のことは、大なり小なり他の資源、農産物にもあった。ほとんど総ての一次産品を日本は世界一安い所から買い求めたのである。僅かに例外となったのは、日本国内でかなりの生産力を有していたお米や牛肉などだが、これらは政策的に保護されたため国際価格に比べてかなり高価になっていることはよく知られている通りである。もし、日本の国土がもっと広くより多くの農業生産を抱えていれば、小麦、大豆、木材、飼料等々についてもお米並みの保護政策が採られたかも知れず、我々の食卓にははるかに高価なものが並んでいた可能性も十分にある。また、日本により多くの石炭や金属鉱業があれば、著しく高い国産原材料の使用を強要されていた可能性もあるだろう。そうなっていれば、日本製品の国際競争力は現在よりもかなり弱くなり日本産業の発展は遅れ、我我の生活水準は、消費財の高価格と産業発展の遅延による賃金の低さとの両方で、今日見られるものよりはるかに低くなっていたに違いないのである。

  ◎過剰から不足に転じた石油

 以上のように、戦後、中東における大量の石油資源発見に端を発した一次産品過剰は、日本の高度経済成長に大いに貢献して来た。しかし、この有難い状態もどうやら終りに近づいて来たかの感がある。ことの発端であった石油が供給過剰から供給不足に変ったからだ。

 石油が過剰から不足に変った原因は至極単純である。一九六〇年代以降、世界の石油資源の発見量が逓減傾向にあるのに対し、石油需要の方は経済成長と使用分野の拡大によってウナギ昇りに増加しているからである。

 石油資源の発見量は、中東での大発見が一段落すると共に減少しはじめ、一九五〇年代には年平均二五〇億バーレルにも及んでいたのが、六〇年代には二〇〇億バーレル、七〇年代に入ると一四〇億バーレルにまで減少している。中東地区における目ぼしい地区の探査が終ったからだ。勿論石油は中東以外でも発見されているが、油田の規模が中東に比べて一桁ほども小さいのである。どうやら石油資源は人類の希望と期待に反して、かなり中東に片寄った資源のようだ。

 一方、使用量の方は、五〇年代には数十億バーレルだったが今や全世界では二〇〇億バーレルにもなろうとしている。つまり、戦後二〇年間以上も、発見量が使用量を上回っていたのに、六〇年代末からはこれが逆転し、使用量が発見量を上回るようになったわけだ。

 一九七三年秋の「石油ショック」は、こうした構造的な供給変化を背景として起った事件であり、その後の国際石油価格の驚くべき急騰は世界的な石油需給の構造的逼迫を反映したものなのである。

 しかし、幸いにも今の所、石油以外の一次産品はなおほとんど供給過剰である。特に今日只今の状況では、「石油ショック」後の世界的景気停滞によって、石油以外の一次産品需要が伸び悩んでいるため、概して著しい過剰状態にあり、価格も低迷している。今、日本は国際収支が大黒字で、ために円高になっているが、その原因の一つは、日本の輸入の大きな部分を占める一次産品の価格低下にあるのである。

 このような意味においては、世界的な一次産品供給過剰傾向はまだ終っていない、といえる。確かに石油だけは顕著な構造的不足に入ったが、それ以外はたっぷり余っているのである。

 しかし、石油、エネルギーの不足がさらに厳しいものとなれば、他の一次産品も不足化して行くことが十分に考えられる。例えば、今、最も過剰になっている食糧でも、より一層厳しい石油不足が来れば、化学肥料の不足=高騰によって、不足気味になるだろうといわれている。そしてこのことは、恐らく、世界の石油生産が絶対的な限界に達する一九九〇年頃までには非常にありそうなことなのである。

 つまり、「石油ショック」は、石油不足時代の始まりを告げるものであったが、一次産品全般の不足時代の到来を示すものではなかったし、過剰時代の終りを告げるものでもなかった。だが、それは、一次産品過剰時代の終りのはじまりを知らせるものではあった、といえるだろう。

 このことはまた、持たざる国、日本の「有利な時代」の終りがはじまったことをも知らせている、といえるであろう。

  ◎日本は「不足時代」を乗り切れるか

 日本の「有利な時代」は間もなく終ろうとしている。そして恐らく、十年かそこいらのうちには、日本の「不利な時代」がはじまるだろう。では、この時代―日本にとって不利な一次産品不足時代―を、日本の産業と文明は乗り切れるだろうか。

 この問に対する私の答えは、絶望的ではないが、決して楽観的なものではない。少なくとも二つの面で大きな危惧を感じるのである。

 その一つは、前述のように、日本の経済、社会全体が、高度成長型にできてしまっていることである。一次産品、エネルギーの豊富、低廉を前提として急成長を続けて来た日本経済は、当然、一次産品の不足、高騰の中でその成長率を低下させるだろう。しかし、単に成長率が低下するだけなら、さして恐れることもない。生活水準の向上と、生産規模の拡大がさほど急速に進まなくなるだけであれば、既に高い水準に達した日本は特に騒ぎ立てることもないからである。

 だが、このことが、急成長型にできている日本の経済、社会機構全般の崩壊をもたらすとすれば一大事である。戦後、日本経済が見せて来た高度成長下での善循環の逆現象=悪循環も生じかねないからである。

 この恐れは十分にある。現に、本年度(昭和五十二年度)の経済成長率は、当初政府が見込んでいた六・七%よりはかなり低く、五%前後に終りそうだが、それでも五%成長といえば欧米諸国ならかなりの高成長である。しかるに現実の日本経済は相当深刻な不況に悩んでいる。日本の産業構造が高度成長向きの投資需要依存型になっていること、日本の労使関係が終身雇用と年功序列体系とを基盤にした高成長型になっていること、そして何よりも我々の生活と人生計画が、“明日は今日より豊かである”という高度成長期の慣習によっていること等のためだ。

 従って、日本経済が、一次産品、とりわけエネルギーの不足時代に対応して安定成長型に変身するためには、産業構造上の調整と労使慣行の変化を余程巧くやって行かなければ重大な構造問題を生む心配があるわけである。

 だが、そのためには、我々日本人サラリーマン自身が考え方を改め、自己の人生設計を変改しなければなるまい。つまり、「明日は今日より豊かである」という信念を捨てることだ。これまでの日本では、高度成長によるベースアップと、年功序列賃金体系による定期昇給によって、この信念は揺ぐことなく保障されていたが、これからはそうは行かない。

 我々が、この信念を当然の如く持ち続けるならば、日本の産業構造の調整も難しいし、企業経営の変改も不可能であろう。

 しかし、そうはいってみても、過去二十数年間―つまり我我自身が社会とか経済とかいったものに関心を持つようになってからの全期間―続いて来た高度成長の中で確立された考え方と既にして始めてしまった人生設計を、今、急に変えることもいたって離しい。特に後者(人生設計)は、やがて来る中高年期の高賃金をあてにして若い時代を過してしまった我々四十歳代のものには急に変えようもないように思えて来る。当然、それにはそれなりの準備期間もいるし、過渡的措置も欲しい。

 とすれば、やはり日本はあと十年かそこいら、かなりの(少なくとも年六%ぐらい)経済成長を続け、徐々に体制と体質と思考方式を変える時間を与えねばならないわけである。

 要するに、日本がやがて来る「不足時代」を乗り切るためには、一方において産業構造や経営の形態、我々の考え方と人生設計を変える努力を急ぐと共に、それに要する期間を稼ぐための政治、政策的配慮が不可欠だということである。

 しかし、日本と日本人とが変るまで、世界のエネルギー事情が待って呉れるという保障はどこにもない。いやむしろ、徐々に厳しさを増すとみられる世界の石油事情は、不況や混乱を生むことによって日本と日本人の対応を一層やり難くしながら、かなり早い時期―一九八五年(昭和六十年頃)―にも相当に深刻な状況になる可能性が強いのである。

 だとすれば、日本は日本自身の知恵と努力とで、エネルギーの限界を延ばすようにしなければなるまい。つまり、石油供給の伸び悩み、頭打ちの打撃を軽減するために、石油に替るエネルギーの供給拡大を急ぐ必要があるということである。

 では、これができるだろうか。ここに日本の将来に対する二つ目の危惧がある。現時点においては勿諭、その認識と性格とにおいて、日本人はこうした潜在的予測上の危機に対応することが、下手でありかつ嫌いなのではないか、という気がするからである。

  ◎「リードタイム」思考を欠くソフトウェア文化

 日本の文化を、一言にして特長づければ、「ソフトウェア文化」といえる。これは欧米文明の「ハードウェア文明」、中国の「ヒューマンウェア文化」に対応した言葉である。

 確かに日本文化はハードウェア(もの)よりもソフトウェア(使い方)に重点がある。例えば、日本には明治になるまで手錠というものがなかった。日本人は一本の縄で犯罪者を拘束していたのであり、そのための専用具(手錠ウェア)はついぞ思いつかなかったのである。その代り、日本には「縛り術」というものが発達した。つまり縄一本という貧弱なハードウェアで目的を達しようとして使い方(ソフトウェア)をみがいたのである。

 これはきわめて象徴的ないい方だが、同種のことは、住宅思想にも、衣服にも、また戦術、武芸の面にも顕著にみられる。

 こんなことをここに書いたのは、このことがエネルギー問題に対する日本人の対応の遅さと深くつながっていると思うからだ。つまり、日本人が長い間育てて来たソフトウェア中心の文化はそれなりに高い水準であり、誇るべき面も多いのだが、この思考法には事前にものを用意しておくという考え方、つまりリードタイムの認識が薄いのである。このため例えば、エネルギー問題で、“あと十年ぐらいで石油供給が頭打ちになる”といえば、欧米人は“たった十年しかないのか”と仰天する所だが、日本人は“まだ十年もあるのか”と安心してしまうのである。

 ところが、現実の問題としては、原子力発電所一つ造るにも、反対運動などがなかったとしても七、八年はかかる。地熱開発や石炭利用でも五、六年は要る。新しい技術開発や社会システムの変更を伴うものとなれば、さらに長い時間がかかるのである。十年という期間は、ハードウェアの建設には決して長い期間ではないわけだ。

 高度成長の結果、著しくハードウェア化した日本の都市文明を救うためには、エネルギーを生み出し送り届けるハードウェアを長い時間をかけて用意することが不可欠である。それが、ソフトウェア文明の中に生きて来た日本人に理解されるかどうか、私には自信がないのである。

 以上のようなことを考えれば、戦後三十年間の幸せ過ぎた時代の終りがはじまった今日に生きる我々の使命は重大である。我々は、父兄から豊かな日本を受け継いだが、果して我我の子弟に、より豊かな日本を譲り渡すことができるだろうか。今こそ、真剣に考えねばならない時のような気がするのである。

(著述業・東大・経・昭35)