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学士会アーカイブス

田中千弥日記のこと 井出 孫六 No.737(昭和52年10月)

田中千弥日記のこと
井出孫六
(作家)

No.737(昭和52年10月)号

長瀞のやや手前で荒川にそそぎこむ吉田川の上流はどこからともなく藤倉川とその呼び名が変るが、遡るにつれ左右から山裾の迫ってくる渓谷にそって、思いだすようにして点在するいくつもの集落には、「秩父」の気色が最も色濃く塗りこめられている。天にもとどく斜面に植えられた桑やこんにゃく、懸崖の菊を思わせるような集落の家並み、古びた土蔵のたたずまい、軒端にかけられた吊し柿の緞帳、道端の叢にかくれる石仏。日照の短い痩せた土地に、人は何百年というもの、営々となりわいをつづけてきた。

そこはまた、明治十七年、秩父事件の震源地として、近代史のなかに忘れがたい一ページをきざんできた土地でもある。

下吉田から上吉田へと向う途中に井上耕地があって、ここからは秩父事件の会計長井上伝蔵、乙大隊長飯塚森蔵、兵粮方井上善作の三人が出ているが、彼らはともに事件後その行方が杳としてわからず、事件後三十五年たった大正七年、北の涯北海道野付牛で伊藤房次郎と名を変えた井上伝蔵が死に臨んで自分の来歴を明かした以外、飯塚森蔵も井上善作もその逃亡後の後半生がどうなったか、いまだに判明していないのである。

その井上耕地を過ぎて西に進むと間もなく、下吉田のはずれに近く、左手の吉田川に「田中橋」という小さな橋があって、それを渡ると、南西に山を背負った狭い平地に十軒ほどの民家が肩をよせあって建っている。晩秋、西秩父に多い小粒の柿が枝もたわわに実って、そこだけが、ぽっと明るさをたたえている。田中耕地のなかほどに、田中千弥の生家がある。

北海道における井上伝蔵の足跡を、伝蔵ののこした俳句を手がかりに追いつづけている若い研究者森山軍治郎さんと連れだって、田中千弥の生家を訪れたのは、この夏の最も暑い一日のことであった。

鍋底のような秩父盆地には、そよとも風はなく、林間の蟬の声までが暑さを増幅するような午さがり、明けはなたれた広い座敷にひろげられた古文書のなかに、伝蔵の若き日の句作を探す目的は、ついに果たされなかったが、群馬自由党の活動家新井愧三郎の作が短冊に二枚見いだされたのは、予想もしない収獲であった。

  神代よりうこかぬ天津日嗣こそ
     わが日本のひかりなりけり
  なにごとも那須の篠原なす事は
     またきに年の暮も逝くかな

上毛自由党と秩父自由党を結びつけたキー・パースンとしての新井愧三郎が、いつ秩父にやってきたのか。田中千弥ののこした尨大な日記のなかに、この二首を詠んだ新井愧三郎の来訪の日も書きとどめられているにちがいないとベージをくってみれば、それは意外に早い時期、明治七年のことであった。日記には、次のように記されている。

――一月六日晴 上毛法久新井愧三郎中恒来ル(土産手拭是ハ国学生也)同道シテ小鹿野町柴崎頼蔭か許へ行、年礼也、手拭一――

自由民権の思想的洗礼を受ける以前の、国学を志す学生として、新井愧三郎が日記に登場してきているのも興味深いことであった。

田中千弥は、嘉永三年から、その没年の直前、明治三十一年まで、およそ半世紀にわたって克明な日記を書きのこし、そこに、幕末から明治に至る時代の大転換のなかの山村秩父の姿を綿密に描きだしてくれている。

これまで一部しか見ることのできなかったその日記が、埼玉新聞社刊として公刊され、わたしの机上にも届けられ、いまあらためて通読しうる幸運にめぐまれているが、そのなかには、秩父事件研究の一級資料と折紙のついた『秩父暴動雑録』もむろん含められている。

明治十三年三月「改正所有地名寄帳」によれば、田中家の土地所有高は畑五反一畝二〇歩、焼畑五畝二六歩、田二畝一歩、宅地三畝一三歩、山林三反六畝一歩と、秩父山間部にあっては中農層に属したものということができる。日記に記されているところでは、明治二年百姓代に選ばれている。いわば村会議長とでもいうところであろうか。

農事もおろそかにせず、村役に励むかたわら、菅廼家義村、あるいは椋蔭と号して、詩文に親しみ、養蚕によって得た資から多くの書物を需めて渉猟したことが、その日記からうかがわれる。たとえば、

――明治二年十二月一日 岩鼻ヨリ帰ル、今日藤岡町ニテ俳書古本十余冊ヲ求ム。

とあるのは、群馬藤岡まで峠をこえて生糸を出荷し、その帰りに俳書を購ってきたのであろうと思われ、またたとえば、

――明治五年十一月五日 大宮へ行 一国史略五冊 古本ニテ金三分壱朱也  一算法地方大成五巻合一冊金一分弐朱也 右大宮ニテ高崎田町二町目島田八百樹ヨリ求之 郵便報知新聞第廿二号付録一価三銭五厘 富岡町三島屋文次郎ヨリ

とあるのは、大宮郷(現秩父市)に立った市に生糸を売って、そこに露店をはっている高崎、藤岡からきている本屋からそれぞれ求めたのであろうことがわかる。横浜開港とともに、生糸の価格は高騰し、山村秩父は急速に近代商品経済の波に洗われるのだが、その窓口はもっぱら、大宮郷、小鹿野下吉田、あるいは隣県の藤岡などに立つ「市」がその役割を果した。「市」はまた文化価値の流入口であり、田中千弥の知的欲求は「市」につどう書籍商を通して充たされたといってよい。詩文への情熱は、さらに国学へとその関心を誘い、そしてついには彼を神道の探究に向かわせていくようだ。たとえば、

――明治三年十一月六日 今日大宮へ行、一武蔵演路五冊付二冊合七冊代金三分也、一天満宮御伝記略弐冊代金壱分弐朱也、……一諸神社拝記一折代金壱分也、右ハ上毛富岡書肆某ヨリ求ム

田中千弥の場合、自家で紡がれる生糸の多くが典籍へと変貌した。国学へのこのような執心から戸長の推挙をうけて祠官祠掌試験を受験し、教導職試補となったのは明治八年。同十五年には井上耕地の村社貴布称神社祠掌に就任し、翌年には教導職訓導に昇進している。ひたすらな好学の志がこの晩学の徒を村随一の知識人に仕立てあげていく。

当然のことながら、村に多くの弟子が育った。飯塚森蔵や井上伝蔵もその例外でなかったと考えてよい。弟子森蔵が明治十五年教員となって群馬山中谷[さんちゆうやつ]平原[ひらはら]村に赴任するにあたって、千弥は梅雨空を見あげながら次のような句を贈る。

  暑くとも日ハ[はれ]よかし嶺越[とうげごえ]

生糸の好況は文化の流入や人の往来を盛んにしたが、生活のレベルをも底あげしたに相違なく、かつて一宿一飯の客の持参するみやげものが「手拭一本」であったのに、「半襟一枚」が現われたりするのにも、それがうかがえるような気がする。詩歌もさることながら、義太夫や踊りの師匠を招いて習うといった風潮や、村祭の華美がその日記から読みとれてくる。

田中千弥にとって、飯塚森蔵は親愛なる弟子であったが、井上伝蔵との交りも決して浅いものではなく、その名は日記にしばしば登場してくる。先代伝蔵は「柳日庵武甲」という俳号で千弥所蔵の短冊に現われる俳友であったから、北海道亡命後「柳蛙」と号してひそかに俳道にうちこんだ伝蔵の若い日の句作が、千弥所蔵の短冊にまぎれていても不思議はないが、「柳蛙」はむろんのこと、村役場筆生をつとめていた若き伝蔵と思われる句作は、まだそこには発見されていない。

兵粮方となった井上善作、あるいはまた老軀を笞うつように会計副長となった神官宮川津盛も千弥日記にはしばしば顔を出す。

城峰山の「神犬」を下吉田の椋神社に移す祭事には近隣耕地から多くの人びとが出て行われた。井上耕地の人びとの出席率の悪かったことが、千弥の気をそこねていたものか、翌日の日記には、井上善作が代表で道化役を負わされている。

――九月二十五日、今朝「井上ノ人」井上善作・岩崎万五郎両人菌狩[きのこがり]言托[ことよせ]テ昨夜迎ヘタル神犬ノ容子ヲ見ントテ鍛治山山へ行キタルニ、狼ノ丈ケ五尺計リナルガ二頭祠ノ前ニ相対シテ昨夜備へ置タル餅ヲ喰ヒ居レリ、両人思ノ外恐怖シ立戻ラントスレバ、無数ノ狼草木ノ蔭二充満シ帰ルヲ得ズ、芦田へ逃下リ町へ出テ井上へ帰リタリト、右ノ両人今日椋神社祭礼ニ付氏子中群集ノ中ニテ語レリ、此井上耕地ハ貴船神社氏子ニテ昨日迎ヘニモ不出、神犬ノ事ヲ信ゼザリシヲ却テ信ヲ起シタリ――

田中千弥は、秩父の山村下吉田村にあって卓んでた知識人となっていた。むろん村に生きるものにとって、色濃くのこる村共同体からひとり脱けだすことなどできない。教導職と神官を兼ねるとはいえ、生活の主体はあくまで畑作中心の農業であったから、その日記のいたるところに「[すけ]る」という動詞が出てくることからもわかるように、近隣あるいは親族の労働の相互扶助が一般であった。その限りでは、千弥もまた共同体との交流のなかで生きた。しかし、その卓んでた知識を中心とする知的生活において彼が本当に交われる人間は、県社椋神社の神官梅村相保、医師岩崎玄貞、同隆道、戸長井上誠一郎といった村の知識階級に限られ、折々外部から訪れる詩文仲間との交流に比べれば、村民一般との交渉は少かったとみなければならない。そこに、「田中千弥日記」のひとつの跛行性が起因していたともいえる。

なるほど、国学者千弥は、維新とともに次々と政府のうちだした新しい政策の数々を克明に日記に映している。千弥日記によって、新政府の施策が末端にどのように伝わっていったかが手にとるようにわかる。そしてまた、教導職千弥は、神社関係の機構の改変をもその過程を克明に記しており、これによって明治政府の国民教化施策の実態が浮き彫りになってくる。それとともに、文明開化の農村へもたらした文化的側面をも日記はわれわれに生きいきと伝えてくれる。

だが、概して村の生活の描写が欠落している。わけても、明治十五年あたりからそろそろ影響が出はじめて、十六年、十七年にかけて深化する農村不況、松方蔵相のとったデフレ政策による農村パニックの模様がほとんど記録にのぼってこないのである。したがって、西秩父養蚕地帯の深刻な窮乏化にともなう秩父困民党の形成過程は、全くといってよいほど、「田中千弥日記」から欠落しているその不思議は、記述者田中千弥の視力の問題として考えずにはいられない。

同じ西秩父にあって、両神村の農民柴崎谷蔵もまた慶応年間から明治三十四年までほとんど一日も欠くことなく日録を記しのこした。谷蔵の手になる『木公堂日記』は千弥のそれに比べると、記述の内容は簡略で単純だが、簡略で単純な記述のなかに、両神村農民一般の生活の浮沈が鏡のようにくっきりと映しだされており、その日常の記述をたどることによって、秩父事件発生の軌跡が正確にたどれる構造になっている。

平凡な農民柴崎谷蔵の目に映ったものが、西秩父最高の知織人田中千弥の目に映じなかったのは、いったいなぜか? しかも、田中千弥の周辺には、秩父困民党の中核をなした会計長井上伝蔵、乙大隊長飯塚森蔵、兵粮方井上善作、甲副大隊長落合寅一といった人びとがいたというのに。

一斉蜂起のあった十一月一日、千弥はある種の戸惑いをもちながら、事件の発生と容易ならぬ事態を書きとめ、その日から日記はほとんど事件の記述でうめつくされているところをみれば、事前にその深刻さに気づいていなかったことは明らかだ。

なにが彼を、その震源地にありながら、つんぼ桟敷においたのであろうか。一斉蜂起まで一年近い困民党の形成過程で、伝蔵や森蔵らはその師千弥に一切秘密を洩らさなかった。師を事件にまきこみたくない配慮からか。いやむしろ、弟子たちは師の姿勢に対して、すでに信をおいていなかったと見る方が妥当かもしれない。村で卓んでた知識人となっていた田中千弥の悲劇がそこにあったと、わたしには思われてくる。

じっさい、事件鎮圧後、行方をくらました井上伝蔵を追って、当局の探索はきびしかった。十一月二十日の千弥日記が目をひく。

――書家暁雨来ル、梅村氏同道ニテ酒壱升ヲ携テ。此人ハ旧幕府ノ千石取、当時田中正康卜言、陸軍省ニ奉仕ス、小松宮陸軍中将二品彰仁親王ノ令ヲ受ケテ内探係リナリ、三和晴山トモ作名セリ、余昨夜梅村氏ノ邸ニテ謁シ陸軍将校方卜文通ノ往復ヲ見タリ、田中暁雨子ハ詩歌俳諧ヲナセリ

その夜、椋神社の梅村神官を交えて、千弥は小松宮さし廻しの密偵と「暴徒鎮定」と題して歌仙をまいている。そして、十二月七日になってもなお、暁雨田中正康は下吉田村を去っていない。

――十二月七日 田中正康氏来訪、午時ヨリ終日飲談、同氏ハ前両夜井上伝蔵ニ宿泊猶今夜モ行キタリ

おどろいたことに、この密偵は会計長井上伝蔵の行方を探るため、その井上伝蔵の家にころがりこむように宿泊して、事件主謀者の動静をさぐっているのだ。困民党の中枢にあった弟子たちが、千弥を敬して遠ざけた理由も理解できなくはないくだりだ。

だが、事件の発生は田中千弥にかぎりない動揺をもたらしたことも事実だった。いやしくも村の教導職たる己れが、事態がここまで来ていたことを知りえなかった、その痛みが、やがて千弥をかりたてて『秩父暴動雑録』一巻を記録させる原動力となったのではないだろうか。その「暴徒蜂起顚末」の冒頭の句は有名だ。

――今般暴徒蜂起スルヤ、其原因一ニ非ズ、高利貸ナル者其一、自由党卜称スル者其二、賭博者其三、警官ノ怠惰其四ナリ、……

田中千弥は『秩父暴動雑録』一巻によって、特異な歴史家たりえたのでもある。

(作家・東大・文・昭30)