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学士会アーカイブス

卒業ということ 林 健太郎 No.735(昭和52年4月)

卒業ということ
林 健太郎(東京大学総長) No.735(昭和52年4月)号

 人生にはいくつかの区切りがあるが、大学卒業はその最も大きな区切りであるといってよいであろう。小学校(近頃はあるいは幼稚園というべきかも知れない)以来ずっと続いていた学校生活というものがここで終って、これから「世の中」に出て行くのである。学校生活というものは元来時間割がきまっていて窮屈なものであったが、その学校生活の最後の大学生活は甚だ自由であった。ここにももちろんカリキュラムというものはあるが、それも自由選択の幅が広く、生活の上で束縛と感じられるものはほとんどない。何でも自主的にやることが建前で、「自由」がその生活の本義となっていた。ところがこれから出て行く世間ではそういう自由なわけには行かない。官庁でも会社でも今までは知らなかった「上役」というものがあって、大学などよりもずっと規律がきびしいのが通例である。毎日朝夕満員の通勤電車で職場へ往復し、無断欠勤などは許されない。

 このように考えると、卒業とは自由の世界から不自由の世界に入って行くことのようである。しかしまた考えてみると、それはこれから本当の自由の世界に入って行くということにもなるのである。というのは、自由とはあくまでも自立の上に成立するものであって、自己の能力に応じて働き、それによって自己の生計を立てるということは人間の自立の条件であるからである。そういう生活がこれから始まるのであって、それでこそそれは自由の始まりなのである。 それは逆にいうと、学生時代は親に学資を出してもらって親がかりで生活するのだから──もっとも中にはアルバイトだけで生活している人がないではないが──まだ本当の自由はなかったのだということになる。

 そういったからといって、この自由と不自由の逆説をひとは決して一面的に解してはならないであろう。大学の生活が自由で卒業後の社会生活が自由でないというのもまた事実であって、しかもそこにはそれだけの意味があるのである。

 大学は高等教育であるから当然そこで専門教育が行われる。それらの専門教育は、それが社会人として世に出るのに「役立つ」ことが期待されている。しかしまた、大学とは単に専門の知識や技能の習得だけを行うところではない。専門の勉強は勿論大事であるが、またそれだけではない、より大きななにものかを得るところに大学の存在理由がある。その何ものかとは、一言で云えば「人間形成」ということになろう。これは曖昧な言葉であるが、教養とか人格の陶冶とか云ったのでは狭くなりすぎる。そういうものを含んではいるが、またそういう言葉のもつ臭みのないもの、曰く云い難い「無用の用」のようなもの、それが大学生活によって養われる貴重なものである。そして、そのためには余裕のある生活、魂の場としての自由が必要であった。

 そういう大学生活の効用は名目的なもので、実際には存在しないのではないかという人があるかも知れないが、決してそうではない。とかく「学歴社会」への批判が強い今日、あまり大っぴらには云いにくいことであるが、大学で勉強した人間には、やはりそうでない人とはちがう何ものかがあるのである。専門の技術のすぐれている人ならいくらも他にいるが、それだけでは世の中は成り立たない。「役に立つ」筈だった大学の学問は実はあまり役に立たないが、それが役に立つとすればそれは大学でやった「無駄な」ことのためなのである。

 それでは卒業して入って行く社会の不自由とはどういうものであろうか。そして本当の自由の始まりが不自由だというのはどういう意味であろうか。それは端的に云えば、大学における自由はまだ即自的な自由だったということである。そして即自的なものは対自的な段階を経なければ、決してより高いものに発展することは出来ない。

 しかし、こんな哲学ぶった云い方をする必要はあるまい。世の中で一人立ちをするというのはきびしいことである。社会を構成するのは自由な個人であるが、社会を運営し動かしていくのには人それぞれに役割がある。新たに社会人となった者は、また1年生から始めて、段々高いポジションに上がって行かなければならない。そしてそのポジションに応ずる能力はただ実践を通じてのみ獲得されるのであるが、その実践はまた先人の実践の積み重ねである社会の規範の中においてのみ行われる。

 その規範はさし当り人々に対立するものとして現われる。しかし、それが社会を成り立たせている基本的なものである限り、それは必ずしも人に苦痛を与えるものとは限らないであろう。現に希望に燃えて社会に飛び立った大学卒業生は、今までと異なった生活環境にとまどいを感じながらも、そのきびしさの中に生きがいを感じているのが多くの人のいつわらざる事実である。それはその試練を経ることによって、人はやがて規範を受けるものからつくるものに成長していくからである。

(東京大学総長/昭和48年~52年)