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学士会アーカイブス

倒産現象と法律 三ヶ月 章 No.733(昭和51年10月)

     
倒産現象と法律  
三ヶ月 章 No.733(昭和51年10月)号

 世の中が不況になると、企業の倒産が新聞紙上に報道されることが多くなる。たとえば、某会社が会社更生法の適用を申請した、等々の記事が経済欄をにぎわすのである。いうまでもなく、倒産という現象は、一つの社会的悲劇であり、好ましいことではないことは分かりきっている。ひいて、そのような事態を処理する法律などもなければない方がいいなどと法律に縁のない人達は考えるかも知れない。しかし、世の中には、私のように、正にそのような法律を専門の一つとして選んで勉強している人間もいるのであって、そのような立場の者が感じ続けている一つの問題をここに提示してみたいと思うのである。いささか大げさな言い方をすると、私などには、最近の倒産現象の法的処理の進展の中に、西欧的な法律制度がこの日本に漸く定着しようとしている一つの例をみうるように思えるからである。
 日本は法治国である、などと今更いい出したら人は笑うであろう。しかし、一口に法といっても、われわれが法とはこういうものだと考えているところにくらべて明治時代にわれわれの先輩が法律制度を移植するに当って模範としたその当の外国では、法というものがどう違った形でとらえられているのか、ということは、実はごく最近まで、日本の法律の専門家はあまり真剣に考えたことはなかったのではないか、と私などには感じられるのである。そして、こうした問題に迫って行こうとすると、実は、西欧のそれとくらべて日本の文化的伝統の異質性とか、この島国で営まれる社会生活が西欧諸国のそれとくらべてどれ程特異なものなのか、とかいった大問題にも、おのずからふれて行くように思うのである。
 はじめからあまり大上段の話になっても如何かと思うので、きわめて卑近な私の体験から話をはじめたいと思う。私は、二度程かなり長期の留学の機会を与えて頂いた。はじめはドイツ、二度目はアメリカであったが、この二つの国は、何れもわが国の法律制度に大きな影響を与えた国であることは、法律専門家でなくても御承知のところであろう。ところで、私がまず最初にドイツに留学しておどろいたことの一つは、私の会話教室での教材として指定された外国人向けのドイツ語会話の教科書の中に、絵入りで、民事裁判の話が出てくることであった。それはこういう角度からである――皆さんのように、外国から来られ、ドイツ語の会話の稽古をしているような方達にはいろいろ困ることがあるだろう。たとえばラジオを買ったがすぐこわれてしまった。買った電気店に行ってもそれは自分の責任でないといってとり合ってくれないということもあるだろう。そんな時には、裁判所に問題を持込みなさい。そうすれば、一定の手続をふんだ上で、裁判所は、電気店の方に非があればちゃんと直すように命じてくれるから、という次第なのである。大学で民事訴訟法を教え、ドイツにも民事訴訟法を勉強しにきた私は、民事訴訟などというものが、外国人に対する会話の教材に、こうした形で素材として使われているのをみて、ウーンとうなったことであった。
 さて、二度目の留学での下宿先はニューヨークはマンハッタンの真中であった。私は幸いに、ある日本商社に勤めているユダヤ人の老婦人が半年程ヨーロッパに里帰りするのでアパートを留守にする間そこを居抜きのまま借りるということになった。ところがこの老婦人と初対面の折、びっしりタイプに打った紙片を渡されて、ここでもウーンとうなったことであった。そこには、私が使用できる家財道具一式が列挙されており、たとえばテレビなどについてはどこのところが多少調子が悪いかまで細かに書いてあった。要するに、部屋の貸借をとりきめるにあたり、それを私と二人で確認し、半年先に私が彼女に部屋を返すとき改めてその状態のままであるかどうかを点検し、もし何か紛失していたり、工合がより悪くなっていたら、それは私の責任であるということをはっきりさせるためのものであった。法科の大学生を相手に、われわれ日本人は、日常、法律的にはかなりルーズな生活を送っており、諸君は、法律を勉強した以上少しずつそういうルーズさを克服して行かねばなるまい、などと説教をしてきた私は、まじまじと、法学の教育などとは全く縁のない生活を送ってきたこのユダヤの老婦人の顔を眺めたのであった。
 実は、一般人の間にしみ込んでいるこうした意識が、西欧の法律制度の基底にあるのである。アメリカの老婦人の話に戻せば、とくにユダヤ人である彼女の場合はそうなのであろうが、人種のるつぼという語を具象化するようなマンハッタンの下町で、寡婦としてのきびしい生活を生きぬいて行くためには、ただ法律だけが自分を守ってくれるものだ、というつきつめた認識に無意識のうちに到達せざるをえなかったのであろう。法律専門家の私がびっくりするような「契約書」を自分で作り、サインをした上で一通ずつ保管する――まことに非の打ち所のない法律的対処の仕方ではある!――などという知恵を、彼女は、誰に教えられるということもなく、自然に身につけたに違いないのである。
 次にドイツ人のメンタリティである。今のドイツ人はなかなか権利意識が旺盛である。私の友人の社会学者が笑っていたことであるが、ドイツでは日本ではあまり起こらない形で自動車事故がよくおきる。理由は、ドイツ人は青信号になると当然自分の権利と考えて車をとばす。横から車がとび出して来そうなときでも、それは先方がルールを守るべきなので自分の方がしんしゃくする必要はないとでも考えるのか、あまり気にかけない。そして、事故を起す、というのである。ルールはルールだという徹底した意識は、確かにドイツ人のど真中で生活してみると息苦しくなる位に感じさせられることがよくある。先に紹介したように、外国人向けの会話の本で、困ったことがあったら裁判所へどうぞ、というのが、こうした意識構造を前提とすればまことに当然な「老婆心」なのであろう。そして、こうした意識をもつドイツ人の立場からすると、そんなことに感心する方が、少しおかしいのではないかと言われるおそれが十分あるのである。
 嘗って私は、文化人類学の大先達が、ある新聞に掲載された随想的な記事の中で、人間の意識の「秘境」を求めて行くと、日本人の社会に突当ると書いておられたのをみて、成程と思ったことがあるが、法律というものに、右にあげたユダヤ人やドイツ人に典型的に示されるようなイメージをもつことなしにこの複雑な近代生活をスイスイと送っているということ自体が、まことに異例な、この地球上では珍しい「秘境」的現象だと思わざるをえないのである。しかし、このように、日本人は自分達の間の問題の処理をめぐっては――いささか専門的な表現を用いれば、私法が本来担当すべき領域にあっては――法律にあまり多くを期待しないをいうことが、日本人の間における法意識の一般的な欠如を意味するのかというと、どうも私にはそうは思われないのである(戦後の一時期には、こうした角度から日本人の法意識の稀薄さが学者によって得々と論じられたことがないでもなかった)。たとえば、数年前、ニューヨークのリンゼー市長が来日して、東京に犯罪の少いのに驚いて帰ったが、これは一面で日本人の法意識の高さなり、いささか専門的に表現すれば刑政の弛緩していないことを示すものといわなくてはなるまい。また日本にも留学し私も知り合いであるアメリカの、ある若い口の悪い法律家が、日本の税制を専門的見地から徹底的に調べ上げた上、わが国の税制の運用は世界一だと嘆じたということが有名新聞のコラムで報じられたことがあった。かりに、それには多少のお世辞が入っていたとしても、法意識の稀薄な人間の集団ではありうることではないということは確かである。そもそもエコノミック・アニマルなどという異名を奉られるのも、ユダヤ的な抜目なさに通ずる何がしかの要素があるからなのであって、どうしてどうして、法意識の稀薄な人間にできる芸当ではないと思わざるをえないのである。
 こうみてくると、日本人が、日本人同士の私的な関係ではあまり法に頼ろうとしないというのは、実は、法意識が稀薄だからそうだというのではなくて、むしろ、まことに敏感にして独自な構造をもつ日本的法感覚=法意識を日本人はもっており、それに照らして判断すると、今の日本の私法体系とその運用の仕組はとても間尺に合わぬので自覚的に敬遠しているにすぎないのではないか、という、驚くべき帰結に突き当らざるをえないように思われる。戦後のある時期にみられたように、法律の専門家が、国民に対して、法意識の稀薄さを責め、そこから脱却すべきことを説いていたなどというのは、いわばさかさまで、むしろ国民の方では、とっくに、今の日本の裁判制度の如き非能率で金と時間のかかる解決方式の馬鹿馬鹿しさを見抜いていて、心の中であざ笑っていたのかも知れないのである。責められるべきは、国民の方ではなくて、そんな馬鹿臭い法律制度を有難がっていた法律専門家の側だったということにもなりかねないわけである。
 少し、専門的なことに話を戻そうと思うが、わが国の民事裁判の制度は、ドイツの制度を直訳的にとり入れるところから形をなしてきたといっても、大局的には誤りではないし、事実、法律家の間ではそのように説かれてきたのであるが、さて、その酷似している筈の民事裁判の制度の利用状況ということになると、正に桁ちがいというか、驚くべき開きがあるというのが事実である。私が嘗ってある専門的論文であげた数字のみをここで援用すると、ある年に民事訴訟事件は日本とドイツでは一五万件対一〇七万件だったし、略式訴訟である支払命令の利用件数の比は一六万件対三六六万件だった。これでは、日本とドイツは似たような民事訴訟制度をもっているなどというよりも、全くちがった社会制度をもっているという方が正しいのではないかと、皮肉ではなく思われてくるのである。今や日本とドイツをくらべてみると、経済規模は御承知のように日本の方が上だし、人口も、領土も、ドイツの方が小さいのであるから、それを考慮に入れると右の数字の開きのもつ意味はもっと大きくなる筈である。さき程あげた、外国人向けの会話の教材で「訴訟のすすめ」がみられるという事態も、こうしたドイツにおける民事司法制度の利用度を背景として考えると、成程と思われてくるわけである。
 このように、民事裁判の領域では圧倒的に低い利用率しかあげていないのに、刑事裁判の面では刑政の弛緩ということがあまりみられず、ニューヨーク市長をして感嘆の語を発せしめ、更には租税法の面などでは外国人専門家に舌を巻かせるというコントラストの中に、実は、日本人の国民性、東洋の法感覚と西洋のそれとのちがい、といったさまざまな問題が秘められていると私は考えるのである。それはともかくとして、何故に民事裁判に対する期待度が日本ではかくも低いのかということについては、制度の欠陥という面と社会構造の特異性という二つの面から検討されねばなるまい。第一の面については、最近漸く独自の形成がみられようとしている「裁判法学」の成果にまつこととし、ここではとりあえずあとの面から考えてみると、日本人の社会は、世界にほとんど類例を見出すことできぬ位、同一言語、同一民族ということに根ざす強い同質性をもつという事実にぶつかるのである。そうした社会では、構成員相互の立場を媒介しあう要素――慣習の共通とか思考のパターンの同一性とか――がほかにも幾つもあるので、相互の利害を調節するために法に頼らざるをえないという度合が、他の国の場合にくらべてぐっと小さくなるということが一般的にいえよう。逆に、人種も言語も宗教も慣習も異る人間が、社会生活を円滑にやって行こうとすると、第二次規範としての法の働く余地も、それに期待される役割も大きくなるのが必然なのである。マンハッタンにみられる人種のるつぼのような中での近代生活はその極限の姿である。これにくらべると、日本人同士の、通常の社会生活にあっては、法の果す役割は、はじめからきわめて限定されたものとならざるをえないという一つの因果関係に、われわれの私法生活ははじめからしばりつけられているともいえるのである。
 このことは裏を返していうと、如何に日本人の社会であっても、通常の社会生活を支配する日本的な安定性がくつがえされるに至れば、義理だ人情だ、更には慣習だ、モラルだといったものの限界があらわれて、赤裸々に法に期待せざるをえない局面が現出する可能性があるということになる。社会生活の病理現象の最たるものである犯罪現象の処理については、日本人社会の間でも、諸外国におけると同様に、或いはそれ以上に、法の果す役割が表面に出てくるのもこうした角度から理解できよう。このことは、民事の領域でも、法以外の規範やプレスティジの働く余地が大幅に縮少されてくる場面では、刑事の場合と似たような形で、法による処理に期待する以外はないという様相が現われてくることにもなりうることを暗示するのである。
 そろそろ、話を標題の問題に戻すときがきたようである。元来、通常の社会的交渉の埒内に止まっている限り、日本人の社会では、法による解決にはそれ程大きく期待しないでも日常生活はうまく行くし、事実、法にはそれ程大きい期待はかけられてはいない。しかし、民事の生活面でも異常事態が出てくると条件が少し違ってくる。そして民事生活の領域での異常事態の典型が倒産という現象である。倒産といっても、これまではまだ、右にみた日本的処理も可能であるという余裕があったとみられる。ひいて法がしゃしゃり出るまでもないという事態がかなり続いた。頭を丸める、とか、債権者に土下座して謝る、とかで、ある程度再建の緒口をつかむことができたということもあったようである。倒産現象の処理についてみても、内整理とか、私的整理とかいう方式が主流を占め、なかなか司法制度の土俵の上で、法による解決をはかるという動きはなかなか顕在化しなかったというのも事実であった。
 しかし、わが国の産業構造の変化に伴い企業の規模が大きくなり、相互の関連の度合が高まると、倒産の規模も、又、その波及効果も著しく大きくなる。そこでは、関連企業の倒産の影響を少しでも多くくい止めるのでなければおのが存立の基盤もおびやかされるような深刻な情況がほとんどの場合に現れるようになる。かくして、在来の、日本的な義理だ、人情だ、といったことではどうにもならぬ、法によるギリギリの権利をドライに追い求めざるをえない場面が現出することが多くなるのである。それは、西欧法制を生み出した国々における法律生活に、多少なりとも似通った環境だといってもよい。法は、こうしたところでは、他に替るものがないが故に、切実な期待がかけられるようになるのである。もし、日本において、私法生活の領域で法が他の国におけると同じような形で機能する局面があるとすれば、それはまずこういう状況においてであるといってよいであろう。さきに、倒産現象の法的処理の中に、極限的な形でではあるが、西欧諸国に似た法規制が定着しつつある、といったのは、こういうことをふまえてのことなのである。
 戦後の法律学では、なる程、法意識の構造とか、法の社会的機能ということなどが抽象的に論じられることがないではなかった。しかし、どこに日本的法生活のかくされた特徴がひそみ、どういう局面で法の日本的特性を露呈し、どんな条件があれば、普遍的ともいえる法への期待が盛り上るのか、というふうな角度からする分析は比較的薄手であったような気がするのである。倒産現象と法の関係などは、例外的な事例を通じて、法の普遍的な姿が、日本という特殊な環境の中で顕現する一つのプロセスとして、追い求めるに値する問題であると、私など「倒産法」の研究に携わる者は感じているのである。

(東京大学教授・東大・法博・昭19)