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学士会アーカイブス

歴史における進歩の理念 南原 繁 No.718(昭和48年1月)

歴史における進歩の理念
─ 新年祝賀会の挨拶─ 南原 繁(学士会理事長) 昭和48年1月(718)号

 新年の御慶芽出たく存じます。
 さて、われわれは雄大な「自然」の裡に住んでいると同時に、悠久の「歴史」の流れの中に生きています。この悠久の歴史において、そもそも進歩は可能なのか、どうか。これまで歴史を人類の堕落として見る「悲観説」があります。ルソーは18世紀の半ば、彼の出世作において、今日の問題に飜案して申せば「科学と技術の発達は人類の改善・進歩に貢献したか」の問いに対して「何ものもない」と答え、そしてあの有名な警句「自然に還れ」と叫んだのでありました。
  しかるに17世紀からルソーも生きた18世紀にわたる啓蒙時代おいては、ひたすら人間理知の発達に信頼して、人類は不断に進歩するものと信じていました。それに加えて、19世紀に入り、ダーウィンの進化論が唱えられて以来、それを社会学に応用して、科学・技術の発達によって、人類は無限に進歩する、という「楽観説」が起こり、これがおしなべて近代を支配して来た、と称していいでありましょう。マルクスも、この考え方に属し、経済的生産力発展の一定の法則によって、共産主義理想社会が出現する、と説きます。

  実際、人類の歴史において、古代は問わずとしても、封建時代に比較すれば、現在人間の社会生活において、いかに多くの改善・進歩がなされたことか。それは有史以来の驚異的発達を遂げた自然科学と技術がもたらした近代文明の賜物にほかなりません。だが、それには初めから暗い影がつき纏っていました。ベーコン以来「自然の征服」と称して発達して来た文明は、ついに「自然の復讐」を受けるに至りました。

  現在、世界共通の問題となっている公害や環境破壊がそれであります。さらに何よりも戦争の惨禍があります。近代文明の頂点とも称すべきこの20世紀において、歴史上かつてなかった世界大戦争が2度まで戦わされました。ことに第2次大戦以来出現した原水爆の威力があります。加えて世界はいま自由世界と共産主義世界との2大陣営に対立しており、このままゆけば第3次世界大戦は不可避というべく、そしてそれが起これば人類大半の殲滅と文明の根本的破壊は必至でありましょう。

 そうした中に、あたかも昨一年の経過において、ほかならぬアジアに慶祝すべき2大歴史的事件が起こりました。1つは申すまでもなく日中国交の回復であり、2は一時中断の後、再開されたベトナム和平会談であります。戦後27年、日中両国の関係ほど不自然・不合理の状態に置かれたものはありません。しかるに、それを妨げて来たものは、ひとえに当時トルーマン米大統領によって採用されたダレス国務長官の外交政策でありました。すなわち新しく中国大陸に国を興した中華人民共和国に対する「封じ込め政策」の結果であります。
アメリカのベトナム戦争も、この政策の一環にほかなりません。過去10年にわたる対米戦争において、ベトナム全土と人民の蒙った惨害はここにいわずとして、アメリカの受けた損失も決して少なくありません。すなわち、アメリカが第2次世界大戦の時にまさる多数若者の生命を犠牲にしたほか、戦費およそ2千億ドル(60兆円)を消費したばかりでなく、本国内に曽てない麻薬患者の蔓延と思想の分裂、さらに風紀の頽廃!それはある意味において自然の報復あるいは懲戒と称してもいいでありましょう。
 いずれの民族も個人と同じく過誤や失敗、時に罪を犯すものであります。それが現実の政治であり、その点で、学者や思想家の理論は実際政治に役立たないように見え、とかく空想視され勝ちであります。だが、いつか正しい理論は勝利し、現実政治はそこに立ち帰らざるを得ません。満州事変以来の日本の対中国政策、近くはアメリカの対ベトナム戦争は、そのことを証して余りがあります。
  ここに大戦後27年。漸くアジアに緊張が緩和し、あたかもヨーロッパにおいても、昨年、西独ブラント首相の東方外交が功を奏し、東欧共産諸国、別しては東独と平和共存の関係に入りました。しからば、西にも東にも、それが世界の真の平和につながるものか、どうか。いうところの「平和共存」は根本において「権力平衡」の関係にほかなりません。ニクソン米大統領を始め、現在世界の首脳者の政治哲学は、それであります。

  それは前世紀の国際政治政策であって、当時フランス諷刺家スイフトが評したように「一羽の雀がその上に止まっても、直ちに平衡が崩れ去る程のものにほかなりません。事実、それが崩れて、以来幾たび戦争が繰り返されたことか。歴史はかようにして、ただに過去の繰り返しのようにも見えます。ここに歴史の「回帰説」が説かれる所以でもあります。

 しかし、ここに、われわれの忘れてならないことは、極めて重要な歴史的事件が、この20世紀、しかも戦後に起こっていることであります。それは約10年前、当時ソ連のフルシチョフ首相とアメリカのケネディ大統領とが、相ついで世界の完全軍縮を国連に提案し、総会において満場一致採択された事実であります。これは2大強国の現実政治家の具体的提案であります。けだし、人類歴史の進歩への大きな「徴候」と称していいでありましょう。
  もとより国家内部に犯罪があるように、世界の政治秩序が成立しても、これを乱す国はあるでありましょう。だが、それはもはや従来の戦争の観念ではなく、1つの国際的犯罪として、諸国共同の国際警察軍がこれを制御することになります。米ソ両国の前記提案には、そのような国際軍の創設と、同時に各国常備軍の廃止に伴う諸条項が定められてあります。現在、米ソ間に交渉中の「戦略兵器制限」条約のごときは、わずかに、その一歩に過ぎません。

  各国軍備の撤廃と世界政治秩序の創設は、実に今後幾世代にわたる世紀の偉大な事業であります。それは人類の実現せねばならぬ政治の理念であります。その間、多くの蹉跌や曲折はあります。だが、歴史を全体として観るとき、自然は人類の反自然的=反理性的行為を抑止するとともに、もともと自然は人類のあらゆる性能を伸ばし、またそれに必要な手段を豊かに供えてあります。このようにして人類の為すべきことを為し得るように、大自然は共働します。ここに、われわれは人類歴史の進歩を言うことができます。

  新しく迎えた1973年が、そういう歴史の進歩への一段落であらんことを希って、年頭の祝辞といたします。

(日本学士院長・東京大学名誉教授・東大・法・大3)