硬骨の人 ─亡き父 金田一京助の思い出─ |
金田一春彦(国語学者) No.717(昭和47年6月)号 |
一.
私が大学を卒業した年、亡くなった父、金田一京助は、学士会会員氏名録に私の名が載っていないのを見て驚愕した。早速、速達便で、「会員氏名録に重大なミスがある。私のセガレの名を落とすとは……」とねじこんだ。ところが、それは名簿の方が正しかったので、私は会費を出すのを惜しんで、会員になる手続きをとっていなかったのである。 今度は私が叱られ、父は自身で一ツ橋まで出向いて私の分の会費を払ってくれたところからも、その熱意のほどが知られるが、そのくらいであるから、私の名が翌年載った時の喜びようはなかった。ちょうど私より一年あとに卒業した金田一昌三君という一時札幌の図書館長をやった人の名も載ったので、金田一姓のものが一挙に五名となり賑やかになった。 父は真新しい学士会会員氏名録のあちこちを繰っては、やあ、田子君のところは、田子君ひとりか、郷古も一人しかいないぞ、などと、自分の友人のところなどまで見て、悦に入っていた。 父は若いころから、よくカネダと読みちがえられ、そのたびにキンダイチですと弁解すると、今度は変な苗字だなと批評されてきた。あの感激は、そういう苦い経験があってはじめて味わえるもので、鈴木さんとか、田中さんとか、平凡な苗字の持ち主の方には、想像も及ばないことであろう。
二.
父は、大正の末、私たち家族を連れて住み馴れた本郷から草深い杉並の一隅に引越した。国鉄の阿佐谷駅から南一キロほどのところだったが、今とちがい、周囲は家もまばらで、雑木林や芋畑が多かった。庭に一本刈り残した小高い栗の木があって、秋になるとたくさんの実をつけ、小学生だった私たちを喜ばせたが、ある年の梅雨のころ、白い剛毛の密生した大きな毛虫が幾匹もついて新葉をもりもり食べていた。 父は柄の長い鋏を持ち出して、枝のままばさりばさりと切り落としていたが、それを見物していた私たちは、毛虫のついた枝が地上に落ちてくるたびに、大げさな声をあげては恐がって興じていた。と、父は急にこわい顔になり、「男の子はこんなものを恐がるものではない。トーさんはこんなものつかんでみせるワ」と言って、地面に落ちたコロコロしたやつを、親指と人差指とで挟もうとしたものである。──が、挟んだか挟まなかったか、すぐそれを離した。そうして、開けるだけ大きな目をして、私たちの方を見、いかにも意外という顔をして、「この毛虫、トーさんのことをさしたワ」と言った。 父の信念では、毛虫の中でさすのは柿につくイラムシ一種だけである。それなのに毛虫と見れば恐がるのは、笑止千万だと思っていたようだったが、予期に反して、栗の毛虫が小癪にも刺したので、びっくりしたのである。父は忌々しそうな顔をして、下駄でその毛虫の一統を一つ一つ踏みにじっていたが、私は、強いことを言いながら、さされた父が、気の毒でもあったが、おかしくもあったので、そのことをいつでも覚えていて、母や妹たちと話しては興じあっていたものだった。
三.
その後二十年の歳月が流れた。私は妻をめとり、父母とは別のところに住んでいたが、夏など父母と同じ屋根の下で暮らすこともあった。そうしたある日の夕方、妻が庭に干した洗濯物を取り込めようとして、きゃあっと叫び声をあげた。見ると、洗濯物の上に、上の木の梢から落ちたと覚しく、大きな毛虫が一匹たかっている。昔父をさした、あの白い剛毛を生やしたやつであるが、それに妻が思わず触りそうになったのだった。と、父は座敷から飛び出してきて、「毛虫などで、そんな声を出すものではない。わたしなどはこんなものは……」と言って、指でつまもうとするではないか。私は驚いた。二十年前に、たしかこの種類の毛虫にさされて痛い思いをしているではないか。それを忘れたというのであろうか。私は急いで父の手を払いのけ、毛虫を地面に振り落として、足の下に踏みつぶした。父はまだ残念そうに踏みつぶしたあとを眺めていたが、父は一体どういう人なのだろうと考えざるをえなかった。 犬を飼った人なら知っているが、犬が知らずに飼い鳥などに襲いかかったような場合、一度頭を打って痛い思いをさせてやると、もう二度とはねらうことはしなくなる。父は、第三者の私が覚えているその毛虫から受けた痛みを、本人でありながら忘れてしまったとは、犬にも劣る……? 私は父には特有の感情があったのだと思う。人間は万物の霊長である。毛虫などを恐れてたまるものか、というような。そのために、痛い思い出などあっさり忘れてしまったのである。しかし、それはそれとして、第一回目のとき、父は自分の子どもの前で、自分の考えが間違っていたことを自分から暴露してしまった。これは間の悪いことではないか。そういうことは忘れがたいものだ。それにもかかわらず……、というのは、父の場合、信念を破ったのは、憎むべき毛虫が悪いのだという気持の方が強く働き、間が悪いという感情も働く余地はなかったようなものだ。これは、まさに強者の資格である。
四.
太平洋戦争の末期、日本の上空にアメリカの飛行機がどんどん飛来して、焼夷弾や爆弾を落とすようになっても、父は日本の不敗を信じていた。今に日本軍は勢を盛り返して敵に打撃を与える。それまでの辛抱だと言うのである。それだけなら、信仰の自由で別に差支えないのであるが、もし私たちが、日本はこの分では負けるかも…… と言うと激怒するのである。これには手をつけかねた。「もし負けたら…… 」と言っただけでも、負けると思っているのか、と怒り出す。近所の人は、次々に縁辺を頼って地方へ疎開していくが、自分は杉並の家を動こうともしない。母と妹だけでも疎開させようと思ったが、相談しているのがうっかり父の耳にはいるとめんどうなので、蔭のへやでこそこそ相談するというわけで、随分もてあました。 防空壕だけは掘ったが、これも隣組からうるさく指令が来るためにやむなく作ったので、私たちが父の自慢していた植木をぬいて穴を掘っているのを、不本意そうな顔をして眺めていた。私は、父が教え子の中でも一目おいていた服部四郎博士が奥多摩に疎開しておられたのにお願いして、母と妹と、それから父の蔵書の一部を引き取っていただいた。ここまでは、以前「文芸春秋」の「父よあなたは…… 」という文章に書いたとおりである。
五.
が、あの話はまだ続く。私は当時中野にあった、在日中国留学生を教える学校に勤めていたが、五月の何日かの空襲にそこが焼けてしまった。秩父の山奥のお寺に縁があって、そこへ学生たちは引き取られていったが、私は妻と生まれたばかりの長女を母たちの疎開しているそばに疎開させ、当時の交通事情の悪い中をあっちへ行き、こっちへ行きで、父のことが気になりながらも暫く訪ねかねていた。 いよいよ日本の敗色の濃い六月末のある日、奥多摩で手に入れたジャガイモをリュックにつめてひとり杉並に残っている父を見舞いに出かけた。沖縄にアメリカ軍が上陸し、このまま進めば本土上陸も必然という時勢だった。今なら片道一時間足らずの距離であるが、至るところ空襲を受けた当時のこととて、立川まで歩き、三鷹ぐらいまで満員の電車に乗って、そのあとまた徒歩であるから、優に半日行程である。蒸暑い日だったが、当時はそれは苦痛のうちには入らなかった。 そのころは、東京都は都心の過半が廃墟で、都民の中には一度焼けて別の処に移ったがまたそこで焼け出されたという念の入った人も多かった。父の家はどうなったかと思って出掛けたが、まだ焼けずにあって、ほっとした。ひとり暮らしではなく、都心で焼け出されたYさんという家族が、母たちの去った後のへやに泊まっていて、縁も何もない人だったが、人柄のよさそうな人で、父の面倒を見てくれているのを見て、これもほっとした。 父は、久しぶりで私の顔を見て、懐かしそうに目をしばたたいた。が、しわは深く、頬はこけて、人相は大分変っていた。それが私と二人きりになると、悲壮な表情でこう言ったのである。
ここへも今にアメリカ兵が攻めてくるかもしれない。そうしたらわたし はあの防空壕から躍り出て、あの松の木の下で、竹槍でアメリカ兵と刺 し違えて死ぬつもりだ。
低い声だったが、最後は力強く結んだ。私は耳を疑った。が、父の表情はまじめである。父はこういう時にうそを言う人ではない。本当にそう思っているのであろう。が、それにしてはなんという悲痛な言葉であろう。 父はこの時六十才をすでに越えていた。「防空壕から躍り出て」とは勇ましくも言ったけれども、碌なものを食べていない体では、屁っぴり腰でよろめき出るのがやっとではないか。アメリカの兵隊たちは、優秀な火器をもっているだろうから、こっちが竹槍を構えるより先に、遠方から狙いをつけ、一発でしとめてしまうであろう。 父は、終戦後こそ、文化勲章を頂いたりなどして栄誉に輝いたが、そのころはまだそれほど名も知られてはいなかった。それまで貧苦と戦い、幾多の困難を凌いでアイヌ語という報いの少い地味な研究を続けてきていたが、発表できたのは、ほんの一部である。花が咲くのはこれからではないか。そういう矢先に、若造のアメリカ兵に虫けらのように殺されて、それでいいと言うのであろうか。 父の顔には、日本の政府や軍部に対して、だまされた、とか、ひどい目にあった、とかいう、恨みがましそうな表情は微塵も見られなかった。そこには事は志とちがったが、ベストを尽してきたという心のやすらぎがあるようだった。 これには、私は深く心を打たれた。私は実はその日父に逢うまでは、父が、自分の考えはまちがっていた、やはりお前たちの言うとおり日本は負けた、と口にするのを期待していた。戦況日々に非なる、何一つ楽しいことのないその時勢の中で、父からそういう言葉を聞いて残酷な喜びを味わおうという気持があった。が、父の言葉を聞いて、負けたのはこっちだと思った。 父は恐らく祖国の万才を叫びながら松の木の下で死ねるであろう。私はその何年か前、軍隊に取られ、その翌日から逃げ出す計画を考えていた男である。そういう私は、それまで手の付けられない愚か者のように思っていた父が、そのような純粋な心境になっているのを知り、何とも形容できない気持ちにおそわれたのである。 父は、私の持って行ったジャガイモをYさんの奥さんにふかしてもらって、おいしそうにたくさん食べた。私は予定を変えて一晩父と寝床を並べて寝て、夜おそくまで言語学の話などをした。珍しくアメリカの空襲もない夜だった。父はさっきのことなど忘れたように、快活になっていろいろしゃべった。私は父のことをYさん夫妻にくれぐれもよろしくたのんで、翌朝秩父へたった。
六.
父の死んだ今、父が残して行った、原稿の書き損じや日記の類を読んでいると、家族からほうり出されて、ひとりこつこつアイヌ語の研究にいそしんでいた父の姿がほうふつとする。八十才を過ぎた晩年、杉並の家にひとり残ってユーカラの翻訳にあけくれしていた強さは、常人ではない。 父が亡くなり、学士会会員氏名録には、金田一姓のものは、私と札幌の昌三君と二人だけになってしまった。この分では、またぞろカネダではありません。キンダイチですと説明してまわらなければならない時世が来そうである。この際、「おほろかに心思ひてむなごとも」武田の末流という祖(おや)の名を絶つなと、一族を励まさずばなるまいと思う。
(東京大学講師・国語審議会委員・東大・文博・昭12)
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