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学士会アーカイブス

北大の思い出 杉野目 晴貞 No.714(昭和47年1月)

     
北大の思い出
杉野目 晴貞 No.714号(昭和47年1月号)

 学士会会報から「北大の思い出」についての原稿を求められた。昭和四年秋札幌に居を移してから四十二年あまり。いまなお北大の研究室に出かけているので、どこにライトをあてたらよいか迷った。限られた時間と紙面では充分つくせないのである。
 まず北大赴任の経緯から始めることにしたい。  私は大正十五年の夏、ロックフェラー財団の最初の「国際奨学生」として、東北大学からイギリスに留学した。翌昭和二年、北大に創立される理学部へ当分の間勤務するようにという創立委員長の恩師真島利行先生の要請で、北大転任がきまった。これは全く予期しなかったことで、それまで北大も北海道も訪問したことはなかった。
 イギリスを引きあげてスイスに転じ在留中、北海道大学から当時農学部教授、のちの理学部長田所教授が北海道大学からパリに出張され、イギリス、その他欧州各国で在外研究中の北大理学部教授内定者をパリに集めて打合わせ会を開催された。昭和四年の春のことであった。参会者は数学科、吉田洋一、河口商次、功力金次郎。物理学科、中村儀三郎、茅誠司、中谷宇吉郎。化学科、田所哲太郎、太秦康光、柴田善一。地質鉱物学科、長尾巧、鈴木醇、原田準平。植物学科、山田幸男の各氏と私、計十四名であった。
まず田所教授から北大理学部創立準備とその進行状況などにつき報告をうけ、ついで各国の関係学界の最新の情報を交換し、その他帰国後に必要な施設々備についての希望等が述べられたように記憶している。この会合で初めてお目にかかった方、また久々で再会した方もあり、相互理解を深める絶好の機会となり、極めて有益であった。学部の創設にあたりこの種の会合を催したことは例がなく、正に空前でおそらく絶後ではないかと思われる。当時は新進気鋭のプロフェッサーノミニーも、今やすでに第一線を退いているが、中村、長尾、柴田、中谷、鈴木の五教授はすでに他界されている。感慨の深いものがある。
 スイスでの在外研究を終えてから、欧米の諸大学を視察し帰国した私は、早速北大を訪問した。思い出されることは、当時仙台や東京まで出かけようとすると、急行で二十四時間とか、三十六時間といった長時間を要し、昨今の交通事情では一寸想像もつかないほど不便なことであった。田所教授の案内で、型の通り佐藤総長を始め、農、医、工各学部にあいさつ廻りをした。
 この時の北大の印象は今なお鮮明である。まず構内の広大であることで、前身の札幌農学校が、アメリカのランド・グラント・カレッジの理念で開学されたものであることが容易に理解できた。すなわち政府は、札幌農学校の発展に備え、土地並びに森林を与えたのであった。しかも明治の始め、今の札幌駅の北の土地は札幌農学校の所管であったが、大正中期に医学部を増設し、北大がいよいよ独立した帝国大学の範疇に加えられるために、その市内の土地の一部を処分したが、今なお北大は附属農場を含めひとかこい百九十八万平方米(六十万坪)の広大な敷地を有する。これは皇居と、皇居前広場を合わせた面積よりも広いのである。旧制第二高等学校の校庭の一隅に、しかも古河家の寄附金で創られた東北大学とは比較すべくもない。
 単に敷地が広大であるばかりでなく、エルムの巨木があちこちに群生し、こんこんとつきない湧き水が構内を蛇行していた。しかも大正の始め頃まで鮭が産卵のため、この小川を遡ってきたという。まさかと思わないでもなかったが、あとでたしかめることができた。この夏まで、ケンブリッジ大学出身で、北大の英語教師をしていたイギリス人、ジョン・ランドン君は、この辺の風致を「ケンブリッジのミニアチュア」と称していた。しかし最近、この小川の水は全く涸渇してしまった。これは北大のイメージを破壊するもので、惜しみてもあまりある。このことは北大の維持管理にかかわることではなく、札幌市の再開発により地下水が下降したためである。
 次に北大最初の訪問で感じたことは、ローングラスの手入れが行き届いていることであった。冬は暖房、夏はローンの刈り込みと、きまった仕事を担当者が行っていたようであった。これは英米の大学構内を思い出させるものであった。
 以上は構内全体の感じについて述べたのであるが、学部によってはその独特の趣があった。
 農学部はまわりをエメラルド・グリーンのローンでかこまれ、白亜の牧歌的な校舎が整然と配置され、想像した札幌農学校のイメージにぴったりしたものであったし、その佇まいは画家の題材にもなっていた。特に最近国の重要文化財の指定をうけた旧農場には、今も北海道内外の画家が訪れている。
 医学部はその附属病院もふくめ、ドイツ式のパビリオン方式の建物で統一されていた。前庭の手入れもよかったし、緑はすばらしかった。
 工学部は尖塔のある白亜の校舎で、北国にふさわしい気分がみなぎっていた。前庭も他の学部と一寸変わったものであった。この工学部づくりは、初代学部長吉町太郎一先生が長期に亘る苦心の作であることを知った。
 理学部は、鉄筋構造で、しかも他の学部とことなり、数、物理、化、地鉱、植物、動物の六学科を一棟に収容するしくみであった。建物はゴシック風で、ロマネスク式の部分もとりいれた、昭和初期の国立大学の様式で、学内随一の最新の施設であったから、学内の羨望の的であった。しかし旧運動場がこの敷地にあてられたのであるが、これは大北大としては必ずしも充分ではないように思われた。しかし、南側のうっそうとしたエルムの原始林は学内でもきわだってみごとなものであった。
 昭和二十三年の初夏の候、北大構内で句会が開催された折に、虚子先生はいみじくも、
  理学部は薫風楡の大樹陰
とよまれたのであった。
 このように広い構内に四学部が悠然と点在していたのが印象的であった。私はこの最初の訪問で、北大がすっかり好きになったのである。
 初冬を迎え、やがて本格的な冬を経験したが、北大構内の冬景色はまた格別なものであった。見渡す限りの雪原、エルムの巨木につもった雪景色は、まさに絵画そのものであった。さながら山に登ったような感じすら与えてくれた。冬期間は毎朝といってよいほど新雪で清められた。当時北大では早朝、農場の馬が板で作った簡単な三角の器具を曳いて除雪していた。そのシュプールはまたみごとなものであった。
 一方キャンパスの傾斜地帯はよいスキー場となり、小学生を始め色とりどりの服装をしたスキーヤーが訪れるのであった。初心者には恰好のゲレンデでもあった。この風景は今もあまり変っていない。
 以上は四十二年前の赴任当初の北大の思い出であるが、北大のポテンシャルの偉大な点は充分評価しつつも、欧米の大学の施設設備に比較して、一般に見劣りしたのは事実であった。このことは、戦後間もなく、ケンブリッジ大学で学んだ高名な評論家でもあるさる教授が北大を訪れ、「有名大学なので堂々たる施設かと思っていたが、アメリカ中西部の高校を思い出すものである。」という意味の新聞寄稿があったほどである。
 しかし最近の北大の施設は、ほとんど全部衣替えした。歴史的な建造物はこれを保存することになっている。
 理学部開設のため設置された創立委員会は、北大農、医、工学部の関係教授を始め、東京、京都、東北の各大学理学部の関係各分野の権威ある専門家で構成され、教授選考にあたっては、広く国内の大学はもとより、理化学研究所などの研究機関から、なるべく若い将来有望な研究者を迎える方針をとったようであった。
 前に述べた「パリ会議」に出席しなかった教授内定者、内田亨、松浦一両氏はややおくれて在外研究員となった。さらに北大の農、工両学部から、田所哲太郎、小熊桿、坂村徹、犬飼哲夫、池田芳郎、上床正夫の六教授が配置がえされ、又は併任された。
 講座数は六学科合わせて二十五を予定したが、開学時においては二十一と変更され、逐次増設の方針になり、学生数は計八十名で、当時の高等学校卒業者はもとより、北大予科終了者も入学可能であった。
 かくて国立第四番目の理学部は、北大、北海道はもとより、各方面から祝福をうけ、期待されて、予定通り昭和五年四月一日発足した。学部長は東北大学理学部教授真島利行博士が併任された。早速講義が開始されたばかりでなく、各教授は大変な意気ごみで研究に着手した。
 冬ともなればスキーがきわめてポピュラーで、日曜日は先生方もきそって思い思いのスキー場に出かけた。会議が始まる前の雑談は、もっぱらスキーの話でもちきりであった。よくいわれるように、登山家や釣愛好家は、とかく自慢話が得意とされているが、スキーヤーもこれ等におとらないようだ。化学科では、年末休暇に入ると、ニセコでスキー合宿をした。筆者もこれに二回位参加し、ニセコの頂上でふぶかれたこともあったと記憶している。学生はすぐ上達するが、先生、少くとも筆者はなかなか身につかなかった。こんなわけで、先生と学生の接触は別に問題がなかった。
 次に北大の学風についてふれてみたい。
 出身校の東北大学の設立は、日露戦争後のいわゆる国策として、理工学分野の学問を振興し、産業の発展に資することを目的としたように伝えられている。この東北大学理学部は、京都大学の設立後十年間蓄積された、すぐれた研究者群で発足し、加えて練達堪能の行政官であった沢柳初代総長、さらに仙台という閑雅な学問研究にふさわしい環境などのため、東北帝国大学理科大学の研究成果はとみにあがり、ついに「研究第一」の学風が確立されるようになった。
 前述の通り、明治維新直後、一八六九年北海道開発が政府によってとりあげられ、アメリカ顧問団の意見を求め、組織的に開発が進められた。その結果、「開発はまず人間開発から」ということで、札幌農学校の設立方針が採択された。そしてクラーク先生外二名の米人教師に、黒田清隆校長兼務、書記兼翻訳官、農場監督の三名の日本人を加えて六名と二十四名の生徒によって、明治九年八月札幌農学校は開校された。北大はこの日本最初の高等教育機関に源を発しているのである。そして名称は農学校でもアメリカ式カレッジで学科課程も戦後の四年制と同様一般教育が実施された。評論家の中には、現在の北海道大学は、札幌農学校とかかわりがないと考えている人もいるが、それは単なる形式論で正鵠を失している。
 農学部についで医学部、さらに順次工学部、理学部と増設された。
 理学部開設後は、北大は人文社会系学部の創立を希求したのであったが、満州事変が勃発し、さらにこれがエスカレートし、ついに太平洋戦争に突入のため学部増設は到底望むべくもなかった。
 この四学部編制の大学は、西欧の大学と比較し奇異に感じた。およそ大学とよばれる高等教育機関は、人文社会中心で、しかも神学科が必ず設置されているのである。北大にはそれが欠けていた。
 しかし戦後は、教育基本法が制定され、さらに学制改革が断行され、教育の機会均等がおし進められ、ついに北大の先人が驍望した人文社会系各学部のほか、理科系学部もまた増設されたのである。かくて北大は九十五年の星霜をへて、文、教育、法、経済、理、医、薬、歯、工、農、獣医、水産の十二学部を擁する一大総合大学にまで成長した。すなわち学部数は国立大学中最も多いのである。施設も一新された。教育・研究の場として今後大いに発展することが期待される。
 以上の経過から北大の歴史はユニークなものである。第一札幌農学校開設当初から国際友情に支えられて現在に至っている。北大の卒業生、特に札幌農学校の卒業生の中からは、日本近代化に貢献した、いわゆる「変り種」が多数輩出した。新渡戸稲造先生が国際連盟の事務局次長として大いに活躍されたことはあまりにも有名である。また内村鑑三先生は無教会派を創始し、内村全集とともに不朽の業績をのこされた。
 おひざ元北海道は三年前、「北海道百年」を迎えたのであるが、今なお開発途上にあり、既に第三期総合開発が発足している。これが計画策定等についても、北大各学部あげて参加しているのが実情である。かくて札幌農学校開設以来、北大は北海道の開発とともに歩んできたし、今後もこれに協力するものと信じている。
 スポーツの思い出もつきないものがある。概括的にみて予科、本科合せて六年間の同一カンパスでの生活、それにO・Bの参加をえて各部が渾然一体となり、よき伝統をきづきあげていたのが特徴であった。
 中でもスキー、山岳、馬術の各部は地の利をえているほか、よき指導教授のおかげで断然すぐれていたように思われる。大野名誉教授の如きは日本のスキーの草わけで、オリンピックを札幌に招致にまで発展させている。
柔、剣、弓、空手、野球等の各部にもそれぞれすぐれた伝統がある。学長在任中剣道部の祝勝会で胴あげされたり、野球部では、坂元部長にほだされ始球式をつとめたりした。
 またボート部は堀内名誉教授の独得な指導により、北大ティームが名門ケンブリッジを破り、一躍北大ボート部の存在を世界にしらしめたのであった。
 北大の成長・発展について、忘れられない先輩が多数おられたのであるが、佐藤昌介先生の晩年についての思い出を述べてみたい。
 佐藤総長については、京都の荒木総長と並んで、いつも入学式、又は卒業式で学生に与えた式辞を、学士会月報で読んでいたので予備知識もあったし、真島先生も佐藤総長の管理運営の一大ベテランとしてばかりでなく、母校北大を愛し、その発展のため生涯を捧げ、一以之を貫いたその信念に対し、いたく尊敬していたことを知っている。筆者が始めて挨拶のためおあいした際、理学部の将来につき抱負を述べられた。しかし昭和五年秋、理学部の開学式をあげて間もなく勇退された。勇退直前、七十四歳の高齢で、馬上ゆたかに空沼岳に登り、秩父宮ヒュッテを視察され学内に話題をまいた。
 退任後は悠々自適のかたわら、地域社会の文化振興に大いにつくされた。昭和八年札幌にロータリークラブが結成されるや、初代会長となり、しかも三年連続会長として奉仕され、さらに昭和十一~十二年、第五代目ガバナーノミニーとして渡米、よくその使命を果されたことは、今もなお札幌のロータリアンのかたりぐさである。時に齢八十。昭和十四年六月五日、八十二歳六カ月で大往生をとげられた。北大は先生の偉大なる功績に報ゆるため北大葬を挙行したのであった。
(昭和46年10月27日記)

 (北海道大学名誉教授・科学技術会議議員・東北大・理博・大8)