学士会アーカイブス
車猿先生と癌研究 釜洞 醇太郎 No.710(昭和46年1月)
大正15年卒業と同時に塩田外科に入局、その後8年を経た昭和8年11月28日、塩田教授の推薦で翌年開院する運びになっていた癌研究会の康楽病院外科医長の辞令を貰った。奇しくもこの日は先生の誕生日で、癌の治療を生涯の目標と運命づける日となった。癌研究会の会頭は長与又郎、研究所長は佐々木隆興、病院長は稲田竜吉、いずれおとらず日本医学全盛時代を彩る錚錚たる顔振れである。久留先生の得意や思うべし。 開院後まだ1月もたつかたたぬかの頃だった。長与先生から1冊の本を手渡された。それはその頃出版されたウエストフィスの直腸癌の本だった。その中には、直腸癌の場合、癌の附近にポリープ(一種のいぼ)の見出されることが多い。そのポリープには癌への移行のさまざまの段階が見られる。ポリープこそ大部分の直腸癌の発生母地であると結論してあった。発癌の機序に触れる大問題である。この頃、このポリープから癌の出来るのを自ら体験する機会が到来した。この事を話す時の先生は熱気を帯びる。滋賀県から来た1人の患者は下血、粘液便、しぶり腹等、直腸癌を思わせる症状を訴えたが、よく検査してみると苺のようなポリープが見つかった。この一部をとって顕微鏡でみると正しく良性の腺腫である。まだ癌になっていない。肛門から管を入れて電気で焼き切れば簡単に癒る。患者は繰返し「病気は癌ですか」と聞く。「いや幸なことにまだ癌ではない」と答えると、患者は大いに喜び、そのまま帰ってしまった。1年あまりたって、その患者がまたやって来た。直腸の奥をしらべると、以前あったポリープは跡かたもなく消失してその代り紛うかたなき直腸癌が大きく場所を塞いでいる。患者に「もう今度は電気で焼いた位では駄目だ。ちゃんと直腸を切る手術が必要だ」と説くと、失望落胆して帰って行った。この、人間に即して行う自然観察、それ以上貴重なものが、医学の世界にあるだろうか。一羽の燕は必ずしも春を告げないという諺もある。しかし自然は小出しにしか正体を見せない。先生の関心は直腸癌に集中した。そして手術の術式にも色々工夫をこらした。この努力は三宅速教授の目にとまり、昭和15年大阪で開かれた日本外科学会総会で宿題報告をする機会に恵まれたのである。この頃より、この前癌的変化は、直腸癌だけの問題だろうかという疑問を持つに到ったのである。翌16年金沢大学に教授として赴任されるのであるが、これを機会に康楽病院8年間の癌手術の予后の整理を思いたたれた。乳癌、直腸癌、胃癌について調べた結果、胃癌が最も不良という結論が出、これから胃癌の前癌状態の研究に入られる。ところがこの前癌状態というテーマを引提げて専ら臨床側から学界に奮闘される先生に対して基礎病理学者は白眼視し、むしろ四面楚歌の感があったと聞く。前癌変化のことをはじめて言ったのは山極先生だったのにとつぶやいておられるのをきいた。 昭和卅年金沢大学から大阪大学に赴任されたとき、この英邁なる学者の聲咳に接する好運に浴することになった。大阪に来られる1つの大きな動機は、平素敬慕してやまぬ古武弥四郎先生に引かれたためである。先生はしばしば「俺は人間の医学をやるのだ」と語られた。当時研究所にいて動物実験の醍醐味にひたっていた自分には遠い世界の話のように聞えたが罰が当る日がやって来た。ある日私の口の中に白い小さな腫物が出来はじめているのに気づき、直ちに研究所の外科で切片を作って貰って、顕微鏡で見ると上皮の著しい増殖の中に明らかな細胞分裂像が見えるではないか。一瞬お先真暗になった。そしてこの標本はいち早く阪大の病理専門家の間に配られていることがあとでわかった。自分としては、念のため歯学部の病理教授を訪れて診断を乞うた。はじめ、「口の中の病変は特殊性がありますから、御心配いりませんよ」と言いながら、標本を眺めていたが、急に態度一変し「これは癌です。しかし最近は上顎癌の手術も進歩してさほど苦痛はありません」と慰めにかかった。蹌踉蹣跚として研究所に戻ってくると、助教授がもう入院の準備は出来ましたという。その時、久留先生が帰り支度で4階の私の部屋まで上って来て「君の標本は見た。成程わるい。しかしオーマは一日にして成らず。これで含嗽でもしておきたまえ」と言い残して帰られた。ほっとすると同時に委しておいて大丈夫かしらという一抹の不安は残った。が先生は正しかった。抗生物質は効を奏して、日ならずして腫物は引いてしまった。動物発癌実験で強力な化学物質を大量に投与しても癌になるには1年以上もかかる。ましてや人間の場合、オーマ(カルチノ―マ,ザルコ―マ)は一日にしてならぬというのが先生の持論である。専門家を以て自任する私共を尻目に先生の方に軍配が上がった。生きた人間を直視する眼力は恐ろしいと観ずるようになった。最近私共は化学物質による試験管内発癌に成功し、細胞の発癌過程を克明に観察、計量できるようになった。そして、真の癌化の前に似て非なる一時期が必ず存在することを証明した。がそれを先生に報告する機会がなかったのは心残りである。 再び康楽病院時代に戻る。当時は胃癌患者には手遅れのものが非常に多かった。恩師塩田先生は教室で口癖のように「腹部の疾患の多くは外科で診断を下し、治療すべき性質のものである。癌の患者を内科で診る意味がわからない」と言っておられた。この鬱憤をまともに受けついだ先生は、これを康楽病院内科の連中に直言したものと思う。反応は期待を裏切る結果となり、人間的に苦悩する日が続いた。見るに見兼ねた佐々木隆興研究所長はある日所長室に呼んで「君この本を読んで見給え。神経学というのは面白い学問だよ」と手渡されたのが、エヂンゲルの「中枢神経の構造」という名著であった。先生はこの本の虜となった。そしてこの著は神経学の醍醐味を教えたのみならず、ともするとメスに走り勝ちの外科医に大きく反省を訓えるものとなった。少しでも診断の正しからんことを求める内科医の立場を認識し、外科と内科の緊密なる協力なくして患者の真の幸福はあり得ないと悟る。癌患者の末期、しばしば堪え難き疼痛に悩まされるのである。ここに久留先生は、その本態の糾明と適確な対策とに外科医として真剣に取り組んだのである。脊髄の中の構造は複雑で痛みを伝える神経の腺維の位置が判然としていなかった。しかもこれは動物実験ではいくらやっても解決がつかない。痛みを感ずる装置そのものは人間ほど発達していないからである。手術後亡くなった患者の遺体について研究を進めねばならなかった。この痛覚伝導路の研究は独乙外科学会の巨頭ザウエルブルッフの激賞するところとなり、日本においては学士院賞が与えられたのである。この機縁を作られた佐々木先生は偉大なる教育者である。吉田富三先生も先生の愛弟子であることは知らぬ者はない。生化学者である先生が、形態学者も敬遠し勝ちな神経学に興味をもたれたことは驚くべきことで、佐々木先生と久留先生の出逢いは松坂の一夜を思わすものがある。この佐々木先生には一度だけお目にかかったことがある。私が大学卒業の時の祝賀会に御臨席になり祝辞を賜わった。その中に「諸君がこれから研究者になるならば、常にバウスタインになるような仕事をしたまえ」というお言葉があった。この自然科学研究の本質をついた言葉は小さな私の一生を支配するものとなった。 さて教える側に立った久留先生はどうであったか。阪大外科教室の最上助教授の言によれば教室員の指導は秋霜烈日、理に適わぬ処置や手術を行ったものは、直立不動のまま徹底的に反省を促されたという。これは先生の恩師塩田広重教授の教育法を良しとし、そのまま踏襲されたものである。反面「あたら名玉を磨きそこなった悔はないか。千里行く名馬の調教を誤った覚えはないか。純真な若人たちに日夜接し得る教育者のよろこび。人のきめた俸給の乏しさを訴える前に、天の授けた俸給の豊さを忘れてはなるまい」と語られる先生でもあった。 先生は詩をよくし書画を好み、興到って立所に色紙などに物して人に与えられた。試みに先生の随筆、竹林雀語の序の一節を引いて、その風格の一端を御紹介したい。 「鳥有先生刀圭に志して、茲に年あり。朝に神農に念じて活人の利剣を研ぎ、夕に薬師に跪いて回生の秘薬を錬る。日高うして塵外に顕微を探り、夜到れば壷中の丹丘に遊ぶ。齢耳順を越えて、たまたま薬餌に親しみ、秋眠暁を覚えて形影の私語するを聴く。「忽忙にして華胥安らかに、閑去して槐安乱る」と。先生不通にしてその意を知らず。起きて筐底を探して却って旧稿一巻を得たり。依って上梓して世に問うと云爾。 御自身を仮空の人物として風流に描いておられる。光風霽月の境地。西にビルロートあり、東に久留ありて一世を風靡す。彼音楽を好み、此れ美術に長ず。世に棺を蔽いて事定まるということばがあるが、久留先生においては、棺を蔽いて偉容新たなるものありと感ずる次第である。 (大阪大学総長・阪大・医博・昭11)
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