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学士会アーカイブス

日本野球発祥の地―それは今の学士会館本館敷地― 君島 一郎 No.710(昭和46年1月)

     
日本野球発祥の地  ―それは今の学士会館本館敷地―
君島一郎(元朝鮮銀行総裁、財団法人友邦協会会長) No710号(昭和46年1月号)

 明治二十九年(一八九六)五月二十三日、第一高等学校野球チームが横浜のアマチュアクラブの米人チームと仕合して二十九対四のスコアで勝った。

 安政五年(一八五八)締結の所謂不平等条約が当時なお存在していて、この仕合の行われた横浜公園は外国人居留地の中にあり、一面芝生のグラウンドで「日本人入るべからず」
の制札が立っていた。前年日清戦争に勝って、わが国民の意気揚って来たとはいうものの、西洋人には遠く及ばぬものと、口惜しながらあきらめていたのであった。ところが事は単なる遊戯であっても、アメリカ人が国技とほこるベースボールで大勝したのである。

 この勝負は日本人にも意外だったが米人方にはもっと意外だった。彼らとしては自国独特の競技が後進国日本にこれ程までに修得されたことは喜びであったにしても、負けたのは本心口惜しかった。米人方でも折柄横浜に寄港中のアメリカ東洋艦隊中から精鋭を補強し復讐仕合を申込んで来た。六月五日の第二回仕合となる。場所は前同様横浜。三十二対九の大差で一高方再勝した。

 二回の勝負でアメリカ方ももはや怪我負けなどとはいっていられない。今度は軍艦デトロイト号の挑戦で軍艦方から一高校庭に伺いましょうということになり、六月二十七日。場所は向ヶ岡の一高校庭。これが東京で対外人試合の行われた嚆矢である。二十二対六で一高方三度凱歌を挙げた。

 このまま引っ込めないのがアメリカ方である。彼らの独立祭即ち七月四日に是非も一度やり度いとのたっての申入れで、一高方は、既に卒業試験が終わり選手校友四散していたが引受けた。独立祭のお祝行事のなかに取り入れられたものであった。この仕合には米人方はもとプロの選手で今は軍艦オリンピアの海兵のチャーチをはじめ、うまい将校方をも動員して来た。今度は十四対十二で一高方敗れた。

 この連続四回の国際仕合「噫、邦人が異色人と悠々談笑の間に輸贏を決せんとするは建国以来の珍事ならずや」と書かれたように、正に破天荒の出来事だった。わが国諸新聞(まだスポーツ欄などなかったが)争ってその記事をのせたのは勿論、横浜のメール、ガゼットはじめ神戸、長崎の外字新聞これを報じ、しかも甚だ好評であった。米本国の新聞またこれを遠い東洋未開国の特別ニュースとして報じた。正に内外の耳目をごう動したということであった。

 西洋人にはとてもかなわぬとあきらめ的でもあった我国人になんとなくこれはやれるぞという自信の念を崩さしめた。日本人の能力につき悲観的また批判的だった教育界の一隅でも、これら仕合から見て日本人の能力決して捨てたものにあらずと見直し的論議まで起ったと伝えられている。

 これら四連戦のあと間もなく正岡子規は長文の記事を当時あった新聞「日本」にのせた。前後三回にわたってベースボールの紹介乃至勧誘といったもので、第一回は七月十九日の同紙にのった。

 子規のベースボールは予備軍時代にはじまったものだが、このスポーツに寄せた情熱は一と通りのものではなく、単なる愛好者なんて域を脱していた。腕前に於ても相当自信があったようで、彼の数多い雅号のうちに「能球」というのがある。子規は本名常規の外に「升」という名もあった。これをのぼるとよむので能球を「のうぼうる」とよませている。
蓋し「升」にかけたシャレで「ボールに堪能」という意味を含ませたものであろう。

 彼は既に医薬にしたしみ時に杖にすがって小庭をあるく程度の気の毒な状態であったが(彼自らベースボールやりすぎたために健康を害し血を吐くに至ったと言っている)この日本チームの勝利(第四回目はまけたが)殊に母校の後輩の功績を聞いて、病床でジットしていられない気持ち、血おどり腕鳴るともいうか十年前の情感が蘇み返ったともいうのであったろう。彼は筆をとったのである。それによると
  「ベースボールは素と亜米利加合衆国の国技とも称すべき者にして其遊戯の国民一般に賞翫せらるるは恰も我国の相撲、西班牙の闘牛抔にも類せりと聞きぬ。(米人の吾に負けたるをくやしがりて幾度も仕合を挑むは殆ど国辱とも思へばなるべし。)此技の我邦に伝わりし来歴は詳かに之を知らねども、或は云う元新橋鉄道局技師(平岡熙と云う人か)米国より帰りてこれを新橋鉄道局の職員間に伝へたるを始めとするとかや(明治十四、五年のころにもやあらん)云々」と
  ところが此の記事の載った三日あとの二十二日の同紙にベースボールの来歴と題した長文の反証文が寄せられて、それには「好球生投」と匿名をつかっている。

 好球生は先ず子規の十四、五年説を真向から否定して、「そもそもベースボールのはじまりは明治五年のころなりし。今の高等商業学校のところに南校という学校あり。明治五年ごろは第一大学区第一番中学と名付けて唯一の洋学校なりしが、英語、歴史などを教ふるウイルソンと云へる米国人あり。この人常に球戯を好み体操場に出てはバットを持ちて球を打ち余輩にこれを取らせて無上の楽みとせしが、やうやくこの仲間に入る学生も増加し、明治六年第一番中学の開成校と改称し、今の錦町三丁目に広壮の校舎建築成り、開校式には行幸などもあり、運動場も天覧ありしくらいにてひろびろと出来たりし事故以前に変りて体操の方法も拡張し来り、兵式体操器械体操などもはじまりたり。かのウイルソンは米国南北戦争に出でたる人とて、兵式機械体操なども仲々によくやりたり。各学生もこれについて大分学びたり。このころよりいつとなく余輩の球戯も上達し、打球は中空をかすめて運動場の辺隔より構外へ出る程の勢を示せしが、ついには本式にベースを置き組を分かちてベースボールの技を始むるにいたれり。

 されどはじめの事とてその業の見るべき程の事なかりしが明治七、八年に至りては非常に発達し、ついにある人の紹介によりて横浜の米国人と試合をなしたる事も度々なりし。八年九年のころは校内毎土曜日には球技盛んに流行し見物人も山をなして外人と戦う時などは非常の人気なりし。」

 好球生はこう書いてから、当時親しくボールを握った人々の名を挙げている。中に元京都大学総長をつとめた久原躬弦理博、京大教授で京都高等工芸学校長だった中沢岩太工博、内務省技師だった青木元五郎工博、元宇治火薬製造所長石藤豊太工博等々。中でも異色だったのは来原彦太郎(のちの木戸孝正侯)大久保利和(のち侯爵)弟大久保伸熊(のちの牧野伸顕伯)等がいる。この三人は明治四年岩倉具視使節団につれられて渡米し、三年間フィラデルフィアのミドルスクールでベースボールの手ほどきをうけて帰り、牧野らは明治八年に開成学校にはいって来た。彼らはベースボールのボールを持ち帰っていた。

 これに対し子規は
  「我曰く、わが輩のおぼろげなる伝聞をもってベースボールの来歴を揚げしに好球生氏寄あり以ってその誤を正す。わが輩の詳にその来歴を知るを得たるは実に好球生の賜なり。よってその余文を掲げて正誤に代うと云爾」と彼は卒直に自説の誤りを認めている。

 ベースボールの渡来した年と、それがはじめてプレーされた年と場所については私はこの好球生説をとる。これは好球生が親しくプレーした一人であり、しかもこの投書は、彼のプレーした明治十年前の四、五年からまだ二十二、三年しかたってないときに書いたものである。彼の年令は全くわからないのだが球友たちの生れた年を、手もとの古い人事興信録で調べてみると、久原が安政二年(一八五五)中沢同五年(一八五八)石藤、木戸、大久保は共に一つ年下の一八五九年生れである。そこで仮りに好球生を球友中の最年長者久原と同年とするならば明治二十九年には数え年で四十二才である。彼好球生が大学を出てからどういう方面に進んだのか知らないが、正に油の乗りきった働きざかりであり、従って記憶力の衰えなんか全然考えられない。しかも匿名ではあるが、ここでベースボールの来歴につき誤りを正して置こうとするスポーツに対する情熱をもまだタップリ持っていたのである。

 こんなことを書いたのは、実はベースボール渡来説について現在一般に行われているのは明治六年説であるからである。昔のこと「運動世界」という雑誌の明治四十一年四月号から同十一月号まで連載された本邦野球沿革史に書かれたもので
  「明治六年のころ今の帝国大学が開成校といって東京一つ橋外、高等商業の前に置かれた時分、その教師のウイルソン及同校予備門の教師にマジェットという二米人があって初めて野球のボールが飛ばされたイの一番であろう。」
と。のち大正五年に大阪朝日新聞から出た「野球年鑑」がこれを受けつぎ、それから今日まで出版されたもの総てこれによってる。つまり明治六年が定説ということになってしまったのである。

 この沿革史を書いた「運動世界」の記者は無迷氏と匿名であって本名はわからない。当時存命中の知名人を訪ねて話を聞いたり、散らばってる記文を集めたりして、手際よくまとめてる。日本に於ける野球の沿革はこの書と明治二十八年二月に第一高等学校校友会雑誌の号外として発行された同校野球部史の二つだけが、起源沿革を語るもので、その後に出たものは何れもこの二書から適当に引用したものであると言ってよい。

 この渡米明治六年説に対して、そうではなく、その前年の五年開成学校がまだ第一大学区第一番中学といってた時の事であるということが、前掲好球生の記事で新たに見付かったのである。ここで五年節が現われた。

 五年説論者はいう。明治四年から六、七年にかけてのわが国のお雇い外国人を調べて見ると、お雇い外人二百十四名のうち米人は十六人で、そのなかでウイルソンは、明治五年八月に来日して月棒は二百弗とハッキリ記録されてるのに、マジェットという名前は全然見当たらないと。また明治初期の目まぐるしい学制の変更について好球生の記事は正確に書いてあるのに反し沿革史の方には間違ってる点があると。そして明治四十年ごろの運動雑誌記者が掻き集めた資料によるよりも明治十年前に実際にプレーした人の説を正しとすべきであると、こう主張する。

 沿革史記者がマジェットという名を入れたのも何か根拠があり、誰かに聞いたということかも知れない。マジェットの名がお雇い外人のなかになかったとしても、彼の書いたものを一がいにけなすわけには行かない。或いは無迷氏はベースボールが先ず開成学校に伝ったというのを聞いて、開成学校となった明治六年がその渡来の年としたのでもあろうから、それは間違だときめつける程のこともない。だがしかし記文中に「恐らくわが国の空中に野球のボールが飛ばされたイの一番であろう」というのであるから、それなら、私としては、好球生の記文によってイの一番のボールが飛ばされたのは矢張り明治五年であるとせざるを得ない。

 当年のお雇い外国人名簿まで調べたのは私ではない。しかしこうして物好き連の間ではこんなわけで、次のような結論が出てる。即ちベースボールが渡来したそれを明治五年ウイルソンがもって来たもの。しかし校庭ではキャッチボールや短距離のノック程度のものだった。前述の好球生が運動場がひろびろと出来たとあるのは、前の第一番中学の校庭が狭かったことを物語るのもので、今度ひろびろとした開成校の新校庭に移ってそこで「ついに本式にベースを置き組を分て」と、ここでベースボールがわが国ではじめてプレーされたのである。そこに植え込まれた若木が根付き、繁茂しそして今日の盛況を見るに至った、即ち「発祥」であり、この地こそ発祥の地である。私たちはこう解釈しているのである。

 好球生という匿名が今になっては惜まれる。彼の学友、いや球友連の名前から見て、好球生の記文の出た当時既に知名の方々であったことに疑わない。もしこの人々の存命中、当時の様子を聞くことが出来たなら、渡来事情やプレーの様子等々についてのみならず、これに関連しての色々の事柄が正確にまた精細にわかったことであったろうに。

 ここでいよいよ本論に入る。私たちは、ベースボールが日本ではじめてプレーされた場所は、今の東京でどの辺だったろうかと。探しあてた古図面は學士會会報の前号即ち七〇九号口絵裏ページ下段の地図とほぼ同様のものであった。同図右下体操伝習所が即ちその場所発祥の地である。とこう思い込んだのである。安井知事の頃だったが、東京に江戸の名残りの場所場所に何の址などいう石標が建てられたときに、同図の体操伝習所、今で見ると小学館の建物とその西方一画の地が野球発祥の地であるから、ここに何ぞ記念の標識でも建ててはどうかなどと云ったことがあった。

 ところが今度会報前掲の七〇九号雨宮育作さんの「神田錦町と学士会館」六三ページ下段の図を見て、そこに開成学校体操場がひろびろと存在してることがわかった。これだ、これだ!これこそ正しく野球発祥地である。今の学士会館の敷地は当年の体操場よりは大部狭いが、それでも此処をその場所なりとして差支えない。いや、する外ない。先年、早呑込、早合点で標識様のものを学士会館の筋向い一つ橋通の方へ持って行かなくてよかった。

 しかし野球発祥地は此処だ。現学士会館敷地内であると断定するには、私には何か物足らぬ思いが残る。好球生の友人たちが、あれだけわかっているのであるから、まだ第一番中学についても少しばかり知りたい。本稿は既に十一月十日に書き上げたのであったが、十二日に学士会に出かけ会報係の方々のお手伝を得て、こんなものあんなものをと古い本を出して貰う。そのなかで東京帝国大学五十年史をひろげて見ると、挿入写真版の一枚に明治三年貢進生と明治五年第一番中学生と上下にわかれて出ている。前者は散髪の者もあるが未だ丁髷をのせたものもいる。和服で大刀を携えている。その後列に久原躬弦が立ってる。下段の第一番中学生の方はワイシャツに黒の蝶結びタイ、黒の上着に白ズボン、半靴、頭には丸型制帽。各々ポーズをつくってる。中程に穂積陳重はとりすましている。前列に杉浦重剛がキカン気を眉宇にたたえて頑張っている。

 フト念頭にうかぶ。ウイルソンが自分の打つボールを取らせたというのはこの少年杉浦ではなかったかと。前記五十年史によると当時の外人教師がそれぞれ分担して生徒若干名ずつを受持っている。この写真には六名うつってる。もしもこのグループがウイルソン受持ちの組であったら、彼がボール拾いに選ぶのは、あの顔振れのなかには杉浦(数え年で十六才)の外には先ず居るまい。(序だが同史には外人教師が全部出ているが、そのなかにマジェットという名はなかった。)

 杉浦は日本の大学には入らずに文部省留学生で英国に渡る。専攻は化学、帰朝後明治十五年に大学予備門長、それから教育行政にたずさわって、彼の日本主義的教育論の主張が出て来る。三宅雪嶺、志賀重昂らが雑誌「日本人」を発行、次いで新聞「日本」を発行すると指導協力する。後年の日本主義というか国粋主義の大立物である。

 新聞「日本」がどれほどに読まれていたか、恐らくは発行部数は余り多くなかったであろう。従って子規の寄文もこれを見たものは「日本」紙に親密な関係のある人々の外にどれ位行き渡ったものか。子規の第一回の文に対し、直に前掲の反証文が出る。一般読者からの投書としては余りにも早く出すぎてる。恐らくは同紙に近接な関係のある人の文でなければこうは早く出ないであろう。そして子規自身もこの先輩の実際談と知って卒直に認めたのではなかったろうか。(沿革史で無迷氏がこの記事を見落としたのも「日本」が余り広く読まれてなかったからであったろう。)日本主義の杉浦、同じく日本主義の子規が共に外国スポーツに早くも飛びついたことに興味は湧く。当年の「和魂洋才」がここにうかがわれる。

 併しながら好球生は杉浦かとは、これ全て私の脳裡をかすめた一想念に過ぎない。杉浦について書かれたものは沢山ある。が、それらを調べても彼のベースボールなんか一行だって出て来ないだろう。後年に於て知名となった他の球友たちについて書かれたものを見ても同じことであろう。私自身には、これらの点につきこれから何ぞ調べてみようという根気は最早全くない。

 何分すでに八十三才八ヶ月(本稿起草時)。両眼とも白内障を手術して水晶体はない。その上、近頃メッキリ視力減退。新聞を読むのにも稍々不自由する。さきに老人検診とやらでは眼底網膜に動脈硬化現象が来ていると、眼科専門医に診せて、直せないまでもこの程度で喰いとめる方法はないのかときくと、それは内科の領分だと簡単に片付けられる。内科へ行くと色々データを集め、工場製品であるようにカルテをつくり上げてから「何分お年ですからなア」とアッサリあしらわれてしまう。気力体力われながらあきれる程に衰退。こんなわけで私としては最早や自らすすんでこの問題に取り組む気力はない。どなたかこんな閑事に関心のある物好きな(といってよかろう)お若い方が現われて来ないものか。結論は賛成であろうと反対であろうとだ。

 そしてまた思う。拙文がキッカケとなって、本会会員の中から、前掲の「好球生」の外その球友たちについて、それは僕の父、叔父、或いは祖父だったというお方が現われて来て、こういう遺文があるとか遺聞があるという話が出て来るようであったら本当に嬉しいことだと、はかないながら亦楽しみの一つの待望でもある。

 序だが日本へのベースボール渡来の径路には開成学校系の外に幾通りかあった。米人が多数居留した横浜、神戸の土地関係、米人教師の居た学校関係、また先きに子規の文にも出てる洋行帰りの平岡の新橋クラブ関係等。それに附随してベースボールの全国に普及伝播した系脈について等々。これらについては乍残念本稿では取扱えない。

 とやこう書いて来て見て、私としてはベースボールが日本に渡来したのは重ねて言うが明治五年。これが発祥の地という可き場所は現学士会館敷地であると、只今ではそう思いきめている。

 さて日本の野球もここまで進んで来た。明治五年を渡来第一年(一八七二年)とするならば、間もなくやって来る昭和四十六年こそは正しく渡来百年目である(現在行われている世紀の数え方からすれば渡来百年、個人年令の計算の仕方法からすれば昭和四十七年が百周年)。

 今日のプロ野球のコンミッショナーには本会員宮沢、中松、岩佐のお三人がなっていられる。さきにコンミッショナー諮問委員になった数氏のうちにも本会員がいる。この百年を記念する何らかの企画などを考えて頂き度いものである。

 学士会館の垣の外側南方道路にそうて新島襄生誕の地を記念して徳富蘇峯のあの癖のある字を刻み込んだ自然石の一基がほこりまみれになってションボリと立っている。どういう形体になるかは別として日本野球発祥の地を記念して矢張り何らか形のあるものを残して置きたいものだなどと思う。

 最後につけ加えて置き度いことが一つある。本稿冒頭にのべた対米人四連仕合はこれが米本国に報道されて、その年の十月エール大学から招待状(挑戦状というと聊か物騒になる)が来た。経費の方は先方である程度見るというし、こっちでもどうやら都合もついたが、学年を半分近くも休むというのは当時の官学としても、また父兄たちとしても容認できない。それで到々取止めとなった。これが選手たちにとっては遺憾の極。また日本の野球にとっても大恨事であったといってよかろう。

 上記の四連仕合は第三回だけが向ヶ岡のグランド、他は横浜であった。しかし日本の野球の名を太平洋の彼方まで揚げたのは、プレーされた場所に関係はない。その力が、雨に嵐に鍛えられ充実された向ヶ岡こそが、その本拠地である。神田学士会館敷地を発祥の地というならば、この向ヶ岡の旧一高グラウンド、今の東大農学部のキャンパスこそは、日本野球光揚の地といってよかろう。いうならば、この向ヶ岡の旧一高グラウンド、今の東大農学部のキャンパスこそは、日本野球光揚の地いってよかろう。光揚とは変な字をつくり出したなど、ご不審もあろうが、これはシナで「漢書」を著した後漢の班固の文の中に見たものである。こんな余計なことをいうのが年寄りのいやがられる癖の一つとご寛容を乞う。     

 (元朝鮮銀行総裁、財団法人友邦協会会長・東大・法・明45)