文字サイズ
背景色変更

学士会アーカイブス

第XIV回ソルヴェイ会議の想い出 坂田 昌一 No.709(昭和45年10月)

     
第ⅩⅣ回ソルヴェイ会議の想い出
坂田 昌一
(名古屋大学教授)
No.709(昭和45年10月)号

 編集委員会から執筆の御依頼をうけて以来、ずいぶん長い日時がたってしまった。折悪しく丁度その頃から足かけ三年脊椎を患い、病院で暮らした期間だけでももう一年近くになる。ほかの人にはさぞ時間をもてあましているのではないかと思われているかも知れないが、病床の一日は案外に忙しく、まとまった読書や執筆にはむいていない。これまであまり病気の経験がないので、時間の利用法に慣れていないせいかも知れない。そんなことで編集者の御要望に十分応えることはむつかしく、軽いもので責任を果たすことにしたい。

 丁度筆者が発病した前年1967年の秋、ベルギーのブリュッセルで第ⅩⅣ回ソルヴェイ物理学会議がひらかれた。ソルヴェイ会議はアンモニア・ソーダ法の発明により、巨万の富を築いたソルヴェイの寄付により設立された財団が四年目毎に開催するもので、ノーベル財団のノーベル賞と並んで、二十世紀の学問の発展に極めて大きな役割を演じたことはよく知られている。近年ICSU(国際学術連合)の主催する会議が年々千人をこえる大きな集会になりつつある現状の中で、二十人前後の会議の持つ意義は極めて大きい。しかし、大会議によって変貌をとげつつある学問の性格が、このような伝統ある会議へも反作用を及ぼしつつある事実は否定することができない。そんな話を前々回の会議に出席された湯川、朝永両先生から伺っていたので、1967年の会議に招待されたときにもどうしようかと迷った。しかし、国内的にむしゃくしゃしていたおりでもあり、また子供達が小さい間は妻と一緒にでかける機会がなかったので彼女への感謝をもふくめ、妻を伴い何度目かのヨーロッパ旅行へ出かけることを決意した。その旅行についてはまだどこにも書いたことがないので、とくに変わった話でもないがその思い出を綴り、責任を果たしたい。

コペンハーゲン

 ソルヴェイ会議は十月の第一週にブリュッセルで開かれたが私たちはすこし早く出発した。1954年の早春から晩秋までをコペンハーゲン大学理論物理学研究所(現在名ニールス・ボーア研究所)ですごした私にとってはコペンハーゲンは第二の故郷のような感じがし、ヨーロッパを訪れるたびに必ず往復一週間前後滞在することを例としているからである。北極まわりのヨーロッパ線は早朝にコペンハーゲンに着くので、空港の銀行は未だ閉まっている。バスの運転手にドルをクローネにかえてもらい、ターミナルからタクシーをひろって常宿のホテル・バルチックにむかう。予約してあったが、ここでも時間が早いので大分ロビーで待たされる。このホテルはこれまではバラック建てではあっても非常に清潔で値段が手頃なところが特徴であったが、今度は横手に素晴らしい本建築がたっていて吃驚してしまった。ひとねむりしたのち、かつて下宿していた家の老婦人に電話をする。ブロンステッド夫人はすこし名前の知られた女流画家で、前年の秋彫刻家だった御主人をなくされたあとはひとり寂しく暮らしている。私たちの到着を待っていたらしく直ぐにその日の午後のお茶にきてくれとの返事である。夫人の家はコペンハーゲンの北にある鹿の住むことで有名な公園に近い海岸通りにある。門を入ると、正面に古いぶなの木があり、その傍に夫君の製作した大きな石膏の立像がみえる。彼女のアトリエで、お茶と心のこもった御手製の暖いお菓子を頂く。アトリエの正面の壁には彼女が画家を志望した頃に模写したレンブラントの花と少女がかかっている。この画の実物は、現在でも市庁舎の近くにあるニュウ・カールスベルグ・グリプトテークに収蔵されている。お茶のあと一緒に海岸通りを散歩するとはるかにスエーデンをのぞむことができ、またそこらに立ちならぶ家々の庭の赤い木の実が大変印象的であった。散歩からもどると応接間でブランデイを飲み昔話に花を咲かせている中にかえる時間となったが、翌々日には夜の食事に是非くるようにと招かれる。妻とも話したことだが全体のムードが北軽井沢で、野上弥生子さんの山荘を訪れたときの感じとよく似ている。

 旧知のメラー教授とローゼンフェルド教授は、すでにソルヴェイ会議の準備のため、コペンハーゲンを離れておられたので、翌日はまず市内見物にでかける。北欧神話からとったギフィオンの噴水のあたりから有名な小さい人魚姫の像のところまでランゲリ二エを散策したのち、王様の衛兵がゆききしているアマリエンボ・マーブル・チャーチをへて、アンデルセンの像のあるキングス・ガーデンを訪れ、コンゲンス・ニュトロフからコペンハーゲンの銀座通り(ストローエ)を抜けて市庁舎前広場まで歩く。バスで一旦ホテルに帰り休息したのち、夜は大使館からおむかえを頂き、小田部大使館邸で御夫妻から御馳走になる。日本では未だでまわっていない松茸料理の味が故国を想い出させる。

 次の日も午前は市内見物、午後は北シーランドの城めぐりの観光、夜はブロンステッド邸の夕食にでかけた。近年丁抹を訪れて驚くのは、この国のインフレーションが著しく進行していることである。とくに電車賃が1954年頃の五倍になっていたのには全く驚いてしまった。しかし、よくよく想い出してみると昔は度数制の切符と、時間性の切符があり、現在は時間制のみが残っている。時間制は合理的で一時間の間は何回乗降してもよいことになっている。私達もこの制度をフルに利用するようになってからそれほど高いと感じなくなった。例えば、こんなことがあった。ホテルからパイプオルガンで有名なグルントウィチ・チャーチを訪ねたとき、帰途電車の中で妻が教会にカメラを忘れたことを想い出したので、直ちに逆向きの電車でひきかえし、再び同じ番号の電車で芸術博物館を訪れたところ運悪く改修のため休館だったので、また同じ線の電車にのって市庁舎までいったが、これがすべて一枚の切符ですんだのである。

 北シーランドの城めぐりには何回もきたことがあるが、バス・ガイド付の観光バスでまわったのは始めてであった。美しい湖のほとりにそびえるフレデリックス城、シェックスピアのハムレットで名高いクロンボ城は何度訪れても美しい。フレデリックス城には、日本でいえば大勲位に相当する楯が教会にかけられており、その中にニールス・ボーアのものがあったのは印象的であった。最後にエルシノアの近くの民芸風なレストランで飲んだお茶がすごくうまかった。

ソルヴェイ会議

 筆者にとりベルギーを訪れるのは、今度が始めてであった。ブリュッセルの空港に降りると、市内にむかう列車が何本もでていて、私たちはたちまちメーン・ステーションへ到着する。ソルヴェイ財団が用意してくれたホテル・ウエストべリはそのまんまえにたつ二十四階の高層ビルで、とても自費では泊れそうにない豪華なホテルである。ブリュッセルは近年EECの中心であるため、とても活気を帯びており、とくに当時ブリティシュ・フェアがひらかれていて街には二階建のバスが走り大変賑わっていた。ホテルのフロントで梅沢博臣君とあう。彼は日本を離れてすでに久しく現在はアメリカのミルウォーキーにいる。久し振りの再会をともに喜ぶ。その夜はプリゴジン教授邸のカクテル・パーティに招かれていたが時間があるので、その前にグラン・プラスを通り抜けて、小便小僧(マネキン・ピス)を見にゆく。美しいレースを売る店が多い。夜のカクテル・パーティではメラー、ハイゼンベルグ、マルシャック、ウィグナー、ローゼンフェルド、ペラン等にあう。ソルヴェイ会議が主役を演じたのは、現代の物理学がなん人かの英雄によって動かされていたいわば「英雄時代」であった。当時はローレンツ、アインシュタイン、ラザフォード、ボーア、ランジュバン、ペラン、キュリー、ボルン等十人もの英雄が一堂に会せば、物理学の現状と将来について十分に語ることができたのではなかろうか。ところが、現在では研究者の数が急速にふえ、学問の性格が一変してしまった。ボーア、ボルンを失った今日ではもはや英雄の名に値する人としては西のハイゼンベルグと、東の湯川を挙げうるだけではあるまいか。今私たちが英雄時代をなつかしむのは、けして懐古趣味からではない。学問が次第に健康さを失いつつあることを憂えるからである。しかし、ヨーロッパの最後の英雄ハイゼンベルグを中心にひらかれたこんどの会議の意義はけっして小さいものではなかった。コペンハーゲンのメラーを会長とし、「素粒子物理学の基礎的諸門題」を主題とするこの会議はハイゼンベルグの哲学をベースとしてひらかれ、出席者もいわゆる専門家だけでなく、ひろい範囲の権威者が集められた。ハイゼンベルグの哲学は筆者には十分満足できぬ点もあるが、現在欧米の物理学者のなかで彼ほど壮大な哲学を背景として、学問を展開している人はいない。やはりドイツ哲学の壮大な伝統をうけついでいるのであろう。ビッグ・サイエンスの枠の中で育っている学問が次第に面白さを失いつつあるのは、哲学がないからである。ないといって悪ければ、実証主義、実用主義の哲学に毒されているからである。しかし、さすが出席者のハイゼンベルグに対する尊敬は非常なもので、とくに晩餐会の折ワイツェツカーの隣に座ると今ハイゼンベルグの視線が彼の視線と合ったとひどく感激して知られてくれた。これには何か東洋哲学と共通したものを感ぜずにはおれなかった。戦前ハイゼンベルグの下には藤岡、菊池、朝永・有山博士ら多くの日本人が留学した。又戦後もこの年の春、夫人と共に訪日されたばかりであるから日本でも大変よく知られている。しかし、こんどの会議の内外で、この英雄の息吹きを吸いえたことは私にとって大変幸福であった。また帰途ミュンヘンへ招かれたことは、彼を一層よく知る機会となった。

 会議のサービスは至れり尽せりで、筆者がヨーロッパ旅行で味わった経験としては最高のものであった。グラン・プラスのデューク・ド・ブラボンの晩餐会でのご馳走はもとより、毎日研究所で用意される昼食の味は、食道楽の筆者の味覚を満足させるに十分であった。さらに、「平和の訴え」で著名な「エラスムスの家」でのカクテル・パーティ、国立劇場でのオペラへの招待、フランドル地方の古都ガンとブルージェへのエクスカーションも大変楽しいものであった。ガンにあるサンバ・バオン聖堂でヴァン・ダイクの諸名作に直接ふれることができたのは全く予期しなかったよろこびであった。レディス・プログラムには以上のほか「ルーベンスの家」のあるアントワープへのエクスカーション、ソルヴェイ財団理事長ルブラン氏夫人が古いシャトウでひらいたお茶の会等が加わった。ハイゼンベルグ夫人、ぺラン夫人、メラー夫人等ヨーロッパ最高の知識人の夫人との語り合いは、妻にとって大変なよろこびであったようだ。故ニールス・ボーアの夫人もそうであったが、ハイゼンベルグ夫人にして彼女の存在が夫君の輝やきを一層強いものにしている。同じことは、ぺラン夫人やメラー夫人についてもいえる。

ミュンヘン

 会議のあとパリとスイスに遊んだが、珍らしく快晴が続き、グリンデルワルドから眺めたウエッター・ホルン、登山電車に迫ってくるようなアイガーの北壁、クライネ・シャイデックのレストランから望むユングフラウ等が非常に魅力的であった。もう少し、スイスに滞在したかったがハイゼンベルグとの約束があったので十三日の昼頃チューリッヒを立ってミュンヘンにむかった。空港にはマックス・プランク研究所でハイゼンベルグに師事している京都の山﨑和夫君が車でむかえにこられ、ホテルへ案内して下さる。車の中で、スケジュールを尋ねるとマックス・プランク研究所で四時半から講演をすることと、夜分にハイゼンベルグ邸に招待されていることが当日の予定だと教えて下さる。しかし大学でボップ教授が待っておられるので、マックス・プランク研究所を訪れるまえに大学に寄れるようホテルに荷物をおいたら直ぐ出掛けましょうとの話。妻をホテルに残し、ボップのところを訪ねる。ミュンヘン大学は十年前訪れたときとは全く変わり、素晴らしい建物になっている。ボップは翌々日の昼食とお茶に招待したいことと、オペレッタの切符がとってあることを伝える。そのうち時間がなくなり、マックス・プランク研究所へ出かけ「素粒子の複合模型の背景」という話をする。ハイゼンベルグやデュールが最前列に座ってきいてくれる。ボップがいつの間にかかけつけ、ハイゼンベルグの隣席できいている。

 六時ごろマックス・プランク研究所をでて、エングリッシュ・ガルテンの中を通り抜けて彼の家を訪れる。入口で二頭の愛馬に挨拶したのち、玄関に入ると山﨑君の案内ですでに妻は山﨑夫人とともに到着している。ハイゼンベルグ夫人のホステス振りは大変見事ですばらしい御馳走になる。ラインの最後の葡萄でつくったワインで乾杯したのちハイゼンベルグ自身が映写機をとり出してきて、最近の訪日旅行の写真を見せてくれる。ヨーロッパ最高の家庭で暖いもてなしをうけたことは、こんどの旅行のハイライトであり、忘れ難い感激であった。

 翌日は山﨑君の案内でアウト・バーンを南に走りまずケーニッヒス・ゼーで小休止してバイエルン・アルプスの主峰ワッツマンの偉容に感動したのち、さらに国境をこえてザルツブルグまで足をのばした。この日も絶好の日和で、楽しい一日を通す。

 次の日は午前中アルト・ピナコテークで絵を鑑賞したのち、ボップ邸を訪れる。彼は数年前に夫人を失ったが、再婚した新夫人との間に三才くらいのモニカちゃんという女の子がいて、家族全員のペットとなっている。昼食からお茶の時間まで彼の家でくつろいだのち、山﨑君に送られてホテルへ戻る。夜ボップは再び上の令嬢とともにホテルに現われ、「皇帝と大工」というオペレッタに連れていってくれる。オペレッタは十二時すぎにはねたが、それから屋上の人形が音楽とともに踊ることで有名な市庁舎のあたりを散策し、その後で古いワイン・シュツウデルでワインとチーズを御馳走になる。ドイツの女性はワインやビールに強いので妻もついボップ嬢につられて飲みすぎたらしい。ボップの厚い友情にはいつもただ感激するばかりである。

 翌日ミュンヘンを立ち、フランクフルトで「ゲーテの家」などを訪れたのち夜はハイデルベルヒのツーム・リッターヘ行って泊る。アルト・ブリュッケの上から眺めた古城の満月の美しさはいつまでも忘れられない。

 ハイデルベルグからデュッセルドルフまでは汽車でライン下りを楽しみ、夜はエルモ社につとめる妻の知人に「日本館」で久し振りに日本料理の御馳走になる。

 次の日三週間振りに帰ってきたコペンハーゲンは五十年振りの嵐におそわれたというせいもあって並木はすっかり丸坊主になり、もう冬の気配が感ぜられた。1954年の丁度その頃、森田たま女史がコペンハーゲンを在るにあたり、

並木のぶなの葉ずれさえ
はや秋たつとつぐるなり
いざ帰らなんわれもなお
空澄み葡萄のつゆあまき
わがふるさとへ帰らなん

という即興詩を筆者へ贈られたことを想い出す。しかし慣例により三日間は滞在し、メラー夫妻のもてなしをうけたり、ブロンステッド夫人をもう一回訪れたり、小田部大使夫妻の招待で国立劇場のバレーを観賞したのち、私たちはカストラップ飛行場を故国へむけて飛びたったのである。

  (名古屋大学教授・京大・理博・昭8)