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学士会アーカイブス

講演旅行 河盛 好蔵 No.708(昭和45年7月)

     
講演旅行
河盛 好蔵
(共立女子大学教授・評論家)
No.708(昭和45年7月)号

 平素学生を前にしてしゃべっているせいか、私は講演というものがそれほど厭ではない。しかしなにごとにも自信のない人間であるから、自分一人だけが講師の講演会にはめったに出たことはない。私が好んで出かけるのは同業の文学者の諸君と一緒にやる文化講演会である。それが自分の知らない土地で催される場合は一層よい。戦後はその機会が私のような者にもしばしば恵まれて、いつのまにか日本全国の目ぼしい町はほとんどしゃべり歩いている。

 この種の文化講演に最初に出かけたのは昭和二十六年の夏で、行く先きは私には始めての北海道であった。同行者は故火野葦平、大岡昇平、檀一雄、横山隆一の諸君で、いま思い出しても楽しい旅行であった。丁度大岡君の『武蔵野夫人』が大評判のときであったが、それに反して火野君は追放を解除されたばかりで、なにごとにつけても遠慮気味でまことに気の毒であった。講演では、戦争の真相を語るのだといって、比島のバターンの死の行進と伝えられているものがいかに事実とは違っているかを力説していた。火野君というのは実に心の暖かい快男子で、私はこの旅行ですっかり火野君が好きになった。亡き辰野隆先生も大の火野君贔屓であった。

 札幌の月寒牧場を見学したとき小説家諸君は熱心にノートを取っていたので、その次の講演地の函館で私はそのことを話し、いまに彼らの小説の舞台に必ず月寒牧場が登場するにちがいないといって演壇を下りたところ、その次に登壇した檀君が開口一番「月寒では」とやったので聴衆はどっと笑い出し、檀君はなぜ聴衆が笑い出したか理解できず、あとから私の説明をきいて苦笑していた。

 この講演旅行を皮切りに、私は数え切れないほど各地を歩き廻ったが、未知の土地の風光に接する楽しみもさることながら、同行の小説家諸君の人物に接し、その話をきくのが実に楽しみで、かつ得るところが多かった。彼らにくらべて、一般に大学教授というものがいかに世間の狭い、ひとりよがりの、ユーモアに乏しい、魅力のない存在であるかを身にしみて感じさせられた。

 伊藤整君と北海道へ行ったことがあった。小樽の旅館で急に伊藤君は、文豪になるには函館からお嫁さんを貰わなくてはならぬ、函館の女性は貧乏に強いので、亭主の苦境時代を立派に切り抜けてくれるからといった。実例があるのかと尋ねると、島崎藤村の夫人は函館の出身である、久米正雄夫人もそうだという。たった二人だけじゃないかと私がまぜっ返すと、伊藤君は、「いや、実は僕の女房もそうなんだ」といったのでみな大笑いになった。

 そのときは永井竜男君も一緒だったが、どこかを汽車で旅行しているとき、お腹がへったので弁当を買おうと思うのだが、どこの駅でも弁当を売っていない。腹がへると、機嫌が悪くなるのは誰にもあることだが、私は次第に腹が立ってきて、永井君を相手に盛んに北海道の悪口を並べ出した。北海道出身の伊藤君はだまってきいていたが、汽車が千歳の駅に着くとすぐ飛び出して、まもなくパンを両手一杯に抱えて戻ってきた。そして「われわれ貴族はたまにはこんなものを食べることにしようや」といった。永井君はそれを見て咄嗟に、「なるほど千歳はパンの産地だったネ」と洒落を飛ばした。当時は千歳にはまだアメリカ空軍の基地があって、G・I相手のパンパンが町のなかをうろうろしていたからである。

 その永井君と井伏鱒二君と三人で講演旅行に出かけたことがある。両君とも将棊が好きで、かつ好敵手同士であるから、講演が始まるまぎわまで将棊を指している。そして勝ったほうは大機嫌で、いそいそと会場へ出かけ、まもなく「今日の聴衆は実にいいぞ」といって帰ってくる。ところが負けたほうは「こんなに客種の悪い土地も珍らしいね」といってぷんぷん腹を立てているのがまことに面白く、私はにやにやしてそれを眺めていた。

 井伏君といえば、これは講演旅行のときではないが、あるとき京都府の長岡天神のそばの錦水亭で桑原武夫、生島遼一の両君からタケノコ料理を一緒に御馳走になったことがあった。そのときお給仕に出た女中に桑原君が、「こちらが井伏鱒二先生だ」といって紹介すると、女中さんは急に居ずまいを正して、「左様で御座いますか。見れば由緒のある方だと存じました」といったのでみな大笑いをした。「由緒のある方」とは井伏君の風格をぴたりと表現した名文句といわなくてはならない。

 臼井吉見君とも一緒に講演旅行をしたことが幾度かある。臼井君は今日出海君と並んで雷の如き鼾声の持主で有名であるが、あるときこの御両所が同じ旅館に泊り合わしたことがあった。折りから梅雨の季節で、旅館のまわりの田圃では蛙の声が耳を聾せんばかりである。御両所はうんざりして、「こうやかましくてはとても眠れないね」と歎息したが、やがて床に就いてしばらくすると、それまでここを先途と鳴きわめいていた蛙どもがぴたりと鳴くのをやめてしまった。御両所のいびきに蛙どもが胆をつぶして声をひそめたというのである。これはフィクションにちがいないが、なかなかよくできているではないか。

 その臼井君と瀬戸内海の因ノ島で講演をしたときのことである。臼井君は開口一番「私は今日まで因ノ島という島のあることを知りませんでした。井伏さんの小説に、ときどき因ノ島というのが出てくることは知っていましたが、あれは井伏さんの創作で、鬼が島というようなものだとばかり思っていました」といったので、会場に哄笑の渦が巻いたことを覚えている。

 子母沢寛、海音寺潮五郎、山岡荘八、司馬遼太郎といった歴史小説の大家たちと講演旅行に出かけたこともあるが、これらの諸氏に共通して見られることは、実にもの識りだということである。どんな土地へいっても、その土地の歴史に詳しく、その土地を舞台にしたさまざまの面白い歴史上の出来事をこと細かに教えられる。またこの人たちの歴史上の人物についての評価がそれぞれに違っていて、それがまたなかなか興味がある。それに皆さん実に座談が上手で、時間の経つのを忘れるぐらいである。

 子母沢寛さんのおぢいさんというのは、徳川幕府の御家人で、五稜郭の戦争のとき幕軍に加わり、敗戦後そのまま北海道に残って開拓民になったかただそうだが、子母沢さんが幼少の頃、そのおぢいさんの家に、旧御家人たちがいろいろ集まって談笑するのをきいているうちに、江戸弁を覚え、それが後年幕末ものを書くときに大いに役立ったことを話しておられた。子母沢さんの小説に出てくる江戸弁は、ほかに真似手のない生粋の江戸弁だそうで、その道の人に大いに珍重されているということをきいた。

 これを要するに小説家諸氏と講演旅行を共にしているうちに、人生について、社会について種々様々のことを教えて貰ったことを私は深く感謝している。これは、戦後における私の最も貴重な経験であった。

(共立女子大学教授・評論家・京大・文・大15)