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学士会アーカイブス

沖縄再訪 中根千枝 No.698(昭和43年1月)

沖縄再訪
中根千枝
(東大助教授)

No.698(昭和43年1月)号

十一月三十日(一九六七年)、那覇から今帰仁村に向う。二十六度もあった昨日までの暑さはうそのように温度は急激に下って肌寒く、雨もよいの空は沖縄の冬の到来をつげるかのようである。那覇から本島北部に向うアメリカ式によく舗装された幹線道路はところどころ美しい海岸線にそって走る。昨年夏往復した見覚えのある道であるが、冬の海は色濃く荒れ模様で、景色が一変したような印象を与える。

同行は琉球大学の仲宗根教授のお嬢さん、民子さん。民子さんは昨年、御主人の運転する車ではじめて私を仲宗根教授の御出身地で、今なお教授の御両親が住んでいらっしゃる与那嶺部落に連れていって下さった方。もう一歳をすぎた可愛い女の子のお母様であるが、まだお嬢さんとおよびした方がぴったりするような若々しいチャーミングな方である。私の調査に大変興味をもたれ、今年もはじめの三日間御一緒して下さるという。直接調査に関係しなくても、こうして御一緒してる間に、民子さんが何気なく語られる事柄から、私は度々沖縄の人の心の琴線に触れるような気持がしたものである。それは大きな事件に相遇したり、社会的に高い地位にあって活動したり、あるいは苦労にさいなまれた人々の話とは違って、沖縄のよい家庭に育った健康ですなおな若い人の現代沖縄の受けとめ方には、誇張もなく、卑下もなく、ゆがめられない真実がうかがわれ、沖縄を考える上に、とても参考になるものである。

沖縄に来てはじめて親しくなったのが仲宗根教授ならびにその御家族の方々であったことは、私にとってほんとうに幸運だったと思う。仲宗根政善教授は、あの劇的なひめゆりの塔の主人公、かつての女子師範の先生で十三名の女生徒と共に九死に一生を得られた方である。はじめて沖縄を訪れて同氏にお目にかかった時は、私はまだ氏がその人自身であることを全然知らなかったのであるが、その温厚な御人格がことのほか印象深く、このような方は沖縄のいかなる背景、環境から生れたのであろうかと、非常に興味をもったのである。それはちょうど同行の調査団の人たちと地図を拡げて、調査地をあれこれ選定しているときで、私が調べてみたいと思った地方の―つに、たまたま仲宗根教授の御出身の部落があることを知り、即座にそこを調査地に決定したのであった。それは、沖縄本島北部の本部半島の北方に位置する今帰仁村の与那嶺という部落である。

仲宗根教授の御協力のおかげで、昨年夏の調査は好調に進み、更にその続行のために今回訪れたわけである。(この調査は昭和四十一年度、四十二年度の文部省科学研究費による「大陸文化の沖縄文化におよぼした影響に関する調査と研究」と題するもので、十一名の研究者よりなり、各人はそれぞれの分担課題に応じて調査地を選んで研究を行った。)

那覇を出て約三時間後、車はなつかしい与那嶺部落に着く。与那嶺は今帰仁村二十部落の―つで、その大きさ(現在戸数百十六戸)からいっても典型的な部落で、過去五十年間何人かの今帰仁村長を輩出し、健全な代表的な部落である。(学士会の関係でいうと、今帰仁全村において、今まで東大を出たのは唯二人〈仲宗根教授と作家の霜田正次氏〉で、その二人ともこの与那嶺の出身である。)

部落の土地は、山から海に細長くのびて、水田、畑地、山、海をもち、伝統的沖縄農村としてのすべての必要条件に恵まれている。部落の家々は、山のスロープが終り、海岸に向ってのびた平地の一部「当原」とよばれる地域を中心として密集し、海岸とは、みごとな防風林で距てられている。他の沖縄村落の例にもれず、過去三~四十年間の人口流出はひどく、部落出身者の少なくとも三分の二以上が、那覇、大阪、東京、神奈川、プラジル、アルゼンチンなどに出ており、部落人口、戸数は過去三十年間殆んど変っていない。この部落は戦争ですっかり焼土と化し、戦後の急造による粗末な家々が多いが、最近はパイナップル、砂糖きびなどを中心とした農業で、ここ一、二年とくに人々の経済生活もずいぶん向上したようで、去年に比べて自動車をもつ農家も数軒できてきている。

空気の澄みきった平和なのどかなこの部落は、かつての今帰仁城下の農村で、この地方は沖縄でも「顔も心も美しい人たちがいるところ」と云われるように、人がよく親切な人々が実に多い。この地方は沖縄のなかでもとりたてて豊かとはいえないが、決して貧しくなく、生活しやすい土地柄の故であろう。内地での私の農村調査の経験からいえば、三河の渥美半島の農村の人たちに、とても似ている。人がよくって、朗らかで明るいところが。この与那嶺の人たちとつきあっていると、ジャーナリズムでクローズアップされる沖縄とは別世界のような感じがする。

仲宗根教授の御両親の家は、この部落の中央、区の事務所のすぐ近くにある。一年半ぶりで訪れると、八十四歳になられる御尊父がひっそりとした家に一人で憩っておられ、突然あらわれた民子さんと私を満面に微笑をたたえて招じ入れられ、挨拶がすむとすぐ「ばあさんを探してきましょう」と出ていかれた。五分もしないうちに、ばあさんともどもあらわれ、二人でとても喜んで下さる。じいさん、ばあさんで目が悪く、私の東京から出した航空便がニ~三日前に着いたが、内容がよく読めず、かろうじて「中根」という字がよめ、私のことを思い出して、去年夏いらしたから今度の夏休みにいらっしゃることだと思っていたが、もういらしてびっくりした、とのこと。民子さんと二人で大笑いしてしまう。高砂のおじいさんおばあさんというのがぴったりする御両人の平和なのどかな日々がほほえましく感ぜられる。民子さんと共に私を孫のようにもてなして下さるこの年老いた御両人に、云いしれない親しさを感じ、再びお目にかかれて本当に嬉しく思う。

しばらくすると、仲宗根教授の従弟にあたられる仲宗根孝徳氏がかけつけられた。「たった今政善氏から、中根先生がおいでになるという葉書がついたが、ひょっとしたらもう来られているのではないか」と尋ねて来られたところだった。私をみつけてとても嬉しそうに挨拶され、ジャンパー式セーターの上衣をさして、こんな恰好でなどと云って恐縮される。この方は昨年私の調査に大変御尽力して下さった一人である。戦争中は区長として、また村議として村人のために大変な苦労をされたようであるが、今は御隠居的身分である。背が高く、ちょっと剽軽な印象を与える姿をもっておられ、冗談がお上手で、まじめな顔、怒った顔、愉快な顔など話題に応じていろいろに変化し、この豊かな表情のなかに終始変らない誠意とあたたかさが感じられる方である。

二時間ほどたつと孝徳氏の御長男、孝秋氏がネククイに紺の背広といういでたちで来られる。月一度の常会に出ておられ、それがすんで直接こちらにまわられた様子。常会では結婚の御祝儀を減らすなど虚礼廃止を提案されたとのこと。しかし実行はなかなかむつかしそうである。また東京に留学しているお嬢さんのことに話題がおよび、本土復帰の近い将来にそなえて、子供の教育は是非本土でさせたいと強調なさる。この方はこんなにきちんとした服装で標準語で話されるときと、野良着にハチマキをし、方言で話されるとき別人のような印象を与え、その豹変ぶりがひどくチャーミングである。

すっかり暗くなってから、小学校の教頭をしておられる山内昌藤氏も訪れられる。昨年「山内門中」の調査にずい分御協力下さった方。中年のがっちりした体謳の、いかにもよき訓導といったタイプの方である。この山内氏といい、沖縄で私が会った学校の先生方は、どの方もみるからに教師としてすぐれた方々のようで、私の限られた観察からすると、沖縄の先生というのはずい分質がいいと思われるのである。(内地では、鹿児島県、長野県に私は似たような感じをもつのであるが)どちらかと云えば、内地のように恵まれない不安定な立場におかれている沖縄社会にあって、教師の質がよいということは、何よりも心強いことである。また、このような社会であるからこそ、教師たちの自覚も強く、その貢献度も大きいのかもしれない。ある先生は「私たちは日教組のやり方に対して批判的です」と云われる。沖縄の教師にとって、問題は本土の教師たちが想像もできないほど深刻であり、その困難さを身をもって知っているだけに、熟慮と精神の強靱さが要求されるのであろう。また本土のように大きな産業のない沖縄では、教職員組合は、その人口およびカヴァーする地域範囲においても最大の強力な組織である。沖縄における教師と内地における教師では、その社会的ウェイトにおいて非常に大きな差があると思われるのである。

山内氏は、みんながにぎやかにお話している間に、私がさしあげたばかりの、私の短い論文 ── 昨年の調査に基いた中間報告 ── を夢中になって読まれていた。この論文(門中と村落〈沖縄今帰仁村与那嶺〉、『社会と伝承』第十巻、第四号)が出たばかりに、部落の人々が、私がどのような研究をするのかということがわかり、みんなの協力が昨年に倍加して、今回は驚くほど成果を上げることができて、ほんとによかったと思う。

私の調査研究は社会人類学プロパーのもので、血縁、婚姻関係の複雑な糸をたぐりながら、一つの部落を構成している人間関係のあり方を追求するものであるが、この問題は部落の人々も非常に強い関心をもっているものであったために、驚くほど呼吸があって、部落の人々も私におとらない熱意を示され、とても楽しい日々であった。沖縄の田舎のことであるから、もちろん人々の教育水準は高いとは云えないのであるが、実に頭のいい人たちがいて、社会人類学などという学問を知らなくても、こちらが重要だと思うポイントがピンピンわかって、すばらしい反応である。そして陽気で冗談がうまく、笑い声が絶えない。頭がよくって非常にのみこみの早い人と、とてもとぼけた人などがまじっているので、一層面白いのである。ピンボケな人が必死になって説明すると、一方では感のいい人がクスクス笑ったり。音楽に秀でた人、博識の人、人格者のほまれの高い人、「無学博士」とよばれるぼんやりした方まで、実にさまざまな人物が交錯している。

この部落では、区長になるのは大体四〇歳そこそこであることからもわかるように、中年層がのびのびと活躍できる場が与えられているために、中年層が実にいい。内地のサラリーマンや学者の世界のように、中年層が欲求不満になっていないので、コミュニティ全体に明るい感じがする。区長になると、自分の仕事は妨げられ、薄給で、マイナスが多いので、みんななりたがらず、結局、経済的にも人格的にも余裕のあるしっかりした人がおされるので、区長をつとめた人々や、部落の仕事の推進役的立場にある四十代の人々には、なかなか人間的に頼もしく、頭もよく、しっかりした人が多い。中年層にこんなにいい男性的な人々が多いコミュニティを日本社会のなかでは私は他に思い出せない程である。このようにのびのびした中年時代を過す故か、また敬老精神が内地よりも豊かな故か老年層も実にいい。中年の実力者たちは事あるときには老人である先輩に花をもたせることを忘れないし、年をとれば後進に道をゆずる美徳がうかがわれ、異なる年令層の関係が実にほほえましく私の目にうつるのである。

このことは男性ばかりでなく、女性にもあてはまるようだ。沖縄の人々に接して私が最も印象深かったことの一つは、意地悪な女の人(内地には実に多い) がいないということである。これはとりもなおさず、欲求不満とか、感情をおさえつづけて我慢するということが彼らの日常生活にずっと少い故であると思われる。このことからも充分推察できるように、沖縄では、嫁姑関係は内地のそれにくらべてずっと明るく、比較にならない程である。内地に行ったことのある沖縄の女の人たちは、内地の嫁姑関係をはじめ人間関係のすごさに驚嘆するという。そして内地の人との結婚に二の足をふませるのは、実に嫁姑関係のつらさであるという。

沖縄の人々からみれば、内地の人々は実にこまかい。日々の生活のあらゆる面にみられる小さなことにまで神経を使い、それが意地悪と重なりやすく、一層やりきれなくなるのである。沖縄には有名なノロという神職があり、それが女性に限られているということにも、女性が社会において強い権限をもちうるということを象徴しているが、同時に内地のように男尊女卑の儒教道徳の洗礼を受けていないので、沖縄の女性は内地の女性に比較にならないほどのびのびとしている。

このように、男女とも、また各年令層を通じて欲求不満が少いということが、個性を形成する上に大いにあずかっているのではないかと思う。与那嶺でもそうであるが、他で私が接した沖縄の人々のなかには、実に個性的魅力をもった人が多い。彼らをよく知らないと、一見、ひどくテンポがおそく、反応がにぶく、のんびりしているように見えるが、親しくつき合ってみると、一人一人実に違った面白い個性をもっていて退屈することがない。この点、内地の人々には画一的な人が多く、個性的魅力という点では、全体として沖縄におとっているようである。内地の農村の人たちは、それぞれ、地位とか家柄といったものをまず感じさせるが、沖縄の農村の人々は、それよりももっと強くその人自身を感じさせる。はじめはちょっと無愛相であるが、一日、一日と親しみをまして、その人の地位とか背景をこえて、とても親しい友だち関係を設定することができる。与那嶺の人たちは、私のことを「シェンシェイ」とか「ナカネ・シェンシェイ」と呼ぶが、その発音の仕方に実に親しみがこもっていて、東京の大学から来た先生というよりは、故郷に帰って来た仲間の一人というほどの、あたたかさを私に感じさせるものである。

私は与那嶺を再び訪れるということが、これほど楽しいことであるとは、実は想像もしなかったのである。

(東大助教授・東大・文・昭25)