文字サイズ
背景色変更

学士会アーカイブス

中南米事情 渋沢 敬三 No.668(昭和33年7月)

中南米事情 ~ 一月十四日学士会午餐会にて(速記)~
渋沢敬三(国際電信電話会社会長) 昭和33年7月(688)号

 今日は私に南米を回りましたお話をせよ、ということでございます。私も実は南米に参りましたのは、今度が初めてでございます。藤山さんが大臣になられたときに、お前ひとつ南米の方に移動大使として行ってくれと──移動大使というのは全くの俗語でございますが、これだけは自分の初人事なんだからどうかひとつ断らないでくれと懇々といわれましてこれまで藤山さんには何か頼まれても、大体はお断りをし続けてきたのでありまして、私の方からお願いをしたことはたいてい聞いていただいたので、何か借金をしているような気がしておりました。そこで私がいわゆる移動大使として適任であるかないかということはむしろ論外に置きましてお引き受けをした次第であります。移動大使というのは、米国でもロービング・アンバサダーといってときどきやっているようでありますが、決して外交官ではないのでありまして、私の大使という称号は羽田を立って羽田に帰って参るまででございまして、また私自身外交官になったわけでは決してありません。ただ中南米を広く見て、そうして日本の経済政策をどうしたらいいかという意見をいえというごく大ざっぱな使命であります。ちょうどそのときに経済担当官会議が、1つはメキシコ・シティーで、1つはリオ・デ・ジャネイロで開かれました。これは毎年公館長会議といって、大使、公使が集まるのでありますが、3日間集まっても、大体が政治、外交の話が多くて、経済の問題はごくわずかであります。これでは困るというので、経済を担当している連中だけで集まる会議を今回初めてやりました。それを傍聴するのが私のもう1つの任務であります。そんなわけで、メキシコに参って、それから南米諸国を、エクアドルだけを除いてあと全部廻って参りました。むしろ中米は、メキシコとパナマに行っただけでありまして、ほかには参りませんでした。全体で63日間で帰って参りました。何しろわれわれのスケールと違いまして非常に広いところでございます。中南米を全部合わせますと今の日本の広さの55倍でございます。メキシコだけでも5倍、ブラジルが22倍あります。ブラジルも、普通の地図を広げますとそう感じませんが、ほんとうの地球儀でごらんになりますと、目で測りましても、ブラジル一国が実は北米より広いのであります。そういうようなわけで、なかなか大きな国であります。そこを63日で廻ってくるというのでございますから、これを算術的に逆に換算いたしますと、日本を1日半で見ろということになるので、とうていそういうことはできるものではないのでございます。まあ在外官民の方々のお話をうかがい多少の見聞をして、きわめて皮相ながらある感触を持って帰って参った恰好なのであります。

  第一に私が向うに参りまして一番感じましたことは、私自身があまりに南米というものを知らな過ぎた、あまりに勉強しておらなかったということの恥しさであります。第二には少しきざっぽいいい方で申し訳ないのでありますが、私自身ずいぶん旅行しましたけれども、南半球に参ったのは今度が初めてでございます。そういう意味で、私自身としては何か新しく南半球というものを発見したような感じがいたします。今までわれわれが学校なりその他社会でいろいろな本を読み、習っておりますのは、大体は実は北半球のものを読んで、あるいは教わってものを考えておったというのにすぎないのでありまして、私自身の頭の内容がほとんど北半球に限られておりました。地球というものは、もう少し大きかったのであります。南半球には、アフリカもございますし、濠州もございますし、南米もございますし、またこれから大きな問題になります南極の大陸もあるわけでございます。したがって、日本としても、私はやはり南半球というものをもっと考えなければならんときが来たということをしみじみ感じた次第であります。

  そこで、南米、中米をひっくるめて申し上げますと話がややこしくなりますので、南米だけを主にしてお話をしまして必要に応じてメキシコのことを申し上げてみたいと思います。

  南米の地理的な概観は、もう地図で御承知の通りでありまして、太平洋岸にはアンデス山脈という非常に広大な、しかも南北に長い山脈がそびえておりまして、それから大西洋に面した方が突出しておりますが、あすこにアンデス山ほど高くはありませんが、非常に基盤の大きな山塊がございます。したがって、南米の平野というものは、アマゾン流域とパラナ流域の2つに限られておりまして、そういう意味で、河は南米に関する限りは日本と観念が違いまして、あらゆる河がまず内陸に向かって方々から集まって、それがアマゾンとパラナの2つの大河になって初めて海に注いでいるという状態であります。ところで、アンデス山は第3紀層がある時代に隆起したらしいのでありまして、しかもその上に海の中におりました生物の化石が相当出ておりますから、かつては海底にあったことは確かだと思います。その隆起したときに、地殻の変動からたくさんの火山が噴出しまして、10幾つかの富士山以上の火山がずっと並んでおります。平均の高さが2千5百メートルから3千メートル、その上に5千、6千という万年雲をいただいた山が並んでいるというのがアンデスであります。私はアンデス山というのは、そういう大きな一連の山脈であるというふうにだけ考えておりました。ところが、現実に行ってみますとそうではありませんで、北はコロンビアから南はチリーに至るあの長い山脈の中に、かつて7百年以前には広大なるインカ帝国が蟠踞しておったわけであります。推定によりますと、千万人以上の人が住んでおったわけであります。このインカ帝国については、思い起しますと、かつて大正の初めに丸善から出ておりました「学鐙」なる雑誌を読んで、それ以来知ったのでありまして、非常に古い国だと思い込んでおりましたが、行ってみますと、1200年にインカの王様がいろいろの民族を統合しまして、それから300年の平和を保ちまして、1500年代になってスペイン人のピサロに一瞬にして亡ぼされたのであります。したがって、このインカ帝国及びその前のプレ・インカというものは非常におもしろい問題であります。私どもアンデス山があれだけ広大に耕されているということは、事実飛行機に乗って見てびっくりしたのであります。段々畑が非常に発達しております。むろん、今はそれほどの人間はおりませんから、荒廃したところが多いのでありますが、それでもまだまだ相当の人が段々畑を作って住んでいるのであります。この段々畑のことを向こうの連中の言葉でアンデネスと申しておりました。それが結局アンデス山という名前のつきましたもとのようであります。このアンデス山には ── 御承知のように、今われわれの食べておりますジャガイモの原産地であります ── そのジャガイモを山の高いところに作りまして、少し低いところでトウモロコシを作りまして、その連中が住んでおったのであります。なんでそんな山の住みにくいところに人が住んだのだろうかということがすぐ疑問になるのでございますが、実は南米における低い方のアマゾンの地帯、これはとても普通の手段では人間が住めません。よほど高度な文明を持った連中でないと、あすこで農業をやることは非常に困難であります。第一、木がめちゃくちゃに茂っております。少し伐り開いても、ツタやカズラで、その方の勢力が大きいものですから、わずかなことではすぐそういう植物に負けてしまいます。太陽のエネルギーも大きいし、湿度も高いのであります。したがって現在でも、原始人がぽつぽつ住んでいるぐらいでありまして、ジャングルの中には当時として文化の進んだ人は入り込めないのであります。しかも、河は乾季と雨季とでは非常に高低の差がございまして、かなり湿潤地帯が多うございますから、とうていあすこを一挙に畑にするということはできません。しかも、その上にマラリアあるいは黄熱病といった疫病が相当ございますし、猛獣もおります。したがって、その時代の人 ── 今から2千年前から少くとも1200年ころまでの人は、どうしてもアンデス山の上の方が住みよかったということだけは確かのようであります。ただ住んでいただけではなくて、非常におもしろく思いましたのは、その連中は山の上に住んでいるのでございますから、谷間には少しは水が流れておりますが、水が非常に少い。したがって、水に縁のない生活をしている。わずかに食糧のために水があるだけでありまして、ふろどころの騒ぎではないほとんど水に縁のない文明を持っておったのであります。そうなりますと、われわれいわゆる北半球の文明を見ますと、チグリス、ユウフラテス、あるいはナイルというような大きな河の流域に世界の文明は起こったように習っておったのであります。事実北半球におきましては、東京、大阪、ロンドン、ニューヨーク、あるいはカルカッタにしましても、みな大きな河のそばにあります。海抜わずかのところに大きな都市が発達しているのが常識でありますが、南米の少し前の文化を見ますと、河口にはそういうものはできていなくて、むしろ山の上にある。したがって、文明のいわゆる起源ということから申しましても、1つの色をはっきり示しているものでありまして、少なくとも水のない文化の発達、文明の発達ということの1つの例でございます。そういう意味におきましても、人間の進化と申しますか、文明の発達の歴史の上からいきましても、南米のアンデス山の上におきます文化というものは見逃すことはできないのでございます。それではけちな原始人的な生活をしておったというと、そうでもないのでございまして、非常にりっぱな彫刻も持っておりますし、あるいは織物類に至っては、今でも専門家が見まして、どうしてこれだけの幅のものをあの時代に織れたのかまるでわからぬといったような精巧なものが非常にございます。また中には非常にモダンな感じのものがございまして、あたかもわれわれが正倉院の御物を拝見したと同じような感じがするのでございます。水は確かに個人的には使いませんでしたけれども、かれらの祖先は水を流すことについても非常に卓越した技術を持っておりまして、アンデスの山の中から水を引きまして、ペルーその他の海岸まで導水溝を作りまして、今水をふんだんに流しております。現在ペルー及びチリーの海岸は、偏西風が吹きますし、しかも太平洋のあの辺にはフンボルト寒流が北上しておりまして、そんな関係で緯度の割合には涼しいのであります。そうして、風が吹きますから、乾いて帯状の長い砂漠地帯になっております。飛行機の上から見ますと、ほとんど不毛のように見える砂漠地帯が長く続いておりますが、ところが実はその連中が作った導水渠でほとんど水が行き届いております。平なところに行きますと1,000分の1勾配というような、非常にゆるやかな灌漑をしております。この技術は非常に驚くものでありまして、今の白人系の技師などがうっかり直しますとわるくしてしまうというりっぱなものであります。ペルーのリマ市のすぐわきでありますが、静岡県の福田さんという方は、りっぱなミカンを作って非常に盛大にやっておられますが、その人が盛大にやっておられる原因は、プレ・インカの作った文化財である水道を利用しているのにすぎないのであります。そういうようなわけで、文化的に見ましても、アマゾンのいわゆるジャングルに住んでいる原始人とは異なった性格の高度な文化を持った連中いたのであります。現在は、そういうものが渋滞しておりまして、インカ帝国はピサロによって一瞬に亡ぼされて、そのときに残った連中が山の上にいるだけでありますが、かつて今から千2、3百年くらい前は相当な実は文化国家であったといえるのです。また相当な独裁国家でありまして、独裁ではありましたけれども、めくらであろうが、老人であろうが、ある意味の福祉国家としてうまくやっておった国なのであります。ところが、ピサロが参りまして ── あれは決して植民に来たのではないのであります。歴史から見てもわかることでありますが、コロンブスが1492年に西インド諸島を発見して以来だんだんと、土人が耳飾りに金をつけている、金があるということで、金の掠奪に来たのがなんといっても大きな目的であります。それがあとで植民地に変わりまして、その後さらに全部が今度は本国から独立をしまして、南米における幾つかの国に分かれたのであります。ブラジルだけがポルトガルから来たのでありまして、あとは全部スペイン系統でありますから、ブラジル以外は全部スペイン語が通じているのであります。

  そういうようなところでございますが、何といっても南米というものは地下資源が大きい。北米合衆国などは地下資源を活発に今利用している最中であります。しかるに南米におきましては、最近ようやく掘り始めたというような状態で、まだほとんど開発されておらず、これからという黎明期に属する。しかも、かつての第1次欧州大戦の前までは、少くとも南米というものは単なる植民地的農業国家にすぎなかった。事実欧州はアルゼンチンから牛を買っておった。また、ブラジルにコーヒーを作らしているといったような状態で、産物も農業本位のものでありました。ところがそれが、今度の戦争になりましてから、地下資源というものが問題になって参りまして、最近では、米国を筆頭としまして、ドイツ、イギリス、フランス、イタリーなどの各国が、非常な勢いで資本と技術の導入をはかっている現状であります。日本もおくればせながらこれに加わろうということであります。それではなぜそういうことになったかと申しますと、一番そのきっかけを作りましたのは、何といってもベネズエラの石油だろうと思います。ベネズエラは南米の北にあるどっちかというとあまり発達していなかった国でありますが、1917年にようやく12万バレルの石油が出て国際統計にのり出したのであります。それが1947年の統計を見ますと、5億万バレルに伸びております。わずか30年くらいのうちに12万バレルから5億万バレルにふえたということは驚異であります。現今でも北米合衆国に次いでの石油産地で、ロシアとその衛生国を合せても今のところはまだベネズエラの産出にはかないません。ただこれはおもしろいことがございます。ベネズエラはそういうふうにして非常な石油の産地になりましたが、ほとんど全部米国と英国の資本系統で網羅しまして、そのロイヤリティーで急激に発展もするし、文化の進度のおそい単なる農業国家を早くよい国家にしようとしてあせっているのが今のベネズエラであります。したがって、今のカラカスという首府が、急に超近代的施設になっていくのを成金気分だといって笑う人もいるのでありますが、私はそうは思いません。確かにそういう意味で目を見張るものもありますが、それは政府並びに国民がみずからの文化を高めようとしていると見たいのであります。ただその金が国民全体の汗して得た金であるかどうかということの自己反省を常に失わなければ、それは決してわるいことであるとは私は思わないのであります。ところが、これとちょうど相反する事例がメキシコであります。メキシコはずっと前から石油が出ておりまして、英米の資本が入って、一番多いときには、約2億バレル出ておったのであります。それが1917年ころの革命、その後の民族意識の高揚ということから、憲法が改正されて、一種の治外法権排撃の革命が続いて、メキシコという国がだんだんほんとうのメキシコらしい国になりかけたときに、国粋主義の関係から、英米資本の特権というものを剥奪してしまって、鉱業権というものを国家の手におさめてしまいました。そのために、英国と米国は非常にいやがって、ほとんど大部分が逃げ出したのであります。逃げ出したのはけっこうでありますが、同時にマーケットも失ってしまった。でありますから、かつての数字から見ますと、今では5千万バレルしか出しておりません。この2つの事実が、メキシコとベネズエラに非常に対照的に現れております。さてこのどっちが人類として、あるいは国民として得であったかということになりますと、私は30年くらいたってみませんと結論がつかないだろうと思います。現在では何ともいえないだろうと思います。しかし、石油をめぐりましてそういったような2つの対照的な国が中米と南米にあることは1つの興味ある事実だと思うのであります。
 先ほど地下資源のことを申し上げましたが、石油もそうでありますし、それ以外に鉄鉱石、これなども非常にパーセンテージのよいものがありまして、日本でも最近日本ウジ・ミナスという製鉄会社が結成されました。これなどは、行ってみますと、非常に大きな山でございますが、山全部が鉄でございます。その品位は64%から68%あります。ですからあの辺の鉱石に木の枝をくっつけたらそのまま金づちになるという笑い話のあるくらいりっぱな鉱石であります。ベネズエラにもよい鉱石が出ておりますし、チリーにも出ております。それ以外に、金、銀、銅、亜鉛、マンガン ── マンガンのごときは、ブラジルの北の方から非常によいものが出ておりまして、今アメリカがこれを産出しませんから、非常に大きな金を使ってこの開発をしております。あるいは宝石類もいろいろなものが何でも出ます。それは非常に豊富なものであります。ところが、それに負けないでもう1つ別な地下資源がございました。岩塩が大へんなものであります。それから、テラロシヤという土壌であります。これは特にブラジルにおいて多いのでありますが、このテラロシヤというのは紫の土であります。実際は紫とはいえなくて、紫がかった赤色 ── 赤といってもレッドではありません。日本のような赤土とは様子が違いまして、もっとずっと明るい赤土であります。これが地下深くまで非常にポーラスでありまして、雨季に雨が降りますと十分に水を吸い込みます。乾季になりますと、毛細管現象で、ごく下の方にある水がミネラルなどの微量物質をこめて上に上って参ります。これがいい肥料になりますので、したがってこの地帯だけはコーヒーが植えっぱなしで肥料をやらなくてもできたのでありまして、ブラジルで20年間も掠奪的な農業生産を可能ならしめたのはこのテラシロヤのおかげでございます。これはブラジルにとっては豊富な地下資源であるということがいえるわけであります。そんなわけで、今までは何といっても農業生産国であったブラジルが、これからは工業国家になろうとしているのです。しかも、今度の戦争で南米は参戦はいたしましたけれども、ちょうど日本がこの前大正年間に参戦したようなもので、直接戦場にはならん、間接参戦であります。そこで、私が非常に不思議に思いましたのは、一人としてアプレゲールがいないということであります。これは勝った国にも、負けた国にもある断層が見られ、アプレが出て居ります。ところが、南米に参りますと、あちらの連中は思想的に全部ノッペラボウであります。大へん金が入って、ある意味では気位が高くなり、金持ちであります。しかし、それだけでありまして、いわゆる思想的な断層というのもはちょっと見当たらないのであります。この点は、日本の移民においてもそれが見られるのでありまして、これがわれわれの目から見ますと、大へんのん気に見えますし、ちょっとおもしろいと思ったところであります。

 そこで、このごろ日本で企業移民、企業進出ということが非常に叫ばれております。日本の貿易も、昔は確かに既製品をいかに売るかということが主体でございました。今でもその大きな点においては、変りありません。しかし、これは日本の国が明治以来非常に刻苦精励してここまでやりましたことと同じようなことが、後進国家的な意味で、単に南米ばかりでなくて、東南アジアにしても、アラビアにしてもインドもそうでありますが、自国が独立して工業国家になろうとすれば、それを一ぺん植えつけて、自分のところでその製品ができるようになれば、それに対する輸入防遏ということは考えざるを得ない。したがって、メキシコ初め、中米、南米全部が、だんだんと自分のところの工業が進むにしたがって、いわゆる製品に対してはどんどん輸入禁止に出ている次第であります。企業進出というのは、それにとってかわる形として、企業で出ていって、向うの材料を使う。向うと合弁をして、あるいは向うで生産をして、そのパーツを売る。あるいは、組み立てるためにいろいろなものを持っていくとか、副資材を売るとか、別な形で貿易を伸展させる意味での企業の進出ということに各国ともみな一生懸命にならざるを得なくなったのであります。ですから、メキシコなどは、別珍もコールテンもついこの間まで行きました、懐中電灯も行きましたが、だんだんそれが行かなくなりました。これは単に日本の製品をきらっているのではなくて、自分のところでできるようになれば入れないという方の品目に入れてしまいますから、自然そういう式になって参ります。そんなことが南米に対しましての日本の貿易のあり方として新しく出てきた。それと、よくいわれておりますプラント輸出であります。ところが、ブラジルだけにお話を限って申し上げますがブラジルにおきまして来年は50年祭がありますが、長い間の移民の歴史がございます。これはよく伺ってみますと、ほとんど悲惨な歴史の連続であります。事実、日本の先人も苦心してずいぶん世話をなさったのでありますが、なかなか日本としても徹底的な世話はできない。いわば、向うへ送り出して捨ててしまったのが移民だった。一生懸命やっても、マラリアにかかるとか、黄熱病にかかるとかいうことで、実に悲惨な歴史が方々に残っております。ところが、今度の戦争で一種の大きなインフレーションになって、農産物の価格が上がった、同時に自分の持っている地価もどんどん上がったということから、最近におきましては、南米の各国の古い植民地に行かれた方々は、大部分が金持とはいわれないまでも、少くとも大物持になっております。日本の金にして何億という財産を持った方がたくさんできております。それらの人たちが戦後日本に来て、ごちゃごちゃしている日本を見て、これではとてもかなわんというので、みな向うに落着いてしまった。これは日本がこちらでうまくやったのではなくて、世界全体の形勢がそういうふうにさせたのでありますが、これは非常に幸いであった。しかも約50万人になんなんとする人たちがいるのですから、これは何といっても強味だろうと思います。今世界地図を広げてみても、日本人にどうぞ来てくれといってくれるところは ── アラビアもだめであります、アフリカもだめであります、濠州ももちろんだめであります、東南アジアもとうていそんなことにはなかなかならんということになって参りますと、インドシナがだめならば、もう南米だけであります。そこにぜひ来て下さいというのでありますから、こんなところはほかにはないのであります。ですから、これは日本としてはぜひ今こそやるべきでありますが、それに加えて非常にありがたいことは、支那の苦力を入れていないということであります。少なくとも南米あたりも、支那の苦力が相当入っておりましたら、とても日本人は太刀打できないと思います。そういう意味で、日本人だけが行ける全くいい土地であると、こういうように感じて参った次第であります。

  ブラジルにおきましては、われわれが考えておりますよりも、日本人のブラジルの農業に対する寄付に対しては非常に高く評価しております。意想外に高いのであります。これは実際そうだと思います。たとえば、ブラジル一番の物産でありますコーヒーでありますが、これに2つの大きな害がありまして、1つは南極から吹くところの南風であります。北半球では南風は暖かいのでありますが、ここでは寒いのであります。一ぺんその寒さでやられてしまいますと、あと3、4年はコーヒーがとれません。これが1つの大きな天然の災害であります。もう1つは、ブロッカという昆虫がおりましてこれがコーヒーの大敵であります。これが非常に大きな発生をいたしますとコーヒーは参ってしまう。この方の問題につきましては、アフリカのウガンダにおりますハチがこのブロッカの天敵でありまして、これを輸入した。そして東山農場で増殖して各地に配ったためについにブロッカの災害を終熄せしめた。これは何といっても三菱の岩崎さんのやられた大きな功績であります。現在の東山農場の山本博士なども、そのために博士になられたのであります。そういうようなわけで、ブラジルのようなコーヒーで立っている国とっては、こんなありがたいとこはなかったのでありますから、この東山農場の仕事に対しては非常に大きな敬意を払うのであります。南北2つの国立農事試験場がありまして、1つはカンピーナスの近くにあります。1つはアマゾンにあります。これも、やや形だけは整っておりますが、どうしてもまだ本式ではない。それでありますから、東山農場が果すパイロット・プラントとしての役割は大へんなものであります。これからどうしても牧畜が盛んになりますので、牧草の研究、あるいはテラロシア地域の傾斜地のエロージョンをいかにして防ぐかといったような意味での研究、あるいは牛の改良 ── インド牛とホルスタイン牛を飼って東山農場で一生懸命やっておりますが、そういうようなことはすべてをあげて東山農場に頼むといったような恰好であります。これなどは、確かにブラジル人としては頭の中でほんとうに尊敬している1つだと思います。それからブラジルの北の方のアマゾン地帯、これは暖かい地方でありますが、ここなどは例のピメンタ・ド・レイノという黒胡椒の栽培が盛んであります。これは全部といっていいくらい、実は日本人のやったものであります。しかも、これには非常な苦難な歴史がございます。武藤山治さんがだいぶ前に南米拓殖を作って、あすこに入れたのでありますが、なかなかうまくいかなかった。今東京に来ておられます臼井さんという方が、シンガポールから胡椒の苗、これは品質もよく、収穫量もブラジルにあるものよりも非常にいいのでありますが、20本持っていって、やっとその中の2本がついて、それを分けてふやして、現在の大繁盛をするようになったのでございます。そうして今、トメアスというところでありますが、そこにはりっぱな家がある。私が行ってみて、こんな家によく住んでいると思うようなりっぱな家があります。そのわきには昔住んでおった家がありますが、そのりっぱな家に比べれば犬小屋であります。あれを見ますと、あのくらいの家を作りたかったのは無理ではなかろうと思いますが、少なくとも1人あたり1,700万円から2千万円くらいもうけております。そうして、そういう家になってしまった。これにはいろいろな批判の点もあります。もっとほかの意味にその資本を使うべきだという意見もありますが、何10年となく豚小屋のような家に住んでおったのでありますから、1つのほほえましいことではないかと私は思ったのであります。そういうようなわけで、現在ブラジルとしましては、胡椒を輸入していたのを輸出ができるようにしたのは、完全に日本人であります。それから、あの辺は暖かいところでありますから、キャベツはすぐ花が咲いてしまう。これを抑制しながら上手に巻かしたのは、日本人であります。アマゾン開発庁のパンフレットに、日本人のお嬢さんが立派にできたキャベツを持っている写真をのせて、これは日本人が作ったといって向うが自慢しております。それくらいですから、とにかく日本人の農業の技術という点につきましては、これは一歩も二歩も譲っております。現在サンパウロあたりの桃にしましても、柿にしましても、あるいはニワトリの卵、あるものは100%、あるものは90%、日本人の手に握っております。ペルーのリマにおきましても、ニワトリの卵の80%は日本人が生ましているような次第であります。
そういうようなわけで、現在の場面におきましては、農業における日本人の優越さというものは、だれも文句なしにそう思っております。しかしこれからは違いまして、その方も発達させなければなりませんが、同時に工業的な意味の日本の技術を出さなければなりません。そこで今、企業移民、企業進出というものが非常に盛んになっております。鐘紡さんも出ておりますし、東洋紡さんも出ております。あるいは豊田織機さんも出ております。あるいは伊藤忠さんの工場がサルバドルに出る、ブラジルに倉紡さんが出る、ブエノスアイレスに日本毛織が出るといったようなわけで、相当盛んにやっております。これは、私どもいろいろ拝見しまして、その御努力には感謝もし、御同情も申し上げますが、二つの欠けている点があります。一つは基本調査が足りず、もう一つはマーケッティング・サーベイが不十分です。アットランダムに少し調べたくらいでは、ほんとうの商売は出来ないのであります。むろん、東洋紡さんなり、鐘紡さんなり、豊田織機さんなり、日本毛織さんなり、みんなそれぞれ、世界に冠たる技術を持っております。あるいはよい機械を持っていき、職工はまあ向うの人を使わなければなりませんが、そういうふうにしてやっていけば、よいものができます。しかし、これをルートに乗せなければなりません。そのマーケッティング・サーベイ並びに道をつけて売れるようにする努力というものがまだできていない。したがって、物はできたけれども売れないから、困ってしまった。しかも、これには運転資金が要る。ところが、メキシコにしましても、あるいはブラジルにしましても、現在インフレーション下のデフレ政策 ── ちょうど日本と同じであります ── をとっておりますから、金はそう自由ではございません。いわんや、日本の大蔵省は外貨にはなかなかやかましいから、あとから追加の金は出さない。だから参ってしまうというところに、向うに出た方の非常な苦心があるわけです。

  メキシコ・シティーから約80マイルばかり先のところにイロロという広野があります。ここに3つの工場が出来ております。1つは日本、1つはドイツ1つはイタリーでありますが、この3つの工場をそこに誘致して、りっぱな工業都市を作ってやっております。これなんかは、日本としては脱落できない。日本では豊田織機さんがりっぱな工場を作ったのでありますが、実は売れなくて困って、メキシコの国鉄と連絡をとって、連結機に業種を拡張して、メキシコの海岸を綿密に調査して、鑄物に向く砂を自分で見つけてきて、それでキャスティングをやって、これは成功しております。そのほかに私の参りましたときには、900人の現地の貧農の子弟を入れて、技術教育を施しておりました。言葉は、こっちから行っていらっしゃる人は全部日本語で、スペイン語のうまい人は少ない。そのギャップを乗り越えて、何も知らなかった人たちを、とにかくミリングマシンやフライスを動かせるように教えてしまいました。これなどは、大へんなことだと思うのです。ですから、そういう労苦なり努力を考えますと、われわれ単に出ていって、やり損なったといって笑ってはいられません。何とかしてあげたい。幸いそれぞれ苦心の結果小康を得て、みな落着いてきたようでありますが、これからであります。ところが、ドイツのごときは、サンパウロのわきに有名なマルセデス・ベンツの自動車工場ができております。これも私拝見してまいりましたが、私などは全くしろうとでわかりませんが、われわれが見てもよだれの流れるようなりっぱな最新の工作機械を並べております。ドイツは現在ドルをたくさん持っておりますから、悠々とやっております。日本は金を持っておりません。またブラジル等もドル不足であります。したがって支払いの交渉に入ると、ほとんど延払いであります。日本はせいぜい3年にしてくれというのでありますが、ドイツが出てきて5年でいい、アメリカは10年でいいということで、それがとられてしまうというのが、現在の非常な悩みでございます。こう見てきますと、実際自国の国力といいますか、全くドル不足というものが大きく影響してくることが非常にはっきりわかります。そういうようなわけで、まことに残念だと思います。しかし、それにも負けずに民間のそういう方々が出ていって死にものぐるいでやっておりますことは、まことに壮観であります。ぜひこれは何とか成功していただいて、今度は単に農業だけでなしに、工業方面においても非常な卓越した技能を向うに植えつけて、そして日本をもっと尊敬さしていきたいという感じを皆さんも必ずお起こしになるだろうと思います。ただ現在、憲法を見ましても、あるいは民法を見ましても、私は何もすっかり読んだわけではないので、聞いただけなのでありますが、非常に民主的にできているようであります。しかし実際はそうではなく、独裁政治であります。向うでよく革命というのがございます。これなども、日本では非常に大きく響いてびっくりするのでありますが、これは確かにいろいろな意味で不便な問題でありますけれども、しかし革命自体は、何も社会構造を根本的に変革しようというような革命ではありません。ただどの人がヘゲモニーを握るかという政権争奪の争いにすぎないので、軍隊まで使うから大へんはなばなしく見えるというだけであります。そういうようなわけで、たとえばニカラグヮの大統領がこの間暗殺されましたが、翌日の向うの為替相場はびた一文変わっておりません。アルゼンチンのペロン大統領が失脚して、今ベネズエラの首都カラカスに住んでおりますが、個人で一番たくさん毎日郵便物を受け取るのはペロンだといううわさもありまして、ペロンを再び大統領に迎えようとする空気もなかなかあるようであります。したがって、アルゼンチンの政情は穏やかではありません。しかし、それだからといって、ペロンの系統だけにしがみついておった人は今弱っておりますが、これはどこの国の人もそういうことはあるわけでございます。現在アメリカだのその他の各国が是認している資本主義、あるいはこれから日本が入ろうという新しい意味の資本主義ではないので、もちろん古い行き方であります。したがって、南米の諸国は、現在の日本などから見ると、徳川時代の人が見たら、あるいはもっと古い時代の人が見たらもっと早わかりするだろうと思われるような面があります。あらゆる面がアンバランスであります。ドイツからりっぱなプラント輸出をしてもらい、3万キロ、4万キロの大電力を出しても、それを使うところがないというような恰好でございまして、まだそういう点がチグハグな点が多いのであります。しかし、これが全体がすっかりうまくいきまして ── もう5年か10年の間には必ずうまくいく ── そうしますと、南米という国は、世界国家的な規模で、つまり人種的には全然偏見がない、あらゆる人が集まってきて、資本もいろいろな系統が入ってきて、そうして非常にふんだんにある地下資源を上手に使って、大きな経済力のある国になってしまうだろう。これはおそらくあと10年もしたら大へんなことになると私は思っております。そのときに日本が指をくわえて見ておったのでは相済まんわけでありまして、どうしてもそこに入っていく必要があるということはいえるわけであります。

 南米の国を見ておりますと、北半球とはまるで違っておりまして、むろん鉄道もございますし道路もございます。ことに、パン・アメリカン道路といって、6割アメリカが出して4割自国が出したなかなかりっぱなものがありますが、何しろ広いところであります。したがって、道路のほんとうに完全な網はまだ不十分であります。汽車も、アルゼンチンなどは外国の資本でできたものをごく安くもぎ取っちゃったのですがちっとも修繕もしませんから、まことに貧弱であります。逆に飛行機が発達してしまった。まず飛行機が発達して道路ができて、それからあと汽車ができるのだろうと思っております。しかも、大きな河は、アマゾン流域などになりますと、鉄橋をかけるだけでも大へんであります。したがって何といっても飛行機が先に発達してしまう国であります。そういうようなわけで、何となく不思議な様相を呈している国でありますが、しかし全体に何となく平和であります。今騒いでおりますミサイルを鉄のカーテンの向うから発射いたしましても、南米の南には届きません。将来は別でありますが、今のところは届きません。これをアメリカはよく知っておりますから、もう一度軍略的にアルゼンチンを使わなければならないということになるかもしれません。しかし、少くとも現在のところにおきましては、いわゆる国際緊張場裡からはちょっと離れております。したがって、非常に全体がのん気であります。先ほど申し上げたように、アプレゲールもいない。何となくつじつまの合わない話をしておって、しかも全体が豊かでありますから気が大きい。日本人のようにあくせくやっている者から見ると、まことに間が抜けているようでありますけれども、向うの国情がそうでありますから仕方がありません。日本もこれから移民の質の問題を気をつけて、単なる農業移民というだけでは無理でありますから、たとえば甘蔗畑に移民すると同時に製糖工場を作ってやるとかいったような、コンバインしたいい意味での農業移民が行くべきだと思います。ただ人の数だけではだめです。もう1つは、日本人の頭脳を、別の意味でどんどん輸出すべきだと思います。日本人だからといって、向うはとめていないのであります。非常にリベラルであります。現在でも、たとえばチリーのサンチヤゴなどは、三菱の「扶桑」というりっぱなバスが6百台も町の中を縦横に走っております。町の人も、以前からある古いバスに乗らないで、これに乗ろうとして待っております。そういうのを見ると、まことに気持ちがいい。また、ブエノスアイレスの日本で作った郊外列車は、実にりっぱであります。私も2駅ばかり往復してみましたが、まことに乗り心地がいい。これなども、見ていて実に気持のいいものであります。それからカラカスでは、ウイリスのジープを豊田さんのジープが負かしまして、ちょうど私が参りましたときには、〝目下品切れ中〟という新聞広告が出ておったくらいであります。なかなか活躍しておられるわけであります。ただ、全体的に南米というものをどう見るかということになりますと、これは大問題であります。日本からの一番の欠点は、距離が遠いことであります。これだけは何ともなりません。したがって、この距離の観念を入れ、あちらの国情からなにから全部入れまして、そうして日本にとって南米というところはどういう価値があるかということを考えたい。私は外務大臣にもこれを申し上げたのでありますが、日本は世界全体をもう一ぺんばらばらにして、米国、カナダ、中南米、濠州、アフリカ、東南アジア、インド、近東、ヨーロッパ、中国、ロシアといったように分けて、そうしてそれぞれについて、結局これから先10年くらいをメドに、あらゆる起り得る条件を考えてみて、価値判断をもう一度考えるべきではないか、これによって外貨の割当なりすべてのことがきまっていくべきであると存じます。ある点がまずいといってそこだけ手直しするということは、単なるビタミン注射にすぎない。もっと根本的な経済政策が立たなければ、貿易政策は成り立たないということを申し上げたわけであります。

  そういうようなわけでありまして、私も実は別に何を見てきたというわけではありません。はなはだつまらんことを申し上げましたが、時間が参りましたので、これでごめんをこうむりたいと思います。どうもありがとうございました。

(国際電信電話会社会長)