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学士会アーカイブス

法学士と小説 三島 由紀夫 No.686(昭和40年1月)

     
法学士と小説  
三島 由紀夫 No.686(昭和40年1月)号

 
  東大法学部出の小説家というと、私の知る限りでは、大仏次郎氏と林房雄 氏と私の三人だけで、この三人にはっきりした共通の特色でも見つかれば、人間の一生の仕事、それも個性的な仕事における大学教育の影響力がつかめるわけであるが、あいにくそんなものは見当らない。強いていえば、大仏氏がフランス革命に、林氏が明治維新に、私が二・ニ六事件に、特別の興味を寄せて来た点はあるが、これも偶然の一致といえぬわけではない。

 ジイドが「プレテキスト」の中で、「芸術家にもっとも必要な天賦は官能性である」と述べて、暗に自分にそれが欠けていることを認めている口ぶりであるが、官能性は、日本式にいえば、色気といいかえてもよかろう。なるほど色気の欠けていることは法学士の通弊かもしれない。表現上の色気のみならず、実生活でも、大仏氏がドン・ファンだという噂はきいたこともなく、林氏も思想の道楽こそ散々やったが、恋に命を賭けたというほどの話は聞いたことがない。恥かしながら私も、この両先輩の驥尾に附して、色気のないことおびただしく、この間も大宅壮一氏から、「もっと道楽をしなければ、えらい小説家にはなれませんよ」と忠告を受けたばかりである。

 しかし大きな構想だの、論理的な構成力などという点になると、法学士は大いに利点を持っているようであって、私もあるとき、同級の法制史専攻の学者から、「お前の小説のメトーデは、法制史のメトーデとよく似ている」と褒められたおぼえがある。

 小説とはつくづく厄介な仕事で、情感と理智がうまく融け合っていなければならない。それも情感50パーセント、理智50パーセントというのでは、釣合のよくとれた良識ある紳士にはなれても、小説家にはなれない。理想的には情感100パーセント、理智100パーセントほどの、普通人の二倍のヴォルテージを持った人間であるべきで、バルザックも、スタンダールも、ドストエフスキーも、そういう小説家であった。

 日本人の間からは、体力のせいもあって、こういう超人的怪物がでにくいのではないか、と思われるふしがある。一般人を100とすれば、せいぜい120ぐらいが超人の限度であって、その120のなかの配分によって、それぞれの才能が決るわけだが、法学士の小説家は、なまじ法律を勉強したばかりに、そのうち70パーセントぐらいを理智に奪われてしまうのではないかと思われる。

 そんなわけで、法律をやったことが是か非か、なかなか結論が出せずにいた私であったが、思わぬことから裁判に巻き込まれ、「宴のあと」という小説がモデルのプライヴァシーを犯しているとのことで、民事法廷の被告席に立つことになった。

 大学卒業以来、15年ぶりで六法全書がふたたび机辺にあらわれ、大学で眠い目をこすりこすり講義をきいていたときには、まさか将来自分の身に関わりのあるものになるとは思っていなかった民事訴訟法の中へ、いつのまにか被告として組み込まれている自分を発見した。これは実にふしぎな気分のする経験であって、たとえていえば、深夜眠りの合間に、遠い救急車のサイレンをきいて、ああ、又誰か怪我をした、しかし俺には関係ない、と思いながら、ぬくぬくと又、眠りに身を沈めていた人が、あるとき突然、救急車の中へ運び込まれている自分に気がつく、といった種類の経験である。そのとき救急車についてかつて学んだ知識が幾分でも役に立つかといえば、そういうものでもなく、呆然と担架で運ばれて、荷物のように救急車に放り込まれたときに、そんな知識が何らかの役に立つとも思われない。それに恥かしながら、大学ではいたって不勉強で、こんな場合の応急処置については何一つ思い浮かばなかったのである。

 法廷に立つと、多少法学士としての自信がよみがえって来る気もしたけれど、よく考えてみれば、法廷というものは、法学士を裁くためにあるのではない。
  法律の知識など一つもない人同士の争いを、代理人としての弁護士が法律構成をする仕組みになっているわけであるが、その実際の原告被告は、欲もあれば夢もあり、喜びもあれば憎しみもあり、悪意もあれば嫉妬もあり、さまざまの人間の情感にあふれた、生の、現実的存在でなければならず、そういう生の人間として、あくまで対等の当事者でなければならない。法学士もへったくれもないのである。

 そういう点から考えると、私はわれながら、或るハンディキャップを背負っていると考えざるをえなかった。情感をつのらせ、しかもそれを理智で抑制して、バランスをとりながら書きつづける小説という仕事が、私という人間から、徐々に、生の、自然な要素を奪い去っていることがよくわかってくる。
  相手が頭から湯気を立てて怒っていればいるほど、こちらは小説家的観察力のおかげで客観的になってゆき、とても相手と同じ熱度で怒る気にはなれぬどころか、却って可笑しくなってくる。……

 そういうことが、社会生活においていかに不利であり、いかに人の同情を惹くことが少ないか、という点に思いを致すと、私は、自分が小説家であることを怨むべきか、法学士であることを怨むべきか、どっちつかずの心境になるのであった。

(作家)