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学士会アーカイブス

レニングラード大学 大内 兵衛 No.665(昭和31年10月)

レニングラード大学  
大内 兵衛(法政大学長) No.665(昭和31年10月)号

 私は、昨年の五月六月、日本学術会議のソ連・中国学術視察団に加わって、ソ連を垣間見た。全くたのしい旅であった。一行はモスクワを見て、レニングラードに行き、そこで五日間滞在して、市内の名所を見物したり、ピオニール宮殿や図書館や天文台を見学したりした。レニングラードは、今から約四十年前にはあの革命の血を流した町であり、また十二年前には九百日もドイツ軍に包囲されてはげしい爆撃をうけた町である。しかし、今は、それらの跡は物語にのこるばかりであって、旧来の建物と新しいアパー卜とが新旧真直ぐな大道をはさんで立ちならんでいる二百余万の大都市である。モスクワよりも清潔でより近代的で、ロシアではむろんのこと、おそらくは、全ヨーロッパを通じても、第一流の美しい近代的大都であろう。

 ピーター大帝が、スウェーデンからこの地を略取して、ここに都を定めたのは、二百五十年前であった。それは、全く低湿な森野の中に人工的につくられた都市であるが、巨大なるロシア大帝国の絶対君主の盛威を示すための城下であったが故に、その建築はすべてぜいたくである。とくに宮城やお寺が立派である。そして、いまはパルプや鉄工の工業がだいぶ発達して、遠くから見ると、この町にも大きい煙突も見える。しかし、今もなお、これは西欧の、しかしどことなく西欧ではない文化の都である。

 レニングラードの景観は、旧王城冬宮の後ろ、大ネヴァ河の岸から見るとき、最も印象的である。ネヴァ河は、隅田川の三倍もあろうか、波もあげず静々とながれ、この冬宮のうしろにあたるところで大きく三つに分れ、その各々がフィンランド湾にそそいでいる。そしてその三つの河が二つのデルタ島をいだいている。その二つの島の上に対岸のレニングラード地区がつくられている。

 このネヴァ河の公園に、われわれは立つ。対岸に右の島がこちらに向いている角にすてきに大きな岸壁が見える。あれは、ロマノフ王朝の冬宮を護っていたペトロパウル要塞である。そしてまた、ツァーの反逆者を打ち込んでおいた監獄は、その一部である。レーニンやスターリンやゴルキーやその他今日のソ連を築いた人々がいつ落されるかもわからない首をかかえて呻吟していたのがこの監獄である。規模はロンドン塔よりははるかに大きい。向ってそれから左、小ネヴァ河をへだてて、われわれの立っている大ネヴァ河の正面には、一キロの間大きな白いそしてまた赤い石造の三階ぐらいの建物がいろいろの美しい様式をほこるが如くにその屋根とその柱とを見せつつ立ちならんでいる。その上には、五月の末だというのにまだ早春のような空が、長い長い冬からいまめざめたように、よく晴れている。これがレニングラード大学、各種の芸術大学、美術学校である。

 さて、このレニングラード大学というのは、一八一九年の創立であるから、いうまでもなく、ナポレオンに打勝ったロシアが、世界最強の国たらんとの野心をピートル大帝の学問に対する伝統的な熱をもやして建立したものである。そのとき以来この大学はすぐれて保守的な政府の大学であったのであるが、その厚い保護のもとにおいて学問的には相当優秀な業績をあげたらしく、少くとも、十九世紀を通じて、世界の科学の進步にエポックを作った幾多の英才を、この大学が生んだのである。一九一七年の革命は、いうまでもなく、この国の学制についても革命をもたらしたに相違ない。しかも、レーニンは、革命家であったと同時に何よりもほんとうの科学者であって、彼は革命の目的が逹せ達せられるかどうかは、科学が進步するかどうかにかかるとした。ここにおいてロシアは再びピーターをもったといっていい。ただピーターと異り、彼は学問の目的はロシアを強国とするというだけのものではなかった。それは、ロシア民族をその社会的圧制から解放しなくてはならぬものであった。また科学は人類のために自然の暴威を克服しなくてはならぬものであった。

 私は、いつの間にかおぼろげなそういうイメージがどういう風にあそこで現実化しているのかと思いつつ、ネヴァ河を見、またそれをへだててこの大学を見ていた。それはここについたその日、五月十八日の午後であった。

 その翌々日、五月二十日、われわれは科学アカデミーのグルーシェンカ博士とキシロフ氏に案内されて、通訳の諸君とともに、ついにこの大学を訪ねることができた。

 私は、その日の日記を、そのままに、この『会報』にのせることをゆるしていただきたいと思う。聞きちがいもないとはいえない、また正確な資料をよむ力もないから、不備のそしりはやむを得ない。おゆるしを願います。

    ×     ×     ×     ×

 五月二十日 金曜日、晴、室内十八度。
 十時、車をつらねてレニングラード大学に行く。一昨日冬宮の裏から望見した赤い大きな建物である。入口にはレーニンの像が、ついで総長室の前には、レーニン・スターリン・モロトフとそしてジュダーノフの像が立っている。相当変な気持である。ジュダーノフはレニングラード地区の共産党の首領であった。そしてこの大学の復興に、とくに力をこめた人である。それにしても何か変である。評議員室に入るとすでにこの大学の各科の主要教授三十名が招集せられており、そこで総長アレキサソドロフがわれわれを歓迎するコトバをのべた。数学者であるらしい。英語は相当である。彼は各教授をわれわれに紹介し、それぞれ専門によってグループを作って会話をしてくれといった。総長の説明によると、この大学の創立は一八一九年、それから一世紀、この大学は、ロシアを代表する世界的な学者を各科において出した。革命前学部は法学、数学及び物理、歴史及び言語、東洋学の四つであったが、今はそれが十二となった。その内、社会科学の部というのは、言語学、歴史学、法律学、経済学、東洋研究である。この外にこの大学は附属の研究所を八つもっている。大学の講座は一二九、研究室は五〇である。教授は一七六名、講師は三六〇名、その他研究員をあわせるとスタッフは一、二〇〇名である。これらのスタッフから選出された幹部会なるものがあり、それが総長の下においてこの大学の運営をする。この総長の説明に対し、われわれが質問し総長が答えたところによれば、ここでも教授は五年毎に、その地位についてのテストにたえねば、その地位に留まることはできない。このテストには全国から競争者が募られる。その内から審査委員会の審査によって適格者が定められるのである。学生の数は一万。その外に通信教授の方法による学生が二千ある。学生はいろいろの民族から成っていて、この地方の人々のみではない。修業年限は五年。所有図書四百五十万部である。

 次にわれわれの質問に対して先生方が答えたところはこんなことであった。(1)総長は文部大臣が任命するものである。それについての選挙はない。(2)大学の予算は一億五千ルーブル、(名目為替価格 百三十五億円、実質物価価格約四十五億円)内、人件費が約三分の一(日本よりは物的設備のいいことを語るものか)。(3)教授の待遇は原則として官吏よりもいい、講座の責任をもっている主任教授は初任教授の五倍、月額六、〇〇〇ルーブル(物価で換算すれば約十八万円)であり、この外にアカデミシァンともなれば、その年金がある。(4)奨励金は成績により学生に与えられるものであるが、これを受けているものは全学生の八〇%以上であり、優等生は相当に優遇される。(5)教授にはもちろん政治について批評の自由には何等の制限がない。しかし、この国においては、国家も大学もマルクス主義に立つことは事実であるが、教授も思想的にはマルクス主義であるから、事実において、政治的批評もその前提に立つのであるから、国家の根本についての議論をするものはない。(6)この大学には医学部はない。医学は独立した大学で教授されているが、これは、医術の進步と医師の需要の急に応ずるには、その方がよいからである。

 こういう話を聞いていた内に、別のところで菊池(勇夫)君が法律学の教授と議論をしていることを見つけた。問題は死刑廃止、ハイ・トリーヌンとロシアの政治犯の相違、財産私有と相続についての無制限の可否等々であった。私はそれらの議論に非常に興味をもって、しばらくそれに聞き入った。私もその一々について論議をつくしたいと思ったが、時間がないのでやめた。しかし、概して彼等の理論は自由で幅があり、同時に社会主義の漸進について、確乎たる自信に満ちているのに感心した。社会主義こそほんとの自由主義であることについて、彼等は露ほども疑をもっていない。私は、かねてそうだろうと考えていたが、それが具体的にわかったような気がした。

 総長は、われわれの要求を容れて、その辺にいた三十人ばかりの学生をつれて来た。大部分が東洋研究科の学生で、女子が多い、中には日本語を相当にやるのもいる。不自由な日本語で答えたのさえある。年齢は日本の学生よりも若い。服装はシイクというようなのはないが、きたないのももちろんない。清潔である。はなはだ無邪気で可愛らしい。応答の要領は次の如くであった。

 (1) 入学のときの競争率は? ニ倍。
 (2) 寄宿舎にいるか? いる。一室に三四人同居する。男女は階を異にする。
 (3) 卒業後の就職について心配はないか? 全くない。たいてい自分の好きな
   仕事につ ける。いずれにしても、それは総長の仕事で、われわれの心配す
   ることではない。
 (4) 学生間の恋愛は自由か?結婚はどうだ? もちろん自由だ。結婚をすれ
   ば、学生の自治会からお祝をくれる。また特別の部屋をくれてそこでホー
   ムを作る。
 (5) 外国の学生はいるか? いる。朝鮮人も、中国人もずいぶんたくさんいる。
   日本人も来てもらいたい。
 (6) 学費はどのくらい入用か? 一ヵ月三〇〇ルーブル(物価で計算し直して
   一万円)ぐらい。奨学金は三二〇~四五〇ルーブルであるが、優等生とも
   なれば八〇〇ルーブルはもらえる。授業料は最高年額四〇〇ルーブルだ。
 (7) 先生をボイコットするようなことはないか? 学生は先生を批評する自由
   がある。とくにそのため壁新聞がある。学生会議がある。学生会議の決議
   は総長に申出るのだ。
 (8) 一年中で一番面白い行事は何だ? 入学式、クリスマス、五月二日、メー
   デー、音楽会、卒業式、運動会。
 (9) 学生会議やサークルがあるか? ある。文学について、寄宿舎の管理に
   ついて、学生組合について、そういうサークルがある。しかしこれには先生
   も参加する。
 (10) 毎日の生活で何が一番面白いか? 学問の討論会、スポーツ。
 (11) どういう文学をよむか? ゴルキー、トルストイ、チェホフ、シェークス
   ピヤ、ドフトエフスキー、日本の文学では、藤村、漱石。
 (12) 諸君は日本の学生に何をのぞむか? 日本の学生諸君も勉強して下
   さい。機会があったら、ソ連に来て下さい。

    ×     ×     ×     ×

 日記は以上で終っている。要するにこの大学はモスクワ大学とならんでソ連の綜合大学の一つであり、他の多くの単科大学と系統的につながりつつアカデミックな意味でやや高い地位にある大学である。という意味は、将来学問的な仕事に従事する人々を養成する方に、他の大学よりも余計に力をそそいでいるということである。大学の設備の点で言えばなかなか立派で優にヨーロッパ第一流といえるであろう。むろんアメリカのそれには比べられない。大学の精神という点で、外国の大学に対する特色をいうならば、国家的または国家主義的であるといっていい。しかしその国家なるものは共産主義国であるから、自然社会的全人民的である、少くともそう観念せられている。だから国内にたくさんの大学があるが、この大学と他の大学とは対立的競争的ではない。有機的協同的である。そういう意味で、この大学の研究や学者の業績を、外国のそれに比べると、研究の色彩の多様性は少く、個人的競争にあらわれる学問進步の壮観はないのではないかと思われた。尤もこれは想像で、実際においてソ連の学問研究がいままでにどういう成績を示したか、これからどういう成績をあげるかについて、その全面的成績について、私自身何等かの判断を下し得るような知識は全くもっていない。ただ、こういう制度の大学では学問の進步はあり得ないというような議論は独断だという感じであった。あるいは、なるほどこういう風にやった方がいい学問ができるのではないかというような気さえした。

 何よりも羨しかったのは、学生がみな楽しそうであり朗らかであることであった。その点では、外国はかなわない。アメリカのそれにさえ比べ得るだろうと思った。そして何よりも感心したのは彼らがなかなかよく勉強することであった。これは、学資にこまらず、アルバイトの必要もなく、とくにブルジョア的堕落がなく、卒業したら必ず相当の地位が与えられることが確実だという条件があるからである。

(法政大学長)