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欧米雑談 鳩山 一郎 No.602(昭和13年5月)

     
欧米雑談  
鳩山 一郎(政治家) No.602(昭和13年5月)号

 さっき食堂で話して居りましたのですが原(嘉道)君など、そう云う方々を前にして話をするのはちょっと閉口して居るのでありますが、心臓を強くして私の見たり聞いたり考えたり致したことを順序なく申し上げます。

 私が立ちます時はまだ支那の事変が現地で解決されるとか、不拡大の方針であるとかいう場合でありました。それが今日のようになり又世界の情勢は大戦争後現在に亙り将来に通じて想像の付かないような変遷をやって居ります。

 此の間出たイギリスの本に依れば、一千年来第一等国を続けたフランスは今日は第二等国だというようなことが書かれる位に眼まぐるしい遷り変りをやって居ります。其の間を旅行して参ったのでありますから、私みたようなぼんくらでも何か感じたようなことがあった次第であります。

 ドイツとイタリーとは同じような状態にありますから、之を一括して御話申上げ、イギリスとアメリカとは別にしてお話致したいと思います。

 ドイツとイタリーはイギリスやアメリカよりも先んじて国防の充実を政策の第一の重点に置いたと思って居ります。ドイツでは予算は明示して居りませぬから分かりませぬけれども、多くの人の言う所に依れば六十億マークが最低だとか言って居ります。兵営は新しく建てられるとか、飛行機は夜どんどん飛んで居る、タンクはロシアに対する準備でしょう、新しいのがどんどん造られるという有様で、迚も盛な勢で国防の充実をやって居ります。イタリーも地中海からイギリスの艦隊を追払ってしまうことの出来たのは無論二百台の飛行機を送って決意を示したということもあるでしょうけれども、実質に於いてイタリーの飛行機と潜水艦とが整備して来た為にイギリスは恐れて地中海を逃げたのだろうと思います。斯様な今日は世の中でありますから、国防第一主義で此の二つの国は特に進んで居るように思います。而かも六十億とか或はそれ以上とかいう金をドイツは使い、それと同じようにイタリーも矢張り沢山の金を使いながら、同時にパブリック・ウォークスに付ては相当沢山の金を使ってやって居るようであります。汽車の中から見ても自動車旅行をしても自動車の専用道路(アウトバーン)が各地に建設されつつありますし、又新しい家が随処に建てられて居ります。自動車の専用道路は昨年迄に二千キロメートル出来たと言って居ります。一キロメートルが百萬円掛かるそうでありますから、二十億の金は既に使ったので、之を五千キロメートル迄延すと言って居るのですから自動車の専用道路だけに五十億の金を使うのであろうと思います。其の他新しい家を拵える「偉大なる時代には偉大なる建築が生まれる」と云うような標語を作って随分事業をやって居る訳であります。ベルリンの凱旋門を潜った辺り此の頃木を伐って道路を取拡げて居ります。そう云うような訳で、まあ失業者のないようにもするのでしょうけれども、 迚も盛んな勢いで事業をやって居ります。イギリスは金があるけれども、失業者が沢山ある「イングランド・スピックス」と云うような本に依って見てもセント・ポール寺院の地下室には何百人と云う失業者が寝て居る。救世軍は幾らか安い金は取るそうですが救世軍に世話になって居る者も何百人居るというように、あのような老大国で金のある国でも失業者が随分あるのでありますけれども、ドイツでは今申しますように事業をどんどんやって居るのですから、職に就いてない者は無いと言って豪語して居る訳であります。

 イタリーもパブリック・ウォークスはドイツと同じようにやって居ります。ご承知の通りイタリーは非常に広い湿地に水はけを造って農地としここに新市街を建設している。イギリスの本に依って見れば日本の円に直して五十億円も費して土木事業未開地の開墾等をやったが是は失敗だと云ふことが書いてありますけれども、兎に角非常な多額の金を費やして未開地の開墾をやり、それに依って職を与える、そう云うような事柄は両方ともやって居る訳であります。イタリーとドイツが世界の貧乏国でありながら一方に於て国防の充実を計り又他方に於てパブリック・ウォークスが出来るか、是は大なる疑問でなければならない訳であります。それは私は一つは海外の貿易のバランスを作って、そうして国内は公債の発行をどしどしやって居る。是が第一の方法である。第二は心的要素を作る、是が第二だと思います。ドイツにしてもイタリーにしても輸入が多くて輸出が少い、其の上に若し公債を発行したならば迚も悪い影響がある訳でありますが、イタリーのほうは絶対的のバーター・システムでやって、そうして公債を発行する、ドイツの方も先ずそう云うようなやり方でありますけれども、兎に角輸出の奨励をどしどしやって、そうして輸入よりも輸出の方を多くしてしまった訳であります。一九三二年から一九三三年には輸入が超過して居りましたが、一九三四年から一九三五年に掛けては輸出の方が超過して、其の超過額は五億五千萬マークと云うように言われて居ります。ドイツは原料は殆どない、食料品もない、鉄もない、銅もないと云うような有様で、原料の輸入には最も必要を感ずる国であります。それだのに輸出の方が多くなった訳であります。どうしてそれをやったかと言えば、まあ為替管理を巧みに運用したと云うことと、又国内で以て二百円で生産の出来る品物を百円で売らす、そうして其の百円は内地の公債発行で補ってやる、ドイツの貿易の輸出奨励費と云うものが一年間に八億萬マーク以上になったこともあるそうです、けれども其の八億万マーク以上になったものは無論ドイツでは痛痒を感じない。内で使われる金の方は公債発行でどんどんやるものですから例えば二百円で出来る品物を百円で売らす、其の不足百円のものが紙幣を印刷して呉れてやる、其の補足する費用が四億になろうが、五億になろうが国内に散ばるものに限りドイツではそれは何とも考えない訳です。そう云うような方法で輸出が段々多くなった訳であります。私が帰りましてから、自分はそう云うことは分からないけれども、何とかそう云うようなことを考えなければ日本の内地の事業が公債でやれなくなりはしないかと云うような疑問を持って、商工省の人にそんな話をして見たのです。所が商工省の人が言うのには、それはダンピングになるのだ、ダンピングになると云うことは条約上やれないことなんであるから、製産費二百円の品物を海外に百円に売って、其の不足百円を内地で補助するというようなことは出来ないのだと云う風な答でした。併ながら何処の国を歩いて見てもエキスポートのプライスとインポートのプライスのない国はないと思う、何時でも相手の国を道徳を守り法律を守る国としてのみ考える習慣ではないかと思います。今日ではどうなって居るか知りませぬけれども、吉野君なども少し意見が変って来たのではないかと思いますけれども、帰り匆々そう云う話をした所が、そう云うことは出来ぬと云うことを申して居りました。左様な工合で輸出の奨励で輸出の方を多くしまして、そうして内地のことは公債発行でやって居る訳であります。それからドイツの彼のケップラー、此のケップラーと云う人はナチの経済組織の最高地位にある人であって、私がベルリンに居りました時には無任所大臣をやって居りました。ヒットラーから経済四ヵ年計画立案を最初に命ぜられた人でありますが、此の人が申して居りましたのには、百億の公債を発行して仕事をすれば翌年は其の七〇パーセントは這入って来る。即ち一九三三年度にパブリック・ウォークスに投資した金額の七〇パーセントは翌年税金其の他の関係に於て回収された。尚今日のドイツの税収入は倍になった、六十億のものが百二十億になったと云うことを言って居ります。果たしてどうであるか、其の真偽は私は知りませぬけれども、まさか偽でもないように私は感じました。兎に角公債を発行して段々国民の懐ろ工合が良くなって来て、税収入が多くなってきた訳でありますから、若しケップラーの言うように百二十億の税収入があるならばドイツの予算は賄えることになって来た訳であります、兎に角貿易のバランスを取って置いて公債で色々の仕事をやる、さうしてもう一つは心的要素と言うか、此の頃の言葉で言えば総動員を巧くやっていると云うことであります。総動員の方法、心的要素を作る方法は無論青年指導、是が重要な部門を占めて居るのであります。

 此の青年指導はイタリーもドイツも全く同じです。唯ドイツの方が組織能力があり、又それを書面の上に示すことが上手でありますから我々旅行者が青年指導を如何にやって居るかと云うことを調べに行くのにはドイツの方が便利であり、イタリーの方は分かり難いのであります。けれどもイタリーの方はムッソリー二が政権を執ってから十五年、ドイツの方はヒットラー時代となって五年でありますから、寧ろイタリーの方が其の結果が良く現れて居るのでないかと思います。是は或る海軍武官の話ですが、此の頃青年の空気は全く一変した、自分の家で引越をする時に十数人の者を雇ったが、年取った方の労働者は台所に来て酒の盗み飲をするけれども、若い方の労働者は決してそんなことはしない。朝七時に来て、午後の八時迄、昼食時間三十分を除き他の十二時間唯無言で働くと云うようなことを言って居ります。又奥さんが女中を雇う時にはファシストであるかファシストでないかと言って、それを先に聴く。ファシストの女中は勤勉である、そうして嘘を言わない、やった金は成るべく使わないで貯めて置くと云うようなことを言って居ります。又陸軍武官は午前二時ごろ能くパンを齧りながら働いて居る男を見受けると云うようなことも言って居りましたが、全くドイツ、イタリーの青年の空気は一変したと云うことが言われて居ります。殊にドイツの青年の指導、是は私よりは二荒さんの方が余程詳しく調べて来られたのであります。又各所に行かれたと思いますが、唯私はヒットラー・ユーゲントのヘッドクォーターズを観に言った位であります。それから其の指導者を作る女と男の学校を観に行った訳でありますが、とても整備して居るのであります。ベルリンにあるヒットラー・ユーゲントのヘッドクォーターは七階建一階百室八階が食堂になって居たと思います。二十幾つかの部門に分れて居りまして、とても全部見ることは出来ませぬので、スポーツに関する部門をちょっと覗いただけであります。其のスポーツに関する部門を覗いただけでも私は驚いたのであります。最初に這入った部屋がシューティングの部屋であります。此処では三百萬のユーゲント全部が修業する訳であります。身体の大小に従って鉄砲を三種に分かってそれを全部に修業させる訳であります。そうして私に説明して居た人の左側に戸棚がありまして、其処に修業して居る者の手帳が皆入れてある訳であります。勿論三百萬全部其処に這入って居なかったのですが、其処に這入って居る手帳はベルリンの市及び其の近郊の者の手帳だけだと思うのですが、それに指導者がヒットラー・ユーゲントの人物を記入していく訳です。次に這入って行った部屋がモーターの部屋です。此処にも百萬人の修行者が居りまして、シューティングの部屋同様手帳が備えてあります。次に航海、航空等を教える部屋、此処に六十萬から七十萬各々修業して居り、矢張り手帳がある。それぞれの部屋にドイツ全国の地図が掲げてあって何処にどの位の人間が修業して居るか一目瞭然になって居ります。其の外にまだ二つばかりスポーツの部屋を見たのですが、成績の手帳を総て綜合して検査する部屋もありました。其の如くにヒットラー・ユーゲントの本部はスポーツだけでもそう云うように整備して居る訳で、それが二十幾つかの部門に分れて居る訳です。そうして此のヒットラー・ユーゲントの生活は十四歳から十八歳に至る四年間に亘るわけです。それを修業すれば今度はアルバイト・ディンストに這入るのであります。此のアルバイト・ディンストは強制です。兵役の義務は勿論強制で兵役につく条件として此のアルバイト・ディンストを修業せねばならぬのであります。其のアルバイト・ディンストの間に於ても矢張り人物がそれを指導する人に依って手帳に記載されて、それから兵役に就く、兵役に就いてから又人物が検討されて行く。頭が良い人間で能く肚が据わってそうして正直だと云うような男は直ちに何千、何萬、何十萬人を指導する者に引き揚げられる訳です。私がベルリンに居りました時に、ドイツの外務大臣はどうも連盟派であってなかなかヒットラーの言うことを聴かないと云うことを聞いて居りましたのですが、ヒットラーはそれが嫌いである為にブォーレーと云うものをやった訳です。其のものは二十八歳であります。二十八歳と言えば兵役の義務を済して間もない訳でありますが、長い間其の人物は採点されて居った訳です。ドイツ国外にあるドイツ人を指導監督すると云うような名目で這入って行ったのです。自分の部屋を与えよと言うので、外務省の人は局長の這入って居るのと同じ位の部屋を空けて此処で執務して呉れと云った所が、斯んな小さい所で仕事が出来るものか、と云うので大臣に亜ぐ大きな部屋に一人で這入って行ったそうですが、そう云う肚の太い人だと云うことは前々見込まれて居ったものだと思うのです。又ヒットラーの秘書官をして居った人、或は碁の大会があって其の歓迎の演説をして呉れた男などと云う者は強そうで、頭が良さそうで、肚が太そうな人間でありました。兎に角青年の指導と云うものが実によく行き届いて居るように思いました。

 もう一つは労働者或は薄給者に対してのヒットラー、ムッソリーニのやり方でありますが、是も矢張り心的要素を作るに最も必要なことだろうと感じました。ヒットラーにしてもムッソリーニにしても機会ある毎に働いて呉れ、働いて呉れと云うことを言はぬことはない。貴方方は御気付にならなかったかも知れませぬけれども、ヒットラーがウイーンに参りまして僅か五分間の短い演説をした、其の中で何を言ったかと言えば、勤勉と努力と統一と云ふことを言って居ります。全く短かい時間に於ても働いて呉れと云うことを忘れない。農業の大会がありました時にも、どうか諸君働いて呉れ、出来るだけ時間を増して働け、大根一本でも余計作って呉れ、ドイツに於て最も缺けて居る所のものは此の生産の缺乏だと云うようなことを言って激励して、お前たちが余計作った物は必ず自分が責任を負って都市に配分し、都市からお前達の要求するものを持って来てやると云うようなことを演説して居ります。ムッソリーニにしても働いて呉れと云うことを言わないことはない。且イタリーの方は嘘を吐くものがかなりある為か、泥棒するな、嘘吐くな、働いて呉れ、そうして新ローマ帝国を建設しようと云うようなことを言って居ります。其様に働いて呉れ、働いて呉れと云うことを言って居ると同時に此の両英雄は是等働くことを要求する人間達に慰安を与えることを決して忘れない。ムッソリーニはドボー・ラボロー(労働の後)と云う施設をやって居る。労働者の悪くなるのは仕事の後の時間を巧く利用しないからで、其の時間に労働者に適当の慰安を与えるように保障してやれば労働者の性質が能く働くようになると云う考え方でドボー・ラボロー(労働の後)と云う施設をやって居る。労働者の悪くなるのは仕事の後の時間を巧く利用しないからで、其の時間に労働者に適当の慰安を与えるように保障してやれば労働者の性質が良くなり能く働くようになると云う考え方でドボー・ラボローと云う施設をやって居ります。私は其の一つを見に行っただけでありますが、身体を使う人達の為には或は絵を書く部屋であるとか、或は音楽をやる部屋、是はオーケストラ迄やるようになって居る。又瀬戸物を拵えて、それに絵を描いて焼くような窯迄あるとか、そう云うような設備がしてある。頭を使う方の人達には室内で運動が出来るように、丁度神田のW.M.C.Aでやって居るような、ああ云う設備がしてあります。其の外活動写真の部屋もあります。此の活動写真の部屋は労働者仲間が寄集って考案した部屋だと言って居りましたが、ボタンを一つ押せば大きな活動写真の部屋の天井がすっと静かに空いて、中の空気を入換える。そうして光線の工合とか、とても立派な活動写真の部屋が出来て居ります。其の他拳闘室、玉突室等も此のドボー・ラボローに設備してあります。其様にして慰安を与えて、そうして働いて呉れと言って居る訳であります。

 ドイツでイタリーのドボー・ラボローと同じような組織のものはアルバイト・フロントの中にあるクラフト・ドルヒ・フロイデ(kraft durch freude.)即ちK.D.Fであります、是は楽しんで働けと云うような意味かも知れませぬ、是も矢張り色々なことをやって居ります。夏は海辺に連れて行くとか、冬は日当たりの良い所に遊してやる、或は船に乗せてライン河を巡遊させる、私がラインとモーゼルの合流するライン・エッケに参りました時に一千人位の男女が船に乗ってライン河を下って行きました。最初はドイツの国家を、次にナチの歌を歌って居りました。そうしてハイル・ヒットラー、ハイル・ヒットラーと言ってとても賑やかであった、あれは何かと聞いた処、K.D.F.のやってるのだと言って居りました。労働者と薄給者にラインを見物させて居る訳です。尚ほ一九四〇年のオリンピック東京大会には何萬頓かの船四隻を拵えて、二萬人の労働者と薄給者とを日本に連れて来る、是はもう今日どんどん進行して居ります、秩父宮殿下も此の事はヒットラーから聴かれた事と思います。即ち七千の工場から各二名宛優秀者を選抜して東京に送る企てをして居る訳であります。それが一萬四千人、其外にそれに相当するような人間を加えて二萬人にし其人員を芝浦に碇泊せる船上に宿泊せしめ、そうしてオリンピックグラウンドに行くのだそうであります。斯様な大きな設備をして、兎に角労働者、薄給者に慰安を与えて置いて、そうして働いて呉れ、働いて呉れと言う訳で、確かに心的要素を作ることが、即ち精神総動員をすることがとても巧いように思います。精神総動員をすることはそれ等ばかりではなく、なかなかお祭が上手です。イタリーでは私はお祭りと云うものに出会いませんでした。ローマに滞在したのは僅か三日きりであったものでしたから、イタリーでは見ることが出来ませんでしたけれどもドイツに於ては度々お祭りを見ました。一番大きなのはニュルンベルヒに於けるナチの大会であります。ニュルンベルヒには恰度外苑のスタンドの四倍か五倍かのものが六つ位あります。其の上に今日あるものの四倍くらいのものを作りつつあると云うことであります。私の行った時にもスポーツのグラウンドを今一つ造ると言って其の起工式がありました。とても沢山のスタヂュームがニュルンベルグに出来る訳です。其処でSS,或はSAの日、或はヒットラー・ユーゲントの日或は模擬戦争の日と云った具合に御祭を続けます。模擬戦争の日は中々痛快でした。沢山の飛行機が飛ぶ、それが五千メートルの上空から垂直に降りて来る、それを高射砲で撃つと云うような事をしました。そうして斯う熱心に見て居る間に、全く一瞬に非常な立派な大伽藍が天空に出来たように思ったのであります。観衆が十五萬とか二十萬とか這入る大きなスタジュームの四方から二百五十本のサーチライトが一度に立った訳であります。其のサーチライトの高さは一萬五千フィートあるとの事です。チェッコのプラーグから見える位の高さです。一萬五千フィートの高さのあるサーチライトが一時に二百五十本直立して何の加減か之が高空で一點に集りまして、丁度二百五十本の綺麗な線が一緒になって天空に一大伽藍が出来たように思ったのです。確かに廻って居るものと最初は思って居ったのですけれども、構外へ出て見ると皆一本宛眞直ぐに立って居ります。是は飛行機を見る為のサーチライトなんですが、皆自動車に取付けてある、其の二百五十の自動車がやって来て、そうして一時にぱっとやったのだとか云う話です。下から見て居ると丸で蟲が飛ぶのか、星が舞って居るように見える、雲が掛って来れば天井が出来たように見える、とても壮観でした。斯う云うようなことをしてお祭をして居るのですが、ヒットラーは其処で演説します。そうして激励する訳です。最後にはドイツの国歌とナチスの歌を歌ってハイル・ヒットラー、ハイル・ヒットラーで散会するのですから、全く総動員されて行くのです。一方に於てドイツの国際的地位は向上するし、国民の生活は安定するし、失業者はなくなる、そこでお祭をするのですから、もっと能く働いてもっと良くしようと云う考が自然に湧くと思います。国民の精神が総動員されることは当然のように思う。花火でも両国の花火などと違って、忘れた時分にぽんと云う音がするのでなくて、どんどん続け様に打ちまして、各所に柳のような絵が天空に出来る。それが七、八分で熄んでしまうと、次ぎに普通の花火でやるのか、本当の大砲を撃つのか知りませぬけれども、正に戦が始まったのだと云うような感じがする音響を聞く、暗闇の空に漾々と煙が渦をなした頃を見計ってサーチライトで之れを眞紅にしたり、緑にしたり、黄色にしたりするので、誠に壮観です。兎に角ドイツはどんどん興隆しつつあるなと云う気分を国民に与えることは全く上手だと思います。オリンピック・グラウンドで野外の芝居を見ましたけれども、それはドイツの色々の歴史の芝居をするのですけれども、最後はドイツが大戦後非常に疲弊した所の芝居をし、其の次にドイツが興隆した所の芝居をする、SS,SAは勿論、軍人其の他一萬五千人位の者が其のグラウンドに集って行進等をする。最後は無論ドイツ国歌とナチの歌を歌い、ハイル・ヒットラーで散会する訳です。そう云うお祭騒の非常に上手なことが国民の精神を総動員することが非常に上手なことになるのだと思います。政友会も大きくなるにはもう少しお祭を盛にやらなければならないと云うようなことを考えた訳であります(笑声)。ヒットラーは今年は何処と何処でお祭をしようと云うようなことを始終考えて居るに違いない、何処は百五十年経ったとか、二百年経ったとか、三百年経ったとか云うので、今年は何処、来年は何処と云うようなことを考えてやって居るのではないか、演説を度々してもう厭きてしまったと云うような教育者を無理に捉えて、それを各所で演説させる。或は政治家を捉えて方々で演説させる、斯様なやり方とは玄に雲泥の差がある。斯の如くして心的要素を作り、而して物的要素としては貿易の調整を先ず計って公債を発行し、国防の充実と公共事業とかを併行してやって居るのであります。

 日本に対する態度は最早殆ど説明する必要はないのでありますが、ムッソリーニの日本に対する好意などはとても徹底したものです。或る国で武器がなかなか買えなかったが、夫れをムッソリーニに話せば三日間で直ぐ船に積み込める位に承知をして呉れた。其の値段もイタリー政府が武器を買うのと同値段で売れと命じて呉れた。又ブラッセル会議に代表者が出かける前に、どんなことを言ったならば日本の為になるかと日本大使館に聴きに来て呉れる。堀田君はああ云うおとなしい人ですから、遠慮して八分目位に言えば十二分に弁護して呉れると云うような工合である。ムッソリーニの日本に対する好意は実に徹底的のものである。而してムッソリーニはどの本を見ましても「ムッソリーニ・イズ・オール・ガバメント」と書いてあるのでありますからムッソリーニが日本に対して好意を持つ事は即ちイタリー全体が日本に対して徹底的友好の感情を有つと云うことになる訳です。閣僚がムッソリーニに何か話をしようと云う時には、紙に書いて一生懸命ムッソリーニ居室の隣室で暗記をしてムッソリーニの前に行ってそれを慄えながら読むのだと云うようなことを言う人さえある位であります。それ程でもないと思いますけれども、ムッソリーニの飛抜けて勢力のあると云うことの一端は之れに依っても知れる訳です。チアノと云う人はムッソリーニの女婿たるの故を以て今非常に羽振りを利かして居る。堀田大使などに向かっても陸海軍大臣を今朝呼付けて命令して置いたから、もう大丈夫でしょうと云うようなことを言うそうです。ムッソリーニに対して反抗的態度を聊かでも示し得る者はチアノ夫人即ちムッソリーニの娘だけだそうです。毎日七時にチアノはムッソリーニの所に行くそうです。それが或る日少し遅れた、チアノ外相は女中が起すのが少し遅かった、其の為め遅れました。其の女中は直ちに解雇しましたとムッソリーニに弁解した、ムッソリーニが女中は解雇してはならぬと命じてチアノの家庭に一ダースの目覚時計を届けたそうです。ムッソリーニの命令ですから其の後漸く女中を探し出したそうですが、ムッソリーニも少々やり過ぎと思って娘に夕食を食いに来いと言ってやったが、娘は、幾らお父さんが偉くても私たちの家庭に迄干渉することは余りよいことじゃないでしょうと言って行かなかったそうですが、そんなことを言えるのはイタリー全体に於て娘一人ある位です(笑声)。そう云う工合の勢力をムッソリーニは持ってる、それですから、日本に対するイタリーの厚意はムッソリーニと同様徹底したものであります。          

 ヒットラーもムッソリーニと同じように日本に対して徹底せる好意を有って居るものと思います。私がヒットラーに会った時にヒットラーは共産主義は世界文化の敵であり、世界平和の敵だ、東洋に於て共産主義を抑えて呉れるものは日本だけであるから日本を強くし、日本を冨まし、日本を通して東洋に於ける共産主義を撲滅し東洋の平和を作らなければならぬ。其の為に必要であるならば支那に於てドイツが有って居る利益を日本に譲っても宜いと云うようなこと迄言って居りました。其のヒットラーに会った日の五時に大使館に集りまして、一体どんなことを言ったのかと聞かれましたから、私は斯う々々言ったと言うと、どうしてそんなことを言ったのであろうと云うようなことを大使、参事官などは話して居りました。大島さんはそれが本当のヒットラーの肚であると申されました。参事官は貴方が明朗なものですから向うも知らず識らず明朗になったのでしょうと言って居りました、ヒットラーに会った時私は支那の善後措置のことを主題にして話ました。ヒットラーに言いましたのは、支那の政府は支那の国民の生活向上、或は国民の幸福増進などは考えない、支那の政府の要路者は自分の親族の栄達であるとか、生活の安定とかを考えるだけだ、之をネポテイズムと言って居る、故に支那の政府の力は弱めてしまう方が却って支那の国民の為になるだろう。それだから軍隊の廃止が必要であろう、日本は支那の国民の生活を向上さして、そうして支那をエコノミカル・マーケットにしたいのだ。誰かが、日本人は支那人をヒューア・オブ・ウッヅ・アンド・ドローアー・オブ・ウォーターにして置きたい、即ち木樵だとか、水汲にして置きたいのだと云うようなことを書いて居る人があるけれども、それは全く日本の真意でない。一体政治の目的は自分は口癖のように言うけれども、世界全人類の生活の向上を目的とすべきものだ、それだから連盟総会に於いて日本は未開発地の開発を主張したのだ、満州国の建国に助力したのも同じ趣旨なんだ、今度支那の戦争が済んで善後処置に対しても同じことだと云うようなことを申しました。之れに対してヒットラーは先刻御紹介したような返事をしました。其の時は何とも思って居なかったのですが、其の後ケップラーに会って問答した時に支那の善後措置についての私の主張が非常にヒットラーの気に入った事を感じました。私がケップラーに先づ第一にドイツと云うか、ナチと云うか、ヒットラーと云うか知らぬけれども、それの最高目的は東南ヨーロッパの進出にあるのだろうと聞きました。此の簡単な質問に対してケップラー滔々と述べだしました。それは簡単に申しますればフランスのことから言いだしまして、フランスは大戦争後ヴェルサイユ条約で英米の保障を得んとした。併し米は国際連盟から脱退し、英は単独の保障を厭ったので仕方なく小協商国連盟を作って之に金を貸して国防を充実さして、ドイツに対し自分を防御する包囲陣を布いた、けれども借りた金には利息を附けなければならない、是等の国は金を借りて国防の充実をした結果財政が赤字になって来て、其の方で苦しみ出した、そこでドイツは「極めて自然的な方法」と云う字を使いましたが、極めて自然的な方法に依って自分の勢力を植え付けて行った。其の自然的な方法と云うのは、是等の小協商国側から農産物を出来るだけ買ってやったんだ、そうしてドイツは是等に対して工業品を売ったんだ、是等の国民は皆喜んだ、フランスに就いて居て赤字財政になるよりはドイツと一緒になって居て生活を安定して行った方が宜いと云うようになったのだ、ドイツの勢力は極めて自然的の方法で東南ヨーロッパに進出せんとしつつあるのだと云うことを言いました。人に対して親切をして行くことに依って自分の勢力を伸ばす、それが自然的な方法である。私の世界全人類の生活を向上せしめる事が政治の目的だと云ったことが気に入ったのであろうと後で思った訳です。兎に角ヒットラーは矢張り日本に対してムッソリーニ同様徹底せる好意を有って居ると思います。唯ドイツがイタリーと同程度で日本に対して徹底的な好意を有つか、私がベルリン滞在中はドイツは所謂官僚国家であって未だヒットラーはオール・ガバンメントではなかった為めに独伊の間に幾分の差があったと思います。満州国承認の問題に付ても閣議で三大臣が反対したようなこともあり、結局大臣が更迭して満州国が承認されたような訳であります。往く々々はヒットラーもムッソリーニ同様に全政府になるのでしょう。日本に対する態度はそれ位にして、ムッソリーニとヒットラーに対して簡単なことを御話申し上げます。

 先づムッソリーニに会った時に一番初めの印象は、とても疲れて居るなと云うような気持をしました。兎に角エチオピアとの戦争の時全く独りぼっちになって断行した、又日々の努力は大変のように思います。ムッソリーニは、自分は二十時間労働するのだと言って居ります。二十四時間の中で二十時間労働するのだと言って居ります。二十四時間の中で二十時間労働するなどと云うことは果たして人間として出来るかどうか知りませぬけれども、そう云う声明をしてやって居る訳です。ヒットラーは人間は四時間も寝れば宜いと言って居る、片つ方は表から言い、片つ方は裏から言って居るだけですが、とても両英雄共に努力家のように思われます。そうして自分自から努力して、どうぞ諸君も斯の如くして働いて呉れと言うのですから効き目があるように思いました。私は最初英語で話して宜いかと言った所、ムッソリーニは自分は英語は下手だからフランス語でやって呉れないか、と言う。

 私はフランス語はよく知らないと答える。それではドイツ語で話して呉れと云う。私はドイツ語も話す程出来ないと答える。それでは仕方がない英語で行こうと云うことになったのです。英語は大抵僕等位だろうと思いますけれども、フランス語も、ドイツ語ももっとよく出来ると云うのですから、何時勉強したのか、偉いものだと思います。ベルリンへ来た時でもヒットラーと並んで露天で六十萬人とか、七十萬人を前にして、極めて流暢なドイツ語で長い演説をした、随分努力家である。そう云う勉強をしながら傍ら国防も、内治も、外交も、何でも一人でやっていくと云うのですから、尋常一様の人には出来ないことだろうと思います。

 ヒットラーの方は英語もフランス語も出来ない、唯ドイツ語だけです。此の人はムッソリーニ程働いて居るかどうか表に現はれてないので私には分かりませぬ、多くベルヒテス・ガーデン所謂山荘の方に行って居てベルリンに来ることは少ない。インサイド・ユーロップにはヒットラーに形容詞を附して、チャーリー・チャップリン・モシュターシュド・ヒットラーと書き出して居ます。チャップリンの髯に能く似た髯を付けてるヒットラーと書き出して居ます。チャプリンの髯に能く似た髯を付けてるヒットラーと呼び出す事は随分馬鹿にした書出し方です。ドイツに於ても手の付けられない大馬鹿野郎(Verruckter Herr)と言って居りました時代もあったのです。併し今日は全く違って居る、彼のコンセントラチオンス・ラーガーに政治犯人がどの位這入って居るか知りませぬけれども、大した数ではない。私が出発する時に末弘君が此の本を読んで行き給えと言って貸して呉れたフレデリック・シューマンと云うアメリカ人(シカゴ大学の教授)の書いた『ヒットラーとナチ専制』“Hitler and Nazi Dictatorship”それに依りますればドイツはテロリズムだけで政治をやって居るのだ、コンセントラチオンス・ラーガーには大変な人は這入って居るのだと云うようなことが書いてありましたから、随分多数の人が収監されているのだろうと思って居ったけれども、其の本に書いてあることが尤もだと云うような感じは起こりませんでした、チャーリー・チャップリン・モスターシュド・ヒットラーと云うような見出しで書いて居るけれども、ヒットラーは少しも俗慾がない、女に接せず、酒を飲まず、煙草を喫まない、金銭には極めて淡白だ、其の一例としてヒットラーの親類は昔通りにオーストリーの国境に於て貧乏をして居って、ヒットラーが総統になっても生活は改善されて居ないと云うようなことが書いてある。そうして直感の力と云うか、見透かしの力、是は本当にえらいようであります。ウインに乗込んで行ったのも確かに一つの直感力であり、ライン左岸に進駐したのも一つの閃きである。ドイツは大戦後全く首、足、手、総て金縛りにされたのでしたがそれを一つ々々破ってしまった。私はライン地方を一週間自動車旅行を致しました。其際ドイツ軍が倹約を破って進軍した所を見ました。国防軍は誰一人ヒットラーのやり方に賛成しなかったのですけれども、ヒットラーは三日三晩考えて実行したのです。此のインテュイションのパワーの例は沢山あります。又ヒットラーも口癖のにようにそれを言ふ様です。ヒットラーが日独協会長のアドミラル・フォルスターと云う人に『日本をドイツ人に諒解せしむるよい方法を考えてくれ、貴方がそれを三日三晩寝ずに考えて、是が宜いと云う結論を得たならば自分の所に持って来て呉れ、自分は又三日三晩寝ずに考えて、それが宜いと云う結論を得れば直ちに実現に努力する』と言ったと云うことをフォルスターが私に話して居りましたが、インテュイションのパワーは自分でも持って居ると云うように考えて居る様です。ヒットラーが政権を執る前に選挙に大敗をした時に政府から大臣になれと言われましたが見透しをして遂に入閣せず其の次の選挙に大敗して遂に今日の大をなすに至った、ムッソリーニが地中海からイギリス艦隊を追出した時にも矢張り同じようなことをやったそうですが、両英雄とも同じような性質を有って居るのであります。段々遅くなりましたから、今度はイギリスの話を申上げたいと思います。

 イギリスに参りました時は既にカンタベリーの大僧正やマンチェスターの市長が反日の街頭演説をした時であり又労働党はトラファルガル・スクエアで示威運動をした後であったためロンドンの街を散歩すれば石を打っつけられるぞと云うようなことを聴かされて行ったので、リヴァプール駅に着いた時に出迎えてくれた人々に聴いて見ました所が、そんなことがイギリスにあるものかと言って居りました。イギリスでは今犬の競馬が流行って居るそうです。犬は途中で小便をするので面白いのだそうですが、其の犬の競馬の時に或る英国人がとても聴くに堪えない侮辱を日本人にした。日本人は例の気性で直ぐにそれを揶ったそうです。そうすると其の傍に居たイギリスの婦人が此の英人が貴方に対して聴くに堪えない侮辱をしたと云うことは私は最初から聴いて居た。そうして貴方の怒るのは尤もである。此の英人のなしたことは我々イギリス人の最も恥辱とする所だと言い、其所に立って見て居った連中も皆其の女と一緒になって、貴様は怪しからぬと言ったので、其の英人は赤面して逃げて行った事があったそうです。日本人が揶った例はあるけれども、揶られた例はないと言って居りました。私は其の後電車に乗って見たり、街を一度か二度散歩して気を付けて居ったような訳ですけれども、不快に思った事はありませんでした。イギリス人はイギリス本国に於ては全くロー・アバイデイング・ピープルに違いないと思う。そうして道徳的だと思うのです。唯イギリス人が本国内に於て法律的であり、道徳的であるからと云って、イギリスが列国に対して同じような態度で行くと思うことは大いなる間違いだろうと思う。例えばアラビアに於て、是は小島海軍武官の弟さんから聴いたのですが、どうもイギリス人と云うものは怪しからぬ奴だ、土人の首に鎖を附けて働かして居る。女の土人が両脇に子供を抱えて、頭に盥見たようなものを載せて、そうして其の中に全財産を入れて逃げて行くのを見た。とてもイギリス人は非人道的のことをすると云って居りました。又、ヴェルサイユ条約で或る程度以上に国防を充実してはいけないと云うような約束をして居っても、反独の国々が国防を充実することに対してはイギリスは何とも言わない、寧ろそれに金を貸すようなことをし、ドイツの方の場合になれば条約違反だと直ぐ抗議をする即ち決して法律的であるとは云へない、又イギリスはフランコ将軍には最初反対の態度を採って居ったがフランコ側が強くなって来れば、一番先にそれを承認せんとする。即ち外国に対しては正邪曲直と云うようなことからでなく、自国に対して利益であるか、不利益であるかと云う見地から行動する様に思います。イギリス人は常に自国第一主義と言うのを徹底さして行く様です。国内に於て道徳的であり、法律的であるのも自国第一主義からであり、外国に対して非道徳的、非法律的な場合もあるが、是も自国第一主義から来て居るものだと思います。兎に角そう云うような国柄であるものですから、最初ロンドンに参った当時政府の要路者に会っても仕方がない、もう直ぐ上海が落ちるだろう、上海が落ちてから政府の要路者に会う、それ迄は親日の英人たちにだけ会って居ようと考えて二週間ばかりは親日家の連中に会って居りました。是等の中でキングスレーと云う人にも会いました。此の人は財界の重鎮で、国際貸借のオーソリティです。親日家の英人でもとても日本を誤解して居る人が多いようであります。ムッソリーニに面会する日が近づいた為めロンドンよりローマに行き再びロンドンに参った時には既に上海は陥落しましたので、次に参りました時にはイーデンだとかチェンバレン、或は上院議員、下院議員、新聞記者等に会いました。イーデンに会いました時には丁度日比谷の大会で反英の決議をして其の電報が来て間もない時でした。其んな決議が来たと言って読んできかせました。私はイーデンに一体蒋介石政府をイギリス政府は非常に援けて居るけれども、蒋介石政府は必ず潰れるに違いない、日本に刃向かうことを続ければ自滅する外なく、日本の言うことを聴けば共産党から射殺されるだろう、であるから蒋介石政権が潰れると云うことは明瞭なことである。次に出来るアンテイ蒋介石政府は蒋介石政権に対して貸した金を否認するであろう、丁度ソヴエート政府が旧ロシア帝国の債務を否認したと同じだろうと言った所が、一体どう云う根拠で英政府が蒋政府を援助したと言うのか、英が独仏米等より以上に憎まるる理由はないと申しました。私は毎日のタイムスを見れば分かると言うと、タイムスの記事には誤があると述べました。陸海軍のアッタッシェであるとか、或は財務官であるとか、或は実業家などに会って聴いて見ても、イギリス政府が事変後蒋政府に金を貸したとか多量の武器譲渡とかの事実はない様に言っておりました。チェンバレンに対しては私の亡父のことや或は彼の亡父ジョョセフ・チェンバレンのことなども話した。ジョセフ・チェンバレンは日英同盟の発案者であり、又今のチェンバレンは非常に親思いの人でありますから、日本に対しては確かに好意を持っております。関税の障壁などを撤退しなければいけないじゃないかと言えば、自分の方の力で出来るならばどうしてもそう云う風にしなければならぬ。又支那事変が済めば日本との間に色々の事に関して条約を結び度いと言って居りました。非常に慈愛深い眼を持ってると思った。国民多数の尊崇の的となって居るのも尤もだと思いました。イギリスの御話は此の程度にして置きます。試験制度のことでちょっと思いだしたものですからそれだけ御話して置きます。

 ケンブリッジの試験は教える先生が試験するのでなくして、教える先生と試験をする先生とは違うそうであります。そうして先生の言ったことを其のまま書いたのでは漸く卒業が出来るだけ、及第ができると云うだけで、自分の意見を纏めて、其の自分の意見を附けなければ決して第二位と云うクラスの中に這入らないそうです。或る時「エリザベス時代の農業政策如何」と云う試験問題が出た。其時エリザベス時代に何をしたか知らない学生が、自分の信ずる農業政策を滔々と書き連ねて、エリザベス時代に於ては此の政策を実行せざるが故に不当であると云うことを書いた、其の人が一番であった。所がエリザベス時代で実際そう云う農業政策をやって居たならば嘘を吐いたことになりまして落第は必定であった。非常に心配して居った所、幸にそれが実行されて居なかったので其人が一番になった。そんな話をケンブリッジで聴きましたが、誠に面白いことだと思いました。東京帝大の先生達から平素の教授は面白いけれども試験をする時は誠に苦しいとよく聴きますがケンブリッジの様な試験制度にしたらばさぞ喜ぶ事でしょう、喜ぶ様に仕組まるれば自然よき教授が集る事と思います。尚イギリスは老獪国だとか何とか言うて居りますけれども、決して私はそうではないと思う。キングスレーも話して居りましたが、一昨年イギリスに還って来た投資額は三億パウンド(即ち五十一億円)で海外投資の全額は四十億パウンドあったそうです。英の経済上四十億パウンドの海外投資は必要であるから若し日本にリプレゼンタチブ・ガヴァメントが出来たらばイギリスは喜んで金を貸すと話をして居りました。

 次にアメリカについて簡単に御話して止めます。アメリカに参りましたのは十二月の十四日だったと思いますが、丁度パネー号事件が起きてから二三日後であった。非常に空気が悪いから、財界の巨頭に会って此の空気の悪いのを見て呉れと云うので、クーンローブと云う会社のストラウスやハナワーに会いました。クーンローブと云うのは日露戦争の時に金を貸して呉れたシックがパートナーとなってる大きな財閥であります。彼等は貴君が政友会のリーダーと云う話であるが、夫れなれば高橋さんの総裁であった党派であろう高橋さんは自分の友人であるからフランクに話しても宜いか、第一にお前に注意することはアメリカに来て金を借ると云うような話は何処へ行ってもするな、一ドルの金だって決して貸す奴はない、日本ではまだ革命が何度起こるのか分からないじゃないか、日本には革命など起こったことはないと云えば、そんな筈はないと云う、現に高橋さんが殺されたじゃないかと云うようなことでして、とてもえらい見幕で日本を少しも信用して居りませんでした。モルガン系統のラモンとに会った時にも現在の日本を信用して居なかった。兎に角アメリカのフィーリングと云うものはとても悪かった。ニューヨークに行った時には政治団体、婦人団体、平和団体等五十余の団体が集って日本品ボイコットの決議をした。其の中には女優団体も這入って、高い所に上って靴下をぬいで見せてアメリカ風のボイコットをやって居った。シカゴに行った時には丁度ニューヨークから電報が参って居りましたが、男女の学生が集って、男はネクタイを外し、女は靴下を脱いで見せて之れを燃やしてボイコットの決議をやって居ると云うようなこともありました。私が行く前でありましたけれども行ってから新聞にも出て居りましたが、ルーズヴェルトがシカゴで演説をした時に、一体伝染病が流行する時には其の防止の為に国家は互いに協力し、退治する。今や東洋では条約を破毀し、人道を無視する伝染病が流行してる、各国は協力して之を退治すべきだと云うような演説をした。それに対してルーズヴェルト大統領と競争したランドンまた次の共和党の大統領候補者或は又例の上院議員のボラーと云うような連中は皆ルーズベルトに電報を打って、ルーズヴェルトの説を支持すると言った。それに対してルーズヴェルトが“We don’t want peace at any price.”という文句を中に入れて返電した、如何に犠牲を払っても平和にして置かなければならぬ事はないと云う返事をした訳であります。当時イーデンは議会で米国政府とはデイリーに協議をしてる否コンスタントリーに相談をして居ると答弁して居りました。私は全く一触即発と云うような気が致しまして心配しました。ニューヨークの若杉総領事も心配しておりましたが、齋藤大使は本当に見透しのよい人と見えまして、齋藤君はなあに、アメリカが戦に起つものかと言って比較的冷静でありました。私はこちらの大使が紹介して呉れましてキャッスルに会いましたが、其のキャッスルは外務次官補(今は独逸大使になりました)のフユー・ウイルソンが、日本と国交が断絶した結果はどうなるかと云うようなことを聴きに来たと云って居りました。全くアメリカ政府は国交を断絶する積りで一時居ったらしいです。其の位の状態であったのですが、唯アメリカは不景気で、物が売れない、日本から武器を買いに行った人が、どうしても最初は武器を売って呉れなくて困って居ったが、其の内段々不景気の度合は深まって行き、例えば労働時間が一週四十八時間であったのがどんどん減って、遂には一週二十四時間、一週四日だけ働いて一日の労働は六時間に切下げた、そう云う訳で従来の注文は取消が来る。将来の注文は全くないものですから、今度は武器製造会社の方から日本に買って呉れと言って来るようになった。其の向うの弱みにつけ込んで大分負けさしたと言って居りましたが、その位に不景気だそうであります。多くの会社の労働時間は二十四時間であります。又フォード会社が解雇したのは参萬五千人、U.S.スチールが解雇したのも三萬人以上、其の他の会社もどしどし職工解雇をするものですから、職工解雇問題と云うのが議会で非常に喧しい問題となって居りました。アメリカに於ては失業救済法と云うのがあって、失業者に対しては救済をしなければならぬのですが、其処へ失業者がどんどん殖えて来たものですから、そこで職工解雇問題と云うものが非常にやかましい問題になった訳です。其の位不景気であったものですから、此のルーズヴェルトが主張した国際強調主義に対して孤立主義が非常な勢いで台頭しました。アメリカにはいつでも国際協調主義と孤立主義とが対立して居ります。ルーズヴェルトが国際協調主義を唱えたのは真意であるか、真意でないか分かりませぬ。日々新聞には、真意でない孤立主義に持って行きたいと思って逆手を使ったのではないか、と言って置きました、が其真偽の程は知りませぬ。兎に角ルーズヴェルトが国際協調主義を唱えたのに対して孤立主義が台頭して、到頭孤立主義が大勢を支配しました。戦争にもならずに済んだことは非常に喜ばしいことと思います。イギリスは利害関係で態度を定めますから日本に対する悪い空気も案外早く直りもしましょうけれども、アメリカは感情から来てますから、アメリカの空気が速かに変転するものとは思われませぬ。従って日本の輸出品で完成品として行くものはアメリカではもう殆ど売れなくなりはしないかと思います。唯生絲は之を靴下にするのはアメリカの会社でありますから、生絲が非常に減るということはないだろうと思います。沢山の職工を雇って居るアメリカの靴下会社が生絲のボイコットをする大頭に金を呉れてやれば、生絲のボイコットはないだろうと思います。私はアメリカ人で人殺しが警官に追われて逃げて行く、巡査が沢山追って行く、滔々捕まりそうになると金をばらばらと撒いて逃げる巡査は皆それを拾い出す、其の間に逃げてしまうと云う筋の活動写真を見ました。全く金が物を言う国らしいです。故に靴下会社が金をやれば生絲のボイコットは余り激しくならないと思います。唯完成品の輸出はほとんど止りはしないかと思います。新聞に出て居りましたが、或る職工の神さんがテンセン・ストアで物を買った、主人の職工が帰って来てメード・イン・ジャパンと云うマークを見て、斯んなものは返して来い、返して受け取らなかったら棄てて来いと言ったと云う事実がありました。其の位日本に対するフィーリングが悪いと思います。

 まあ大体此の位にして私の雑談を止めます。唯日本に帰って来て一番にどう云う事を感じたかと云うと、どうして支那の事変に対してどう云う風にするかと云うことが一致しないのだろうと云うことです。どうして之に対して日本の国論が一致しないで居るか、此の国論が一致しないで挙国一致と云うようなことを言うことは間違って居やしないか、次に日本で愛国々々と云うようなことを売物にして、そうして非愛国的な行為をして居る人がありはしないか。例えば東京帝大の法文科の教授は共産主義だと云うようなことがアメリカの新聞に出る。向うの人は驚いて、帝国大学の法文科の人が皆共産主義だと云うのは本当かといって聴く、高石君は此の問に対して困ったそうです。又政策本部を愛国国体が占拠する、是は政党が国民の世論に反したことをやって居るからだろう、支那との戦争だって国民の一部の意思に依って居るのだろう、国民の多数は反対であろうと外国人は思う。向うの政策本部、殊に英国の保守党のクラブなどは中々古いクラブで、ナポレオン三世が贈ったと云う銀大花瓶が飾ってある。又ウォータールーの戦場の大壁画がある位の立派なクラブであります。そんなものだろうと向うの人は思って居る政党の本部を愛国国体が二百人三百人行って占拠したと云うようなことは小さな一つの革命位に思う、余程国民各自慎んで貰わないと、直ぐ誤解される。愛国者と言っても実際の愛国者もあり、贋の愛国者もあるでしょうけれども、其何れたるとを問わず、お互いに慎んでやらなければ本当に国交上重大な影響を及ぼすのである。日本は名実共に一等国になったものが其の重厚さをもって居ないように感じられるのは誠に遺憾に堪えない次第であります、是れ位にして今日のお話を終ります。(拍手)

         ※本稿は昭和13年4月20日午餐会における講演要旨です