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学士会アーカイブス

廣田首相就任祝賀三八会 小室 龍之助 No.580(昭和11年7月)

     
廣田首相就任祝賀三八会  
小室龍之助 No.580(昭和11年7月)号

 
  明治三十八年東大法科卒業生から成る三八會では六月八日正午より會員内閣總理大臣廣田弘毅君の親任祝賀會を在學當時の恩師諸先生と合同して學士會館で盛大に催した。是より曩同會が廣田首相に送つた案内状は同窓中より總理大臣を出した喜びと感激の文字で綴られてゐるから左に掲載する。

謹啓 新綠の候愈々御淸祥奉賀候 陳者曩に組閣の上時難克服の大命一と度降下するや君は楠公の心事を以て之を拜受し隱忍克く擧國一致の内閣を組織して 上宸襟を安じ奉り今や非常時日本の難局打開に邁進して下國民の信賴に應へられつゝあるは誠に邦家の爲め慶賀に堪へざる處然り而て一方我等同窓中より斯かる有爲の首相を出したるは眞に無上の光榮として一同感激罷在候次第に御座候就ては早速御就任祝賀の會を開き一同より邦家の爲め刀折れ矢盡くる迄御奮鬪相祈度存居候處時局多端の折柄却つて御迷惑かとも存じ暫く差控へ居候次第然るに特別議會閉會後國事益々多端の折に拘らず特に來月八日御繰合せ被下候趣拜承且又先日來恩師諸氏よりも當三八會と合同して祝賀會開催方御希望有之候に付旁々來る六月八日正午より恩師諸氏と協同して尊兄を赤門出身の總理大臣として由縁ある一ツ橋學士會館に迎へ衷心より祝賀の意を表し度候間何卒御賁臨の榮を賜り度此段御案内申上候     敬具

  昭和十一年五月三十日
            三八會世話人
                星埜 章
                牛塚虎太郎
                阿部 壽準
                野守 廣
  廣田総理大臣閣下

 六月八日は朝から多少曇つて居た爲め陽氣は大分冷しく風もなかつたので新綠の街路樹に彩られた都大路は爽かに心地よい日であった。公務大忙であり時節柄警衞の都合等もあつて主賓の一行は正午に到着の豫定であつたから定刻前に出席者は全部揃つて主賓の到着を待ち受けた。恩師先生方は故人となられた方々もあり、又一木先生や土方寧先生、松本烝治先生などは旅行、其他の御都合で御見えにならなかつたが小野塚、松波、山田(三良)、加藤(正治)、岡田(朝太郎)、山崎、野村、岡本(芳二郎)、の諸先生は出席せられたし會員の方は五拾名近くの大多數で定例の午餐會は勿論のこと卒業二十五周年、同三十周年謝恩記念の特別大會の場合よりも、多數であつた樣である。中根貞彦、佐竹三吾、佐藤雄之助三君の如きは他用を兼ねて上京せられたそうであるが其の他にも遠方から態々參會せられた諸君もあつた。在學の當時を顧みれば正に「ワンジエネレーション」以上を經過して居るのであるが容貌風彩の大した變りもない樣に思はれる者もあれば又大に變化した者もある。併し乍ら有形無形の變化、時の經過を超越して在學當時の氣分に若返り其當時の記憶の内に蘇るのであるから、かかる會合の雰圍氣ほど靑春であり元氣であり心床しいものは外の如何なる場合にも味はひ得られないものであると思はれる。殊に老境に入れば入るほどかゝる感じが深くなるのではないかと思はれる。

 この日の來會者一同及食堂のスチュアード・ボーイに至る迄美事なチューリップの造花襟章が配られ孰れも之を襟に附けて若やいだが是は廣田君が和蘭公使時代チューリップを非常に愛好して栽培して居たので其内同君が作り出した新種として世界の植物圖鑑にも載つてゐる學名ケー・ヒロタ種に模したものだそうで眞に思ひ付のものであつた。

 斯くて待つ間程なく廣田君は石田秘書官を帶同し大勢の警備員及警官に衞られて到着した。なごやかな空氣の内に懐かし氣に恩師諸先生並に各會員の間を縫つて一巡挨拶して廻はれた。一寸したことではあるが混み合つて居る間を自分から縫ひ分けて挨拶して廻はられたと云ふことは感じの好い風景であつた。

 廣田君の容貌風彩は前に描いた二つの型の内でその前者に屬するものであつて、只變つたのは素朴であり蠻カラであつた當時靑春の悌が多年外交社會の磨きにかけられて荘重にして端麗而して其内部には毅然として犯すべからざる底の感觸を盛つた好箇の偉丈夫になつて居た丈の點である。

 それから一ト時寫眞班の撮影がありカクテールの杯が配られたりした後に食堂が開かれて一同別室の食卓に就く事になつた。主賓たる廣田君と恩師諸先生の席次と幹事の座席丈は指定してあるが會員は任意随所に着席せられたいと云ふ野守幹事の指圖に從つて一同其の通りに着席した。食卓の上には一面に百花撩亂と西洋草花を花壇風に飾つたのが主賓始め一同の目を慰むるに充分であつた。

 今日は學士会館が開設されて以來赤門出身の總理大臣を始めて迎へた譯なので學士會側よりも歡迎の意味を以て特に浅野書記長が列席せられた。

  暫くの間は口と手が多忙である。カクテールでほんのりと來て居る處へ日本酒、葡萄酒、ビール、サイダーと精養軒特選の珍味に依つて空腹が滿たされる。この日の食事は廣田君や諸先生の健康を考へた幹事の心盡しであらうか特に獸肉類を避けてある等も嬉しかつた。さうして陶然として愈以てワンジエネレーションを超越して居る間に席の一隅から拍手の音が響き渡つた。幹事の一人牛塚虎太郎君は野守君の示唆により主賓に對して祝賀の挨拶を述べ始めたのである。

  我々三八會は卒業以來三十年春秋の旅行は勿論毎月の例會も仲々賑はつてゐるが此の間只三囘特別の會を開いた。その一は卒業二十五周年の會、その二は三十周年の會、そして今一つは今日の廣田首相の祝賀會である。
 と冒頭して二・二六事件直後廣田氏の組閣の事に及び一死報國は男子の本懐であり日本の最高道德は一番大切にするものに死ねよと敎へてゐるのであるから今や非常時國難の秋に當り國家の爲め君の奮起を切に望んだ次第である、乍併之を三八會員の立場から特に三十年來の友人にとつては君のこの心事に對しては眞に言ふに忍びざるものがあつたのである。

 次で廣田氏在學當時の話に及び穂積陳重先生の書かれた卒業生就職備忘録の中には廣田君は當時支那問題の調査解決に當り度い希望を有してゐると誌されてあつた。其後二十五年會の時には開會當日駐露大使に親任せられ親任式終了後直に神田明神開華樓の當會へ出席せられたのを覺えてゐる。其後三十年會の時は帝國の外務大臣として世界の政局に立つて居られ今や内閣總理大臣として君を迎ふるに至り三八會員としては我事の樣に喜び且心配してゐるのは尤もなことである。誠に感慨無量悲喜交々至る氣持であると述べて席に着けば、次いで主賓廣田君の右側に着席せられて居た恩師の一人前東京帝大總長──任期二囘を重任せられた名總長──小野塚先生が流暢にして圓熟、御自身からも漫談的にと仰せられた樣に陶然の空氣にふさはしい碎けた祝辭をお述べになつた。其の御話の内には二八會の濱口君、三八會の廣田君等と云ふ御詞もあり、又我々は敎壇で講義をした許りで實は恩師でも何でもないが。今更恩師と云はれて見ればこそばゆくはあるが嫌やな氣持ではない。帝大から赤が出るとかなんとか言はれるが廣田君の樣な立派な方も出るのだから大いに帝大の爲め名譽恢復となつた譯であると云つたお話もあつた。最後に先生の音頭で一同杯を擧げて廣田君の健康を祝した。

  次に野守幹事が立つてチューリップ襟章の由來を述べた後、廣田君の半生に敬意を表する意味で「廣田弘毅傳」を食後に配付しますから御持歸りを乞ふとて其内容の一斑を説明し更に恩師岡田朝太郎博士の即詠とて

    敎へ子の世に出でますを
              見るにつけ
    たゞうれしさに
              涙こぼるゝ

  又會員長郷有泰君の左の如き狂歌を披露して敦れも大喝采を博した。

   ひろた(廣田)運と 謙遜なれど
       楠公の心ぞ君に   光輝(弘毅)與へし

 次に拍手に迎えられて廣田君が起立した。

 此の重大時局に當りまして、揣らずも私如き微力のものが大命を拜しましたことは洵に恐懼に堪えない次第であります。私はこの大任を果して完ふし得るやと日夜鞠躬報效の誠を盡し度いと念願してゐるのであります。
 外交方面のことに就きましては多年の經験もあり、大體の見透をつけ得ることもあるのでありまするが、内政のことに付きましては全く素人でその事情も複雜多難でありますから庶政一新はなかなか容易な事ではないのであります。古人が野に遺賢を求めたとか、又どんな人であらうが善言は之を聽いて受け入れたとか申す樣な事を聞いて居りまするが、何れも至誠を以て重大なる局に當つた人々の苦心の存する處をしみじみ思ひやられるのであります。恩師諸先生方は學問の點に於いて勿論、其他の點に於きましても今尚舊の如く先生であり又同窓たる會員諸君は多年國家社會の各方面に活動せられて、多種多樣の知識踁驗を有せられること故、私を後援すると云ふ意味ではなく帝國の爲にと云ふ御考にて御協力を御願いたし度いのであります。

  と云ふ趣旨の挨拶をせられた。誠に率直にして眞心其の儘をありのまゝに披瀝された御言葉であつたと思ふのである。次に松波先生が立たれ、廣田内閣は少壮内閣だから悪習を打破することをやつて貰ひ度いと希望を述べられ其他廣田君の昔物語等があり終つて茲に芽出度く宴を閉じたのである。

  それから思ひ思ひに席を離れて再び元の控室に戻り記念の撮影をした後、又々廣田君を取り圍んでいろいろ話し合つた事であつたが、廣田君の態度は今尚昨の如く、人に接して城府を設けず腹心を披いて衷情を吐露し、正に赤心を推して人の腹中に置く底であるから接する者をして直に肝膽相照すの思あらしめる。

  歡は盡きざるも國務の多忙は長く廣田君を留むる事を許さず、一同名残を惜しんで君を送り、各自も亦それぞれ歸路に就いた。(昭和十一年六月十二日 於白雲草堂)