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支那問題 吉野 作造 No.334(大正4年12月)

     
支那問題  
吉野 作造(法学博士) No.334(大正4年12月)号
 

 私はここに支那問題と題を掲げましたが、支那問題としては種々の問題があろうと思いますが、私は今晩は近頃世間にやかましい帝政問題に範囲を限って、愚見の一端を申述べようと思います。

 今年の秋の初め頃にすでに支那では国体を変じて帝政とするということがいい出されましたが、マサカ袁世凱が皇帝になろうなぞとは見えませんでした、然るにマサカと思って居ることが、何時とはなしに問題が進展して、いよいよ帝政実現の機運が熟して来たので、日本を初め英露仏の四箇国が帝政の延期を警告するということに立ち至りました。もっとも支那では体面上いったんこの警告を拒絶しました、日本が最後まで之を思い止まらせる積りかどうかは知りませんが、日本も之をいい出したからには、絶対に其言葉を貫徹しなければ体面が立たない、また支那も日本の警告によりて思い止まるとすれば、支那が意志を屈して日本に従うことになるから拒絶するのが当然である。しかし四箇国も連合してするに於いては、ムゲに之を退けることも出来ますまい。私の思ふにはもし日本始め四箇国連合の勧告が極端なれば、日本は目的を達することは出来まいと考えます。私は今度の事に就いては外務当局より少しも聞いたこともありません、また勧告の目的が単純な延期であるか、全然思い止まらしむるにあるかも知りませんが、結局に於いて何処までならば支那が同意するであろうか、それにより外交の成敗が決まることと思います。由来私は支那に対する日本の要求が過大であると観察して居るのであります。去年の暮から今年の春にかけての税関問題なぞも、私は余りに過大ではないかと観察して居ました所が、最近に協定されたる所によりて見れば、私の初めの考の通りとなりました。これによりて是を考えれば、今度の事件なぞも余り過度であれば日本の目的を貫徹することは不可能であろうと思います。実際支那の方面から考えれば、悉く日本の旨に従うのは困難だろうと思います。私の考によれば、袁世凱をして帝政の実現を思い止まらしむることは駄目だろうと思うのであります、もし我国の国民が既にそこまで進んで考えて居るならば、其外交は余程困難なことと思います。かくはいうものの、これとても実は私は甚だ浅薄な根拠からした憶測に過ぎません。

 尚初めに一言御断りするのは、私は最近の事はよく知りません、私は実は先年モット詳しくいえば私は明治39年40年41年と3ヶ年程、袁世凱の子息の処にあって家庭教師をして居りました時の古き材料に基づくのでありますから、決して危険でないことはありません。しかし国民の根本思想がそう急に変化することが少ないのでありますから、清朝が倒れて中華民国となりました今日に於いても、余り変化はあるまいと思います。私の此論も疑いなき論結であるとは申上げられませんが、只私の考えだけを申し上げようと思います。

 私の考える所に依れば、支那の共和政を改めて帝政とするというのには、種々の原因があろうと思います。虚栄的の欲望も其一つでありましょう、袁世凱の門下生や子分等によりて動かされた点もありましょう、また世間では袁世凱の子息の克定が帝政運動の中心であるなどとも伝えて居ります。しかし私は袁克定はそんな人物でもなく、またそんなことが出来ない境遇にあると思います。元来袁克定は不治の病にかかって居ると伝えられ、またそれほどの病気でもありませんが、実際界に活動し得る人ではない、一体が非常に臆病な人で、これは袁世凱でもそうでありますが、虫歯でも切ることの出来ない程臆病であります。先年落馬して負傷をした時にも、此臆病から外科の手術を受けなかった為に、今では言葉も判然せず、体も半身不随という有様でありますから、この袁克定が中心であるということは信じられません。

 しかし帝政を言い出した者―具体的の問題とした者は極く少ないが、一般の世論―世論といった所で支那の世論というのは、国民全体というよりは寧ろ政府の官吏社会の世論ということに帰着しますが―は、此支那の帝政問題とは密接の関係のある者であることは推測せられます。即ち支那の帝政であるか共和政であるかということは、支那の政府の官吏の死活問題であるのであります。何故となれば、支那の政治は一種の閥族政治、親族政治であります、中央の大小役所は勿論地方の諸役所も殆ど悉く親族、友人、古い知己から成立って居ります、私は帝政問題の根源は此処にありと思うのであります。大きく之を見れば袁世凱が天下を取れば、其政府は袁の一族郎党を以て形づくるものであるから、もし他人が大総統なり皇帝なり、兎に角に天下を取ることになれば、是等の大小諸役人の地位が危うくなる、即ち大総統の代わるということは、ちょうど我国の昔の大名の国替と等しく、或は浪人したり、或は小録となったりするのであるから、大総統なり何なりの所謂親分の変動は常に懸念すべき理由があるのであります、それであるからどうしても其地位を継続せんとするには、袁世凱の一代大総統たるのでは晏然たるを得ない、そこで大総統世襲説だとか共和立君説だとかの諸説が起こり、結局袁皇帝説が行わるるに至ったと見る方が、支那今日の問題の原因を了解することが出来る。今度4ヶ国の帝政延期の警告に接した時、曹汝綸が嘆じて、「大総統世襲説にして置けば宜かった」といったということであるが、之を見ても其原因を知ることが出来る。よしまた之れを直接の理由とせずとも、相当の根拠として居ると見られる。此際甚だ馬鹿気たることであるけれども、役人の地位の死活問題と解すれば、彼等には重大なること勿論であろう。

 支那の政治意識は高い所から低い所に至るまで、上述の如く閥族政治、受負事業であるということは、今日では幾分変化はしたかも知れないが、大体に於いては昔ながらに同様であります。例えば、田舎の学校なども、校長の受負仕事で、当局などの報告も、ホンの形式に過ぎない。此受負制度の明白な例は,知県知府などに見ることが出来ます。そし其下役に異分子を入れることを厭うのは、其弾劾を恐るるからであります。知府知県が交迭すると先づ自分の親族だとか、昔の学校の先生だとか、古い友人だとかを呼び寄せて役所を作ることは、恰も私人の営業をなす時の様であります。一度官場に時を得れば三代を養うとか、三年清知府十萬の雪花銀とかいうのは、全く事実でありましょう。其一例には、支那は財幣を計ふるに大は両を用ひ、小は元を用います。今もし百両が百五十元に相当するとすれば、役所が租税を徴収するのに両を以って課し、金は元を以て納むべしと命じ、そしてなお之に付け加えて、当役所では、百両を百六十元又は百七十元とするなぞと掲示し、其差額は当然役人の所得となします。尚もう一つ知県の蓄財する例は、之は私が直接に当人から聞いたことでありますが、袁の許に出入りする物で、門の側に住み、会計の下役をして居るものがありましたが、此者が知県となるの運動をなしましたが、明治39年の秋急に死去しました。後其息子に逢って聞けば、此某は知県となる為に家財を賄賂に消尽してしまったが、もう半箇年生きてくれれば、子孫代々困らぬ程の財産を得たるものをと嘆じて居りました。聞けば県にもよるそうですが、3ヶ月も経てば蓄財を得るということでありますが、此処に不正がなければなりません。知県一人罷めれば浪人するものが六七十人もあるということであります。即ち一人知県となるならぬは六七十人の運命に関するのであります。

 知己親族の一人が知県となれば、其知己親族が如何に利益を得るかというに、此処に一つの好適例があります。

 或土地にあったことですが、或友人が知県となった時に、其友人が其土地に来て漁業会社の看板を掛け、其土地の魚商に毎月金を納むる様にと告知したのであります。漁業会社と申した所で外に人があるのではありません。勿論自分一人なのであります。そして或る魚商が基金を持って来なかったというので、其人を途上に擁して官憲が荷って来た魚を蹂み躙ったということであります。最も此人は其隣家に水産学校の看板をも掛けて口実は設けて置きましたが、実際は何もやって居たのでなく、私が訪ねた時などは、これからやるのですといって居ました。

 こんな風にして其役人は勿論親戚知己までも金を儲けようとするのでありますから、知県が一人罷めらるる際などには、其親戚故旧は極力運動します。運動と申した所で賄賂で御座いますが、これもまた止むを得ないことで、上官の役を罷めらるるのは、其部下が困ることになるので、上官の地位の安固は府随者数十百名の安危に係わり、上官の転任には大低部下を伴って行くことに定まって居り、たまたま何かの都合で残されたものは次第に貶せられ、終には罷免せられて仕舞います、之に反して其転任して行った前任者が勢力のあるものであると、却って優遇せらるることなどがあります。袁世凱がかつて直隷の総督から北京に転任した時などは、其部下に職を与える都合上から、同一の役所を二つ作り、其後を襲うて直隷総督となった楊子襄が、袁氏をはばかって其残して行った部下や施設をそのままにして置いたが、猶其人々は不安を感じ、或は転任し、あるは貶せられた等のことがありました、此楊氏が直隷巡撫から天津に転任した時は、其部下を三百人も引連れて行って其仕末に大いに苦しみ,丁度其時私が天津の法政学校に居りましたが、一般官吏は非常に不安を感じて居りましたが、果たして其部下の一人を役につける為に学校にも交渉あり、ついに新たに副校長という役を新設したのであります。尤もこれは只其人に役を与え俸給をやれば宜しいので、即ち学校の受負者たる校長が其収入の幾分を損すれば宜しいので、此副校長なぞは学校に出勤せず全くの名目だけでありました。そのほか或は塩務省から出金せしめ、立憲制度研究会という様なものを特設して部下に授職した例なぞもあります。

 かくの如く警察といわず、学校といわず土木といわず裁判所といわず凡て皆受負仕事で、出来る丈け仕事を多く遣り、金を多く儲くることを考ふるのであるから、異分子を容るることを厭うのは無理のないことで、日本に倣って新式の組織に改めたが、其実は少しも昔と相違なく、其上官たるものも只報告を形式的に受くるのみで、巡視なぞということは全くありません、たまには奉天将軍に微行視察したものもあるそうですが、こんなのは却って侮蔑を受けます。袁世凱なぞも全くそれで、役所許りではなく、自分の家ですら全く巡廻したことがない様であります、というのは私が家庭教師をして居た時に、かつて便通を催し、便所を借用せんとしましたが、御承知の通り支那の家屋には便所の設備なく、客なぞが便所の借用を申し出づるのは非常の失体に当るそうですが、其時袁克定は大分困った様子でありましたが、ついに家臣を呼んで私を案内させました、其案内さした所は庭の一部で家の羽目に沿うた所でありましたが、そこで私は数年を経過した不潔物の放棄されてあるのを発見しました。こんなのは決して珍しいことではなく、門から玄関までは美しく掃き清められてありますが、一歩横道へ踏込むと其不潔さは驚くより外ありません、これ全く家ですらも巡廻しない証拠であります。家ですらもこれでありますから、公けの小さい建築等はわざわざ行って見るなぞということはなく、只写真やなぞで見る許りでありますから、見かけ許り堂々として、其実極めて粗末なもの許りであります。こんなことは天津許りかも知れませんが、柔らかい鼠色の煉瓦で下を作り、之れを赤塗りとして固い赤煉瓦建に見せて居るものもあります、屋上の時計なども殆ど凡てペンキで書いたもので、法政学校、軍医学校,公園の入口等にあるものですらこれであります。かつて袁氏が巡視するというので、急に屋上に眞の時計を入れ代えようとし、適当のものがない為に、少し小さいもので漸く間に合わせたなぞの滑稽もあります。

 実情かくの如くでありますから、異分子を加えることは出来ません。マルで公私混同の営業であります。学校の講義なぞも善かれ悪かれ兎も角も完結しなければ授業料を納めず、学校もまた教師の休講は学校の当局に対して規定の労力を提供せざりしものと考えて居り、事務員なぞも親子相補欠するなぞは普通の事になって居ります。之に依りて是を見れば、支那の役所は全く個人営業の如きもので、政府の役人は凡て自家の臣下の様に考えて居る様であります、袁克定なぞも父の役人を子が使うのは当然であるかの様に考えて居たようであります。坂西氏其他なぞは、実は夫々役所の顧問に頼まれたのでありますが、一週二三回も呼び出され種々な講義をさせれられたことなぞも在ります、こんなことをした所で特別に敬意を払うでもなければ、また特別の報酬を出すでもありません、全く臣下を使うと同様に考えて居るようであります。私なぞも表面実は陸軍省の通訳であったのですが、実は袁克定の家庭教師で袁世凱が北京に移った時には、私は法政学校に属せしめられましたが、度々北京から呼ばれ、しかも一文の旅費を給するでもありませんでした。全く公私混同の致す所であるようであります、されば役所の買上品に対しても、役人が交迭すれば金を払わないことなぞもあります、先年袁氏の役所の附近に火事がありました際に、我駐屯軍と義勇消防とが之を消しましたが、其後ポンプの有効を認め、之を我国の商人に注文しましたが、それを納めた時にはすでに上官が交迭して居て、金を払う払わぬの為に、領事を以って談判して解決したことなぞがあります。私が之を支那の法律家に尋ねて見ましたが、矢張り役人は個人の仕事であるから、其人に請求するが至当であろうといって居ました。外交の長引く原因もこの辺にあるのではないかと思われます。

 此問題はついに袁世凱まで持ち出されましたが、その裁判によりて解決されました。袁氏は支那流の学問に通じないという評判がありますが、或はこんな所にあるのではないかと思います。兎に角袁氏は割合に外国流の思想を持って居るようでありますが、外国人に勢力のあるのもこれ故ではありますまいか。またかつて袁氏が工程局を設けて土木を興しましたが、法政学校の道路を作る際校長は前金を払って着手させましたが、工事中に長官の交迭ありて、工事は中止され、これも袁世凱の裁判によりて解決さるるに至りました。また張之洞が漢冶萍に鉱山を開く為に機械を英国に注文しましたが、その到着した時に張氏が武昌に転任して居たので、武昌へ取寄せて始めたなぞということもあります。

 役所の事はかく長官個人の仕事であると同様に、今日の袁政府もまた、かくの如くでありますから、同一勢力家が並びて朝に立つということはまた不可能であります。比較的清朝時代には幾分行われた様でありますが、猶各其郷党の名を冠して党を立て、互いに相排擠し、反対派又は之れに反対する者は悉く市井に隠れて居ます。今日の政府は比較的壮年者によりてなされて居ります。かつて明治42年に袁氏が一度その勢力を失墜したとき市井に隠れて行衛を失ったものも、今や新聞紙上に其名を現す様になりました。もし袁氏一度其勢を失墜すれば、是等の人々が悉く職を失うか、或は却って政敵として一身を危うくすることがないとも限りません、之を防ぐのにはぜひとも袁世凱を永く位に置ねばなりません。かつて袁氏が大総統となった時に、既に後継者を指定するのを櫂を与えようとしたなぞは、皆此処に基いて居るように思われます。この考えは今や進んで進んで子孫をして世襲せしむることにまで及んだので、世襲することは即ち帝政を要求し、是れが今度の問題が起こり、瞬く間に官吏社会の世論となったものと観ぜられます。かかる愚なる問題の起こった背景は歴史的の事実は兎も角上述の原因はあったものと私は信じます。即ち此問題は死活の問題であるから、到底休止することはあるまいと思う。或は此度の四箇国の警告によりて或一定の時機までに単に延期ということはあるかも知れないが、警告の目的が之を思い止まらしむるにあるならば、必ずは政府は失敗するであろうと考えます。支那の為に謀りて帝政共和何れがよきやは自ら別問題でありますが、私は帝政を思い止まらしむるの必要はなく、また思い止まらしむることは不可能であろうと思います。警告の目的が此処に存ずるならば、私は外交は失敗に帰しはしないかと心配して居るのであります。          (完)

(本稿は、大正4年第5回茶話会の講演要旨であります)