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熊本の地震 長岡 半太郎 No.19(明治22年9月)

     
熊本の地震
長岡 半太郎 No19号(明治22年 9月)

本年の洪水地震は頗る世人に注意を惹起せしが中にも今回の如き家潰れ地裂くる程の強震は古來稀有にして復何時起るや知るべからざれば假令地震に搖られざるも其痕迹を一見し裨益少からざるべしと思ひ予は8月2日東京を發し8日熊本に着し8日間地震地方を巡覽せり是より先き小藤博士は都合好く地質調査の爲め豐後へ出張中なりし故地震の報を得て直に熊本へ來られ予の熊本に着せし頃博士の地震取調は最早畧緒に就き居たり關谷敎授は當時箱根にて養痾中なりしも病を勗めて熊本に來られ器械を嶽村に据付け觀測に取掛られたり其後理學士金田楢太郎氏も亦地震取調の爲め來熊せられたれば今回の地震は地震學者地質學者の調査を受くるを以て學術上有益なる結果を得べし叉學説の如きは諸先生の定論有ることならん故予は敢て一己の意見を加へず見聞したる一斑を記して會員諸君の一覽に供するに過ぎず

予は初めて熊本市街に入り奇異の思を爲したるは恰も東京にて歳の市を見る如く路傍に疎造なる小屋掛け列を爲したるにして其故を問ひしに地震以來市民の恐怖一方ならず鶏鳴風聲にも驚かさるゝ有樣にして夜戸内に眠るは危險なりとて斯く路傍に露宿する爲に設けたるを知りたり予の熊本に着せしは大震後十日を經たりしに市民の狼狽如此地震の當時は金峯山破裂して盤梯山の二の舞を爲さんと浮説流行し荷物を他村に運搬し老幼を遠地に避けしむる抔非常の混雜を來せしを以て小藤敎授は怖るゝ勿れ熊本の市民諸君を題せる長文を新聞紙に掲げ市民を慰諭せられたり

今回の大地震は7月28日午後11時50分に起り熊本近傍は其害最も甚しく鬼將軍が精を凝して築ぎたる城壁も數ヶ所崩壊し市街に瓦を墜し壁を破られざる人民は殆ど稀なる有樣なりしに震動の最も猛烈なりしは西山地方にして熊本の如きは餘波に過ぎず金峰山は熊本より西北凡そ1里半の所に在りて峯の周圍は一帶の山脈屏風の如く之を環繞し其地方一圓を西山と總稱す金峯山腹の西北に面(ヲモ)木(ノギ)平山の二村有り野出(ノイデ)村と谿を隔てゝ相對し其東に介在するを嶽村とす關谷敎授の器械を据付けし所なり地裂け畑石垣の崩壊せしは前記の諸村に最も多く此處彼處に散在して金峯山腹に斑點を施したる如き觀を爲せり裂目の最も大なるは野出面木二村の谿間に在り廣き部分は幅1メートル餘有るも割目は左迄深からず叉家屋は損害最も多きは高橋町にして西山の南熊本の西に當る小驛なり潰家は柱の朽腐したるもの多しと雖ども損害は士藏風の家殊に甚しく之に反して野出面木の如き甚しく地裂け畑崩れたる諸村の農家は高橋の如き慘狀を呈せず槪して地形と地盤の硬柔なるとは大に地震の損害に影響を及ぼすを見たり叉面白き事には百貫石と近津の途中に大石崖上より墜落せし所有り石は地に大なる摺鉢形の凹を生せしが凹の内に止まらずして其傍に横はれり若し或る異人先生が一見したらんには一時八釜敷かりし磐梯山圓錐形の凹み之に付き復新説を案出し叉一塲に議論を惹起せしやも測られずと竊に可笑思ふたること有りたり兎に角今回の地震は最初の大搖れより予の滯在せし頃迄は毎日4,5回鳴動及ひ輕微の地震有りたれば其源因性質等を専門家が調査するは容易なることならんか地震學に取ては必す重要なる結果を得るや疑を容れす予は早く敎授諸氏の論説世に出んことを希望するなり