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国家の運命 ―主権国家をめぐって― 福田 歓一 講演特集号(昭和54年)

国家の運命 ―主権国家をめぐって― 福田歓一(東京大学教授)
講演特集号(昭和54年)

 本日は「国家の運命」などと大変ものものしい題目をかかげましたが、副題にございますように、現在政治生活の基本的な枠組を作っている主権国家につきまして、それがどういう問題を持っているかを出来るだけ客観的にみてみようというのがわたくしの本意でございます。
 わたくしが専攻しております政治学史という学問では、ギリシャの昔から現代まで沢山の哲学者或いは政治学者の理論を取扱っておりますが、そこにあらわれるいくつかの重要な概念の中でも、国家はとりわけ重要なものの1つでございます。そこで、わたくしが学生時代に教わりました政治学の先生の中には、アリストテレスからオッペンハイマーまで国家の定義を沢山並べられ、それを論評して、「余はこの立場をとる」等とおっしゃった方もおられます。唯、こうして定義をならべられますと、それぞれの時代に学者たちが、どういう実体を国家という名前で呼んでいたかが、すでに問題になるわけで、そう簡単ではありません。例えば、アリストテレスが国家という場合と、マキャヴェリが国家という場合と、ヘーゲルが国家という場合とには、実体に違いがある。さらに申しますならば、日本語では国家という訳語1つですけれども、例えば、アリストテレスの場合に、もとのギリシャ語はポリスPolisという言葉でございますし、マキャヴェリの場合にはイタリア語でスタトstatoという別の言葉でありまして、このスタトから英語のステイトstate、ドイツ語のシュタートStaatとか或いはフランス語のエタEtat等とかいう、国家と訳される近代語が出てきたのであります。

 ところで、こういう近代語が時代を超え、実体のちがいを超えて政治社会一般をさす言葉になりましたのには、それなりの事情があります。支配と服従という関係の上に成立するさまざまの政治社会が、人類の長い歴史の中にあらわれたのを見ますと、マキャヴェリのあとの近代国家・主権国家というものは、その1つの構成様式であって、せいぜい4、500年の歴史を持っているにすぎないのでございます。空間的にその場所を見ましても大体西ヨーロッパに限られますが、この近代国家が19世紀に最も強固な実体、政治生活の基本的な枠組となるに及んで、英語ならステイトと呼ばれる方の国家という言葉が政治社会一般を意味することとなり、主権国家が言わば政治社会の典型としてとらえられるようになったと思われます。例えば、どなたでもご存知のエンゲルスの『家族、私有財産・国家の起源』という書物で、国家と申します時がまさにそうでありまして、支配・服従関係、エンゲルス流にいえば階級支配の上に成り立っている政治社会一般をさしているのであります。今日、歴史学界のブームである「日本国家の起源」と申します時などもそういう意味で用いらているわけであります。

 これに対しまして、私が今日の主題といたしました国家は、主に西ヨーロッパの近代にあらわれ、今日人類の政治生活の根本的な枠組を作っている、そういう歴史的に特殊な政治社会、そういう構成様式としての国民国家をさすわけでございまして、政治社会一般の意味で申しているわけではございません。これはどういう実体を議論しているかを無視して、学者の議論を解釈してはいけないと思うからでありまして、私がこの点を特に学びましたのは、コーネル大学のセイバイン(故人)という学者の『政治理論史』からであります。つまり、この人は都市国家の政治学、古代、次にローマ帝国から中世にかけてヨーロッパの統一された時代の普遍世界の政治学、それから近代の国民国家―ネイションステイトnation stateの政治学という区分をして、通史を構成したのでございます。これはたいへん新しい構想でしたが、そのセイバインでも、ポリスという古代ギリシャの政治社会、ないし共同体のことを、都市“国家”シティ・“ステイト”という言葉で呼んでおります。
  ところが、同じポリスのことをドイツ語では都市共同体シュタット・ゲマインシャフトといういい方をしておりまして、現在では古典古代の専門家の中では国家という言葉は誤解を招くので使わないという非常に厳格な議論をする人が多いのであります。もっとも、反対の例もありましてプラトンの『ポリティア』という書物は、日本語では『国家』と訳され、ドイツ語でもデア・シュタートと申しますけれども、英語でもリパブリックrepublicと言って、ステイトとは申しません。あとでも申しますが、英語の方がこの場合は歴史に忠実な訳語なのであります。

 何分にも政治学という学問は、プラトンからの伝統があるものですから、そこで使う言葉も重要なものは、ほとんど古代にできておりまして、新しい言葉はそんなに沢山はないわけですが、非常に重要な言葉で間違いなく近代に出来上がったものが少なくとも3つございます。1つはスタトとかステイトとかいう国家。2つ目は主権―ソヴレインティ、主権国家ソヴレン・ステイトsovereign stateという場合の主権。そして3つ目がネイションnation民族とか国民という言葉であります。この3つの言葉は、全部西ヨーロッパの近代で使われ出した言葉であるばかりでなく、3つがお互いに連動をして、本日の主題を構成したというわけであります。こういうお話を申し上げますと、いかにものんびりしたことのように見えるかも知れません。けれどもいくらわたくしの学問が古いことを扱っているにしても、それが現代に無縁であれば、特に皆様にお話するまでもないのでありまして、実は主権国家、すなわちこの4、500年の歴史を持った政治社会の1つの構成様式が、現代世界の問題と非常に密接な関連を持っているという現実がございますので、今日これを話題にしたのでございます。

 第1に、主権国家というこの特殊な枠組が、現在において完全に普遍化したということがございます。先程、国家の全盛の時代は19世紀であったということを申し上げましたけれども、20世紀の初めを考えてみますと、人類の大部分は国家を持っていなかった。国家を持っている民族はむしろ極めて少数であったといってよいわけであります。ところが第2次大戦以後のあのナショナリズムの大波の中に植民地の解放が徹底的に押し進められ、現在に於いては国家を持たない人類の方が完全な例外になっていて、人類の殆ど全部がこの国家という枠組の中で政治生活を営むようになった。これを主権国家の普遍化と呼んでよいと思います。こういう事態が先ず1つある。
  それから第2に、国家の多様化ということがあると思います。つまり人類の殆ど全部が国家という枠組を持つようになりますと、同じ国家という名前で呼ばれるものの実際の在り方は極めて多様にならざるを得ない。その中には米国、ソ連或いは中国、インドのように大きな国家もあれば、人口が10万人にも足りない、まだ年間の予算規模が日本の中小企業の売上高にも及ばないというようなミニ国家もあって、しかも、それが堂々と国連に加盟して、その結果国連には150以上の加盟国があるという状態になったわけであります。そこから何が出て来るかといいますと、国家という言葉は1つであっても、その意味内容はますます拡散してしまって、共通な意味内容が失われてしまう。お互いに平等ということ自体が1つのフィクションにすぎないということが明白になって来るわけであります。

 先程私が19世紀は主権国家、国民国家の最盛期であったと申しましたのは、その時代には、数は少なかったかも知れないけれども、国家が安全保障というものに完全な責任を持ち、そしてその中で統一された市場として経済的な独立性を持っている、さらに文化において国民的個性を持つ。そういう実体があったからであります。
  ところがそういう実体は今は失われてしまった。たんに新興国家に求めがたいばかりでなく、現代の諸条件が既成の主権国家からもそれを奪っているのであります。そうなればそこからさまざまの問題が生れて参ります。近代国家というものが生れた本場であるヨーロッパではご存知のようにヨーロッパ地域を1つに統合しようという大きな動きがはっきりと姿をあらわして参りました。初めはヨーロッパ経済共同体―EEC―といっておりましたが、現在では単にヨーロッパ共同体ECと呼ばれるようになり、そしてこの共同体は今までの主権国家という枠組をのり超える試みであるということが誰の目にも明らかになって来たのであります。ご存知のようにごく最近つまり6月の7日と10日の2回に亙りEC加盟の9ヶ国に於きまして初めてヨーロッパ議会の議員を直接選手によって選出するということが起りました。今はその結果の確定を待っているのでありますが、この選挙それ自体がすでに大変なことであります。ご存知のようにこの議会には加盟各国がそれぞれ自国の代表を出すというのではありません。9ヶ国から選出された議員が国籍を離れて、全共同体規模の党派別に席を占めるようになる。現に選挙運動の間でも、例えば、英国には西ドイツからブラント氏が行って労働党の候補者の応援をする、フランスからはジスカールデスタン氏が出掛けて、ドイツの保守党の応援をするというようなことが、現実に行われるようになったのであります。

 ところが、こういう主権国家を超えようとする結合の動きの一方では、西ヨーロッパの国民国家内部の、さまざまの地域の自立性を認めよという要求がいちじるしく強くなりました。英国の例を見ますと、アイルランドの北部で年中テロ騒ぎがあっていまだにおさまらない。スコットランドもウェールズもそれぞれ自治政府を持ちたいというので、分権、デヴォリューションと呼ばれる法案が出されるほどになった。フランスはもっと切実で、ノルマンディ或いはブルターニュ、それにコルシカの島などで分離運動が始終起って来ております。 元来主権国家の誕生地であり、それが高度の発達をとげた西ヨーロッパにおいて、このように結合と分離の動きが同時に起っているのはまことに象徴的でありまして、今日の技術的、社会的、経済的、軍事的な諸条件の中では、国民国家はもはや19世紀のころの完結性をもち得ないのであります。すでに一国限りの安全保障というものは、あり得ないし、或いは国民経済では単位として狭くなって、規模の利益の為には全ヨーロッパの結合が必要になって来る。それどころか現実には、世界をまたにかけて多国籍企業というものが経済を動かしている。しかも、それぞれの国で地域に愛着を抱き、国家でなくて、地域に共同体を求める人々がはっきりと姿をあらわしている。
  そういう中で政治生活の基本的な枠組としては依然として昔ながらの主権国家に頼っているとなると、そこから一体どういう問題が出て来るのか。これがこれからのお話の主題なのであります。

 現在の国家をあらわしますイタリア起源のスタトという言葉は、大体14、5世紀からイタリアの都市を中心にした小さい地域国家について使われるようになったわけであります。それまでの知識人はラテン語で物を書きましたから、国家を表します場合、多くの場合キヴィタスcivitasというラテン語を使っております。
  この言葉は大体ギリシャ語のポリスに相当する言葉で、こういう言葉で呼ばれている国家、或いは政治社会は元来どういうものであったかと申しますと、何よりも奴隷でない自由な人間の共同体である。つまり人的な団体であるということが特徴であります。ペロポネソス戦争の始まりました初期、アテナイの指導者でありましたペリクレスが戦死者を悼んだ葬送演説の中に有名な言葉がございます。
  「アテナイとは、アテナイ人のことであって、城壁その他の土木施設のことではない」。

  これはヨーロッパ古典古代の特色を最も鮮やかにあらわした政治社会のイメージであります。国家というものを考える時に、何よりもそれは国民、つまり国家を構成する人間であるというイメージがある。自由人の共同体として国家を考える、そういうイメージがスタトという言葉が出て来るまで伝統的に持たれていたわけであります。

 ところで、スタトという言葉は同じ国家と訳しますけれども、観念の上では正反対であります。ルネサンスの時期に国家という意味で登場して参りましたスタトとは、何よりも権力そのものであり、或いは権力を持っている主体、さらには権力の機構を意味したのであります。日本語の国家の中にも政府のことを国という場合がございまして、例えば、刑事賠償の場合に「国が補償する」という時には、政府が補償するということであります。
  つまり権力と権力機構のことを国家と考える場合には、国民は支配の対象にすぎないので、はじめはこの観念の中に入って来ない。それに対して自由人の共同体として国家を考える時には、まさに人的な団体であって権力はその従物にすぎないわけであります。
  このスタトという領域的な国家が、本格的な発展をとげますのは、イタリアではなくてアルプスの北であります。それが何故最初にイタリアであらわれたかと申しますと、11世紀に神聖ローマ帝国の皇帝がイタリアから手を引いて、後はイタリア人に任せられ、そこで普遍的な帝国とは無関係に、さまざまの小さい地域権力、しばしば都市国家と言われるものがあらわれたからであります。

 これに対してアルプスの北では、中世の普遍共同体の中で成長して参りましたもっとも大きな地域国家、レグヌム、英語ではレルム―王国という意味でありますが―それがやがて権力中心のスタトという言葉を受け入れて、今日の規模の国家というものの土台を創り出した。それは、都市国家よりは大きいが、大帝国に比べますと小さい、いわば中くらいの規模であります。
  そして中世の普遍共同体を解体して、スタトの観念を引き継いだ新しい政治社会を作り上げましたのが絶対王政と呼ばれるものなのであります。つまり絶対王政のやりとげた一番大きな仕事は、普遍共同体という中世の政治生活の枠組を基本的に転換して、今日の地域国家を作り出したところにあると言ってよいのであります。もちろんこの転換は自然にできたわけではない。文字通りスタトの意味する権力によってなしとげられたのであって、この絶対王政の権力を象徴する言葉が、まさにそれまでになかった「主権」という言葉であります。
  この主権という言葉を最初に理論的にうちたてましたのはフランスのジャン・ボダンであります。このときこの言葉で何を意味したかと申しますと、まず、新しく生まれ出たこれらの地域国家相互間は平等の関係に立ち、それ以上の権威を認めないということであります。このように普遍的な権威を否定して、平等な地域国家の関係におき代えるとき、そこで出て参りましたのが主権国家の制度としての国際秩序であります。しかも、その場合には戦争と平和についての上位の権威もなくなるために、主権は戦争をする自由をも意味することになるのであります。

 一方この主権を国内的に見ますならば、それは地方、身分、言語、或いは宗教的な差異があるにも拘らず、その差異を超えて地域国家を支配する権力としてあらわれるのであります。どうしてそういうことが出来たのかと申しますと、国王が常備軍を持つことと、官僚制という支配の機構を作り上げ、これを使ったからであります。しかし、こういう権力が成立した背景に経済的にこの地域国家を単位とする単一市場を作り上げるという要求があったことも疑いのないところであります。
  この主権国家というものを新しい枠組として強力で作り上げ、しばしば「公共の福祉」という言葉を名分として掲げましたにも拘らず、この絶対王政の権力は、実は私的な性格を持っておりまして、国土と人民というものをその王朝の私有財産であるかのようにみていたわけであります。ですからこの時代には継承戦争といわれるような戦争が沢山ございます。これは要するに相続争いであります。ですから、さきほど主権国家の制度としての国際秩序と申しましたけれども、この時期にはまだ厳密なインターナショナルとはいえない。それをインターナショナルにしたのは、近代民主主義が絶対王政に対抗して革命が遂行されたという契機でございます。
  特にフランス革命の場合には、かつての古典古代のポリスのような、自由人の共同体としての政治社会というイメージが、生き生きと出て参ります。そしてこの新しいイメージとともに、近代の地域国家は単なる主権国家としてではなく、まさに国民国家として完成されてゆく。ステイトは権力機構ではなく、はっきりと国民の人的団体として立ちあらわれるのでありまして、革命フランスにこういうモデルが出て来たからこそ、革命をやらなかった他の国々もそれに倣って国民国家ネイション・ステイトというものに進んで行ったわけであります。

 そういう事象が歴史的に、いかに新しいかということにご注意を頂きたいのであります。例えば、14、5世紀にかけましてフランスではブルゴーニュは殆ど別の国で、フランドル地方まで支配しており、ブルターニュはまだ本当にフランスの一部になっていない。コルシカは革命の少し前にようやく併合した新領土であり、南フランスにはカタロニアの人人が別の言葉を話している。だから革命前のフランスは最近言語学者の説くところによりますと、フランス語を話していた人口が半分はいなかったということです。そういう中で、新しい人間の共同体としての国民国家のイメージを作り上げることが、大体革命を契機として起り、この共同体意識を本当に強化したのは、むしろ干渉戦争に対する抵抗であったといっていい位でありまして、国民軍という新しい制度がこれを象徴するのであります。
  こうして、ネイションという言葉が、実は近代国家に共同体的な性格を与え、人的団体としてのイメージを充足したのであります。しかし、規模の大きい地域国家ですから共同体性にはもともと限度がある。むしろ国民国家の共同体性にはフィクションとしての性格が強く、また現実の制度の中では、国民の政治参加も代議政体という形をとらざるを得ないということになるわけであります。それだけに、複雑な国民国家の統合には、どの国もたいへんな苦労をしているのでありまして、英国のような連合国家では、王室もそれに大きな役割をもっています。例えば、戴冠式にしてもロンドンのウェストミンスターでやりますと、その後はエジンバラへ参り、カルヴィニズムの教会で改めて戴冠式をやる。また皇太子はプリンス・オブ・ウエールズといいますが、この皇太子が立太子の札を挙げます時には、ウエールズへ出かけ、どんなに短くてもウエールズの言葉で話すというサーヴィスをする。国の統合のためには、こういう苦労をして来たということがあるのであります。

 しかもヨーロッパには1つの言語を使い乍ら、しかも統一がなかなか出来なかった民族がありました。ドイツとイタリアの場合がそうで、その統一が得られなかったために、それぞれのネイションは、言わば獲得目標として殆ど神秘化されるまでに憧れの的になったのであります。国家の共同体性が意識の中で極度に昂進するのは、こういう状況にあって、元来権力機構を意味したシュタートのうちに、言わばポリス的な共同体性を求めたヘーゲルの場合は、まさにその典型にほかなりません。

 このように国民国家の統一を妨げていた事情には、多民族支配の上に成立つ帝国の遺産がありました。20世紀になってもオーストリア帝国、ロシア帝国があり、それにトルコ帝国もヨーロッパに支配の手をのばしていたのでした。したがってヨーロッパにおいて、そういう古い帝国が解体されて、それぞれの民族が民族自決の名の下に自分の国家を持つことが出来るようになったのは、ようやく第1次大戦後であります。
  ところが、第2次大戦後になりますと植民地解放の大波の中で、解放された人々がいずれも国家をつくり、国家というものは全く普遍的な政治生活の枠組になってしまった。そこに普遍化と同時に、その実質の多様化があらわれ、国家という枠組が1つの擬制にすぎないという実態もしばしばあらわになるという問題は先程申し上げた通りであります。

 国連に加盟している主権国家は150ヶ国もあり、形式的に平等であるといってみても内容の多様性、国家間のおどろくべき格差はおおいようがない。そればかりではなく、国家とネイションとは必ずしも重なるものではありません。米国の場合は連邦制でもそれぞれの州が民族を異にするわけではありませんが、ソ連のような国は始めから民族を異にする諸共和国などの連邦であります。インドはまさに多民族、多言語の交差する大国であります。
  言葉の関係をみましても、スイスはカントンを単位とする連邦であって、4つの言語が使われていますし、ユーゴスラヴィアは少なくとも7つの民族が作っている連邦であり、従ってこの中では3つの言葉が公用語として認められて、辛うじて統合されているのであります。
  逆にナショナリズムという点からアラブ世界をみますと、アラブ世界は西南アジアから北アフリカに至るまで1億4千万の人口があり、広い意味で申しますと、共通の宗教を持ち、共通のアラブ語を使い、民族的にも同質意識を持っているにも拘らず、16の国家に分かれています。長い間アラブ・ナショナリズムは1つのものとしてかかげられて来ましたが、それも内部に資源に富んでいる国と貧乏な国との格差があるために国家の枠組がだんだんに強くなる。かつてアラブ全体のナショナリズムの旗振りであったエジプトが戦時体制の重圧に耐えかねてイスラエルと単独講和を結んだことで、ナショナリズムに対する国家という枠組の優位があらわになったのであります。

 ところで、現代世界において国家という枠組が擬制的なものだということがいろいろな意味であわらになる中でも、その最も著しいのは植民地支配から解放された国々の場合であります。そういう国々をみてみますと、かつて共通の植民地支配を受けたということ以外に、人種、言語、宗教において何の共通性もない国家が実は決して少なくないからであります。特に国境をみてみますと、アフリカ等の国境は旧植民地の支配で決められていて、それ以上の必然性がない場合が多いのに、その国境を動かすと収拾がつかなくなるのを心配して、アフリカ統一機構OAUにおいても既成の国境を尊重することが約束になっています。
  ところが国家の実体はさまざまの毛色の異なった部族の寄り集まりにすぎないところでは、植民地解放後、しばしば1つの部族の他部族への専制支配になるというような事態が出て参りました。そこに、ナイジェリアに於けるビアフラの悲劇のようなことがおこるとともに、地方では1つの部族が2つの国家に分けられてどうにもならないという事態も起ってくるのであります。特に水や草を追って行く遊牧民の場合には国家とか、国境というものにどんな意味があるのか。こういうところでは、国家という枠組などいかにも人為的な擬制、フィクションにすぎないとみえるのは無理のないことで、そこに伝統的な主権国家のイメージをあてはめて通用する話ではないのであります。

 ところではじめに申しました、ヨーロッパ共同体という統合の動きは、最初はソ連の軍事的脅威に対抗するという動機から出て参りました。しかし、それは長続きしませんで、植民地を喪失した後に規模の利益を求めての経済統合が主役になったのであります。その中で特に熱心であったのは、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグという小国であります。スパーク氏が「生き残るためには統合しかない」といったのはその端的な例であります。しかも、この統合への歩みの背景として、ヨーロッパにおけるカトリック系中道政党の共通性が少なくとも初期にはずい分ものをいっている。そこにだんだん進んで行った経済統合EEOがやがてヨーロッパ共同体ECとなり、今では、それらの国々の共産党もこのECを認めるようになってきているのであります。
  勿論見方によれば、統合の動きは遅々としているということも出来ます。例えば、欧州議会が直接選挙であっても、諮問機関であって立法機関ではないのも事実ですし、投票率が高くないということは、まだ主権国家をのり越えるのには遠いということもいえるでしょう。けれども、ともかく国籍によらない横断的な政党の分布というものが出来るというところまでにこの統合の歩みは進んで来たのです。問題はこの後で、国防はもちろん、福祉のように権力が介入して再配分をしなければならない分野において共同体がどこまで権威を持ち得るかは、これからの大変な課題というほかありません。逆に分権の要求が強く出て来て、例えば先程、英国における北アイルランドやスコットランドやウエールズのことにふれましたけれども、そこでも問題になるのは、かつての国家に代わる権威がどのようにしてたてられるかであろうと思われるのであります。

 けれども、こういう分離の傾向が主権国家という枠組をゆさぶるようになりまして、改めて痛烈に意識されるようになったのは、先程歴史をかえりみて申し上げましたように、国民国家の枠組を作り上げたのは絶対王政の権力だったという事実であります。アンシャン・レジームというフランスの絶対主義の支配と革命以後の国民国家のあり方とは大変違う点も多いのでありますけれども、近代国家の基本的な特徴としての主権という観念は1つも変わらなかったというのがそれであります。
  かつての君主主義というものは、ある時は国民主権、ある時は国家主権、ある時は人民主権という言葉で置きかえられましたけれども、絶対王政が打ち立てた主権という基本的な属性は、そのまま近代国家の属性として引き継がれたのでありまして、国際的にも国内的にもこの枠組を組み直したわけではない。強権的な統合の無理もECに参加している国々ばかりではありませんで、例えば、スペインの場合に、フランコが亡くなることによって永い間おさえられていたカタロニアは自治を獲得して大統領を独自に持つし、バスクの人々は同じ自治権を要求して直接行動に訴えている。カナダは英仏2つの公用語をもつ国ですが、フランス系の多いケベックは独立したいと主張している現状であります。

 そこで最後に国家の運命という主題に帰らせていただきます。『空想より科学へ』で御存知の通り、はっきり国家というものが無くなるといっておりますのは、マルクス主義であります。マルクス主義はアナーキズムに対抗して作られた思想で、差異と同時に共通点を持っている。それは支配・服従という権力的な関係が一切無くなるという理想をかかげている点であります。唯、違いますのは、マルクス主義では階級支配を完全に克服するために、労働者階級の階級支配をうたっている点であります。そして現実にソヴェト政権が成立し、殊に一国社会主義の路線を採りまして以後、おおよそ権力“国家”の実体から離れていくような徴候はみえないのであります。それどころか現代の世界に於いて、主権という観念に最も無批判な社会の1つは、疑いもなくソ連であります。 もっとも、この場合尊重すべきものはソヴェト連邦の主権であって、東欧諸国の主権は制限されてしかるべきであるという理論を平気でいうのであります。唯、マルクス主義のいう国家とは、すでに申し上げましたように、政治社会一般のことですから、今日私が取り上げました意味での国家だけの問題ではございません。

 そこで、これとは別の意味での近代国家というものを考えますと、それが普遍化し、多様化した結果、この枠組が擬制にすぎないという実態があらわになったのは、もちろん新興諸国ばかりのことではありません。そこには現代社会における技術的、軍事的、経済的、文化的なさまざまの条件がある。今では世界は余りにも狭くなって、人類の生活というものは相互依存の上でなければ成り立たない。
  例えば、今日の日本は石油を輸入しなければ1日も生活が成り立たないほど他国に依存しているのが現実であります。しかし、その中で人間は孤立した存在として投げ出されているのに疲れきって、縁の遠い主権国家ではなしに、もっと身近な自分の頼れるような共同体というものを欲しがっているという事態があるのであります。ヨーロッパにおける統合と分離の動きは、決して偶然に出て来たものではなく、またヨーロッパだけのことでもありません。

 それならば、主権国家という枠組は簡単に消えてゆくものでしょうか。これはとてもそうは思われません。第2次大戦以後に解放された新興国家の場合を考えますと、主権国家それ自体が自由、独立の象徴であり、国家主権の観念は、彼等がこの現実の世界の中で、自己主張する場合の最大の武器である。スエズ運河の国有化をナセルが宣言してから、石油戦略をアラブ世界が発動するまで訴えたのは、まさに主権国家の枠組でした。そして今日では資源主義ということを、もてる開発途上国は全部主張しているのであります。
  しかも、この主権を象徴するものは、これらの国でも今なお軍事力であります。そしてこの軍事力は容赦なく国内において使われます。そこで仮にある部族、ある集団、またある個人が軍事力を独占するというような事態になりますと、それは彼等がかつての植民地支配者のいた席を占めるだけであって、大部分の人間は隷属を強いられることになりかねません。そういう状態が現実にあることはウガンダをみても、中央アフリカ連邦をみても、まるで絶対王政のカリカチュアのようにわれわれの眼に映るのであります。特に軍事力こそは権力の象徴であるという立場での軍備増強が、結局何をもたらしたかは、イラン革命に於けるパーレヴィの運命をみれば思いなかばにすぎるものがあります。

 しかし、主権国家の枠組に代わって、これらの国々が要求を訴え、或いは実現する方式を編み出さない限り、どんなに危険をはらむにしても、これらの国々が主権国家の枠組に固執するのは避けがたいことです。確かにこの枠組のかつての独占的地位は、ゆれかけては参りましたが、最近、それを引き戻そうとする逆流が、例えば石油戦略、或いは200海里の領海という形で出て来ております。従って、この伝統的な枠組と現在人類の当面している生活上の諸要求、未来に向けての諸課題との間に矛盾が累積するのはおおいがたいところであります。
  その中でも現代の条件から見て最大の矛盾は主権国家が安全保障を独占して来た時代からそのまま続いております戦争の自由、戦争の権利に由来する脅威であります。ラッセルやアインシュタインが訴えましたように、核時代においては、米ソのような最強国ですら自国の力に頼って安全を保障するということは到底出来ない。しかも資源やエネルギーの問題まで全部含めましても、現代の世界において軍事力で解決出来るような問題は殆ど皆無であります。そういう中で人類の未来を考えるためにはどうしても主権国家というものを見直して、その牙を抜いてゆくということを考えざるを得ないのであります。

 もちろんその場合に問われますのは、政治社会の持っている強制的な性格を或る焦点に集中しないで、しかもそこに生き生きとした共同生活の秩序を作り得るかどうかの能力であります。当面する世界の中では、すでに西ヨーロッパに見られるように政治社会がより大きな統合と、より小さい地域共同体を含んだ多層的な構想を持つ方向に向かうものと思われますけれども、主権国家の果たして来た機能をどのように配分して行くのかは、すべてこれからの課題と言ってよい実情であります。例えば最近、地域主義を唱える人々が日本にもあらわれたことは、あまりにも当然で、むしろ遅すぎるとさえ思われるにしても、その地域主義の有効性を問う場面は、悪名高い3K、食糧の国家管理とか、国鉄とか、或いは健康保険とか、現在国家が途方もない赤字を背負い込んでいるような問題がどう処理されるか、にあるのかもしれません。
    そして、現代社会の諸条件の中に未来の秩序をみて行くとき、国民国家をどう位置づけるかは、依然としてこれからの人類の存続とその生活のあり方にとって、1つの根本的な問題にほかならないし、この意味で国家の運命の行くえは、そのまま人類そのものの運命を左右するであろうと思うのであります。

※本稿は昭和54年6月11日夕食会における講演の要旨であります。
  (東京大学教授・東大・法・昭22)