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夕食会・午餐会感想レポート

平成28年5月午餐会学士会創立130周年記念講演 「プロメーテウスは解放されてよかったのか」

夕食会・午餐会感想レポート

5月20日午餐会

久保正彰先生のご講演「プロメーテウスは解放されてよかったのか」は、アイスキュロスの悲劇「縛られたプロメーテウス」を現代まで見通す哲学として紹介されました。すなわち先生の解釈は「巨人神プロメーテウスから全ての生きる術(すべ)を与えられた人間は自分勝手に術を使い、知の本質をわきまえていない。それが宇宙に災いをもたらすという警告が作者の意図」との大意でした。大変感銘を受け、様々な思いを触発されました。

一つは不条理に対する旧約聖書ヨブ記との対比です。全てを与え全てを奪う絶対神ヤハウェと自らの義を主張するヨブとの対立は、ヨブのヤハウェに対する絶対的信仰の回復によって救済されます。それは、ヤハウェが直接ヨブに話しかけ、ヨブの「知の無知」を知らしめる形で成就します。一神教の宇宙観です。

これに対しこのギリシャ悲劇では、人間を代表するイーオー(ゼウスに愛され、牝牛に変えられて苦難の放浪により気が狂う)、プロメーテウス(自らの知と義を信じるが故にゼウスと対立し、不条理な罰をあえて引き受けるが、不死の身は死すべき人間より辛い)。ゼウス(人間臭い最高神はプロメーテウスとイーオーの存在の本質を感覚的に見抜いている)、モイライ(運命の3姉妹神、最高神すら逆らえぬ大宇宙の法則を司る)という4つの対立軸があるのではないでしょうか。ただしゼウスとモイライは直接劇中に現れません。

イーオーは言わば「無知の無知」の存在で、その救済は死して世代を重ねることでしかありません。ゼウスの息吹で身ごもった息子エパポスの子孫から神に等しいへーラクレースが生まれ(母はアルクメーネー、父はゼウス)、プロメーテウスの予言によればゼウスの王座を揺るがす不死の英雄となります。プロメーテウスは「知の無知」であり、贈り物を悪用する(例えば現代の原爆)未熟な人間どもに知の術を贈ってしまう。ゼウスは「無知の知」であり、本能のままに恋をし、権力と暴力を振るい、プロメーテウスの知力に及ばないように見えるが、常に本質は突いている。モイライは「知の知」、バラモン教でいう「リタ」(天則)そのものに近い。

こうしてみると、プロメーテウスはむしろ「無知の無知」である人間から進化した存在であり、逆に言うと、人間は「知」に目覚めて使い方を間違えなければ神に近づく存在だが、それでも不条理と「知の無知」の悩みからは逃れられないことになります。

というようなことをつい妄想してしまいましたが、これも現代の「知の巨人」たる久保先生のご講演を伺った副作用としてお許し頂きたいと思います。

(東大・文、五十嵐 ふみひこ)


講演にあたり久保先生の略歴が紹介されてハーバード大学に入学される前にフィリップス・アカデミーで学ばれたのを知って衝撃を受けた。というのは学士会館は新島襄の生誕地に建てられているのは設けられている碑で周知のことであるが、その新島襄がアメリカで最初に教育を受けたのがフィリップス・アカデミーだからである。ちなみに同校は現在でも米国で屈指の進学校である。

新島は英語の組織的な教育を受ける機会が無いままに渡米した。そして久保先生は英語が敵性語であった時代を経験した直後の渡米であった。このようにお二人に共通しているのは十分とは言えない英語教育の環境にあったのにフィリップス・アカデミーで学び、次いで大学の学部へ進学されたことである。現在でもアメリカの大学の学部に留学する日本人は多くない。

新島はその後アマースト大学で学んで日本人初の学士号(理学士)を得た。同校の卒業名簿で理学士は新島襄だけだがギリシャ語とラテン語の単位取得を断念したからである。それに対して久保先生はギリシャ語とラテン語をものにされ古典文学を専攻され、その後も研鑽を続けて来られた。その上に立って学士会発足130年を記念する講演のテーマを「プロメーテウスは解放されてよかったのか」とされたのだと理解した。

講演に先立っての会食の場で、この演題なら原子炉の事故が取り上げられると思って参加したという人が居て賛同する人も居た。

久保先生は帰国後にアイスキュロス原作のギリシャ悲劇を上演されたことから話を始められた。東大生がプロモートし跡見女学院生が共演した劇をプロの音楽家が手弁当で支援したという。

ありとあらゆる技術をゼウスの勧告に背いて人間に分け与えたことで罰を受け、舞台の中央の高い場所をコーカサスの岩山に見立て、そこに磔にされたプロメーテウスが居る写真が投影された。人間に扱いこなせない多くの技術を与えてしまったことからゼウスの罰を受けたのだが、その意味が分からないでもがいている姿だった。

私たちの身の回りを種々な技術が陰に陽に支えているのは確かであり、これらの技術無しには社会生活も個人生活も成り立たない。その一方で人災と見なされる事故が起こっている、典型的なのは毎日起こっている自動車事故である。
また、これまでは寺田寅彦が看破したように天災は忘れたころにやって来ていた。ところが近年は大きな天災が次々に起こっている。そして天災を対策するためにと耐震構造を考えたり、頑丈な堤防や防潮堤を作るなどしてきたが大きな天災の前に無力を露呈したのは記憶に新しい。

技術を利用しない生活に戻ることはできないが、ビッグ・サイエンスと称される技術さえも神には危険な道具にしか見えないのだろう。「プロメーテウスは解放されてよかったのか」という改めての問題提起は肩に重くのしかかった。

(京大・工、三好 彰)