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学士会アーカイブス

学士会館と私 岡倉 古志郎 No.703(昭和45年10月)

学士会館と私
岡倉 古志郎
(大阪外国語大学教授・日本学術会議会員)

No.703(昭和44年4月)号

 さきごろ『学士会会報』編集部から『会報』の第七〇三号に何か原稿を書けという依頼があった。文言がタイプされた依頼状にはペン字で添書きがしてあって「とくに本会の有沢理事から御推薦がありましたのでどうぞ宜しく」とある。有沢広巳先生には、もう四十年近くも前、私が脇村(義太郎)先生のゼミナールに籍をおいていたころから、いろいろ御教示もうけ、卒業後も何かとお世話になることが多かった。とすれば、これは、ことわるわけにはいかない。といって、いったい、何を書いたものであろうか。編集部に問合せると「何でもいい」とのことである。私の専門(国際政治)にふれた随筆でも何でもいい、というのである。しかし、醸造学だとか生物学だとか、文化人類学だとかという専門ならば、『会報』にふさわしいおもしろい随筆も書けるかもしれないが、国際政治学などというとあまりにもアクチュアルでありすぎて『会報』向きでないようである。

 それならば、当節だれもが一家言をもっている大学問題でもと考えたが、私自身も勤務先の大学でこの問題にいやおうなしに直面しているし、また、日本学術会議などでも私なりの見解をのべる機会も多いが、『会報』の原稿にまで大学問題をとりあげるには、どうにも事柄が重大すぎ、気も重い。それで、考えあぐねたすえ、「学士会館と私」という、一見学士会館のCMみたいな題目で随筆のようなものを書いてみようか、ということになった。前おきがどうも長すぎたようだが、そろそろ本題に入ろう。

 「学士会館と私」の因縁ができたのは、いまから四十年近くも昔の昭和八年春のこと、私が旧東京帝国大学経済学部に入学した一年生の時である。この因縁のできかたが他の人たちとはちょっとちがっているのでそのことをまず書いておきたい。

 私が生まれてはじめて学士会館(むろん一ツ橋の)の正面玄関の重いドアをあけたのは「帝国大学新聞」記者としてであった。あの舌状のラッチを下に指で押さないとドアがあかない仕掛けにマゴマゴしたことをいまでも憶えているが、当時は、会館も出来たてで薄い茶色のスレートがひときわ冴え、当時の一ツ橋界隈では何ともスマートな建物であった。

 ところで、私がはじめて学士会館のドアを排したのは「帝国大学新聞」記者としてであった、といま書いたが、それは大学入学直後「帝国大学新聞」編集部の「入社試験」をうけて合格したけっか、晴れて(?)同紙の記者となり、その最初の取材の仕事が学士会館に行って集会予約簿を見せてもらい、「今週の学士会館の集まり」という一段ベタ組みの記事の原稿を書くことだったのである。

 当時の「帝国大学新聞」(現在の「大学新聞」)は週刊一二ぺージの堂々たる新聞で、美濃部達吉(法)、河合栄治郎(経)、戸田貞三(文)各教授が理事、野沢隆一氏(戦後NET・信越放送役員、共同TVニュース社長)が「社長」、殿木圭一氏(前東大新聞学研究所教授)が「デスク」格、われわれ「トロッコ」(記者=汽車の卵という意味の駄洒落、何とも冴えないことばだがわれわれはそう自称していた)の先輩格には椎野力(元朝日新聞調査編集室長)、扇谷正造(朝日新聞記者、元週刊朝日編集長)、泉毅一(NET取締役)らがおり、私の同輩「トロッコ」には、田宮虎彦、花森安治、杉浦民平などがいた。(なお、このへんの興味深い話は扇谷正造『わが青春の日々』旺文社刊、にゆずる)。

 ともかく、そんなわけで、それ以来約一年間、私は毎週金曜日午後になると(大学新聞の〆切は毎週土曜日だったから)学士会館を訪れ、集会予約簿をめくり、△歴史学研究会 第五号室 三島一‥‥などというベタ記事原稿を書き、たまには「学士会囲碁大会で○○氏優勝」などといったのんびりした記事を書いていたのである。

 むろん、この前後には、「滝川事件」をはじめ、美濃部・矢内原各教授にたいする右翼や軍部の攻撃事件などがおこっていたが、学士会館はなお平穏無事な日々を送っていた。‥‥

 学士会館とは、その後二十年ばかりもとんと御無沙汰ばかりしていた。会館ビルは戦火をくぐりぬけて残り、だいぶ古びはしたが建在であった。だが、私は、めったにここを訪れる機会がなかった。

 再会のきっかけをつくってくれたのは、原水爆禁止運動であった。一九五七年夏の第三回原水爆禁止世界大会の国際会議の会場に学士会館があてられ、たまたま、私はその直前コロンボでひらかれた世界平和評議会の特別総会に出席した関係もあってこの国際会議にも参加したのだが、そんなわけで、その間、連日連夜、会館に入りびたりになることになった。当時は、いまのように冷房設備もなく、西向きの窓の多いいくつかの会議室で真夏の午後会議をやるのはたまったものではなかった。

 このころは、核武装問題がようやくクローズ・アップされてきた時期で、それまでの「ノーモア・ヒロシマズ」という原爆被災の「原点」から出発したこの運動が核武装政策と対決するという政治課題に直面することをめぐって論議がかわされかけた時期である。この国際会議を事実上取りしきった安井郁日本原水協理事長やオーストラリアの平和活動家ウイリアム・モロー師などが苦慮したのもこの問題をめぐってであったが、会館の会議室はもちろん、談話室やロビー、地下の食堂なども、こうした熱っぽい論議の場になった。

そのなかで、たしか二階のロビーでだったと思うが、はじめてこの会議に出席したエジプト(当時)のカーレッド・モヘディン氏(ナセル現大統領の「七人の侍」の一人で一九五二年七月のエジプト革命を遂行した「自由将校団」指導部の一人、元戦車隊長)を多勢の学生たちがとりまいてアラブの運動について質問ぜめにしていた光景を思い出す。ちょうどその前年の一九五六年にはスエズ戦争があり、ついでこの年、一九五七年一月には「アイゼンハワー・ドクトリン」が宣せられて中東情勢は激動のさなかにあったからであろう。

 その翌年の夏、こんどは約一カ月間も、毎週二、三回のわりで学士会館に入りびたりになった。これも日本原水協の関係で、この年の第四回原水爆禁止世界大会の国際会議の国際準備委員会の書記長に私は任命され、その会議がしょっちゅう学士会館でひらかれたからである。オーストリアの哲学者のギュンター・アンデルス博士(外国側)と安井郁教授(日本側)がたしか共同議長、ペルーの法律学者ガルシア・レンドン氏と私とが共同書記長であった。アンデルス博士は「核時代の道徳律」(Moral Code in the Atomic Age)という論文をすでにヨーロッパの新聞に書いていて、日本でのこの大会にもこれを基調にしようと、たいへん執拗に頑張るので、そのへんの緩和工作にあたった私は、ただでさえ暑くるしい学士会館のロビーなどで博士とのお相手に文字どおり汗だくの毎日を送ったものである。

 そんなある一日の午さがり、私は玄関のポーチでバッタリと故和田博雄氏(当時社会党の書記長、国会議員) に会った。戦時中、私が企画院の嘱託だったころ和田さんは同院の書記官で、先輩格の顔見知りだったが、その後、この時まで再会の機がなかったのである。ごぶさたをわびてから、私はこれこれかくかくの次第で連日のように会館に入りびたりだというと、和田さんは「それはお気の毒に御苦労さま。ぼくは党本部などにいると休憩も出来ない、それでいつも脱出してここへやってきて昼寝をするんですよ」といって、談話室のソファの方にさっさと足早やに行ってしまった。なるほど、こういう会館の利用の仕方もあるのだなあ、と、うっかり者の私はつくづく感服した次第であった‥‥

(大阪外国語大学教授・日本学術会議会員・東大・経・昭11)