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昭和史史料の探訪 伊藤隆 No.774(昭和62年1月)
昭和史史料の探訪
伊藤 隆
(東京大学教授)
No.774(昭和62年1月)号
一
このところ一種の「昭和史ブーム」の感がある。何か時代の大きな変化の予感からであろうか。そしてまた昭和史を見る視点もここ十数年来大きく変化して来ているように思われる。これは「昭和史」(別に年号で時代区分をする必然性は全くないのであるが、世上一般に言われている用語をそのまま使うことにする)が、戦前・戦中そして場合によって占領期まで、更に部分的にはその後の時期までもが次第に「歴史」として認識されるようになって来ていることを意味するのであろう。
昭和三十年代後半、私が日本近代史、特に昭和期の歴史の研究を志した頃、今から四半世紀前、まだ昭和期の歴史の研究者は少なかったし、また依拠すべき史料で公刊されたものも、史料館に行って見られるものも、今に比べれば遙かに少なかった。どうしても昭和期の歴史に取り組みたいという私に対して親切に、そこは危険だから止めた方が良いとアドバイスして下さった方もあった位である。だから研究を進めるためにはどうしても、自分自身で史料を探しだす以外にはなかったのである。それをどういう風にやって来たのか、ここで少し回顧風に書いてみようと思う。こういうことを書くようになったというのは、自分が多少歳をとったということを表白するようなものであるかもしれない。しかし、振り返ってみると、四半世紀というのは相当な年月で、それも止むを得ないと言わなければならないのかも知れない。
国立公文書館がなく、日本政府の基本的な文書を見ることは殆ど不可能であったと言ったら、現在の若い研究者は驚くに違いない。今では公文書館で容易に見ることの出来る枢密院会議の議事録を見るために、当時所属していた東大社会科学研究所の所長の依頼状を持って総理府に行き、色々交渉の末、やっと係員に当時の国会南門(今はない、例の樺さんの亡くなった所である)の傍にあった倉庫(これも今は勿論存在しないばかりか、それが何処に当たるのかも判らなくなってしまった)に案内されて、必要なものを見つけて、また別に色々注意書のある願書に書き込んでマイクロ・フィルムに取らせて頂いたという記憶がある。自分でカメラを持って行って撮影したのである。
現在かなり多くの昭和期の史料を収めて、日本近代史研究者がそれを利用することなしに研究することは出来ない国会図書館憲政資料室にも、当時は昭和史に関する史料は極めて僅かであった。そして今の国会図書館の建物ではなく、これは議事堂の中にあって、そこに行くのには、国会に入るのと同じような厄介な手続きが必要であった。赤いじゅうたんを踏んで(もっともその近くまで行くとじゅうたんは擦り切れていたが)行くのは、中々気の重いことであった。
二
史料がなければ自分で探そう、研究対象に関係のある人物が生きておられたり、遺族がおられる筈だと思ったものの、どうしてよいか判らない。とにかく手紙を出そうとするのだが、こういう場合にどういう手紙を書いてよいのか判らない。そういう事をしておられる先輩などもいない。まあなんとかなるだろうというので、熱心に手紙を書いた。生存されておられる方には御話を伺いたい旨、遺族には史料を見せて頂きたい旨を、理由を詳細に書いて出した。
最初の経験は昭和初期に平沼騏一郎の秘書をしていた故太田耕造氏であった。逢ってもよいとの返事を頂いて嬉しかったが、同時に最初の経験で、どのように御尋ねして良いものやら見当もつかず、御宅の前に行った時には胸はどきどきするし、脚はがくがくするといった状況であった。とにかく度胸を決めて、御目にかかり、早速質問に取り掛かった。ところが、最初の質問が良くなかったらしい。私は「『西園寺公と政局』にこう書いてありますが……」と言った途端、「そんなものを使って研究をしているのか、帰れ」という反応である。弁解したもののどうにもならず、退散という始末であった。これは全くみじめな体験であった。今考えれば、『西園寺公と政局』つまり「原田メモ」は東京裁判で平沼を酷く苦しめたものであり、平沼を擁護する太田氏にとっては、許し難いもので、その名を聞くだけでも憤慨の種であったという時期からまだそう遠く離れているという感じはなかったのだろう、だからここから質問を始めるのは避けた方が良いとなろうが、なにしろやみくもの状態で始めたのであって、そんな配慮の余裕もなかったのである。一旦はもうこんな事は止めようとまで落ち込んだが、もうその時は既に別に出した手紙に対して、話してもよいという返事があり、行かない訳にはいかなかった。暗い気持で出掛けた私を迎えて親切な対応をして、色々教えて下さったのが誰であったのか、最早記憶にない。本当に助かったと思った、その人の名を忘れるとは、我ながら呆れたものであるが、嫌な強い印象は残っても、助けてくれた人を忘れるというのも、人間の浅ましい本性かも知れない。なにしろその後多くの方々に次々と貴重な御話を伺う事が出来たということの中に記憶が埋没してしまったのであろう。
もっとも聴き取りということには限界がある。多くの人々の話の中には記憶違いやら、その後の敗戦という大きな価値の変動の中で、記憶を当時とは異なった文脈に置き換えてしまうという事態が屢々、というより確実に起こっているからである。むろんその事自体当然のことであり、そういう人間の心理のメカニズムなしに人間は生きることが出来ないであろう。そのことを理解しながら御話を伺う事、これを重ねることは、直接に得たい知識についてだけでなく、その時代について大きく判断を誤らないために非常に役にたったと思う。
その頃私はテープレコーダーを借りたり、後には無理をして買って持って行った。まだあまり普及していなかったテープレコーダーに警戒する、違和感を持つ人も少なくなかった。特に相手は老人が多かったということもあろう。これは次第に変化して来て、今では録音するのは駄目だという人は全くといってよい程なくなった。しかしこのテープを後で聞きながら字にするのは酷く大変な仕事であった。随分時間も必要であった。それで、なるべくは当時参加させて頂いていた岡義武先生の主宰されていた「木戸日記研究会」や辻清明先生の主宰されていた「内政史研究会」などのヒアリングの会を利用させて頂いた。これらは若干の研究費を持っていたので、それを起こすことが出来たからである(この談話速記録は現在では貴重なものとなっている)。さらに雑誌などでそういう機会を作って貰って、聴き取りをした場合も少なくない。
こうした経験をする内に、段々インタビューそのもの、つまり近代を生きた人間を知ること自体に酷く興味をそそられることになった。そして出来るだけそれを記録して残すという事に、歴史研究者としての義務の一部があるのではないかと思うようになった。中村隆英教授に誘われて『エコノミスト』で「現代史を作る人びと」という企画で多くの方々の回顧談を伺ったのも(後に同名の本として毎日新聞社から4冊本として刊行)、朝日カルチャー・センターの「語りつぐ昭和史」という企画に積極的に参加して、多くの方々に回想を語って頂いたのも(これも後に同名の6冊本として朝日新聞社から刊行)、そうした気持からであった。また後には中村智子さんと宮下弘氏の『特高の回想』、矢次一夫氏と『岸信介の回想』を作った。
三
史料探しの方は、聴き取りの経験に比べるとラッキーなスタートであった。最初の経験は昭和初期の田中内閣の鉄道大臣小川平吉の史料で、長男の故一平氏に御願いの手紙を出した。一平氏は大変好意的に対応して下さり、長野の富士見にある別荘の蔵の中にあるので見せるが、今の厳冬の時期に行ったのでは、あそこは酷い寒さだから、春になってから行きなさいと言って下さった。逸る私は無理に今行かせて下さいと御願いし、結局それを強行させて頂いた。蔵の中の史料は私を驚喜させた。そこに昭和史のさまざまな側面を明らかにする史料が山のようにあったからである。寒さも忘れてその山の中から必要な史料を選びだしたが、その時の研究に直接は関係ないが、日本近代史の研究に欠くべからざる史料がすくなからず存在する事も判った。なんとかしなければと思い、翌年春に、当時一緒に近代史を研究していた人々を語らって、小川さんの了解と援助とを得て、その整理に出掛けた。今東大の各部局や他の大学で、日本近代の研究をしておられる、佐藤誠三郎、三谷太一郎、坂野潤治、鳥海靖、宇野俊一、松沢哲成の諸氏と共に一週間近く熱中して整理し、更にその史料によってどんな事が日本近代史に付け加えられるかを語り合ったのは、今では楽しい思い出である。
これより先私は参加させて頂いていた木戸日記研究会が『木戸幸一日記』『木戸幸一関係文書』を編纂刊行する事業を行ったのに参加し、史料の扱いや編纂について若干の経験を持った。また面倒な草書体の書簡を読むことも、坂野潤治氏と二人で共同の研究をしながら訓練をしていた。それが少しずつ読めるようになり、その内容から新しい知識とそれに基づく歴史像が浮かび上がってくる過程は実に楽しく、今でもその時の興奮を思い起こすことが出来る程である。こうした事を背景に、小川平吉関係文書(日記や来簡や手記など)を刊行しようという気になり、始めてみたところが、これが実に大変な作業である事に途中で気が付いた。読み難い日記や特に書簡を、読めない所を穴にしたまま清書するが、やれどもやれども終わりに近付かない。ついに十年近くもかかってしまったのである。幸いこれはみすず書房の御協力と小川一平氏の御援助で分厚い『小川平吉関係文書』が出来て、今ではかなりの論文に引用されるようになった。収録されなかった多くの文書と共にこの原本は、その後国会図書館憲政資料室に収蔵された。
この前後私は、安達謙蔵、井上準之助、江木翼・千之、渡辺千冬、川崎卓吉、伊沢多喜男、山川端夫、加藤寛治、末次信正などの人々の関係史料(一部の場合もあるが)を御遺族から見せて頂く機会を得た。これらの大半はその後憲政資料室に収蔵されることになったし、その中のあるものは雑誌等に主要部分を覆刻した。この後も入江貫一、松本蔵次、岩村通俊、岡田良平、井川忠雄、鈴木貞一、水野直、亀井貫一郎、大蔵公望等々の昭和期に活躍した人を含む近代日本のそれぞれの側面を理解するのに必要な人々の史料を、御遺族から提供して頂いた。当初まだ戦犯追及的な雰囲気の残っていた時代には、特に陸・海軍のリーダーであった人々の御遺族の中には強い拒否反応をされる方もあったが、今ではそれは随分少なくなったと言ってよいであろう。ただ、自分自身の事を考えてみても、古い書類を見せて欲しいと言われたら、探すのは大変であるし、それにどういう風に利用されるかも知れない(私自身の場合はそんな事もないが)という不安が生じるのも当然である。だから、今まで史料を提供して下さった方々には感謝の外はない。本当に有り難いと思う。
私はここ十年来でも、『上原勇作関係文書』『真崎甚三郎日記』『大正初期山県有朋談話筆記・政変思出草』『井川忠雄日米交渉史料』『本庄繁日記』『徳富蘇峰関係文書』『畑俊六日記』『岡崎邦輔関係文書』などを編纂して来た。これらは殆ど総て、先輩や若い同学の人々との共同作業の結果である。実際に厄介な作業を共同で努力して下さった人々にも感謝の外ない。
今年(といってもこの号の年では去年ということになるが)、『重光葵手記』を編纂・刊行し、『真崎甚三郎日記』の最後の5・6巻を刊行し、これは明治期であるが、『尾崎三良関係文書』の編纂作業をし、毛里英於蒐(企画院官僚)の史料の整理をし、『加藤寛治日記』の刊行の準備をし、大野緑一郎関係文書を憲政資料室に斡旋し、『高木惣吉・日記と情報』(仮題)の編纂をし、その他いくつかの史料の整理や刊行の計画を進めている。これも殆ど総て多くの研究仲間との共同作業である。そしてまだ身体の動く限りこうした仕事を続けて行きたいと思っている。
四
史料を持っている公的な機関でも未だ未公開の重要史料を保存しているようであり、その公開は少しずつでも進むであろうし、また何人かの研究者の史料探索の努力の結果、今日昭和史を研究するための条件は、四半世紀前に比べれば遙かに良くなっている。しかしそれにしても明治史の史料の深さに比べれば、まだ遙かに浅いのであり、研究に当たって壁に突き当たる事が多い。こうした仕事への読者の皆様の御協力を御願いする次第である。こうした史料に基づいて、現在昭和史研究がどうなって来ているのかについて述べる紙幅は最早残されていない。別の機会を待ちたい。
(東京大学教授・東大・文修・昭33)