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夕食会・午餐会感想レポート

平成22年5月午餐会「科学を短歌によむ」

夕食会・午餐会感想レポート

5月20日午餐会

はじめての午餐会出席でしたが、十二分に満喫いたしました。参加を思い立ったのは、理系人物でありながら、生来の短歌好きで恰好のテーマであったからです。赤ワインのせいだけでなく、文字通り諏訪先生の御講話に酔いました。朗々とした御声だけでなく、もちろん先生の発したお言葉の一言一言にです。

愛唱歌の最初に、牧水の歌が出て来たのには感激いたしました。幼少のころから、この歌は何と心に沁みわたって来たことでしょう。これに続く先生の数首も、朝日歌壇の選者ならずとも心に沁みわたり、しばし呆然とするばかりでした。

和歌と異なり、短歌は知識と無関係に感覚に直結した存在であるとのことでした。現在の歌人の約40%の人たちが理系を修めた人たちであるとのことですが、こうした人たちは学問の対象として短歌を学ぶのではなく、感情の赴くままに気持ちを言葉に表現するので、知識にとらわれることなく表現が許される短歌を詠むことに向いているのでしょう。

短歌には写生派、ロマン派があるとのことですが、子規、左千夫、寛と続く数首はまさしく短歌であって和歌には許されないものでした。理系人間の私には、科学者の詠んだ短歌に感動を覚えました。なかでも圧巻は石原純、湯川秀樹、上田良二、永田武などの諸先生の詠まれた歌であって、三十一文字の伝える感動に先生方の打ち立てた金字塔のもたらす感動が重なって、しばらく瞑目せざるを得ませんでした。

和歌から短歌になって、私にも言葉を操り楽しむわざが増えました。 一方現代の俳句には前衛的な色彩のみが強まり、言葉の楽しみが感じられません。意味すら不明のものばかりです。俳句は、むしろ古典派のものにこそ感動を覚えます。

私は先達の詠んだ短歌を鑑賞するのが常で、自分で詠むことはめったにありませんでした。それでも三回ほどはわれながら他の人にも味わってもらいたく、毎日歌壇に投稿したことがあります。しかしながら何の音沙汰もなく、いつしか無駄なことはやめようと思いました。しかしながら先生の御教えに「投稿しよう」があり、これからは気持ちを変えてみたく思います。

(東大・工博・工、軽部 規夫)