文字サイズ
背景色変更

夕食会・午餐会感想レポート

平成29年11月午餐会「北斎とジャポニスム」

夕食会・午餐会感想レポート

11月20日午餐会

日本に近づく心 ― クロード・モネ「ボルディゲラの眺め」(1884)にことよせて

思えば、19世紀半ばは西洋列強が産業革命用資源の獲得目的で東洋に進出した時期でした。素材やアイデアを東洋の作品―ことに浮世絵―に求めた画家たちもいました。

その中でモネは、フランス北端の凍える海岸で東を向いて「印象・日の出」を描いて以来、本人が意識する以上に、心の中に日本を住まわせたように思います。妻に日本の着物を着せて描いたり、睡蓮の庭に太鼓橋を造ったり、そして、この絵はまるでその終着駅のようです。

描いた場所は、温かい地中海海岸のマントンからイタリアのリグリア海岸に入ったボルディゲラにある、丘の上から海岸まで続く、この地域最大のモレノ氏の柑橘農園(現在ヴィラ・マリアーニの庭園として公開)。

この海岸線は転地療養者やバカンス客の多いところですが、そうなったのは日本の幕末のころ。J.ラフィーニが小説「アントニオ医師―イタリア物語」(1855年)で、そしてJ.H ヘンリー医師が「マントンとリベラ海岸」(1861年)で紹介したのがきっかけでした。モネも画塾仲間のルノワールと連れ立って下見に来ましたが、「仕事のために2人で旅をするのは苦痛だ」という手紙を残しています。それはそうでしょう。内心に日本を秘めるモネと、肉付きのよいパリ女性の裸婦像をイメージするルノアール。意見が合うはずがありません。

ところで、柑橘類はインド・ヒマラヤ山地が原産地。大航海時代を含むルネサンス以降、西洋人は柑橘類に強い憧れを懐いてきました。イタリア・フィレンツェ大公のコジモ・メディチとその後継者たちが柑橘農園の造園に熱中したのは有名ですが、現在でも一般市民が根つきの柑橘を買って帰り、庭の一角で大切に育てるのはフランスでよく目にするところです。モネがこの農園に来たのも海を背景に輝くビターオレンジやレモンを描きたかったからですが、この農園は南向きのきつい傾斜地。望みどおりにイーゼルを立てることができず、平坦地を使って「レモンの木の下で」「習作オリーブの木」、そしてこの絵を辛うじて描きました。そのとき仮にモネの頭の中に北斎の構図がチラついたとしても、マツが手前まで繁っているのは、それが農園の地形の現実だったからです。

蛇足になりますが、私の住まう鎌倉、三浦半島、湘南海岸を歩くとこのような景色がたくさん出てきます。向こうの家並みを和風にすれば、そのまま湘南海岸で描いたとも言えるほどです。そよぐ風に歌声“ミカンの花が咲いている、思い出の道、丘の道。・・・”が混じり始め、マツや柑橘に特有の軽いモノテルペンの香りが漂ってきます。

画家は心中でどこまでも日本に近づく。私たちは観ているだけでほっとするふるさとの香りをそこに嗅ぐ。そんなふうにこの絵を楽しんでいます。

(東大・文 相良 嘉美)


今回の馬渕明子先生の講演は期待していた通りのお話を聴くことが出来、非常に感動致しました。

私は、今年の6月下旬に、すみだ北斎美術館に出掛けた際、秋になれば国立西洋美術館にて北斎の特別展が企画されるとの話を聞いておりましたので、10月下旬に訪問しました。テーマは今回の講演と同じ「北斎とジャポニスム」。その時に鑑賞させて戴いたことで、天才浮世絵師葛飾北斎が欧米の絵画、版画、彫刻、ポスター、装飾工芸など非常に広範囲な分野に影響を与えたことが良く分かり、日本人の一人として非常に誇らしく思いました。

今回、この特別展の企画責任者でもある馬渕明子先生が直接我々に説明して下さるというので、日程を遣り繰りして参加させて戴いた次第です。

お話を聞かせて戴いて、先日の特別展で受けた印象を更に強め、益々北斎が好きになりました。

また、日本人は自分の発想にもっと自信を持ち、胸を張って生きて行くべきだとの思いを強くしました。先の大戦に敗れて以降、欧米の物真似の傾向が強まったのではと思いますが、これまでのノーベル賞の受賞実績を見ても、日本人の創造力は半端なものではないと思います。

足の引っ張り合いや目先の利益追求ばかりに熱を上げず、若者たちの独創性を育てるよう国を挙げて努力すべきだと思います。今回の「北斎とジャポニスム」のお話から、日本人の底力を再認識させて戴きました。有難うございました。

(京大・経 鶴谷 緑平)